【Something Blue 3−1】
『青は藍より出でて藍より青し』『Blue Rose』の続編です。前作を読まないと話がわからないと思います(スイマセン……)。
内容については信用せずフィクションとしてお楽しみください。







   吐くものをすべて吐き出しても、吐き気は止まらなかった。とっさに土間におりたものの、また土間の床を汚してしまった。井戸から汲み置いた水がすぐそこに置いてあるのはわかっているが、そこに行くために立ち上がるのさえ億劫だった。千鶴は壁に寄りかかりながら肩で息をする。ここ一週間ほどほとんど何も食べていない。以前総司がまだ生きていたころに、総司が死んだら自分も衰弱して死んでしまうのではないか、と言った時の総司のつらそうな顔を思い出して、なんとか少しでも食べようとしたのだが、胃が拒否してことごとく吐いてしまう。昨日からはもう水すらも飲むことが出来なくなっていた。

 このまま私も死ぬのかな……。
 あちらで総司さんに会ったら、すぐに後を追ってきた私に怒りそう……。

でもそれもいいかもしれない、と千鶴はぼんやりと考えた。視界に入ってくる雪村の二人の部屋の景色はいつも通りなのに、彼だけが居ない。そのくせ彼の物……湯呑や手ぬぐい、着物は相変わらず主のいないことも知らずそこにある。
このまま毎時毎時、愛しい人がもういないことを思い知らされながら呼吸をつづけていかなくてはいけないことを考えると、すべて終わらせてしまった方が楽だと思える。
 涙などすでに枯れ果てたと思っていた千鶴の瞳から、また暖かいものが伝う。もうこの涙を拭ってくれる人はいない。優しい瞳も意地悪な言葉も暖かい腕も……。

千鶴は溜息をついた。

 疲れた……。もう何も考えたくない。

千鶴は壁に寄りかかりしゃがみこんだまま瞳を閉じた。どうしようもない眠気が襲ってくる。

 このまま二度と目覚めない眠りにつければいいのに……。

眠気に身をまかせて朦朧としながらそんなことを思った時、千鶴の脳裏にあるものがよぎった。ぱちっと瞼をあげて、千鶴はあたりを見渡す。

 そうだ、このまま私も死ぬのだとしたら、その前にあれだけは持っていかないと……。総司さんは罪人なんかじゃない。自分の信念にしたがってまっすぐに生きた人。資格はあるはず。今はそれをしてあげられるのは私しかいないのだし……。

千鶴はよろよろと立ち上がった。土間の先にある茶箪笥の上に手をついて体を支え、そこに置いてある小さな壺を持つと、雪が今にも降り出しそうな寒い外へとそのままフラフラと出て行った。

 

 

 寺の境内で遊んでいる里の子供たちの中の一人が、住職の妻のところへ急いで駆け寄ってきた。
 子どもの話に耳を傾けた妻は、何事かと寺の裏へと急ぐ。
山の奥にひっそりと住んでいる、ちょくちょく顔を出す理由ありな若夫婦。その妻の方だけが、『たいへんなようす』で山から降りてきたというのだ。たまたまおすそ分けやらお茶を飲みにやらで来ていた里の女たちも住職の妻の後をついていく。そこには子供たちに心配そうに囲まれて地面に膝をついている千鶴の姿があった。
大丈夫なのか、どうしたのかと口ぐちに言いながら千鶴を助け起こした女たちは千鶴のやつれように一様に驚いた。凍えるような寒さにも関わらず千鶴は薄い袷一枚だった。
「……どうしたの。何があったの」
尋常ではないことが起こったのに違いないと一目でわかる様な千鶴の姿に、みんなは色めきたった。
「あの、男前の旦那はどうしたの?あんた一人で降りてきたの?」

 「……総司さんは……。死んでしまったんです。それで……これにお経をあげて欲しくて……」
千鶴は弱弱しい声でそう言うと、抱えるように持っていた小さい壺を差し出した。
「死んだ?だってちょっと前まであんなに元気そうにうちの子たちと遊んでたのに……!?」
口々に驚きの言葉を叫ぶ女性たちに、千鶴は律儀にうなずきながらも、自分一人では立てないようで住職の妻の肩に寄りかかった。
「……お願いです。お金なら少しはありますので、これに……総司さんが成仏できるようにお経をいただけないでしょうか……?」
震える手で差し出した壺を住職の妻が受け取ると、千鶴は安心したのかそのまま意識を失った。


 気絶した千鶴をとりあえず寺の暖かな部屋に運び、布団に寝かせた後、里の女たちは話し合った。
つい2,3日前まであの若い男前の旦那は元気そうにしていた。と、いうことはたぶん川に流されたとか崖から落ちたとか……とにかく遺体が見つけられないような死に方をしたに違いない。千鶴が持ってきた壺の中に入っていた灰のようなものは、きっと総司が生前使っていた着物や遺品を燃やしたものではないだろうか……。それにしても千鶴の衰弱のひどさはなんとかしなくてはいけない。あのままではあの可愛らしい若妻も後を追ってしまいかねない。生前の総司にいろいろと頼まれていたし、彼女が気が付いたらとにかく暖かく精のつくものを食べさせてしばらくここでみんなで面倒をみてあげなくては……。
そんなことをしゃべりながら、たくましい里の女たちは行動を開始した。2人は寺の台所を借りて、暖かい汁ものを作る。もう一人は里へと医者を呼びに走った。住職の妻は夫を呼んで訳を話し、千鶴の持ってきた壺にお経をあげてくれるよう頼んだのだった。


 しゅんしゅんしゅん……。

 鉄瓶が沸騰して蒸気をだす暖かい音を聞きながら、千鶴は久しぶりに涙を流さずに瞼をあげた。
暖かくふっくらとした布団に包まれて、静かな部屋で千鶴は寝かされていた。ゆっくりとあたりを見渡すとまだ日は明るく、自分が寺に降りてきてからそれほど時間は経っていないようだった。

 そうだ……。私は総司さんの灰が入った壺にお経をあげて、お寺に埋めて欲しくて……。それで来たんだっけ。気を失う前に確か住職の奥様に壺を渡したと思うんだけど……。

ぼんやりとそんなことを考えていると、廊下で小さな声がひそひそと何かをしゃべっているのに千鶴は気が付いた。
「しーっ!小さい声でしゃべんないと千鶴が起きちゃうだろ!」
「だってだって、それってほんと?総司が死んじゃったの?」
「うちの母ちゃんがそう言ってた」
「それで千鶴はどうしたの?」
「だから倒れちゃったんだって!」

 総司がいつも遊んでた里の子供たちだ。千鶴は我知らず口がほころぶのを感じた。
そうして気が付く。
千鶴は微笑む形になった自分の唇に手をやって、こうやって笑顔になるのは何日ぶりだろう、と思った。総司が残してくれた子どもたちとの関係。それが千鶴を再び微笑ませてくれた。

 千鶴はゆっくりと布団に起き上って廊下にいる小さな塊たちに声をかけた。
「……もう目が覚めたから、入ってきてもいいですよ」
おずおずと気まずそうに子供たちは入ってきた。全部で5人。彼らも総司と仲が良かった。彼が居なくなったと知ったら泣くだろう。そう思って千鶴は言葉を探しながら子供たちに声をかけた。

「……総司さんね、今までずっとあなたたちに遊んでもらってたんだけど……」
そこから先を言おうとして、千鶴は言葉を呑んだ。

 もう涙も出ないと思っていたのに、また喉にこみあげるものがあり、目頭が熱くなる。
子どもたちの前では泣いてはいけない。
そう思って千鶴は涙をぐっと我慢した。涙をこらえると言葉も出せなくなってしまう。言葉の続きをいわなくては、と焦る千鶴に寺の子供が言った。

 「……あのさ、俺たち総司から千鶴のこと頼まれてるからさ。『僕がいなくなったら千鶴の事頼むね』って」
もう一人の、鼻をたらしている小さな男の子も続ける。
「うん。千鶴は泣き虫だから泣いたらなぐさめてあげてくれって」
寺の子で、少年の年の離れた妹が、舌足らずな口調でたどたどしく言う。
「寂しがり屋さんだから、抱きしめてあげてくれってお願いされたのよ」
そう言って千鶴に近寄り、おずおずと手を伸ばし、千鶴の手を小さい手でぎゅっと握った。

 

 千鶴は流れる涙を我慢することも忘れて、茫然と子供たちを見る。
「……総司さんが……?」
涙で震える声で、千鶴は切れ切れに呟いた。

その時、ガラッと障子があげられ、里の女性たちが入ってきた。
「こら!あんたたちはもう!ゆっくり千鶴さんを寝かせておあげって言っておいたでしょ!」
「そんな汚い恰好であがって!!ほら、その土まみれの手で千鶴さんの手を触るのは止めなさい!」
口ぐちに子供たちを叱る母親に、子供たちが抗議の声をあげる。
「なんだよー!俺らは総司から千鶴の面倒を見てくれるように頼まれてたから今こうやってなぐさめてやってんだよ」
「わ、わたしも、抱きしめてあげてって言われたから、おてて、握ってあげてるの」

子どもたちの言葉と、茫然としたまま涙を流している千鶴を見て、女性たちは苦笑いをしながら顔を見合わせた。
「子どもたちにも頼んでたんだね、あの男前」
ねぇ、と女性たちはうなずきあい、千鶴のそばに座って顔を覗き込んだ。
「私たちも、あんたの旦那から頼まれてたんだよ。二人しかいないから、自分に何かあったらあんたを頼むってね。お礼に渡せるものはほとんどないから、せめて子供たちに剣を教えるって稽古を無料でつけてくれてたんだよ」
寺の住職の妻も続けた。
「うちはね、あんたたちんとこの一番のご近所さんってこともあって、金子も少し渡されてたんだよ。あんたはあの山奥の家から離れたくないようだから、自分に何かあったら申し訳ないけどちょくちょく様子を見てあげてくれないかってね」
金子なんかもらわなくても様子ぐらいみるよ、って言ったんだけど、心苦しいからどうしても、って言われてね。住職の妻はそう言いながら優しく、茫然としている千鶴の髪を撫でた。
「つらいのはわかるし、泣くのも全然かまわないと思うけど、あの男前の旦那がこんなに大事にしてくれてた命なんだから、ちゃんと食事をとって元気になりなよ」

 

 千鶴は、総司が空から抱きしめてくれている暖かい手を感じた。

 涙があふれてくるのをぼんやりと感じる。

 自分のつらさより総司の幸せを、と思って二人で暮らして来ていたのだが、総司はそんな自分を包むくらい大きな愛情を千鶴に与えてくれていたのだ。
涙があとからあとから頬を伝う。

千鶴の手を心配そうに握ってくれている小さな手、泣いている自分を困ったように見ている子供たち、髪をなでてくれて何も言わずに見守ってくれている里の女性たち……。
総司が残してくれた優しい空気を、千鶴は吸い込んだ。

 空気が苦い味がしないのは、随分久しぶりな気がした。

 

「……ほら、暖かい汁ものをもってきたんだよ。無理にでもいいから少し食べて御覧。もうすぐ医者もくるから診てもらおうね」
差し出された汁物を、千鶴は手に取った。木のお椀を通じて暖かさが胸にしみいる。口をつけて飲もうとしたが、気持ちとは裏腹に胸から気持ち悪さがこみ上げてきた。
「……っうっ…」
口を押えて吐き気を我慢する千鶴に、女性たちは心配そうに顔を見合わせた。

その時、失礼するよ、と男性の声とともに障子がスラリと開けられた。入ってきたのは一目で医者とわかる恰好をした初老の男だった。子供も女性たちも入れ替わるように部屋の外にでると、その里の医者は千鶴の舌をださせたり、脈をとったり、熱を診たりしたうえでいくつか病状について質問をする。千鶴が素直にそれに答えていくと、その初老の医者は困ったような顔をして黙り込んだ。
「……あの、なにか……?」
黙り込んでしまった医者に、千鶴はおずおずと声をかけた。するとその医者は体をよじって障子をあけて、廊下に向かって先ほどいた里の女性の一人の名前を呼んだ。ぱたぱたとその女性がやってくると医者は言う。
「どうも……わしの見立てでは彼女はあんたの領分なんじゃないかと思うんだがね」
「どういうことだい?」
不思議そうに尋ねる女に、医者は千鶴の診たてを話す。それを聞いた女性は目を見開いて千鶴を見た。
「……そうか……!そうかもしれないね。たしかにほんの2.3日前までは旦那が元気でいたんんだし……。考えもしなかったけど……」
立ったまま廊下近くで話している二人に千鶴はおずおずと声をかけた。
「あの……?」
千鶴の声に、女性は千鶴の傍まで来て座ると優しい目で千鶴を見た。
「……私はね、里で産婆をやってるんだよ。あんた……子どもができたんじゃないのかい?月の物はきてる?」
女性の言葉に千鶴は再び茫然とした。

 確かに月の物は……ここ二月くらい来ていない気がする……。

 ということは、これは……つわり……?お腹の中に赤ちゃんが……?

「で、でも私と総司さんは三年近くも夫婦でしたが、一度も……一度も……」
そういう千鶴に、医者は困ったように言った。
「まぁすぐできる夫婦もいれば5年後10年後に突然っていう夫婦もいるんだ。こればっかりは神仏の範疇だからね」

 

 神仏の範疇……。

 

医者の言葉に、千鶴の瞳からまた涙が溢れた。

 

 総司の悪戯っぽい笑顔が見える。

最後の最後でこんな大きな悪戯を残していくなんて、本当に総司さんらしい、と千鶴は笑えばいいのか泣けばいいのか困りながら泣き笑いをした。

 暖かい涙が後から後から頬を伝う。

千鶴はお腹を両手でそっと触ってみた。華奢な腰に平らな下腹部。この中に総司と自分の新しい命が……。

 


里の子どもたちや女性たちへ頼んでくれたこと、千鶴のお腹に授けてくれた素敵な贈り物……。

こんなにいろんなものをいただいてしまったら、後を追うなんてとってもできません……。


総司さんは、本当に意地悪です……。

 


千鶴は声をだしてしゃくりをあげて泣きながら、瞳を閉じた。

幾筋も涙が伝ったその頬は、微笑んでいた。

 


「そうと聞いたら、汁物じゃなくてこれを食べて御覧」
いつのまに来たのかお寺の住職の妻が、千鶴にみかんを差し出した。千鶴がゆっくりと皮をむいて一房口に入れる。
驚くことに、これまですべての食べ物を拒否してきた千鶴の体は、みかんはすんなりと受け入れた。
「……おいしい……」
びっくりして呟く千鶴に、里の女たちは一斉に安心したように笑った……。

 

 

 

 

 千鶴はゆっくりと瞼をあげた。枕元にある電話が、昨夜セットしたモーニングコールの時間に鳴りだしたのだ。
千鶴は起き上ると、一度受話器をあげて目覚ましを切る。そのまま引きずるようにして体をベットから離し、立ち上がった。目じりににじんでいる涙を人差し指でぬぐい、千鶴は顔を洗いに洗面所に向かう。薄暗い洗面所の電気の下で見る千鶴の顔は、我ながら驚くほどやつれていた。

 みかん……。売ってるかな……。

季節がらみかんは無理かもしれないが、オレンジやパイナップルなど酸っぱいものはスーパーに行けば売っているかもしれない。千鶴は身支度を手早く済ますと、ホテルの部屋を出て、ここ毎日かよっている目的の場所へ歩き出した。


 






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