【マクドナルドで夕食を 7】






風間の職場復帰(屋敷内の執務室で千鶴の手助けを介して、だが)は、その後も順調に続いた。
朝昼晩の食事は作るが、前ほど大量ではなくなった。
問題はその仕事が激務なことなのだ。いや、風間にとってはまだまだ片手間なのだろう。しかし千鶴には激務だ。
今日も夕方から頼まれていた資料が、既に夜もかなりふけてきているのにまだできない。使ったことのないソフトなので余計に時間がかかっているのだ。
風間はその間、本社と電話会議で今後の対策を口頭でやりとりしている。

……できた…!

制作時間6時間あまり。
ようやく頼まれていた資料ができて、千鶴はほっと肩の力を抜いた。もう日付は変わってしまっている。
電話会議を終え、今度は天霧と話している風間を、千鶴は見た。かなり重要な話をしているらしい。
話の内容はよくわからないが、何かに集中している風間は普段より三割増しかっこよく見える気がする。
千鶴は天霧と風間の会話が終わるのを待って、資料が出来たと報告しようと思いぼんやりと二人を眺める。
そして知らないうちに千鶴は机につっぷし眠りについてしまっていた。

「……風間、ちょっと待ってもらえますか」
「なんだ?」
話を途中で遮られて、風間はいぶかしげに天霧に聞いた。
「雪村が眠り込んでしまったようです」
「千鶴が?」
風間はついていた頬杖をはずし、見えないけれども千鶴の方へと顔を向ける。
「今は何時だ?」
「夜中の12時をもう過ぎています」
「そうか……」と風間が溜息と共に呟き、伸びをした。
「以前のペースで仕事をし過ぎたな。今日はもうやめて明日にするとするか」
天霧は無言で風間を見る。
「……意外ですね」
天霧の言葉の意味が分からず、風間は眉間にしわを寄せる。「何がだ?」
「『この案件について結論がでるまでは続ける』と言うと思っていました。以前のあなたはそうだったと思いますが」
天霧の言葉に、風間は再び椅子の背もたれにもたれ、考えを巡らせるように少し上を向く。
「……そうかもしれんな。立ち止まって花の香りをかぐことを覚えた、ということにしておこう」
風間の返答に、天霧はまたもや目を瞬かせた。
これは更に意外だ。以前の風間なら図星のことを言われたら『そんなことはない』と言い張っていただろうに、今は素直に受け入れ受け流している。
自分の変化を楽しんでいるように。
しかし天霧はそのことについてはもう言及せずに、書類を机の上に置くと立ち上がった。
「では、彼女を部屋まで運びましょう」
「そうだな」と言い立ち上がった後、風間は気が付いた。

目の見えない自分では彼女を部屋まで運ぶことはできない。
屋敷の中は自由に動けるが、それは手探りをしての話だ。彼女を抱いては動けない。
天霧は千鶴の傍まで行き彼女を抱きかかえようとして、初めて立ちすくんでいる風間に気が付いた。
「……私が運びましょう」
「……」
無言で横を向いた風間に、天霧はさらに聞いた。「いいですか?」
「……何故俺に聞く?」
「その答えはあなたが一番分かっていると思いますが」
天霧の答えに風間は腕を組んだまま黙り込んだ。天霧は千鶴を抱き上げて続ける。
「目の診察に行かれたらどうですか。当初は一か月に一度様子を診せにくるようにと医師からの指示があったにもかかわらず一度も行ったことがない。視神経を圧迫しているだけなのかどうか、もしそうならその圧迫が半年たったいまはどうなっているのか、診察をすればある程度分かると思いますが」
天霧はそう言うと、千鶴を抱いたまま執務室を出て行った。
風間は立ったままドアの閉まる音を聞いていた。



「あの、夕べは眠ってしまってすいませんでした」
どことなく今日一日、風間が他人行儀な気がして千鶴は夕飯の準備をしながら風間にそう謝った。
心を開いて受け入れてくれたような笑顔をまた見たいと思ってしまうのは別に罪ではないはずだ。もう一度見たいと思わせるくらい、風間の笑顔は素敵だったのだ。

かわいいっていうか気持ちがいいっていうか……

だからこそ今日一日、仕事を一緒にしながらも心ここに非ずの様子の風間が気になる。何かまずいことをしてしまったせいで嫌われてしまったのだろうか?
風間の気分に一喜一憂して振り回されて。これではまるで恋をしているみたいだ。
「……」
千鶴は自分の思考に自分で固まった。
……いやいやいやいや。これは恋などではありえない。
何も言わず2階から水をかけられたのを忘れるわけなどないではないか。怒鳴り散らされたことだって。
どんなに素敵だからと言ってもあんな事をする男性を好きになれるはずはない。
でも。
『でも』誰でもいきなり目が見えなくなったら動揺するんじゃないの?動揺して回りに当たり散らすことだってあるんじゃないの?もともと能力も高く権力もお金もあって、人生を自分の好きなようにコントロールすることに慣れている人なら、あんなふうに荒れる時期が一度くらいあるのもしょうがない気がする。実際今はもう落ち着いてきていて、仕事もしてるし料理もしてくれるし、笑顔も素敵だし……

「いや、お前が仕事中に眠ってしまった事については俺が謝らなくてはならんな。お前はああいった仕事には慣れていない。……だが俺の目の代わりをしてもらう人間がどうしても必要で……」
「あの、わかってます。私、別に不満とかじゃないです。もともと生活補助のために来ているのですし、できる限りのお手伝いはさせてください」
目が見えないことを引け目のように感じさせてしまうのは、今の風間に対してはNGだと思い、千鶴は慌てて言う。しかし千鶴の言葉に風間は自嘲するように笑った。
「……生活補助のためか」
「…はい?」
「いや、いい。では今補助をしてもらうとするか。この煮込み鍋のアクをとってくれ」
「はい!」
「それから……そうだな。今日は黒猫は来ていないのか?」
アクをとっていた千鶴は、隣に立ってる背の高い風間を見上げた。「黒猫ですか?」
自分でそう聞き返し、千鶴は思い至った。前に話した庭によく来る猫の話だ。千鶴はシンク前の明り取りの窓から夕暮れの庭の様子を見る。
「今日は居ないみたいですね。いっつも日向ぼっこに来るのでこんな遅い時間に見かけたことはないです。どこかの家の飼い猫なんでしょうね」
「そうか、もう夕暮れか」
「はい。庭も夕日に照らされてオレンジ色です。特に、西日がちょうど向かい側の林にあたって、奥まで良く見通せますね」
「向かい側の林?」
「はい。時々風間さんが一人で行っている……」
言いかけて千鶴はハッと気づき口をつぐんだ。しかしもうすでに遅く、風間の見えないはずの赤い瞳が千鶴の方を見ていた。

「見ていたのか」

怒っているわけではなさそうだ……と千鶴は様子をうかがいながら返事をした。
「……はい。あの、見張っていたわけではなくて前にあの林に入っていく風間さんを見かけて…」
「後をつけたのか?」
妙に硬い表情で問う風間に、千鶴は慌てて首を横に振った。
「いいえ。最初は…大丈夫かなと思って後をつけようかと思ったんですが……」
「……が?」
「……ですが、プライバシーとかいろいろあるかと思うので、しばらくしてももどっていらっしゃらなければ様子を見に行こうと」
千鶴が恐る恐るそう答えると、風間はしばらく黙ったままだった。

何か言った方がいいのかこのまま黙っていた方が良いのか。千鶴はアクを取りながら迷っていた。
と、風間が独り言のようにポソリと呟く。
「……以前隠れて後をつけてきた看護師は、その場で首にした」
風間の言い方が『その場で斬り捨てた』様に聞こえて、千鶴はぶるっと震えた。あの時ついて行かなくてよかったと心底思う。
風間は何を考えているのかわからない表情で千鶴を見る。
「火を止めて蓋をしろ」
「え?あ、この鍋ですか?まだ煮えてないと思いますけど…」
「余熱で煮える」
千鶴が慌てて蓋をして火を止めると、風間が再び言った。
「待つ間行ってみるか。あの林の奥に」
「ああ…わかりました。どうぞ。夕飯の準備は指示をしてもらえれば私の方でやっておきます」
千鶴の返答に、風間は今日初めてクッと小さく笑顔を見せた。

「何を言っている。お前も行くのだ」



林を通ってしばらく歩くと、木々が少し開けた小さなスペースへと行き当たった。
そのスペースの真ん中あたりに大きな岩があるのが見える。
千鶴達は左から林を抜けてきたのだが、右側には下りになっている急斜面があり、どこか別の屋敷の庭に続いているようだ。
そして正面にある岩の向こうから先は崖になっており、そこには遠くにある海が夕日に染まりながらキラキラと光っているのが見えた。
千鶴は思わず声をあげた。
「…わあ…!」
風間はそのまま石の前側へと回ると、そこへ浅く腰かける。そこからは気持ちのいい風が吹き込み、海を遠望できる絶景ポイントだった。かすかに波の音が聞こえる。
「どうだ?」
促すように海の方へ顎をしゃくる風間を見て、千鶴ははしゃいだ気分のまま答えた。
「すごく……すごく心がすっきりする景色すね。空と海がオレンジで、水平線の辺りは薄い水色のままで……わあ……本当にきれい。空気も綺麗で深呼吸したくなるような景色です。こんな素敵な場所に来てたんですね」
風間は柔らかく微笑みながら千鶴の言葉を聞いていた。心の中で景色を味わっているように。
「そうだな。見えなくても昔の記憶を辿りながらここに来ていた」
風間はそう言うと、風を感じるように少し顔を上げて海の方を向いた。

二人でそのまま、空気と静けさを味わう。
会話はなかったが気まずくもなく、きもちのいい時間だった。
リラックスした雰囲気だったからだろうか、風間がふいに口を開いた。
「……以前、俺の祖父の話をしたことがあっただろう。この場所はその祖父が好きだった。まだ子供だった俺をよく連れてきてくれた」
「風間さんのおじいさまが……あの沈丁花の?」
千鶴の問に風間は頷く。
「祖父の好きだった女――その後他の男と逃げて祖父との婚約破棄をした女だが――が、この場所をたいそう気にいっていたそうだ。祖父はその女のために、ここと地続きになっている隣の屋敷を結納代わりに彼女に贈った。しかしその後、その女は祖父を捨てて別の男と結婚した」
風間は淡々と続ける。
「祖父は婚約を勝手に破棄され女に逃げられ、財界中の笑いものになったにもかかわらずその女の悪口は決して言わなかった。この土地も贈ったものだからと言い取り戻そうともしていない。だからと言って女が戻ってくるわけもないのに、祖父はいつまでもここにきて海を見て、庭に沈丁花を植えていた。そんな夫を見ていた妻……おれの祖母の心が冷たく凍るのも当然だろう。」
「……」
千鶴は何と言えばいいのかわからなかった。
政略結婚のような形で結婚した相手。それでもその相手の男性の心にはいつも別の女性がいるとわかったら……それは確かにとてもつらいだろう。つらくて、みじめで……
「祖父が愚かだったというだけで、一族すべてが不幸になった」
風間はどこか投げやりな風にそう言うと、後ろ手をついて脚を組んだ。千鶴は考えながら呟く。
「愚か……」
愚かなのだろうか?人をとても好きになったというだけなのに?
でも周囲の人を不幸にしたのは確かだ。
風間は頷いた。
「愚かだ。金で買えるものだけを欲しがればよかったのだ」

風間は言いながら、これは自分自身に言い聞かせているのだと感じていた。
ここに来るたびに自分を戒めてきた。
『手に入らない物を欲しがるな』と。
小さなころは母の愛や父からの関心。少年のころは普通の友達と遊ぶ時間。移動の高級車の中から、仔犬のようにじゃれてサッカーをしている同年代の少年たちを見て、内心羨んでいた。
幸いなことに、青年期になっても大人になっても、戒めなくてはいけないような女性とは出会ったことがなく、心を動かさないように努力をしたことも無い。
近寄ってくる女性は皆、対価を求めていた。プレゼントやカザマグループ社長の恋人という地位、仲間内での自慢や、金銭的援助。
どれも風間にとって安心する要素だ。

しかし千鶴は。
彼女はどうなのだろうか。金で、その他のもので買えるのか?いや、そもそも自分は彼女を欲しいと思っているのか?
コーヒーをかけられ、生活をひっかきまわされ、こうして感情も揺らされて……
こんな不安になることなど、これまでの風間にはなかった。しかし千鶴といてこんなに……明るく楽しいと思うような時も、これまでの風間にはなかった。
見えないにも関わらず、景色が心に染み入るように美しいと思うことも。

「…おまえといると疲れるな」
「え…」
風間のきつい言葉に千鶴は絶句した。ものすごく好かれているとはもちろん思っていなかったが……
たらりと冷や汗を流している千鶴には構わず風間は続ける。
「お前には感情をゆさぶられる」
「……」
風間は見えない瞳を海の方へと向けて言う。
「これまで当然と思っていたこと、見ないようにしていたことをお前に揺り起こされて、そしてお前の目を通して世界を見る。それは俺が見たいと思っていた世界とは違う」
責められているような風間の言葉に、千鶴はさらに小さくなる。
風間はそれ以上、自分の言葉を説明する気もないようで黙っていた。

深く考えているような風間の様子に、千鶴はおずおずと口を開いた。
「……私も、風間さんのおかげで昔、世界が変わったんです」
千鶴がそう言うと風間は『なんのことか』というように首をかしげた。
「風間さん、かなり前なんですが児童養護施設児童の進学のための基金を創設されたこと、覚えていますか?」
唐突に変わった千鶴の話に、風間は意識を引き戻した。
「基金?」
「そうです。申請した中学生の成績と申請理由から審査をして、合格したら進学のための学費と生活費を支給してくれる奨学金制度です。私はそれの第一号だったんです」
奨学金……」
千鶴の言葉で風間は昔を思い出した。かなり前……7,8年前かもっとか……
園長が風間一族の遠い親戚だった関係で、とある学園に資金援助の話のために出かけたことがある。
その時のカザマグループはまだ小さく、ライバル会社同士の連合に潰されそうになっていた苦しい時期だった。カザマグループ内部も、風間の父の突然の死のせいで内部抗争が勃発していて、名目上のリーダーだった風間はかなり苦しい立場に立たされていた。
その学園はうまく行っており、わずかながら資金を援助しようと言ってくれたため、それのお礼と詳細を決めるために行ったのだった。
そこは孤児院、保育園、小学校から中学校までの学園で、そこの園長室で園長と資金援助の話をした。
出されたコーヒーがなくなるころ話もまとまり、園長は『誰かコーヒーのおかわりを』と扉から顔をだして頼んでいた。
そして持ってきたのはやせっぽっちの少女。
驚くほど色が白く、対照的に黒目がちの濡れたような瞳と艶やかな黒髪が印象的な女の子だった。
コーヒーを出すのに慣れていないのか、風間の前に置こうとしたコーヒーカップは手の震えからカタカタと鳴って……

遠くから感じる海の匂いに髪を揺らしながら、風間の脳裏には鮮やかにその時の思い出がよみがえってきた。
「……コーヒーをかけられたことがあるな」
風間が呟くようにそう言うと、隣に居る千鶴が慌てたように答えた。
「!そ、そうです…スイマセンでした!」

風間の脳内は、一瞬の間に時間を飛び越えあの時の少女と今隣にいる女性とがつながった。

「……あれはお前か……」






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