【マクドナルドで夕食を 2】
ちょうど良く焦げ目の付いた分厚いトースト。隣の小皿にバターを置いて一応イチゴジャムの瓶も。
カリカリのベーコンに卵を一つ。黄身の固さはフォークを入れるとトロリととろける具合にしてアスパラガスの炒めた物を添える。
レタスときゅうり、トマトの簡単なサラダ。
ホットコーヒーは銀のポットに二杯分をあつあつで入れ、ミルクピッチャーを隣に置く。
千鶴はワゴンにそれらを乗せると、改めてチェックをした。
栄養のバランスもとれているし朝食にふさわしい軽いメニューだし、作りたてのホカホカだ。
千鶴は小さく頷くと、天霧という人に教えられた風間の部屋へとワゴンを押して行った。
かなり食にうるさい雇い主だということだが、このメニューは朝食の定番だしそれほど人を選ぶ食材は使っていないので大丈夫だろう。
もし嫌いなものがあるのならその都度聞いて覚えていけばいいのだ。
雇い主――風間千景の朝は遅いらしい。
10時ごろ起きだして、そのまま書斎にこもる。
千鶴は朝食の準備をして、書斎へ風間を呼びに行けばいいらしい。
ところが初日に言われた通り書斎をノックしてドア越しに名前を名乗り挨拶をした後、『朝食の用意ができました』と告げたのだが、風間はいつまでたっても食堂へは降りてこない。迷ったものの、千鶴が恐る恐る書斎をノックしてもう一度呼ぶと、『うるさい!』と怒鳴られた。
その日は昼ご飯も夜ご飯もいらないと言われてしまった。
天霧に相談したところ、よくあることで次からは書斎に持って行ったらどうかと言われた。
ちゃぶ台ひっくり返しとまではいかなかったが、しょっぱなから、しかもご飯を食べてもらうというなんの障害にもならないようなことで躓き、昨日は千鶴は先を思い暗澹たる気持ちになったものだ。
昨日は風間さんは一体何を食べたのかな……
千鶴はワゴンを押して屋敷の中にあるエレベーターに乗った。
この広大な屋敷には、一階に広いリビング、キッチン、風間の執務室、広いバスルーム、バントリー等があり、二階はほぼ風間のプライベート空間になっており書斎も二階だ。千鶴を含む来客用の部屋は三階にあった。
千鶴が鈴鹿学園の寮に住んでいたころはご飯を作ってくれるおばさんが居た。料理自体は嫌いではないのでたまに自分用につくるが、どちらかといえば必要に迫られて作る実用的な料理がメインで、人に食べさせたりするようなシャレたものは作れない。カザマグループの社長である風間なら、世界中の最高級の料理を食べているだろう。自分の料理なんかでいいのかと天霧に確認したところ、問題ないと返答があった。食事を作ってくれるお手伝いさんの方も風間のひどい態度が知れ渡り、もうなり手がいないらしい。
風間の食事はこれまではどうしていたのかという千鶴が聞くと、天霧は『主にアルコールだと思います』と答えた。一番近い天霧でさえ風間の今の『生態』を詳細までは把握していないようだ。
風間は主に洋食が好みだと言うことで、千鶴の貧相な知識の中での洋食を作ってみたのだが……
コンコンと書斎の扉をノックして、千鶴は返事を待った。
返事がないので、今日はおずおずと扉を少しだけ開けてみる。
「あの……新しく雇われた雪村千鶴といいます。朝食をお持ちしました」
覗き込んだ部屋を見て、千鶴は目を見開いた。
無機質なガランとした部屋かと思っていたが、そこには適度に乱雑だが落ち着いた居心地のよさそうな空間が広がっていた。
広い机にどっしりとした座り心地のよさそうな椅子はかなりの年代物だが大事に使われてきたのがわかる。
そして壁一面に本。全集などではなく個人が好きで集めて増えてしまったような不揃いな本が、古めかしい壁一面の書棚に詰まっている。かなり古いのもあり少しだけホコリ臭いが、静かな良い匂いでもある。
そして家具調に作られ壁に埋め込む様になっている大画面のテレビにオーディオ。CDやDVDのラック。
向かい側は広いベランダが見える大きな窓になっており、南からの太陽の光が柔らかく射しこんでいる。
風間は壁に作り付けの本棚にある梯子に浅く座って、ハードカバーの本を手に取っていた。
最後に会ったのは10年以上前。
それ以降も華やかな風間の存在はテレビや雑誌で見てはいたが、こうして近くで見るのは久しぶりだ。
記憶の通り、背が高くすらりとして彫りが深く、明るい髪の毛の色だった。
目が見えなくなってからひきこもるようにして暮らしているにもかかわらず、風間の周囲には強いオーラのようなものが漂っていた。カリスマ性とでもいうのだろうか、気おされて萎縮してしまいそうな空気。
しかし千鶴は中学生の時、ほんの少しだけ彼の内面に触れる機会があって、とても真っ直ぐな人だと感じた。世間一般の真っ直ぐとはものさしが異なる風間独自の『まっすぐ』なのだろうが、千鶴はその強さと信念を、誠実だと感じたのだ。
少女だった千鶴には風間は尊大な大人で何を言っても『フン』とあしらわれてしまいそうな威厳だったけれど、ドキドキしてしまうような……なんというか色気のようなパワーも満ち溢れているのを感じた。
その時感じた感情は今も変わらなかったようで、千鶴はドキドキと打つ胸の音を無視しようと小さく深呼吸をした。
頭身のバランスがよく手足の長い風間が、梯子に浅く腰かけ古い本を手に取っている姿はそれだけでとても絵になるのだ。
本……読めないよね、目が見えないんだから。……何をやってるんだろう?
せっかく作った朝食が冷めてしまう。千鶴はもう一度声をかけた方いいのだろうかと迷った。先程の自分の声が届いていなかったのかもしれない。
そう思い、千鶴がもう一度口を開こうとしたとき。
「……そこへ置いて行け」
低い静かな声がそう言った。
千鶴はどきんとする。
そうだ、すっかり忘れていたけれど中学生の時も千鶴はこの声にドキドキしたのだ。胸の奥にまで届くような大人の男性の声。雰囲気や態度は変わっているが声は変わっていない。
「は、はい……わかりました」
千鶴はそう言うと、ワゴンの上からトレイを持ち上げて部屋へと入って行った。
そしてどこに置こうかときょろきょろと見渡す。部屋の中は雑然としていた。
本が溢れていて床の上に平積みになり、あちらこちらで小さなタワーをつくっている。
千鶴は大きな机の上にトレイを置く。
「あの、ここに置いておきます」
「……こことはどこだ」
風間の言葉に千鶴ははっとなった。
そうだ、目の見えない人に『ここに置く』等と言ってもわからないに決まっている。
「すいません。大きな机の椅子側に起きました」
千鶴は最初に食事の乗ったトレイを慎重に置いた。そしてコーヒーのポットとカップ、ミルクピッチャーの乗っている小さなトレイを持つ。
「コーヒーはその隣に……あっ!」
大きな机の向こう側――食事のトレイの横に、コーヒーポットを置こうと思ったのだ。
その方が千鶴が立っている位置からは遠いけれど、逆に風間からは近いから。
しかし千鶴は床にタワーのように積み上げられている本に足を引っ掛け、転びはしなかったものの本が崩れ落ち、それを踏むまいと避けようとしてバランスをくずして……
「きゃああ!」
千鶴の持っていたトレイは空を飛び、それに合わせてコーヒーポットの蓋が外れ空を飛ぶ。
悪夢のような時間は、千鶴にはスローモーションのようにゆっくりと見えた。
外れたフタ、傾いたポット、なかからこぼれて飛ぶこげ茶色のコーヒー、あふれ出るアロマ……
ガチャン!とポットのぶつかる音と同時に、良い匂いのする淹れたてのコーヒーは風間が着ていたのシンプルな藍色のニットに飛び散った。グレイのパンツにもシミが広がる。
「……」
唖然とした千鶴だが、風間の方がもっと唖然としたようだった。
しばらくの沈黙が書斎の中を漂う。
一瞬早く我に返ったのは千鶴の方だった。
「すっすいません……!火傷は…火傷は大丈夫ですか?すいません!!」
悲鳴のようにそう叫ぶと、千鶴は風間に飛びついた。
千鶴が育った養護施設では小さい子達が熱い味噌汁をこぼしたりすることがよくある。熱い液体は火傷しやすいのだ。
千鶴は必死になって、風間のニットを脱がそうとした。
「ぬ、脱いでください!下に何か……」
ニットの裾を引っ張った千鶴の手が、パシンと払われる。それとともにいら立ちを必死でおさえているような低い声が千鶴のすぐ耳元で聞こえてきた。
「もういい。とっとと出て行け」
「は…い、いえでも火傷を……」
「いいと言っているだろう!大丈夫だから早く出て行け」
「着替えは……」
「うるさい!」
風間は最後にそう言うと、千鶴に背を向けてしまった。
コーヒーをかけてしまったのは千鶴だし腹をたてられてもしょうがない。後始末はさせてもらいたいが、このままここにいてもさせてもらえないだろうし風間も着替えられないだろう。
千鶴はとりあえず持っていた布巾で机の上と床の上のこぼれたコーヒーをざっと拭き、床に落ちていたポットを拾った。幸い……と言っていいのかどうかわからないが、ポットの中身はほぼすべて風間にかかったため、床に積み上げられている本やフカフカのじゅうたんにはかかっていない。
「すいませんでした……あの、コーヒーは淹れなおしてきま…」
「いらん!」
「……」
全部自分が悪いのだ。
最初から失敗してしまった不器用な自分に呆れる。
千鶴は勝手に滲んでくる視界を瞬きでごまかしながら、そっと書斎から出て扉を閉めた。
朝食を下げるときに風間の様子をこっそり確認した。
服は着替えられていて、朝食も綺麗に食べられている。火傷はしなかったかどうかを聞きたいが、また『うるさい』と言われそうな気がして千鶴は言葉を呑みこんだ。その代わりに。
「あの…お昼は何か食べたいものがありますか?」
相変わらず本棚のあたり――今度は朝とは反対側の上の方だ――で何かをしていた風間は、うんざりしたように溜息をついた。
「お前はこれから毎日一日三回『次の食事は何が食べたいか』を聞くつもりか。そしてそれに俺は答えなくてはならんのか」
「いえ、そんな……すいませんでした」
そうは言っても気に入らない食事を出したら、食べずにちゃぶ台ひっくり返しをするくせに……と千鶴は心の中で呟いたが、もちろんそんなことは言えない。
「……昼はいらん」
「え?」
「ワインを持ってこい。赤のロートシルトだ。それとチーズとクラッカー。はちみつもだ」
「は、はちみつ…?それにワインだなんて、こんな昼間から体によくないです」
風間は千鶴の声に、ちらりとこちらを見た。
紅色の瞳は透明で美しく、これで見えていないなんて嘘みたいだ。
でも目が合わない。
その事実で、風間は本当に目が見えないのだと千鶴は実感した。
あんな綺麗な瞳なのに……
風間は小さく舌打ちをするとうるさそうに言った。
「…いいから持ってこい」
「でも…」
「うるさいぞ!」
バシン!と千鶴の耳元で音がして、空気を震わす衝撃が伝わる。
突然の出来事に、千鶴が唖然として音がした方を見ると、千鶴の横の壁は少しだけへこみ、床に風間が先ほどまで持っていた分厚い本が落ちていた。
し、信じられない……
風間は目が見えないのだ。にもかかわらず本を投げつけてきた。千鶴をめがけて!
壁が少しへこんでいることからも相当の威力だったことが分かる。千鶴にあたっていたらただでは済まないだろう。
痛いどころでは済まない。
同窓会で聞いたクラスメイトの話はほんとうだったんだ……と千鶴は、恐々と本があたった壁のへこみを見た。
「とっとと出て行け」
憎々しげに追い打ちをかけられて、千鶴はムカムカしながらも何も言わずに部屋を出る。
養護施設の反抗期の子供たちと同じだ。全く同じ。いや、力と知恵がある分それよりもひどい。
話も聞かずに当たり散らす。自分の都合しか考えない。
そりゃあコーヒーを頭からぶっかけたのは悪かったと自分でも思うが、だからと言って物を投げていいと言うことにはならないだろう。
子供なら耳を引っ張ってしかりつけ話を聞かせることもできるが、あの年齢であの社会的地位を持ち、あの体格の風間を同じように扱えるとは思えない。
しかも千鶴は『恩をかえす』ためにここにいるのだ。態度の悪い大人にしつけをし直すためではない。
千鶴は、同窓会でクラスメイトの言っていたことを思い出した。
『相手があれだけ非協力的ならこっちがどれだけ仕事しようとしてもできやしないわよ!』
本当にそうだ。取りつくしまがない。
そもそも仕事をさせてもらえないのだ。おまけにあの偉そうな態度に暴力的な言動。
あんなことが毎日続けば、普通の人ならどれだけ給料をもらおうと割に合わないと思うにちがいない。
でも私は、困っている風間さんの力になりに来たんだから
千鶴は自分にそう言い聞かせてムカムカする胸を抑えた。
何度か深呼吸をして、風間の感情に巻き込まれないようにする。
爆発しそうな怒りをなんとか理性の力で押さえて、千鶴はキッチンへと向かった。
とりあえず食事については、何かを食べてもらえただけでよしとすることにする。
次は……住環境だ。
掃除や洗濯は掃除専門のスタッフがやってくれるので、汚い汚れやゴミ箱があふれているといったことはない。
しかし片づけが全くできていないのだ。
物を動かしたり移動させたりすると、風間の怒りがさく裂すると言うことので掃除スタッフはたとえ床に落ちている栓抜きでさえも片付けたりはしない。一度栓抜きを持ち上げ床を掃除し、それからまた同じ場所に栓抜きを置き直すのだ。
そのせいで風間の広い館は、清潔だけど散らかっていると言う不思議な状態になっていた。
千鶴はとりあえず、キッチンの床に落ちているものを全部拾った。
栓抜きにトング、岩塩の袋と紅茶缶。耐熱ガラスのボウルが二個にナイフ。
「危ないよね…」
千鶴はそれらを、引き出しを開けたり戸棚を開いたりして収納場所を探し、それらしきところにしまっていく。他にキッチンの作業台に出しっぱなしになっていた鍋類とフライパンを壁にひっかけて片付けていく。
「よし!」
少しは建設的なことができた充足感で、千鶴は綺麗に片付いたキッチンを見渡して頷いた。次はリビングだ。
一階で一番広い部屋で、なんと暖炉がある。大きな窓からはそのまま庭に出られるようになっており、豪華な革のソファセットがおかれ大画面の壁掛けテレビと、なんだか高級そうな置物が入っている戸棚がある。
大家族や友人や客人の多い家なら居心地がよさそうだが、この屋敷の正式な住人は風間一人で、その本人はほぼ自分の寝室と書斎にこもりきりだ。
しかしリビングの床には、いつからなのか雑誌が数冊散らかっておかれていた。場所的に考えて、風間がかんしゃくを起こして壁に投げつけ床に落ちたのだろう。それと綺麗なガラスの丸い置物も転がっている。どこに飾ってあったのかわからない。その他いくつか床に落ちているものを拾い、位置が妙にずれているソファをもとの位置に戻し、通路にでっぱっている大きな壺に入った造花を壁際によせ、千鶴はリビングも片付けた。
あらかた片づけが終わった後、千鶴はふと大きな窓から庭を見て顔をしかめた。そしてちょうどリビングに入ってきた天霧に聞く。
「家の中は一応掃除されているのに、どうして庭はこんなに手入れがされていないんですか?」
天霧は庭を見た。確かに千鶴が言った通り、庭の草木は伸び放題で枯れ放題。一目で荒れているとわかる。
「風間が怒ったからです。庭の手入れをする音が耳障りだと。書斎は2階ですが庭に面していますからね」
「そうですか……」
またか…と千鶴は溜息をついた。
食事に住環境。快適にしようとしても風間本人が入らぬ世話だと突っぱねているのだ。
その時、後ろからガツッという何かがぶつかったような硬い音がした。そして同時に「なんだこれは!」という風間の尖った声。
千鶴と天霧が振り向くと、床には大きな壺がころがり、造花が零れ落ちていた。
「位置を変えたのはだれだ!」
憤懣やるかたないと言った様子の風間に、千鶴は青ざめた。
「す、すいません!片付けようかと思って…」
風間が戸惑っている姿を見て初めて、目の見えない風間にとって一番快適なようにものを配置していたということに千鶴は気づいた。
散らかっていたわけではないのだ。
掃除スタッフや天霧は何も知らないようだったが、物を動かして風間が怒るのはそう言う訳だったのか。
「すいませんでした」
再度謝った千鶴に、風間はかぶせる様に怒りの声をぶつけた。
「いったいお前を雇ったのは誰だ。俺の生活を破壊するためにこの家に来たのか!」
天霧が冷静に訂正する。
「いえ、違います。彼女はここで目の見えないあなたの生活補助のために来てもらった看護師です。食事の世話は彼女の厚意です。あなたが追い出すので、もう食事を作ってくれるお手伝いも来てもらえなくなっているのですよ」
風間は「ふん!」とバカにしたように笑うと言った。
「恩に着せようとでもいうつもりか。俺は手伝いの人間なぞいらんと言っているだろう」
「そうやって自分を憐れんで何もできないままで時を過ごしていくつもりですか」
天霧がずばずばと言う。
天霧は部下だと聞いていたが、この遠慮のない物言いは、部下と言うよりは昔からの仲間のような感じだ。千鶴ははらはらしながら冷たい言い合いをしている天霧と風間を見ていた。
「若い女などうんざりだ。最初の頃に来ていた何人かなぞ、花嫁候補と言わんばかりのすり寄りようだったからな。目が見えなくても風間コーポレーション社長という肩書き目当ての腐ったクズどもだ。どうせこの女も似たような類だろう」
目が見えないと言うのに軽蔑するような眼差しで見られて、千鶴は面食らった。女であることが却って気に障っていたのか。
天霧が風間をたしなめる。
「あなたのそれは、とにかく難癖をつけたいだけに見えます。確かにお手伝いさんと看護師の若い女性の中には、仕事に対する姿勢が甘かった方々が何人かいらっしゃいました。しかしそうではない人も、同じように追い出しています」
「目障りだからだ!」
風間が吐き捨てるように言うと、「あなたは目が見えないのですから目障りのわけはないでしょう」と全く同情する素振りの無い天霧が冷静に指摘する。
千鶴は飾りのない二人の会話にびくびくすることしかできない。
「とにかく、この女は朝からコーヒーを俺にかけてきたうえに昼は何を食べるのかだの昼をぬいてワインを飲むのは健康に良くないだのあれこれうるさすぎる。生活補助とやらはできるのかと思えば勝手に家具の位置をうごかして俺に家の中で自由に歩くことすらできなくする始末。天霧!」
滔々と千鶴の悪口を述べた風間は、最後に天霧の名を呼んだ。
「はい」
「今すぐクビにしろ!」
「待ってください!」
風間の言葉にかぶせる様に、千鶴が言った。このまま首になってしまったら最初の決意も恩返しもあったものではない。まだなにもしていないのだ。ここで辞めさせられるわけにはいかない。
「コーヒーのことは、ほんとうにすいませんでした。次からは気を付けます。家の家具の配置を変えてしまった事も、私の考えが足りなくてすいませんでした。食事のメニューはこれから勉強して栄養もとれるおつまみとか工夫するようにしますし、コーヒーをこぼさないように足元には気を付けます。家具の方は元に戻しておきます。一緒に生活することになったばかりなので最初はいろいろ不愉快な思いをさせてしまうかもしれません。でも同じ失敗は二度としないよう気を付けます。ですからもう少しこの仕事を続けさせてください!」
見えないのはわかっていたが、千鶴は言葉と共に頭を下げた。
確かに風間の言うとおり、仕事ができていなかったのは千鶴だ。だからこそなんとか挽回の機会を与えて欲しいのだ。
「……」
千鶴の熱意溢れるスピーチに風間は少し驚いたようだった。
天霧も「もう少し様子をみてみるのもいいかもしれませんね」と援護射撃をしてくれる。
千鶴がかたずをのんで風間の返事を待っていると、風間はしばらくしてから口を開いた。
「ぎゃあぎゃあとうるさいのは好かん」
そう一言言い捨てると、くるりと向きを変えて廊下の方へ歩き去ろうとした。
「す、すいません!これからは静かに話すようにします!」
それに対する風間の返事は無い。
千鶴は去っていく風間の背中を見送って、しばらくの後、隣の天霧を見上げた。
「首はつながった……と思っていいんでしょうか?」
天霧は珍しく微笑んだ。
「そうだと思いますよ。風間はやる気のある人間は好きなのです」
「……よかった……」
千鶴はホッと肩の力を抜いた。
同じ失敗を二度はしないと言った手前、またリビングをキッチンを同じように散らかさなくては。
それと料理のバリエーションの勉強。料理の本を買って……
ここは奥まった高級住宅街の為、歩いて行けるところに本屋やスーパーはない。千鶴は頭の中で、調理が簡単そうな食材を思い浮かべながら天霧に車をだしてもらえるよう頼んだのだった。
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