【マクドナルドで夕食を 5】
「ハーブをいろいろ買ってみたんです」
澄んだ明るい声でそう言われて、風間は暗闇に浸り切っていた腕に、暖かく柔らかいものが触れたのを感じた。
手のひらに添えられた細く華奢な手に、風間は何故かドキリとする。暗闇の中でそこに神経が集中し、光すら感じるように思えた。
柔らかな手が導いた先は、触れただけでみずみずしいとわかる植物の葉だった。
「……これは…」
「いつも行くスーパーの園芸コーナーで鉢植えのハーブがいろいろ売っていたんです!今触っているのがバジルで、隣がオレガノ、そしてこれがタイムで……。印はどうやってつけようかまだ考えていないんですが、位置を動かさなければ大丈夫ですか?」
シンクの向かい側は広い出窓のようになっていてそこに鉢植えはずらりと並べれていた。
風間は頷く。いまのでだいたい覚えたし、葉の形でもわかる。
それになりより……
「こうやって……匂いを嗅げばわかるからな」
そう、ハーブはそれ独特の匂いを発していて、目が見えなくなってから妙に物の匂いに敏感になった風間にはそれがよくわかった。
千鶴の方から漂ってくるシャンプーの匂いが変わったことにも、風間ははすぐに気づいていた。
千鶴がここに来てからそろそろ一か月。
風間は、この不器用な生活補助が居る毎日にも随分慣れてきた。
最初はイライラのし通しでとにかく早く追い出そうと思っていたのだが、意外にもこの女にはガッツがあり、つらくあたってもあたっても、諦めずに食いついてきた。そして、風間の口にしたことのない要求に初めて気づき、答えた人間だった。
料理は風間の唯一の趣味で、目が見えなくなる前にも時々作っていた。何も考えずに手順通りに手を動かしていると心がおちつく。その上自分の好みにぴったりの食事が作れるのだ。
しかし目が見えなくなってから、その趣味にはかなりの制限がでてきた。
後片付けができない。食料の補充も誰かに頼まないとできない。キッチンの配置も、手探りでは使いにくく、やりにくいなかで料理をしているうちに腹が立つことばかりおこりイライラして、だんだんとやらなくなってしまった。
それでも腹はへるので、切っただけ、混ぜただけのものは稀に作ってはいたが、正直物足りなかった。
この生活補助の女は、失敗ばかりだが、唯一料理についてはすぐに対応した。そして風間にも使いやすいようシステム的に食材や料理器具を配置し、風間が料理をしている間に自然に片づけをしている。
食事も一緒にとるようになっているし、風間は千鶴が傍に居ることを受け入れつつあった。
そして視覚が閉ざされた風間が千鶴を認識する手段が、声と匂い。
自然と千鶴の匂い……多分シャンプーの匂いを彼女の匂いと認識していた。
以前はかすかに柔らかい匂いが何かの拍子にフッと鼻に香る程度だったのだが、今は妙にいろんな意味で過剰な匂いを辺りにまき散らしている。
風間は思わず手を伸ばして千鶴の髪に触れた。
「お前の香りも変わったな」
「えっ!」
突然の接触に千鶴がビクンと反応したのが分かり、風間の胸に妙な満足感が広がる。それと同時に初めて触れた千鶴の髪の滑らかさに、心臓が小さくはねた。
風間はそのまま指を千鶴の頬にあてた。そして探るように千鶴の額、眉、眉間とゆっくりとなぞっていく。
千鶴は小さく息をのんだようだが、目の見えない風間が千鶴の顔に触れて情報を得ようとしているのに気づいたのか、じっとしていた。
まつ毛が長く、頬はしっとりと滑らか。そして唇は……
風間の指は千鶴の唇には触れずに離れた。唇に触れるのは、このような雇い主と使用人の関係ではふさわしくないように思えて。
それを言うのなら髪や頬に触れるのもふさわしくは無いのだが。
風間は何か言おうかと思い口を開いたが、何も思いつかなかったためまた閉じた。沈黙のままでいるのも気まずいが、千鶴も何も言わない。
「シャンプーは……前の方がいい」
これも雇い主が口を出すことではないと思うが、風間の頭に唯一浮かんだ言葉がこれだった。
千鶴も助かったとでもいうようにこの話題に飛びつく。
「そ、そうですか?前までは手持ちのを使っていたんですがなくなってしまったので、天霧さんに連れて行ってもらったスーパーで新しいのを買ったんです。ちょっと匂いが強いかなって私も思ったんですが……じゃあ他のに変えてみますね。フローラルの匂いって書いてあったんですが、風間さんは庭のお花の匂いもキライだっておっしゃっていましたし、フローラル系が苦手なんですね。もうちょっとさっぱりした臭いのものを探してみます」
妙に饒舌な千鶴の言葉を聞きながら、風間は自分は何を言っているのかと呆れていた。
使用人の使うシャンプーに口を出すなど、おかしな話だ。
恋人ならともかく。
「別に花の匂いが嫌いなわけではない。……今日の昼は俺はいらん。おまえは好きに食べろ」
風間はそう言うと、これ以上変なことを口走ってしまわないように、千鶴を置いて踵を返した。
風間が千鶴から離れ、キッチンを出て一階の廊下を歩いていると、どこからか落ち着いたいい匂いが漂ってくるのに気づいた。
先程千鶴と香りの話をしていたせいで敏感になっているのかと思いながらも、風間はどこから漂ってくる何の匂いかが気になり足をそちらに向ける。庭へと続く大きな窓の方から風に乗って漂ってくる。
と、いうことはリビングの窓が開いていて、庭の植物の匂いなのだろう。最近暖かい日が続いていたが、今日はかなり冷え込んでいて風も冷たい。
風間が誘われるようにそちらへと歩いて行くと、案の定窓は開いていた。そのままテラスに出るとピリッと冷たい風が頬を撫でる。
「……風間さん?」
リビングの入口から千鶴の声が聞こえてきたが、風間はそのまま匂いのもとを探るように顔を巡らせていた。
「どうしたんですか?」
隣に来たらしい千鶴が聞く。
「何か匂いがした気がしてな」
「匂いですか?」
聞き返す千鶴に、風間は頷く。
花の匂いに風の感触。太陽の光も冬とは違う。
風間は目が見えないため引きこもっていたのだが、外界はいつのまにか春になっていたのだ。
「どの花でしょう。桜も咲きだしてるしチューリップも……でもどっちも匂いは弱いですよね」
千鶴がそうつぶやきながらクンクンと風の匂いを嗅いでいる様子が伝わってきた。
事故にあって目が見えなくなってからというもの、外界からはなんの刺激をうけることも拒否していたのだが、今はその壁も緩やかに溶けつつある気がする。
春を味わう心の余裕がいつのまにかできていたことに風間は気づいた。
そしてそれは、もしかしたらこのはた迷惑な女の存在のせいかもしれないとも。
初めはまたやってきたうるさくてめんどくさい女としか思っていなかった。
静かにひきこもっていた風間の部屋にずかずかと踏込み、コーヒーをかけ、料理をしろと命令し、迷惑だと怒鳴りつけてもその場は謝るもののへこたれない。とにかく存在がうっとうしくて早く追い出したかったのだが。
今は逆に……楽しんでいると言えるかもしれない。
まああれだけコーヒーをかけられれば何の期待もせず諦めるしかないので、その分受け入れやすかったのかもしれない。
風間が外の世界に初めて興味を持ったのも、千鶴がきっかけだった。
先程キッチンで、彼女はどんな顔をしているのかをふいに知りたくなった。
別にいつも彼女の事を考えているという訳ではないが、ふと思い出したときに思い浮かべる顔がないというのは、妙に心もとない気持ちになる。目が見えなくなってから入れ代わり立ち代わり現れた『お手伝いさん』や『看護師』達の顔になど、まったく興味はなかったというのに。
彼女の顔に触れればわかるというわけではないが、何か情報が欲しかった……いや、単純に触れたかっただけかもしれない。
何故触れたいのか――それはあまり考えないほうがいい気がして、風間はそこで思考を止めた。
その時、ちょうど風間の頭を占めていた当の千鶴が言う。
「この匂いは多分……あの花からだと思います。あそこに咲いてるので」
千鶴はそういうと、再び風間の手をとりとある方角へと向け引っ張る。
「ほら、これです」
風間の指が腰程の高さにある葉に触れて、繊細な花を撫でる。
「これか……」
花の感触には覚えはなかったが、匂いとその花の植わっている場所からはるか昔の思い出がよみがえった。
「これは……この場所にあるこの花は確か……」
「花のなまえを御存じなんですか?」
風間は過去に思いをはせる。そうだ。確かに聞いた気がする。この花の名前は……
「沈丁花、だったと思う。祖父がこの花の話をしていたな……」
「おじいさまですか?風間さんの?」
「そうだ。この家はもともと祖父のもので、子供の頃かわいがってもらっていた俺はよくここに遊びに来た。庭の木は祖父が選んで植えたもので、この沈丁花の木は祖父が自ら植えたのだと……」
そこまで思い出して、風間はふと心に冷たい滴が滴り落ちたような気がした。
先程まで春と千鶴とに温められた心が一気に冷たくなったような。
そうだ、どうせ皆同じだ。
カザマの金と権力が欲しいだけだ。
それに気づかず心を捧げて裏切られる――祖父のように。
「風間さんのおじいさま、沈丁花がお好きだったんですね」
「……祖父が好きだったわけではない」
「?そうなんですか?」
「祖父の好きだった女性がこの花を好きだったというだけだ。結婚する予定で婚約までしていたようだったが、その女は結局祖父ではない別の男と結婚したらしい。にもかかわらず祖父は未練があったのか、その花をそこに植え、そして孫の俺に語ったのだな。あの時は小さくて特に何も考えていなかったが」
いきなり話し出したプライベートな内容に、千鶴が驚いているのが感じられた。
実際なぜこんなことまで話しているのかと風間自身が驚いているのだから、千鶴が驚くのも当然だろう。
「……つまらん話をしたな。忘れてくれ」
「つまらなくないです!」
風間がその場から立ち去ろうとしたとき、千鶴が思いがけず強く返事をしたので、風間は驚いて立ち止まる。
千鶴はどもりながら続けた。
「あの…つまらなくないです。素敵な話だと思います」
「素敵?捨てられたのに未練がましく花など植えている祖父がか?」
「はい。その女性のことを本当に好きだったんだなって感動しました。普通見返りっていうか…相手が振り向いてくれなければ諦めてしまうのに、心の中でずっとその女性への思いを大事にしていたなんて。きっとその女性も素敵な人だったんだろうなって思います」
風間は鼻で笑った。
「祖父はその後、今より安定していなかった風間コーポレーションを財政的に支えるために、大銀行の娘と結婚した。心に別の女性を思ったまま、な。新婚の夫が自分に興味がないということは一緒に暮らしていれば女はすぐにわかるのだろう。祖母は義務として俺の父を産んだが家庭は冷え切り父の育児も自らはほとんどしなかった。そんな家庭で育った父が愛のある結婚などできるはずもなく、俺の育った家も『家庭』とはとても言えないようなしろものだった。つまり祖父を捨てた女が、諸悪の根源だという訳だ。……いや違うか。そんな女を好きになりいつまでも忘れずにいた祖父が諸悪の根源か」
「……」
黙り込んでしまった千鶴に、何故自分はこんな思いをぶちまけているのかと風間はきまりが悪くなった。
これまで誰にも言ったことがなかったというのに。
気まずい沈黙が流れる中、風間はどうやってこの話を切り上げて部屋に帰ろうかと考えていた。そこに、千鶴の澄んだ声が聞こえてくる。
「私の両親は私が小さいときに二人とも死んでしまって、双子の兄も別の養護施設に引き取られて、私も風間さんのいう『家庭』はぼんやりとしか覚えていないんです」
千鶴が話し始めた内容に、風間は見えないものの顔を千鶴の方へとむけた。
親がいない?
それは初耳だ。いや、雇う時の履歴書や経歴書を天霧に読んでもらえばわかっていたかもしれないが。
風間が驚いていると、千鶴は続ける。
「でも、『家庭』を知らないから自分には『家庭』を作れないとは思いません。風間さんも、おじい様やお父様のようになるのが当然だってことは無いと思います。『意志あるところに道は開ける』って……昔、私が恩人に言われた言葉です。まだ中学生だった私は、本当にそうだと思いました。親がいないしお金もないし…って諦めてたんですがその言葉でやれるだけやってみようって思ったんです。そして今、夢をかなえて看護師になることができました。『家庭』は相手があることだし、なりたい仕事に就くこととは別かもしれないですけど、でも意志がなければそもそも何にもならないんじゃないかなって」
声の感じから、千鶴が風間の顔を見ずに沈丁花の方を見ながら話しているのがわかる。
風間に言っているのではなく自分に言い聞かせているように。
親を亡くした子供が生きていくのは厳しい。物質的な意味でも精神的な意味でも。
風間とは違う苦しみや悩みを、この千鶴が乗り越えてきたのかと思うと風間は彼女に対する自分の見方が変わるのを感じた。
幸せに育った、悩みなどない能天気な女だと思っていたのだが。
守ってくれる者がいないにもかかわらず、将来への夢はなくさないでいる千鶴を、風間は強いと感じた。
生き物としての生命力のようなものが、目が見えなくても……いや目が見えないからこそ、彼女からきらきらと輝いて感じられる。
そこまで風間の思考が彷徨い出たときに、隣で千鶴が「あ!!」と声を上げた。
「……どうした?」
心の中を見透かされたように感じて、風間は咳払いをした。
「風間さん!雪です、雪!雪が降ってきました!すごいです!桜の花に雪が…!」
千鶴の言葉に誘われるように、風間は見えないにもかかわらず上を向いた。
かすかに頬に冷たい感触が舞い落ちるのを感じる。
「雪か……」
「はい。桜がうっすらとピンク色で、そこにゆらゆらと雪が……。沈丁花にも雪がつもりかけてますよ。春なのに……!夢みたい……」
千鶴の感動は、風間の脳内に生き生きと景色を描く。
春の花たちがにぎやかに咲いているふわふわした庭に、しっとりとした冷たい白が舞い落ちる……
花や自然に大して興味もなく、花を贈る人も贈られることもなく、勉強と後継者争いと両親との冷戦、そして仕事にばかり没頭していた風間には、千鶴の口から紡がれる景色ははじめて『見る』ものだった。
これまで、目が見えていたころは視界にはもちろん入っていただろうが『見』てはいなかった。
目が見えなくなって始めて『見える』ものがあるとはな……
皮肉っぽく自分を笑い飛ばさないと、何故だか胸が熱くなり誰かの胸に抱かれて泣きたくなってしまいそうで、風間は苦笑いをした。
それくらい千鶴の紡いだ景色は、風間の心に深く美しく染み渡る。
もうこの先は行き止まり、デッドエンドだとばかり思っていたのに、実は反対側を見るだけでどこまでも広がる広大な空間があったのだ。
これまでの風間が見ていなかっただけで。
広大すぎて逆に恐ろしい。
右も左も上も下もわからなくなる空間。
知り尽くした狭い行き止まりの世界の方が心を乱されることも無く生きていけるような気がする。
しかし初めて知る世界はたとえようもなく魅力的で、手を伸ばさずにはいられない。
沈丁花の木を植えた祖父も、きっとこの広大な空間に足を踏み入れたのだろうと、風間は頭の片隅で思う。
そして風間は、心の命じるままに隣に感じる温もりへと手を伸ばした。
BACK NEXT
戻る