【マクドナルドで夕食を 1】








「千鶴ちゃん、本当にいいの?」
千にそう聞かれて千鶴は、自分の荷物をまとめている手を止めた。
そして見慣れた自分の職場――保健室を見渡す。
きちんと整理された棚に、使いやすく配置された応急措置の道具。日常の平凡な風景に、今は長く射した夕日が差し込んでいる。放課後の校庭からは子供たちの元気な声が3月の暖かな風にのって聞こえてきていた。
「自分の職場」ではなく「自分の元職場」だ、と千鶴は心の中で訂正した。
もう辞表は3か月前に出して、それからさんざん千と話し合って来たのだ。
千鶴は千に振り向くと、寂しそうに微笑んでうなずいた。
「うん。ごめんね千ちゃん。さんざんお世話になったのにこんな形で辞めることになっちゃって」
「そんなのいいのよ。千鶴ちゃんの気持ちもわかるし。…でもいざそうなると寂しいなあって」
千は哀しい顔を千鶴に見せまいと視線をそらせた。
ここ、鈴鹿学園は親のいない子供を預かる児童養護施設―いわゆる孤児院を併設した、幼稚園から中学校までの一貫教育をしている学園で、千の祖父が理事長として運営している。両親を事故で亡くした千鶴はここに五歳の時からお世話になっていた。今は学園の見習い兼事務員をしてる千とは幼馴染であり姉妹であり……一番身近な家族ともいえる存在だ。
千鶴にとっては、学園は家。
そのせいで、別れがつらい。
しかし……
「私が看護学校に通って看護師の資格が取れたのも、あの人のおかげだから……。今、あの人は困ってるみたいだし、私で役に立てるならって思うんだ。せっかくここの学園の保健の先生になって千ちゃんたちにも恩を返せると思ったんだけど……ほんとうにごめんね」
俯いた千鶴に、千はかけよってぎゅっと彼女を抱きしめる。
「何を言ってるのよ!こんな安月給でこき使われる学園の保健の先生になってくれる人なんて千鶴ちゃんくらいしかいないんだから!施設の子どもたちの看病も24時間体制でしてくれてこっちは充分に助かったのよ。そいつの仕事が終わったらいつでも戻って来てね。みんなで待ってるから」
「千ちゃん…!ありがとう!」
千の声が涙声で、千鶴も自然に喉がつまった。
千鶴は、高校や看護学校にもこのすぐ近くの学園の寮から通っていたし、今も住んでいるのは学園の寮だ。そもそもこの街から離れたことも無い。自分で決めたこととはいえ、まったく知らない街へ一人で行き、ほとんど知らない人のところで初めての仕事をするのかと思うと不安で心細くてしょうがない。千の暖かい温もりは、そんな千鶴の不安を少しだけ癒してくれた。

これだけ迷惑をかけてるんだから、がんばろう。たいへんだろうけどがんばって、少しでも役に立って来よう。
きっとこれまでと全然違う環境で全然違う仕事内容だろうけど、苦労なんてこれまでいっぱいしてきたんだから!

千と抱き合って別れをおしみながら、千鶴はこれから始まる生活に全力投球しようと再び心に決めたのだった。





きっかけは看護学校の同窓会だった。
鈴鹿学園の保健室の先生と、養護施設の24時間体制の看護師として働いていた千鶴は、年末に開かれた同窓会に久しぶりに参加し、そこで聞いたのだ。
「知ってる、それ!一か月ごとに求人が来るわよね!うちの看護学校に出資してるかなんかで、卒業生に対して頻繁に募集してない?給料がいいからすぐに決まるんだけど、また一か月後に求人が来るのよ」
元クラスメイトの一人が言うと、もう一人がうなずいた。
「そうなのよ。それで私も申し込んでみたの。あの条件だからきっと競争率高いかと思ってたらすぐ決まってね。で行ってみたら……もう散々。胃が痛くなるほど我慢したけど一か月が限度だった」
「だからまた求人が来てたってわけか。最初のころはまだ申し込む人も多かったみたいだけど、もう今は噂が広まってて申し込む人もいなくなっちゃったみたいよ」
「でもお給料すごくいいわよねえ」
別のクラスメイトがそう言うと、『申し込んだ』と言っていたクラスメイトが顔をしかめて首を横に振った。
「仕事は看護師としての雇い主の生活補助で、就業時間は9時〜18時って話だったけど、条件は住み込みなのよ。しかも別荘地みたいなところでお屋敷ばっかり立ち並んでて、環境はいいのかもしれないけど夜だって休みの日だって歩いて駅にいくとか買い物にいくなんてできないのよ。実際はほとんど一日中気を張っていなくちゃいけないし……なんていうか看護師というより雇い主のあたられ役みたいな感じ。ちょっと気に入らないと物は投げつけてくるし罵詈雑言が飛んでくるし。かといって放っておくと部下の人達から『生活補助』の仕事をしていないみたいな嫌味を言われるし。イヤミって言うかもっとストレートに『仕事しろ』って言われたわよ。できるならするっつーの!相手があれだけ非協力的ならこっちがどれだけ仕事しようとしてもできやしないわよ!」
その当時のことを思い出したのか、そのクラスメイトは憎々しげな顔をして吐き捨てるように言った。
「休日にタクシーよんで駅まで行こうとしたら、『仕事もしないのに遊びに行くのか』みたいな顔で部下の人から見られるし、もう軟禁よ軟禁!前の看護師の人が携帯電話で他の人としゃべっていてそれが耳障りだったって、私も初日から携帯も取り上げられて、テレビもラジオもうるさいって言われて!そもそも雇い主は部屋にひきこもってるんだからうるさいわけないじゃないのよねえ!お手伝いさんとかもやめちゃうから、お屋敷の中も散らかり放題だし食事の世話もさせられてね。でも食べないのよ!ちゃぶ台ひっくり返しとか初めて見たわよ、現実で。ちゃぶ台じゃなくてなんか高級そうなテーブルだったけどひっくり返されたわ!いくらお金持ちでイケメンって言ってももう我慢の限界でやめてきたの!」
よほど鬱憤がたまっていたのか溢れるように出てくる愚痴を、皆はあっけにとられて聞いていた。千鶴も口をポカンとあけて彼女の演説に聞き入ってしまっていた。
話を聞けば聞くほどひどい職場環境のようだし、そんな人間にはその人の母親でない限り耐えられないだろう。
千鶴は、初めて聞く話に驚きながら言った。
「そうなんだ……たいへんだったんだね。辞められてよかったね。なんだか有名な人みたいなんだけど、誰なの?私、知ってるかな?」
そのクラスメイトは千鶴を見てうなずいた。
「知ってる知ってる。確か千鶴が第一号だったんじゃなかったっけ?」
「え?私?第一号って?」
自分に関係があるとは思っていなかった千鶴は、驚いて目を見開いた。クラスメイトは続ける。
「ほら、あれよ。奨学金。カザマグループの」
「……カザマグループ?」
千鶴は聞き覚えのある言葉に記憶をたどった。
確かに千鶴が看護師の勉強を続けられたのは、カザマグループが創設した奨学金のおかげだった。
両親がおらず、養護施設にお世話になるのも義務教育まで。孤児の千鶴は中学を卒業したら自分で働いて自立していかなければならなかった。しかし、ひょんなことから知り合った風間が何の気まぐれか創設してくれた奨学金制度が、千鶴に夢をかなえさせてくれた。看護学校に行き、勉強を続けさせてくれたのだ。

千鶴は中学生の時に会った、カザマグループの若きトップ(その時はまだトップではなかったが)を思い出した。
細くて華奢な千鶴から見ると、見上げるような背の高さで、金髪のような明るい髪の色に、紅茶のような深い赤い瞳の色。
カザマグループ内での権力闘争と派閥争いが激しく、その時の風間はどこか疲れているようで荒んでいた。
千鶴は、後からその人が奨学金制度を作ったのだと知り驚いたものだ。
勉強を続けさせてくれた感謝の言葉を伝えたいと千鶴はずっと思っていたが、日本を代表するカザマグループの社長と、一介の看護師が会う機会がそうそうあるわけではなく、千鶴は感謝の言葉も恩もかえせないままだったのだ。

「カザマグループトップのトップで風間コーポレーションの社長の風間千景。知ってるでしょ?その人が雇い主よ。あの仕事の悪評はもう広まっちゃってるし、申し込む人ももういないだろうし。あの人達は困るだろうけどもう私は知ったこっちゃないわ」
せいせいしたようにそう言っているクラスメイトを見ながら、千鶴の心は揺らいだ。
看護師の資格がとれて、学校の保健医の資格もとることができ、今は小さなころからお世話になっていた鈴鹿学園で、これもまた小さなころからの夢だった学園の保健医と児童養護施設の常任看護師として働くことが出来ている。
でも、この夢をかなえてくれたのは例の奨学金のおかげで、その奨学金を創設した人が困っているのだ。
彼が募集している条件を千鶴は満たしている。クラスメイトの話だと、もうその仕事に応募する看護師はいないとのことで、そうなったらその人は困るのではないだろうか。
しかし、今の、ようやく手にした職場も失うのは惜しい。奨学金も、別に風間が身銭を切ったわけでもなく看護師としてこうして働いていること自体が恩返しといえば恩返しだとも思う。
千鶴は、同窓会のにぎやかな雰囲気の中、一人じっと考え込んでいた。
そうして一度だけ会ったことのあるカザマグループのトップとの思い出を思い出す。
千鶴が看護師になれたのは、お金だけの問題ではない。

『意志のあるところに道はひらける』

低く深い声であの人はそう言った。赤い目が強く輝いていて、とてもきれいだった。
その時、言い訳ばかりの人生を送るのは嫌だと、幼いながらも千鶴はそう思ったのだ。

奨学金は学費の援助だけで、生活費や勉強は全て独りでなんとかしなくてはいけない。
きつい日々だったが、あの時の言葉、あの人の強い意志が、千鶴をここまで導いてくれた。

やってみよう。できるかどうかわからないけど。私でなにか役にたてるなら。





「クソだな」
風間が吐き捨てるようにそう言うと、天霧は大きく溜息をついた。
「最高級のホテルのケータリングです。クソのはずがないでしょう」
「まずい。もう食えん。さげてくれ」
風間がそう言ってフォークを投げ捨てるように置くと、不知火が銀食器からローストビーフを一片つまみあげて口に入れた。
「うめえじゃん」
「ではお前たちが食べればいい。酒をくれ、赤ワインだ」
風間がそう言ってワイングラスを差し出すと、天霧は再度溜息をついた。
「ここのところロクに食事もとらずに昼間から飲んでばかりです。カザマグループの社長がこれでは……」
「優秀な幹部たちが仕事は順調にまわしているのだろう?」
いつまでたっても注いでもらえないワイングラスをぐるぐるとまわしながら、風間は嘲るように言う。天霧は仕方なく、赤ワインをグラスに半分までついだ。
「とりあえずの応急処置をしているだけです。もうすでに半年もこの状況です。これ以上この状態が続くと株価にも影響が出かねません。とりあえずやらなくてはいけない仕事だけでもきちんとやっていただかないと」
風間は天霧の言葉に皮肉っぽく笑うと、一息でワイングラスを空けた。おかわりとでもいうように、音をたててグラスを天霧の前に再び置く。

「どうやって仕事を『きちんと』やるというのだ。この目で」

風間の言葉に、天霧と不知火は風間の目を見た。
切れ長でくっきりとした二重。その周りを囲む薄い茶色の長い睫。いつもは彼の意志の強さをそのまま表しているよに光る紅の瞳は、今はその光がない。

「まったく見えん。光すらも感じない。この目で書類が見れると言うのか。サインができるのか?」
楽しそうにいいつのる風間の様子は、またいつもの嵐の前触れだ。
しかし天霧はうろたえずにずばりと言う。
「いつまでその状態でいるつもりですか。車の事故で目が見えなくなったのは半年も前です。その時からきちんと対応していれば、今ごろは生活は不自由ながらもできていたはずです。助けに来てくれたお手伝いの人や看護師を片っ端から追い払い、屋敷と自分をこんな状態にしたのはあなた自身ですよ」
「また説教か。聞きたくない」

カシャーン!とガラスが砕け散る音が豪華な食堂に響く。
風間がかんしゃくを起こして持っていたワイングラスを壁に投げつけたのだ。

天霧は、聞こえよがしの盛大な溜息を再度ついた。
「自ら不幸になりたくてやっているようにしか見えませんね。目の方だってちゃんと検診を受けてクスリをのんで医者の言うことを聞いていれば今頃は治っていたかもしれないというのに。何かが視神経を圧迫しているだけで、様子を見つつ手術をすれば治る可能性があると言われたのでしょう?」
「手術を受けて治らなかったらどうする!ひどくなったらどうするのだ」
駄々っ子のような風間に、不知火もうんざりしたように椅子の背もたれにもたれかかる。だだっこはまだ小さいからまだいいが、この長身の男はいい大人なのだ。
「治るかもしれねーじゃん。それに、視神経を圧迫してるのが腫れとか出血とかなら薬飲んで安静にしてれば見えてくるんだろ?なのにクスリも飲まねーし、飲むなって言われてるアルコールは飲むし…治る気ねーんじゃねーのかって言われてもしょうがねえよ」
「うるさい!お前たちに俺の気持ちがわかるか!目の見えているお前たちには俺の気持ちはわからん!」
風間はそう怒鳴ると、椅子を蹴って立ち上がった。
そうしてあちこちぶつかりながらも、風間はそのまま足音高く食堂を出て行ってしまった。

バタン!と大きな音を立てて閉められたドアを見て、不知火は天霧にぼやく。
「おれたちいつまであの大きな子供の面倒みんの?」
天霧も腕をくんで、もう何度目かの溜息をついた。
「今日、求人に申込みがありました。看護師の方ですが、簡単な片付けや食事についてもできる限りやってくれるという好条件です」
「まじで?最近もう全然申込みがねーから俺たちが一生アイツの面倒みなきゃいけねーのかと暗くなってたところだぜ。女?男?」
天霧はポケットに入っていた履歴書を、風間の散らかしたテーブルの上に置いた。

「女です。雪村千鶴という名前の様ですね。彼女に根性があることを祈りましょう」







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