【シンデレラの指輪 11】
千鶴は鏡に映る自分の顔を見て、溜息をついた。
ピカピカに磨かれたサロンの大きな鏡。明るい電気に鏡の前に置かれた華やかな小物が雰囲気のある空間をつくりだしている。
そんなまぶしい光景の中で、千鶴の表情だけが暗く浮いていた。
理由は分かっている。
先日の教採の模擬試験の結果が散々だったのだ。
もっと勉強しなくては、と焦れば焦るほど進まないし集中できない。圧倒的に勉強時間が足りないし、貴重な時間でも疲れてしまっていたり眠くなってしまったりして効率が悪い。かといって他の事をしているときはいつも、勉強しなくてはと焦っているという悪循環だった。
今日は、前から斎藤に頼まれていたクリスマスパーティに出席する用意のために、左之が紹介してくれたセンタータワーに入っている有名サロンに来ていた。ここでお化粧から洋服から全て変身させてもらってパーティに出るのだ。
にもかかわらず、千鶴の表情は暗かった。
ちゃんと勉強ができれいれば、今日は気晴らしと割り切って楽しめるのだが、今の焦っている千鶴にはそれは無理だ。家に置いてある参考書を思い出して罪悪感に駆られてしまう。
「髪は上げた方がいいわね」
「そうですね、ちょっとだけ毛先を切って動きを出してあまり飾りとかつけないでゆるく巻いて…」
両脇に立っている女性たちに髪の毛を持ち上げられて、千鶴ははっと我に返った。二人はヘアディレクターとヘアデザイナーという,、千鶴が聞いたことも無い肩書きで、左之から依頼を受けているのだ。
クリスマスイブのパーティに千鶴が行く準備をどうすればいいかと、斎藤は同僚の左之に相談したらしい。
斎藤が千鶴の服を買った方がいいのか、しかしサイズやどのような服が良いのか自分にはわからないと。
左之は、賢明にも『男が女性の服やアクセサリーに口を出さない方がいい』と、センタータワーのテナントにある『ヘア&メイクアップ』の店を紹介してくれた。
そこでネイルから髪型から化粧から服まで全部面倒を見てくれると。
今、鏡の中に居る千鶴の髪をいじりながら、ヘアディレクターとヘアデザイナーの二人はあーでもないこーでもないと話しパーティでの千鶴のイメージを固めていっている。
千鶴は黙ったままどうなることかと成り行きを鏡の中から見守っていた。
「すいませーん、遅くなりました」
その時入口から、またもやきらびやかな女性が入ってくる。スタイルもいいし美人だし、服もおしゃれなその女性は、千鶴が座っている椅子の近くまでやってくる。
「こちらの方?」
「そうです。よろしくおねがいします」
三人は千鶴を挟んで話し出す。
内容を聞いていると、どうも後から来た女性はこのビルに入っているブランドショップの店員らしい。千鶴のイメージを美容院と共有して、似合う服と靴を持ってきてくれるようだ。三人の意見は、『ゆるふわのお嬢様、ほんのりセクシー』にということで意見が一致し、その女性は一旦店を出て行った。
「さ、彼女が戻って来る前に髪をやっちゃいましょうか」
ヘアディレクターの女性はそう言うと、ハサミを持ち千鶴の髪を持ち上げた。
ノースリーブのワンピース。
ショップ店員が持ってきたのは本当にシンプルなパーティドレスだった。薄いラベンダー色のみの飾りの全くない膝丈のドレス。あまりにもシンプルすぎて美容院の女性も最初は戸惑ったようだが、千鶴が実際に着てみると印象は一変した。やわらかな体の線がどんなデザインよりも美しく映える。きめの細かな真白な肌が、ドレスの色との相乗効果で儚く透明に輝いているように見える。ふんわり自然なかんじで膨らんだ膝丈のスカートもお人形さんのようで千鶴のイメージにぴったりだ。そして艶やかな黒い髪と潤んだ真っ黒な瞳がいいコントラストになって。
首と耳にはこれまたシンプルなアメジストのアクセサリー。ファーのストールを持ち華奢なパンプスを履けば完璧だ。
美容院から出てきた千鶴を見て、斎藤はポカンと口をあけた。
頭の先から爪先まできらきらと輝いて見える。これはいったい何の魔法なのか。
「……あの、どうでしょうか…」
おずおずと上目使で千鶴に聞かれ、斎藤は答えに詰まった。
「……」
沈黙が続き、千鶴が不安そうな表情になったとき、ようやく斎藤が口を開いた。
「とても、美しいと思う。しかし……」
「…しかし…?」
「……緊張してうまく話せんな。熱を出していたときの恰好の方が落ち着く」
そういう斎藤は、千鶴を直視もできないように視線を斜め前の足元へ落としている。
斎藤の言葉に千鶴は吹き出した。
おふろにも入らず体を拭いただけで、すっぴんで、パジャマで髪もぼさぼさで……そっちの方がいいなんて。
「私はこっちの方がいいです」
くすくすと笑いながら千鶴がそう言うと、斎藤はようやく千鶴に視線を合わせて微笑んだ。
「気に入ったのか?」
「もちろんです。こんな恰好をする機会なんかないですし、こういう女の子っぽい色合いのものは買ったことがなかったです」
「それならよかった」
斎藤はそういうと手を差し出した。
斎藤は今日は落ち着いた細身のブラックスーツ。チラリと見えるカフリンクスは、あの出会った時のパーティと同じもの。ネクタイとチーフは同色の銀色かと思うような光沢のあるグレイで、とても斎藤に似会っている。
こんな素敵な人と一緒にパーティに行けるなんて。
千鶴の胸の奥から、ようやくワクワクとした気持ちが湧き出てきた。少しだけ勉強の事は忘れて。
そして綺麗にジェルネイルを施された手を斎藤へのばす。ひんやりとした斎藤の手に指を絡めるように握られて、千鶴はドキリとした。
親密な雰囲気と妙にお互いを意識した空気が、今夜はいつもとは違う夜になると告げているようだった。
主催の近藤という社長の人柄のおかげか、パーティは華やかながらもアットホームでとても楽しかった。
初めて会う人も気さくに話しかけてくれて、妙にセレブを鼻にかけているような人もおらず、どちらかというと会社運営や業界の動向について相談に乗ったり情報交換したり…という親睦会だった。
斎藤もリラックスして、珍しく声を出して笑う場面も何度かあった。少しのお酒と楽しい雰囲気を、千鶴も心から楽しむ。
帰りのタクシーで、千鶴がふうっと溜息をつくと、斎藤が顔を覗き込んだ。
「疲れたか?」
千鶴は首を振る。
「全然疲れてないです。とっても楽しくて、もう一つパーティにも行けるくらい元気です」
千鶴の返答に、斎藤は声を出して笑った。
「次のパーティか。俺はもう無理だな。明日は朝早くから成田だしな」
千鶴は驚いた。
「明日仕事なんですか?」
「そうだ。左之と一緒にアメリカに出張に行かなくてはいけない」
「でももう今、時間……」
斎藤は腕時計を見る。
「日付がかわったな」
「もうそんな時間ですか?すいませんでした、遅くまで……」
心配そうな顔をする千鶴に、斎藤は笑った。これは斎藤が千鶴に頼んだパーティなのに謝るなんて千鶴らしい。
「気にするな。飛行機の中で充分寝られる」
「あ!じゃあ今日はクリスマスですね。メリークリスマス、です」
「そうか。メリークリスマス。…ん?」
斎藤はそう言うと、視線をタクシーの窓の外に向ける。千鶴もつられて外を見ると、街の明かりに夜空を舞っているふわふわと白いものが浮かび上がる。
「…あっ…!雪…?」
「……ホワイトクリスマスだな」
斎藤も同じ窓を覗き込んだ。すぐ近くで視線を合わせ、二人で微笑む。
素敵な夜に素敵な景色。
一緒に過ごす人がいるだけで世界がこんなにかわるんだ……
千鶴は幸せな思いに包まれながら夜空を見上げたのだった。
タクシーは千鶴の家の前に止まった。
「あの…今日のこの洋服はどうすれば……」
降りるときに千鶴がそう聞くと、斎藤は無造作に答える。
「千鶴のものだ。好きにするといい」
「そんな…それはダメです。困ります。服も靴もブランドのものだし宝石も本物で、毛皮だって……」
「しかし俺に返されても使い道がない」
「私も別にこんな服を着ていくところなんてないですし」
「いや、しかしまたパーティに一緒に出てくれとアルバイトを頼むかもしれん。その時にでも…」
「え?またあるんですか?」
「いや、まだ決まっているわけでは……」
「お客さん!ちょっと無線で呼ばれてるんでねー。早く降りてもらえないですかね」
タクシーの運転手のいらだった声が二人の押し問答を止めた。運転手がぶっきらぼうに言った料金を、斎藤がとりあえずカードで払う。
「いや、俺はしかしできればまたこのまま乗って……」
「いや、もうかんべんしてください。無線から来た予約とっちまったもんでね。すいませんね。また別のタクシー呼んでくださいよ、じゃ」
運転手はそう言うと強引に斎藤をおろし、バタンとドアを閉め走り去ってしまった。斎藤はこのまま自分の家に帰るつもりだったのだが、こうなってしまってはしょうがない。別のタクシーを呼ぶしかない。
「じゃあ……寒いですし、私の部屋へどうぞ。斎藤さん明日早いのに…早くタクシーの番号を調べないと……」
無邪気にそういう千鶴に、斎藤は一瞬戸惑った。
こんな時間に女性の一人暮らしの部屋に行くべきではない。
しかし千鶴が寒そうにしている様子が気になる。ファーのストールは防寒というよりは飾りだし、脚もむき出しだ。
それに千鶴は他の男にも困っていたら部屋にあげるのかも気になる。
斎藤はそのまま千鶴の後ろをついて彼女の部屋へと行った。
狭い玄関に二人立つとまるで抱き合っているくらいの密着度だった。部屋は薄暗く寒い。
電気をつけなくてはいけないのだが、スイッチは斎藤の背中側の壁だ。
「すいません、あの…斎藤さん、失礼します」
千鶴はそう言って斎藤に抱きつくようになりながら壁へと手を伸ばした。指で壁を探りスイッチに触れたとき、斎藤の腕が体に廻されるのを感じた。
え?
千鶴は驚き、手を止める。
「あ、あの…」
「俺が例えば他の男だったとしても、千鶴はこうやって部屋にあげるのか?」
「へ?」
斎藤の声は低く暗く、何かに拗ねているような口調だ。しかし内容が思いもよらないものだったため、千鶴は間の抜けた声をあげてしまった。斎藤はさらに千鶴を胸に抱え込む様に腕に力をいれる。
「その男が夜の12時すぎにタクシーから放り出されて困っていたら、お前は自分の部屋にあげてやるのだろうか」
斎藤がもう一度問う。
軽い触れ合うだけのキスは何度かしたが、こんな風に抱きしめられたのは初めてで千鶴は動揺していた。真っ白な頭で必死に返事を考える。
「え、えーとえーと…」
「……」
「斎藤さん以外の男性と、こんな時間にこんなところで二人きりになる機会もないですし……」
「…これまでも?」
囁くような斎藤の言葉に、千鶴は慌ててうなずいた。
「こ、これまでもです。これからも……多分」
「……」
深夜のせいか雪のせいか、部屋の中も外もシンと静まり返っている。
暗い部屋の中でこうしていると、まるで世界に二人きりだけのようだ。
色もなく音もない冷たい世界で、感じるのは斎藤のぬくもりだけ。
触れ合っている体から斎藤の心臓の音が聞こえる。早く打つその音は、千鶴の呼吸も早めていくようだ。
千鶴のウエストに廻されていた斎藤の手がゆっくりと上に上がり、千鶴の柔らかく上げられた髪に潜り込んだ。差し込まれた彼の長い指の感触に、千鶴の心臓の音は強く早くなる。
上を向くようにわずかに力を入れた斎藤の手に従って、千鶴がゆっくりと斎藤の顔を見上げる。
暗い部屋の中で彼の瞳の色だけが、鮮やかな蒼色だった。
斎藤の唇がゆっくりとおりてくる。
瞼が下がり、その蒼い色が見えなくなるのを、千鶴は見つめていた。
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