【マクドナルドで夕食を 6】
千鶴が空から降ってくる雪を眺めていたら、ふいに頬に手が添えられた。
え…?と思い見ると、風間が雪ではなく千鶴を見ていた。視線ではなく節ばった長い指で。
千鶴の頬をなぞるように滑る。
「……」
深い紅色の瞳が金色の睫にぐるりと囲まれている。吸い込まれてしまいそうなくらい深い色合いを、千鶴は飲みこまれたように見つめていた。
まるで透明な空間にすっぽりと二人だけ閉じ込められたように感じて、千鶴はそのまま風間を見上げていた。
見えないなんて信じられない。
こんなにきれいなのに……
長い金色のまつげに季節外れの雪がひっかかる。あ、と千鶴が思い、取ろうとして手を伸ばした瞬間、風間はふいに頬の手を外した。
「……冷たいな。もう部屋に戻れ。体が冷えるぞ」
そう言うと、風間はくるりと踵を返し千鶴を残して屋敷の中に戻って行った。
さきほどまで触れていたぬくもりがなくなって頬が冷たい。
千鶴は自分の手でさっきまで風間の手があった頬を抑えて立ち尽くしていた。
数日後
「今日の昼はキッシュにするとするか」
風間は深いブルーのニットの袖を腕まくりすると、既に慣れた様子で冷蔵庫から卵、ほうれん草、バター、牛乳、パイ生地を取り出した。
大きな手で手際よくパイ生地をのばし型に敷きこみオーブンに入れる。その間にほうれん草とベーコンをざくざくきりフライパンで炒める。
オーブンから香ばしい匂いと、フライパンからベーコンのいい匂いが漂ってくるころには、風間はボウルで生クリームと牛乳を混ぜ合わせていた。
風間がキッチンの配置に慣れた今となっては、料理に関しては千鶴は何もすることがなく、ボーッと見ているだけだ。千鶴の仕事は風間が使い終わったものを片付けたり洗ったりするぐらいだった。
段取りが良くて料理に慣れているせいか、風間は気軽な感じで手の込んだものまで作ってしまう。いや、そう見えるのは風間が楽しそうに料理を作っているからかもしれない。
いつも気難しい顔をしているのに料理をしているときは心持ち微笑んでいるように見えるし、時々鼻歌らしきものが出るときもある。エプロンはしない派らしく、いつも普通の服でちょっとキッチンに立ち寄った風にささっと料理をつくってしまう。
大きな手のひらで繊細な食材を優しく扱うのも、長い指で鋭いナイフを自在に扱うのも、千鶴は、見ていてとてもドキドキする。
風間の手のひらに愛おしそうに包まれているトマトや、大事に扱われている卵に嫉妬する、といったらおかしいが少しうらやましい気がしないでもない。
男の人が料理をするのはあまり見たことがなかったが、こんなにドキドキするものだとは思わなかった。
千鶴は今も、風間がサラダ用のトマトを大きな指で押さえているのを眺めていた。
あの指の暖かさは知っている。
あの雪の日に、千鶴の頬を同じように愛おしそうになぞったのだ。何故だか声を出してはいけないような気がして千鶴もぼんやりと触れられるがまま彼を見上げていた。金色の瞼にひっかかった雪が、分厚い雲の間からさした日に照らされて光っていて、まるで泣いているように見えた……
「千鶴!聞いているのか。サラダボウルをとれと言っている」
「は、はい!!」
イライラとした声で風間に言われて、千鶴はびっくりして飛び上がった。顔が真っ赤になるのが分かるが、風間には見えないから安心だ。
「えーっと…サラダボウル……この白い大きいのですか?」
「そうだ。それにレタスとトマトと、ゆで卵を盛ってくれ。おれはコーンポタージュスープを作ろう」
「……」
昼のメニューを聞いて千鶴は黙り込む。
朝はイングリッシュブレックファースト風の朝食だった。
数種類の美味しそうな焦げ目がついたソーセージ。分厚い焼ハム。一口サイズのオムレツは、中にチーズが入っているのとミートソースが入っているのの二種類。スクランブルエッグに焼トマトとマッシュルーム。もちろん焼き立てのトーストとロールパンもある。
種類がいろいろあるのとどれもこれも美味しいので、千鶴はお腹がはち切れるほど食べた。
夕べだって、『久しぶりにいい肉が食いたいな』という風間のリクエスト通り、分厚いサーロインステーキで、もちろん感動するほどおいしく残らず食べた。ソースも美味しくてパンできれいに拭って食べてしまった。
……最近パンツのウエストがきついんだよね……
今日の昼も、昼にしてはあまりにもカロリーが高くメニューも多い。どうせ今日の夜もかなりの品数になるだろう。
おいしいのがまたやっかいで、食べすぎてしまう千鶴も悪いのだが……
「風間さん、あの……作りすぎじゃないですか?」
サラダを盛りつけながらそう言うと、案の定風間は不快気に眉をしかめた。
「何を作ろうと俺の勝手だろう。嫌なら食べなければいい」
「いえ、おいしいので食べないなんてできないです。でも、言いたいのはそれじゃなくて……」
どういえばいいのかと千鶴はしばらく首をかしげて考えた。
「……風間さんは多分、いえ、多分じゃなくて絶対ですが、ものすごく能力がある人だと思うんです。目が見えなくなる前はあんなに大きな会社で社長だったんですし、体力とか知力とか……なんていうのかバイタリティみたいなものが普通の人よりもかなり強いんじゃないかって。で、目が見えなくなって仕事もしていない今は、そのバイタリティが全部料理に行っちゃってないですか?料理を作っていないときも、私に料理本を読ませたりしてますし、テレビで3分クッキングは欠かさず見てらっしゃいますし……」
オーブンがピピッと音を立て、いい匂いがキッチンに漂う。風間はオーブンからキッシュを取り出しながら言った。
「……だとしたらなんだというのだ?今度は料理を作る趣味がいけないとでもいいたいのか?」
「違います。もっと風間さんの時間と能力を使う場所が必要なんだと思います。天霧さんが最近てんてこまいなのを御存知ですか?前から、少ずつでいいから社長の仕事に戻ってほしいとも言われてるんですよね?とりあえずこの館のあの執務室で、少しずつ仕事を初めてみたらどうでしょう?」
「……」
千鶴の言葉に、風間はだまったままドレッシングをかき混ぜていた。
仕事に復帰する――これまで何度ともなく天霧や不知火から頼まれつつも『目が見えない社長に何ができる』とつっぱねていた案件だ。
まさか堂々と真正面から、千鶴があっけらかんと提案してくるとは思わなかった。
仕事に戻ると、以前の目が見えていたころの自分との能力の差をまざまざと見せつけられるのが分かり切っていたので、それを提案されるたびに荒れ狂っていたのだが、こう直球でさらりと言われると逆に『なぜあの頃の自分はあんなに意固地になっていたのか』とふと思う。
いや、俺がかわったのか
風間は焼きあがったキッシュを、指で場所を探り確認し木の鍋敷きの上に置いた。
以前の……千鶴と出会う前の自分ならたとえ真正面から仕事に戻るように言われても素直に聞けなかったに違いない。目が見えなくなったという現実と向き合いたくなかったのだと今ならわかる。
千鶴が来て、何か決定的なことがあったわけではないが、徐々に『目が見えない自分』を受け入れるようになった。目が見えないなりに楽しめるものを見つけたというか。
考え込んでいた風間の耳に、ちょうどその時千鶴の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「何だ?」
風間が聞くと、千鶴は相変わらず笑みを含んだ声で話しだした。
「シンクの向かい側に明り取りの窓がありますよね。あそこから庭が見えててそこにいつも来てる黒い猫ちゃんが花壇の横でお昼寝してるのが見えてたんです。お昼寝中に、たまに来る三毛が来て黒猫の顔を覗き込んで、それでようやく黒猫は三毛に気づいたんですが、その驚きようが……1mは飛び上がってました。びょーんって!でも飛び上がった後、着地してから『別に驚いてないし』みたいな感じで毛づくろいとか初めて……」
千鶴の楽しそうな説明を聞きながら、風間も我知らず微笑んでいた。
猫のコミカルな動きなど、目の見えているときは見たことがなかった。いや、見ていたかもしれないが記憶にも残らなかったのだろう。
これも、目が見えない楽しみの一つだと風間は思う。
千鶴の目を通した世界。
温かく優しく、素直で明るい。
幼いころから愛のない家庭に育ち、大グループの跡継ぎとしていつも大人たちの値踏みの目にさらされていた。天霧や不知火といった幼いころからの側近が唯一心を許せる存在だった。
求めても求めても報われない少年時代を終えるころには、風間の心はもう冷たく固まっていた。親元から離れて帝王学を学び勉強をし、自分は人と違うのだと教えられ自分でもそう思って来た。
沈丁花の匂いも花びらの手触りも、季節外れの雪の美しさもなにも知らず、それでいいと。
風間はふと自分の指で右手の指先に触れる。
目が見えなくなってから感覚が妙に鋭くなったように感じる。
この指で触れた千鶴の頬は、ひんやりとして滑らかで柔らかかった。眉も瞼も触れた。唇はどうなのだろうか。
最近風間は、千鶴の話し声を聞いていると彼女の唇を想像している自分に気が付いた。
その想像の唇は柔らかく甘そうで、風間はいつも妙なイライラが胸に沸き起こるのを感じる。
何も知らずに無邪気に話している彼女に対して苛立つのだ。
彼女が楽しそうな程、幸せそうな程、苛立ちは高まる。どうすればこの苛立ちが収まるのか風間にはわからなかったが日増しに高まっていく自分の気持ちを持て余し気味だった。
そこへ千鶴からの仕事へ復帰したらどうかという提案。
「……意外に妙案かもしれんな」
コーンポタージュスープをスープカップによそうのは千鶴にまかせ、風間はキッシュと取り皿をキッチンテーブルに運びながらそうつぶやいた。
千鶴の言うとおり、料理の作りすぎについては特に問題だとは思わないが、肉体と精神が健康になるにつれて、たしかに日々時間と体力を持て余してはいる。そのせいで千鶴に対しても妙にいらつくのかもしれないと風間は考え、千鶴に言った。
「昼食が終わったら、執務室に行ってみるとしよう」
天霧はいつものクールな表情を崩さなかったが、小さく目を見開いたのに千鶴は気づいた。
「助かります……とても」
そう言うと天霧は「こちらへ」と風間を多分社長用と思われるがっしりとした背もたれ付きの椅子へと促す。
「あなたがいないながらも事業は廻してきましたが、とん挫してしまっているプロジェクトがいくつかあります。このままの状態ならばしょうがないのでプロジェクトから風間コーポレーションは撤退する予定でした」
風間は椅子に座ると、机の前に立っている天霧を見上げた。
その態度は尊大で、産まれながらに人の上に立つ存在と言う感じだ。
「どのプロジェクトだ?」
「家電メーカーの海外での提携の件です。工場建設がすすんでおらず……」
「何。何故だ。あれは俺が口をきいて埋立地を確保したのではなかったか」
「そうなんですが……」
そこから専門的な話が始まった。天霧が大体の経緯を話している間に、風間の指示が矢継ぎ早に千鶴に飛ぶ。
風間が休んでいる間のその案件のメール全件をまとめて千鶴が読み上げる。関係している会社の今年度の決算情報をインターネットで探してこれをプリントアウトして質問があれば調べて答える。天霧の報告の合間に千鶴が言われたところを口頭で読み上げる。
風間はあっという間に仕事に没頭していった。
千鶴はもともとこういった仕事はしたことがないし、風間の仕事内容もよくわからない。が、膨大な量の曖昧な情報を整理し分析し、一番有利と思われる方法を考え指示をするという一連の思考能力や決断力が、風間はずば抜けているということはわかった。
天霧も指示がでるとすぐに本社と連絡を取り対応している。本社の方からも風間が復帰したと言うのを喜んでいるのが伝わってきた。
千鶴がチェックしている新着メールの冒頭に、必ず「復帰をお待ちしておりました」とか「また風間社長の下で働けて嬉しいです」とか書いてあるのだ。
……暴君とか独裁者とか思ってたけど、意外に人望あるんだな……
などど考えていられるのは一瞬だけで、すぐに「千鶴!早く読み上げろ」という言葉に飛び上がりメールを読み上げ過去の状況を調べなくてはいけない。
正直生活補助のために雇われた看護師の仕事ではないだろうとは思うが、この復帰がうまく軌道に乗るまでは、千鶴は頑張ろうと思った。どんなに忙しかろうと、以前のように引きこもっている風間よりは、今こうして生き生きと自分の能力をフルに使っている彼の方が……かっこいい。
千鶴は最後の言葉を考えて、ぽっと頬を染めた。
あれだけ酷い目にあわされてきてこんな風に思う自分に驚くが、だがしかし千鶴は開き直った。
風間は客観的に見てかっこいいのだ。
目が見えているころも政財界や芸能界で散々もてはやされていたのを千鶴は知っている。
そんな人が自分の能力をフルに使って厳しい仕事をこなしているところを間近で見れば、それはかっこいいと思うのは当然ではないか。
恐ろしいことに、風間の決裁を仰がなくてはいけない案件はこれ一つではなかった。とりあえずボールを相手方に投げ返すと、天霧が次の案件を持ってくる。そうしてまた千鶴はメールをすべてチェックし打ちだし読み上げ、本社の関係部署と連絡を取り調査をし指示を伝え……ということをしなくてはいけない。
ルーティンなどではなく、風間の目と手のかわりなのだから一瞬たりとも気が抜けない。千鶴は必死で風間の指示について行ったのだった。
「千鶴、来年度の業績予想はまだか」
「えーっと、今調べてて……」
その時、ぐううううううううっと千鶴のお腹の音が執務室に鳴り響いた。風間と天霧の動きが止まる。
千鶴は真っ赤になった。
「あ、あの……すいません!あの、気にしないでください」
天霧がフォローするように言ってくれる。
「そういえばもう夕飯の時間……」
その言葉の途中で、笑い声が聞こえてきた。
千鶴が驚いて風間が座っている椅子を見ると、風間は背もたれに背をあずけて、腹の底から楽しそうに笑っていた。
ここまで風間が笑うのは珍しいらしく、天霧も驚いたように風間を見ている。
風間はひとしきり笑った後、席を立ち千鶴の方へと歩いてきた。
「すまなかった。雇い主として食事を支給するのを忘れるとは」
怒るわけでもなく嫌味を言う訳でもない風間の様子に、千鶴も慌てて立ち上がる。
「あの、ほんとに大丈夫です」
そのタイミングでまた千鶴のお腹から、今度は『きゅ〜くるくるくる』という音がした。
千鶴は真っ赤になり、風間は再び笑い出す。
体に響くような低い声で心からの笑い声。金色のサラサラの髪をかき上げながら『破顔』という言葉がびったりの100パーセントの笑顔。
後から考えて思い当たるのは、きっとこの時千鶴が恋に落ちたのだろうということだ。
ずっと心に気にかけてなんとか彼を理解したいと思っていた日々。拒絶につぐ拒絶でへこたれそうになった毎日。
そんなものを一掃するくらい、彼の笑顔は衝撃で魅力的で千鶴の心の奥を大きく動かした。
しかし、当の千鶴にはそんなことはもちろん現時点ではわかっていない。
わかっているのは風間の笑顔をいつまでも見ていたいと言う事だけだ。
また笑って欲しい。楽しそうに。
……できればこちらを見て。その赤い瞳に千鶴を映してほしい。
そんなことを一瞬考えてしまった自分に驚き、千鶴はすぐに首を横に振ってその考えをかき消した。
風間が千鶴の肩に手をかける。
「キッチンに行くぞ。今日は手の込んだものは作れんからな。リゾットにでもするか」
「わ、私のお腹がなったんですから私が作ります。風間さんは仕事を続けてください」
風間がまた笑いだす。
「お前の腹がなったから、お前が作るか…!なるほどな。だが、おまえは俺の数少ない趣味を取るつもりか」
「そっそんなつもりじゃ…!」
千鶴をからかいながら執務室を出ていく二人を、天霧は見ていた。
風間のあんなに楽しそうな笑顔は初めて見た。目が見えなくなる前にもなかった。千鶴の影響だろう。
「これが吉とでるのか凶とでるのか…」
天霧はそうつぶやき、また書類へと目を落とした。
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