【マクドナルドで夕食を 3】
風間のこの館は、都心からかなり離れた場所にあった。
風間の目が見えていたころは、忙しい仕事の合間にたまにこの屋敷に来てゆっくりしていたらしい。
小さな山と言っていいくらいの高台の上の方にあり、裏庭はもうそのまま山につながっていて自然が豊かだ。
来たばかりの千鶴はまだ館の中や庭のすべてを把握しているわけではないが、海が近いし静かな夜は波の音も聞こえるからきっとどこからか海が見えるに違いない。
こんなに自然はきれいなのに…と、千鶴は、荒れ果てた庭を見渡して溜息をついた。
庭師や植木屋の手入れも風間がうるさがるので、ここ半年程全く手入れをしていないと天霧は言っていた。その言葉通り、木々は伸び放題で隣の枝とぶつかっているし、鉢類は全て枯れている。地植えの花壇らしき場所は唯一生き残っているようだが、それも息絶え絶えだ。一旦人の手が入っているせいで余計に荒れた感じが協調されて心がすさむ風景だ。
このまま見殺しにするには忍びなくて、千鶴は花壇にだけこっそりと水をやっていた。
ホースでやると楽なのだがうるさいとおこられるかもしれないから、ジョウロでちょろちょろと。そして綺麗に咲いた花を摘んで、屋敷に飾ったりもしている。
視覚が閉ざされた風間にとって、もしかして花のいい匂いが少しでも風間の心を癒してくれたら……
そしたら、私の事も許してくれないかな……
千鶴は水をやりながら、先程の出来事を思い出してうなだれた。
この屋敷に来て二週間。
コーヒーをぶちまけたのに続いて二度目の失敗だ。いや、初日の失敗と家具の配置を変えたのもいれれば四度目か。それに『昼は何を食べるか』と聞いたことや、コーヒーでぬれた風間の服を無理矢理脱がそうとしたことなどを勘定にいれれば……
千鶴は再び肩を落として溜息をつく。
今日の失敗もコーヒー絡みだった。
昼ごはんの後に、風間からインターホンでコーヒーを持ってくるように言われ、千鶴はコーヒーカップとお茶請けのクッキー二枚をトレイに入れて書斎へ持って行ったのだ。
ドアをノックすると、千鶴が開ける前に中から風間が開けてトレイを渡すよう手を差し出す。
「またかけられてはかなわん」
その言いかたがからかうような茶目っ気のある言い方ならまだましなのだが、あいにく実際は軽蔑しきった表情と口調だった。
「……」
言い返すことなどできないので、千鶴は風間にトレイを渡した。
「じゃあ、失礼します……あれ」
千鶴はドアを閉めようとしたが閉まらない。どうしたのかと見てみると、着ていたカーディガンの袖の部分にドアノブがひっかかっていた。
「どうした」
めんどくさそうに聞く風間に、千鶴は「すいません、洋服がノブにひっかかって…」と言い急いで取ろうと焦って腕を振った。……ら。
引っかかっている肘の部分だけ千鶴は気にしていたのだが、手の方が風間の持っていたトレイにあたってしまったのだ。
ひっかかった袖を取ろうとして、トレイの底を、グーて上に突き上げるような動きを……
あっと思うと同時に、『これが全身の血の気が引くという感覚なのか〜』と千鶴は頭の片隅で妙に冷静に考えていた。
ざっと音がするくらい血の気が引き同時に冷や汗がでる。
千鶴のこぶしに下から突き上げられたトレイは、当然ながらぶっちゃけた。風間の方に。
幸いポットではなくカップで、さらに少し冷めていたため火傷はなかった。
千鶴は目の前の風間のコーヒーまみれのシャツを見て、このまま逃げ出してしまいたい気持ちを抑えて恐る恐る風間を見上げる。
当然のことながら、風間の顔には『またか……』とうんざりした表情の上にくっきり書いてあった。こめかみのあたりがぴくぴくと動いている所が不吉すぎる。
もちろん平身低頭で謝罪したが、風間は一言もしゃべらずに千鶴の鼻先でドアを勢いよく閉めた。
千鶴が本日何度目かの溜息をつきながら花に水をやっていると、上から声がした。
「誰だ。そこで何をやっている?」
千鶴が上を見上げると、二階のバルコニーから風間が顔を出している。
青空を背景にした風間は、金色の髪が太陽の光にきらめいて顔を縁どり、千鶴は目を瞬いた。
まるで映画のワンシーンのようで、とてもきれいだ。
春の柔らかい風に髪を揺らせて、すらりとした長身をわずかに傾けてこちらを見ている。頭が小さくて肩幅が広くてスタイルがいい。
そういえば太陽の光の下で風間を見たのはこの屋敷に来てから初めてだ。
ポカンと見上げた千鶴の頭に浮かんだのは。
……王子様みたい……
背が高くスタイルがよく、金髪のサラサラの髪に彫りの深い顔立ち。そんな人が洋風の豪華な館のバルコニーに立っているのだ。着ているのはシンプルなジーンズに白いシャツをざっくりと着ているだけだが、その無造作がまた休日にリラックスしている王子様のようだ。
千鶴はそこまで考えて、ハタと我に返った。
「あの、雪村です。雪村千鶴です。その……このままお花が萎れていくのも可哀そうなので、すいません勝手に……」
「部屋に花を飾ったのもおまえか?」
目が見えないのに気が付いたのかと千鶴は驚いたが、頷いた。そして風間には見えないことに気づいて言いなおす。
「はい、そうで……」
バシャ!と上から水が降ってきて、千鶴の言葉は止まった。
その上からばらばらと今朝切って書斎に飾った紫色のアネモネが降ってくる。
「……」
唖然として髪からしたたる水もそのまま頭や肩のあちこちにアネモネをくっつけた状態で千鶴が上を見上げると、風間がアネモネをいけていた花瓶をベランダからさかさまにしていた。
「余計なことはするな」
風間は冷たい視線を千鶴に投げてそう言うと、バルコニーから体を引いた。
千鶴は、晴れわたる青空の下一人だけ頭からぐっしょりと濡れて、ジョウロを持ったまま立ちすくんでいた。我知らずジョウロを持つ手が怒りでふるふると震えている。
……前言撤回。『王子様』は『王子様』でも暴君、独裁者、乱暴者、圧政者!
花が飾られていたのが気に入らなかったのかもしれないが、何も二階から水と花を捨てることはないではないか。目が見えないから千鶴をねらったわけではないかもしれないが……そこまで考えて、千鶴は頭を横に振った。水滴が周囲に飛び散る。
いや、声の聞こえてくる方向からだいたいの位置は把握していたはずだ、と千鶴は考え直した。あの性格の悪いわがままものならそれくらいはやりそうだ。それでも、花瓶は落とさないでくれたことに感謝しなければいけないとでもいうのだろうか。
以前投げつけられた本と同じで、あの花瓶が二階から千鶴の頭を直撃していたら、大けがどころの話ではないだろう。
「っくしゅ!」
びゅっと吹いた風に、千鶴は体を震わせた。春とはいえまだ風は冷たい。千鶴は急いで屋敷に戻る。水を滴らせながら三階の自分の部屋へと急いだ。
早く風呂い入ってあったまらなくては。この屋敷で風邪をひいて倒れても誰も看病などしてくれないだろう。
連日の風間からの冷たい仕打ちに、さすがの千鶴も病気休暇でもなんでもいいので休暇をもらって鈴鹿学園の寮に帰りたくなった。施設で小さい子どもたちと遊んだり赤ちゃんと抱っこしたり千と他愛もないおしゃべりをしたり。
自分を受け入れてもらえない人に何度も何度も好意や愛情を注ぐのは、正直しんどい。やる気があればあるほど心が痛んでへこむ。
恩返しをしたいと意気込んでいるのに空廻っている現実に溜息しかでない。
しかもこのままだと、千鶴がこの屋敷から去るのが一番風間にとって恩返しになるのではないかという元も子もない発想になってしまいそうで、千鶴はまた風呂の中で大きな溜息をついたのだった。
千鶴は三階にある来客用の風呂に入りながら自分に言い聞かせていた。
とにかく、もう失敗しないようにしよう。コーヒーは特に要注意だよね。他の事は、最初からなんでもかんでも人の好みについてすぐわかる人なんていないんだし、私は鈍い方なんだから何を言われても我慢しなきゃ。
風間さんが生活をしやすくなって、私の補助がなくても普通の人と同じように暮らせるようにするのが私の仕事なんだから、恩返しをしたいなら頑張らなくちゃ……!
千鶴はお風呂の中でウンと自分に頷いた。
まずは余計なことをするのを止めて観察をしよう。どう動くかはそれから考えよう。
風呂からあがり手早くジーンズにトレーナーに着替えると、三階から階段を降りる。
千鶴は、階段の踊り場にある窓の外で、キラリと何かが反射したのに気がついて脚を止めた。
いつもは昼間に三階の自室にあがることがないので気づかなかった。
あの光る物はなんだろう?
千鶴が窓越しに景色を見ると、はるか遠くに見えたのは、ぼんやりとして空との境がわからなくなりそうなくらい澄んだ蒼色の海だった。
「わぁ…!海!」
ここは海が近いし高台だからどこからかは見えるだろうと思っていたが。
落ち込んでいた気持ちが少しだけ上向く。
海は太陽の光をキラキラと反射させて輝いている。いつか仕事が終わったら行ってみたいな、と千鶴が思っていると、下の庭を誰かが横切って歩いて行くのが見えた。
誰かと思い目を凝らすと……
風間さん?
ほとんど屋敷から……しかも書斎と自分の寝室以外は出ない風間が、屋敷の外へ出て歩いていくなんて。
一応歩道のようにレンガがしきつめられているから、目の見えない風間でも危険はないのだろう。
しかし、外なのだから木の枝が落ちていたり道に迷ったりということはありえる。後をついていって安全を見守った方がいいのだろうかと千鶴は迷った。
だけど……
突然目が見えなくてただでさえできることが少なくなっているのに、一人で行動しようとしていたら後ろからこっそり最近雇った使用人がついてきていたら……。
気づいていなかったとしてもいい気分にはならないだろう。
それにここ数日この館にいてわかったのだが、風間は個人のプライバシーを大事にする男のようだ。他人に入って来てほしくない壁がしっかりとあるタイプだと思う。そんな人間が一人で行動しているにもかかわらず他人が傍に居てこっそり見ているのなど我慢ならないだろう。
千鶴自身も、人の心にずかずかと入り込んでくる人間は苦手なので気持ちはわかる気がする。
ただでさえ傷ついている風間をこれ以上イヤな気分にさせたくはない。
千鶴は歩いて行く風間を見ながら、後はつけないことにした。二時間程度たっても帰ってこないようだったら探しに行けばいい。
風間はそのまま庭を横切って、自然に地続きになっている林の方へと進んで行き、見えなくなった
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