【マクドナルドで夕食を 8】








千鶴があの時の少女だと分かった時に、風間は自分でも驚くくらいすべてを理解し受け入れることができた。

産まれたときから目が見えないのならそんなこともないのだろうが、突然視力を奪われた風間にとっては千鶴の姿を思い浮かべる術が欲しかった。
いや、自分がそれを、とてもとても欲していたことに今、風間は気づいた。
千鶴の事を思い浮かべるときの彼女の姿。
今はあの時の少女を大人の女性にした姿を思い浮かべることができる。
相変わらず華奢なのはかわらない。しかし意志は驚くほど強くなった。
風間のそんな感情にはきづかないまま、千鶴はもう一度コーヒーをこぼしてしまったことを謝った。
「覚えてくださっていて嬉しいです。あの時の出会いは、風間さんには小さなものでも私にはとても大きなものでした。コーヒーをこぼしてしまった後の事、覚えていますか?」
千鶴の言葉に、風間は再び昔のあの学園長室に引き戻された。

『まあ!たいへん!』
立ち上がる園長。泣きそうになりながら何度も謝る千鶴。
『いや、たいしたことはない』
そう言ってそろそろ切り上げようとした風間に、園長は教育者らしくきっぱりと言った。
『いえ、それはダメです。ほら手の所が赤くなっています。後でひどく痛いんでくるかもしれません。保健室に行って冷やして、湿布を貼らないと!』
コーヒーは、手を伸ばして受け取ろうとした風間の手の甲部分にかかってしまっていたのだ。
『あの!私が手当します。こっちです』
細い腕でぐいぐいtひっぱられ、風間は千鶴と二人で学園の保健室へと向かうことになった。もう放課後の保健室には誰もいない。
千鶴は慣れた風に保健室に入ると風間の手を取り水道で冷やし始めた。
チクチクと痛んでいた火傷の跡が、確かに冷やすにつれて痛みが引いて行く。
暫く冷やした後、千鶴は丁寧にタオルで風間の手を拭いて今度は机の方へと促した。風間を椅子に座らせて湿布の箱をあさっている千鶴と見ながら、風間は辺りを見渡す。
『保健医はいないのか』
『……いたんですが辞めてしまって。今新しい後任の先生を探しているみたいです』
『なるほど』
どうりで保健室内がどことなくガランとしている。風間がそんな事を思っていると千鶴が続けた。
『ここは児童養護施設も併設していて、小さい子も多いんです。よく怪我をするし夜中に熱もだしたりして……。私が施設の中では一番大きいんで見よう見まねでここの備品を使って手当や看病をするんです』
『おまえが?』
見たところまだ彼女自身が保護の必要な年齢に見えるが、と思いながら風間がそう言うと、彼女は頬をかすかに染めた。
『私も素人なんで、このまま様子を見ていい症状なのかすぐに病院に連れて行った方が良いのか迷うことがよくあって。夜とかは不安だしずっと保健室に先生が居てくれるといいなって思います』
風間の手の甲にひんやりとした湿布を貼りながら、中学生の千鶴はそう言った。どこか上ずった彼女の口調は、風間と二人きりの沈黙を必死で埋めようとしているようだ。
そんな思春期の女の子の動揺が、小さなころから大人の世界にどっぷりとつかっていた風間には妙に新鮮で、風間は千鶴がくるくると包帯を巻いて行くのを黙ったまま見つめていた。千鶴はもう話題が思いつかないのか、頬を染めながら、でも風間に見られているのを意識しているのが丸わかりの表情で手当をしている。
『上手いな』
先程のコーヒーの出し方の下手さから考えれば、手当も下手だろうと思っていたのだが白い指先が心地よく手当をしていく。
妙に緊張したこの空気を和らげようと、柄にもなく風間はそうつぶやいた。
千鶴の伏せた睫が震えて、ほっとしたように小さく笑ったのが分かった。
『ずっとやってるので。それに人の世話をするのは好きみたいです。専門的な知識はないですけど』
『専門的な知識は勉強すればいい。まだ中学生だろう?これからの進路しだいではどうとでもなる』
風間がそう言うと、千鶴は今度は少し寂しそうに笑った。
『ここの施設にいられるのは中学卒業までなんです。私には両親も親戚もいないので、生活するためには働かないと』
『働きながら勉強はできないのか?』
『暫く働いてお金を溜めればできるかもしれないです。まだ働いたことも無いしどこで働くかもわからないんで何とも言えないんですけど、そういう仕事に就ければいいなって思ってます』
そう言ってこちらを見た少女の目は、風間がドキリとするほど真剣だった。
気軽な口調だったが、彼女のなかではとても切実な思いなのだとわかる瞳の色。
風間はしばらくそれを見て、そして目をそらし綺麗に包帯を巻かれた自分の手を動かしてみた。
『意志あるところに道は開ける』

彼女へ言ったが、風間は自分に言い聞かせるつもりでもあった。
金策と社内の不穏な動きに神経をすり減らし後ろ向きになっていた風間は、この少女の瞳を見てふいに重い荷物を下ろしたような気分になった。
まだ会社を継いだばかりで、重くて身動きが取れなくなっていた。すべて自分が背負い込まなくてはと勝手に思いこんでいたものだ。

風間コーポレーションを立て直しカザマグループを大きくしてみせる。

父のとった失策を自分の力で埋めて、各業界へ働きかけて、反対勢力を叩きつぶし、トップダウンの体制をとる。やらなくてはいけないことはたくさんある。
『……お前がこの先自分の道を見失っていなければ、助けてやれるようにしよう』
風間がそう言うと、少女は風間の言う意味がわからなかったようで首をかしげた。

これは願掛けの様なもの。
俺の願いが叶ったらお礼をしよう。

風間はその日、小さな学園の保健室で、少しドジで小さな神様に願掛けをしたのだった。




「中学三年生になって、やっぱり将来は看護師になりたいって思って学園の先生にいろいろ相談してたんです。そしたら最近急成長をしだしたカザマグループが奨学金制度を創設したって。私の条件に会ってるから応募してみたら?って言ってくださったんです」
中学生の時の保健室のあの人はカザマグループの若き総裁で、学園長の遠縁だと言うことを聞いたのは、あの日もうすでに風間が帰った後だった。ようやく少女になり始めたばかりの年だった千鶴には、あの時の風間は王子様のように見えた。
金色のサラサラの髪に切れ長の目。透き通るような紅の瞳。背は高くすらりとしてスーツが良く似合って……
奨学金の面接に行くときも、ドキドキしたものだ。もしかしたらあの人が面接官だったらどうしようと。
まあ当然のことだが、お金を出すことを決めたのは風間本人だが、それを管理運用し奨学金申請者の面接をするのは風間とは似ても似つかない別会社の中年のおじさんだった。
しかしそのおじさんは千鶴に奨学金を出すことを決めてくれたのだ。

「奨学金のおかげて晴れて看護婦になれて、施設常駐の保健の先生にもなれて夢がかなって。そんな時にたまたま風間さんの話を聞いたんです。それで私でも何かお役にたてないかと思って」
千鶴の説明を聞いて、風間はなるほどとうなずいた。だから簡単に屋敷から追い払えなかったのか。そんな過去があったとは。
「奨学金の制度は別にお前の為だけに作ったわけではない。利用可能な制度を利用しただけなのに、わざわざ制度を作った者のために自分の職を辞めてまでくるとはな。ご苦労なことだ」
お人よしなのか愚かなのか。もう少し計算して人生を決めないと、この女はいつか道を誤るのではないかと風間は他人ごとながら心配になった。
「鈴鹿学園は円満に辞められましたし、風間さんの生活補助が必要じゃなくなったらいつでも戻って来てくれと言われているので大丈夫です。それに、お金を溜めたかったんで、お給料のいいこの仕事はちょうど良くて」
「借金でもあるのか?あの奨学制度は返済が必要ではなかったはずだが」
「奨学金ではなくて……ちょっとその……」
言いにくそうに口ごもる千鶴に、風間は好奇心から重ねて「ちょっと…なんだ?」と聞く。
「……ちょっと個人的な話になっちゃうんですが……あの、私には双子の兄がいて。両親が死んで別々の施設に引き取られて、今は行方が分からないんです。私の記憶も5歳の時のぼんやりしたものだけで……。でも、どこかにはいるはずで、捜したいと思ってるんです。素人ですし知識もないんで少しずつですが。鈴鹿学園でのお仕事は、住むところも食事も寮で安いんですが、お給料はそれで暮らしていくので精いっぱいな位なので」
だから学園の保健医はなり手が少なくて、いつでも帰れるし雇ってもらえるんですけど、と千鶴は笑った。
「唯一の肉親探しと鈴鹿学園か」
「はい。この仕事が終わったらお金は貯金して、学園で働きながら兄を捜したいです」
この仕事が終わったら……
普通に発せられたその言葉は、風間の胸にひっかかり刺の様にささった。
当然だ。
生活補助の仕事はいつか終わる。
風間の目が見えるようになれば終わるし、見えないままでも一人で身の回りの事が出来るようになれば終りだろう。今でも、この屋敷内では風間は全て独りでほとんどの事が出来る。仕事にも徐々に復帰しているし、この状態で様子を見て、千鶴や天霧が生活補助はもはや不要だと判断するのは時間の問題だろう。
「仕事が終わったら……」
「はい?」
途中で止まった風間の言葉の続きを待つように、千鶴がこちらを向いた気配を感じた。
しかし風間は何も言わなかった。
しばらく沈黙し、「そろそろ戻るか」と言って立ち上がっただけだった。





夜10時。
誰もいない執務室には、風間の声だけが響いていた。
「……そうだ。鈴鹿学園。財政状況と理事の情報が欲しい。身元は明かすな。……ああ。それと、もう一つ調べて欲しいことがある――」
電話での通話のため相手の声は聞こえない。
風間はかなり長く話しこみ、指示をいくつか出した後提出期限を示し、電話をきった。







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