千鶴ちゃんの七つのリスト
『男の人に触られるのは嫌悪感しかなくてもう嫌で。でも、性体験というのは一度経験してみたいんです』
自分以外の男に同じことを提案して欲しくない。
これが斎藤の偽らざる本音だった。
保留にしているくせに、こんなことを言う資格はないとわかっているのだが。
しかし千鶴が、同じことを総司に提案するかもと想像したらもう駄目だった。総司とは長い付き合いで友人としては頼もしく楽しい存在だが、いかんせん女癖が悪い。付き合っているのか付き合っていないのかよくわからない女性たちといつもいちゃついている。彼女らしき存在がいたこともあったが、斎藤から見て大事にしているようには見えなかった。
千鶴があんな提案をしたら、総司は何の考えも無くすぐに飛びつくだろう。想像するだけでそれは業腹すぎる。触れ合ってみたら総司に対しても嫌悪感が出る可能性はあるが、それに賭けるつもりはないし、そもそも千鶴と総司が触れ合うということを想像するだけで胸がムカムカするのだ。
「で? 今日はなんで斎藤君も来てるわけ?」
案の定、千鶴と共に斎藤が自分の実家の玄関に立っているのをみた総司は、片眉を大きく上げてネズミを見つけた猫のような顔をした。その時は総司の姉のミツが乱入してきて総司の疑問は口には出されず表情でしか表されなかったが、ミツと千鶴が少し先を歩いてハンモックが置いてあると言う地下室に向かう時、総司はさりげなく斎藤の隣に来てそう訊いて来た。
「荷物持ちだ」
千鶴からも家を出るとき、なぜ斎藤が付いてくるのか何度も聞かれ、そう答えた。総司は目をキラキラさせる。
「だから、なんで、日曜日に、千鶴ちゃんの、荷物持ちをしてるわけ? って聞いてるの」
一言一言区切って聞いてくるところが嫌味ったらしい。斎藤は答えず、千鶴とミツの背中を見ながら大股で歩く。
「……付き合ってるとか?」
「付き合っていない」
「千鶴ちゃんを口説いてる最中ってこと?」
「……」
斎藤は足を止めて総司を見た。
「……なぜ俺が雪村を口説くのだ」
総司は肩をすくめた。
「さあ? よくわかんないけど、一君は千鶴ちゃんのこと気に入っているように見えたから」
「俺が?」
「そうだよ。僕が千鶴ちゃんと仲良く話してるとたいてい一君がやってきて、サボってないで仕事しろとか僕に言ってくるし、懇親会とかで気付くとたいてい千鶴ちゃんのテーブルに行って飲んでるし千鶴ちゃんの部署のフロアに行くと目で千鶴ちゃんを探して見つけると優しい顔をするし」
「……」
「前にほら、千鶴ちゃんがあの面倒な案件を全部やらされそうになったときも、全然関係のない一君が何故か出張って部長引っ張り出して……」
「もういい」
斎藤の耳がどんどん熱くなる。おのれの行動が総司から見たらどう見えていたのかを知り、斎藤は穴を掘って埋めてほしくなった。
自分はそんな風だったのだろうか。確かに他の女性社員よりも千鶴が目に付くことが多く、頑張っている彼女を助けてあげたいと思ってしまうこともあった。だがそれは決して下心からなどではなかったはずだ。千鶴の仕事の仕方はいつも丁寧で、相手のことを考えてされているにもかかわらず、それを正当に評価されていないように感じられて、やむを得ずそれに気づいている斎藤が……
「おーい、男性チーム! こっち来て。出番よ」
ミツの声で斎藤はハッともの思いから覚めた。みると、物置き場になっているという地下室のドアを開けて、ミツが手招きをしている。
「結構奥に入ってるのよね、前の物を取り出してくれない? ハンモック自体も重いし」
総司が地下室に入り電気をつけた。かなり広いコンクリート打ちっぱなしの空間が広がり、物があふれるほど詰まっている。何が入っているのかわからない段ボールや健康器具らしきもの、積み上げられたタイヤがあちこちに散らばっていて、斎藤の肩までありそうな大きなツボや何故かトーテムポールまで。
総司が手前の段ボールを持ち上げ、斎藤に渡した。そしてさらに奥にあったスーツケースをどかそうとしたとき、横に会ったトーテムポールがゆらりと千鶴の方に倒れてくるのが見えた。総司がスーツケースから手を離すより前に、斎藤が段ボールを置いて総司と千鶴の間に入り、トーテムポールを両手で支える。
首をすくめて目をつぶっていた千鶴の肩を抱いて後ろへ行かせてから、斎藤はトーテムポールをまっすぐに立たせた。
「危ないので雪村とミツさんは外に出ていた方がいい」と斎藤が言うと、ミツは「じゃ、まかせるわ」と言って千鶴と二人で入口の方へ向かった。途中入口近くの荷物のなかからランタンを見つけ、「これはいらない?」などと話している。
「……」
トーテムポールが安定したのを確認して振り返ると、総司がすぐ後ろに立って微妙な顔で斎藤を見ていた。
「なんだ」
「……いや、必死だなって思ってさ」
「……」
「僕の方が近かったし全然間に合ったのにね」
「……別に深い意味はないが」
「なんか斎藤君ってあれだね、美味しい骨を取られないように必死になってる犬みたいだね」
犬に例えられるのも、骨に例えるのも失礼ではないか。しかし斎藤は何も言わずじろりとにらむだけにして、奥にあった白く大きい縦長の段ボールを取り出し、「これか」と総司に確認するにとどめた。
結局ハンモックは大きい上に重く、おまけにランタンまでもらってしまったので荷物持ちの斎藤は大層役にたった。
ハンモックの組み立てもかなりハードで、遠慮する千鶴を説得して斎藤が組み立てた。工具を出したついでだからと、昨日気になっていた雨どいのネジも、新しいものをホームセンターに買いに行って全て変えて締め直し、さらに物置の屋根に上って、トタン屋根を釘で打ち付けることまで始めてしまった。
大嵐が過ぎた後はたいてい晴れるものだが今日もびっくりするほどの晴天で、午後に気温があがってきたせいで、顎から汗がしたたり落ちる。それを手の甲で拭い、斎藤はモヤモヤをぶつけるように釘を打ち付けた。
頭の中では、総司から言われた言葉が渦巻いている。
『一君は千鶴ちゃんのこと気に入っているように見えたから』
『美味しい骨を取られないように必死になってる犬みたいだね』
言いたいことはわかる。沖田家での自分の態度は、所有権を主張して周囲を威嚇しているようだったと、自分でも思う。そして実際その通りだと思い出し、斎藤は赤くなった。
千鶴に誰にも近づいてほしくなかった。それは千鶴の為というよりは斎藤のために、だ。
「……」
斎藤は無言で釘を支え、最後に思いっきり打ち込んだ。ガンガンと二回で釘はトタン屋根とその下の梁に吸い込まれていく。今モヤモヤしていることも、このように力業ですっきりいけばいいのだが。ぽたりと汗が自分の手の甲に落ち、斎藤は顔を上げて青空を見上げた。
そうか、俺は雪村を好いているのだな。
リストの七つ目の提案をされたから意識しだしたのではない。総司から指摘された通り、おそらくその前から気になっていたのだろう。猫のためといいながら千鶴の家まで来て、不要だと言われていたのに網戸や雨どいを直し……あの提案を保留にするなど紳士ぶっていたくせに、結局すべて下心ではないか。泊まらせてもらったのも雨のせいにしていたが、もしこれがなんの気もない同僚なら、雨で交通が止まった時点で四の五の言わずに実家から誰かに迎えに来てもらっていただろう。
そして週末を一緒に過ごすうちに、どんどん千鶴に惹かれていってしまった。知れば知るほど好ましいし、笑顔はかわいい。心配そうな顔や寝顔もドキリとする。
「しかしそうなると難しくなるな……」
斎藤は屋根の上で膝をついて座りながら、額の汗を腕で拭った。
例の千鶴の提案だ。リストの七つ目。
保留にしているが、あの提案はカップルになって付き合うというものではない。千鶴は斎藤以外の男にあの提案をできるし、他の男とキスやセックスをできるのだ。
「……くそっ」
斎藤は昨夜屋根の上に置いたブロックを下に落としながら舌打ちをした。想像しただけで腹が立って、想像上の他の男に斬りつけたくなる。
そうならないためには、千鶴に付き合おうと告白をすればいいのだが、千鶴からあんな提案を受けた直後にそんなことを言ったら、体だけの関係を回避するためだけに告白しているように思われてしまう。最初に提案を受けた時に、付き合っていない女性と体の関係を持つのは主義に反すると言ってしまったし。
ではどうするのがいいのか。
「……とりあえずまずは、きちんと俺の想いを伝えなくてはな。その上でもう少しお互いを良く知って……そう言う関係になるのはそのあとだろう」
千鶴は初めてだと言うし、大事にしてあげたい。後から思い返したときに、思い出に残るような……それには、やはりもう少し時間がいるだろう。
斎藤がハンマーを持って物置の屋根から降りると、千鶴が顔を出して声をかけた。
「斎藤さん、ありがとうございました。終わったらシャワーをどうぞ。冷えたビールありますので、お疲れ様会をさせてください」
ビール。
これだけ労働をして汗をかいて、その言葉に抗える者がいるとは思えない。汗まみれの上体で千鶴に告白をするのもなんだし、シャワーを浴びてさっぱりしてからすることとしよう。
アルコールは飲まない状態で話したいが、ビール一缶くらいなら大丈夫だろう。
シャワーを浴びてさっぱりすると、リビングのソファの前のローテーブルにはすでに、冷えて汗をかいているビールの缶とグラス、それから枝豆、鰹節とねぎをのせた冷ややっこに豆菓子が置いてあった。
「嵐の後買い出しに行ってないので冷蔵庫にあるものをかき集めただけなんですけど」
千鶴は恥ずかしそうにそう言ったが、いや、天国ではないか。
「私も汗をかいちゃったのでシャワーを浴びてきますね。斎藤さん、お先に飲んでいてください」
そうか、千鶴も昨日の嵐の片づけをしていてさっぱりしたいだろう。乾杯できないのは残念だがしょうがない。
斎藤はいい気分で缶ビールを開け、冷ややっこを食べる。鼻歌を歌いたくなるくらい完璧な日曜の午後だ。
きもちのいい晴天、家のメンテナンス、労働、シャワー、ビールにつまみ、そして千鶴。仕事のストレスが霧散していくようだ。こんな日曜日をこれからも過ごしていけたらさぞかし幸せだろう。
「それにはまず千鶴に好きだと伝えなくては」
どう伝えようか。ストレートに前置き無に言うのがいいか、それとも出会いのころからの自分の気持ちを伝えてからの方が……? 斎藤がぐるぐると考えていると、千鶴がバスルームから出て来た音がした。
「さっぱりしました。隣、いいですか?」
ふわっとシャンプーの香りとともに湯上りの匂いがして、斎藤の心拍数が一気にあがる。
「も、もちろんだ。雪村も……」
お疲れ様だったな、と言おうとしていた斎藤の口は、空いたままになった。
髪は高い位置でポニーテールにし、おくれ髪が幾筋かうなじに垂れている。Tシャツは襟ぐりが開いており、下半身は無防備なショートパンツだった。昨日は長ジャージだったのに。
斎藤は動揺しつつも首ごと無理やりテレビの方へ向けた。同僚の脚や耳をじろじろと見るのは失礼極まりない。
「今日は昨日と違って本当に暑いですよね。もう夏なんですね」
千鶴はどこか言い訳がましくそう言いながら、手のひらで顔をあおいでいる。そ、そうか、確かに今日は暑い。だから髪をあげ、短いズボンをはいているのか。そうか。
それにしても付き合ってもいない男の前で、その恰好はあまりにも……
目に毒なそれが視界に入らないよう気を付けながら、斎藤はもう一缶蓋をあけるとグラスに注がずに一気に飲み干した。
「斎藤さん、お酒強いんですね。冷蔵庫に薫が置いて行ったのがたくさんあるんで、どうぞ飲んでください」
千鶴はソファを立ち上がり、冷蔵庫へ向かった。斎藤の目は勝手に千鶴の後姿を追ってしまう。千鶴が見ていないことをいいことにじっくりと華奢な背中を眺めた。
シャワーの後で汗をすこしかいているようで、腰のあたりと背中の一部のTシャツが肌にはりついている。そのせいでゆったりしたTシャツなのにもかかわらず千鶴の体のラインがきれいに見えた。そしてもちろんまろやかな尻にすんなり伸びている白い脚。千鶴が動くたびに、誘惑するようにゆれる髪。
ゴクリ。
我知らずつばを飲み込んでしまい、斎藤は目を閉じた。
まずい。
酔いもあるのかスイッチが入ってしまいそうな予感がある。こんな状態で触れてしまったら止まらない自信がある。そうなったら、告白しても体目当てとしか思われなくなってしまう。
「斎藤さん、はい、どうぞ。ビールしかないんですけど」
千鶴から冷え冷えのビール缶を二つもらい、斎藤はゴホンと咳ばらいをして視線を外した。
「ゆ、雪村、その……その恰好は、男と二人きりの時はあまり良くないと思うのだが。誤解する男もいるだろう」
「……」
千鶴の返事を待てずに、斎藤は続けた。
「その、話をしたくて、だな。どうにも目のやり場に困るので、できれば着替えてきてもらえると助かるのだが」
ついていないテレビに視線を固定しながら斎藤はそう言ったが、相変わらず千鶴からの返事はない。となりで千鶴がぐいっとグラスを一気にあけた気配がした。
「……雪村?」
彼女の恰好に文句をつけたようになってしまい、気を悪くさせてしまったかと斎藤が不安になってきたとき、千鶴の声がした。
「……この格好は……」
そしてまた、グラスにビールを注ぎ一気に空ける気配がする。記憶では千鶴はそんなにアルコールに強くなかった気がするが、大丈夫だろうか。
「この格好は、斎藤さんを……ゆ、ゆ、誘惑するためにしてるので、着替えません」
「……」
斎藤は目を見開いた。そして思わず千鶴を見てしまう。千鶴は耳まで真っ赤にして斎藤を見ていた。
「……誘惑、できてましたか……?」
恥ずかしそうな表情。真っ赤な顔。上目遣い。
斎藤の心臓は、ド太い矢で串刺しにされた。ドクドクと全身に熱い血が流れまくり、脳に行かない。何か言わなくては……斎藤はぽかんと口を開けたまま必死に返事を考える。
な、なにも思い浮かばない……!
焦って視線を外した時、斎藤はふと気が付いた。千鶴のむき出しの白い脚。よく見てぎょっとする。
「雪村、脚……」
脚全体に、蚊に吸われた後のような丸い赤い痕が点々とついているのだ。驚いて顔を上げると、Tシャツから出ている腕、そして首のあたりにも点々と赤い斑点が散らばっている。
千鶴は言われて気が付いたのか、自分の脚を見て「ああ」と顔をしかめた。
「大丈夫か、それは……虫か何かか? 今日は午後庭で作業をしていたから……」
雨どいと物置の屋根を直す斎藤について、千鶴も庭をあちこちうろうろしていたのだ。だんだん夏に近づく今、蚊もちらほらでてきているし……いやだが、この水玉模様のような赤い斑点の数は、さすがに蚊ではないような気が……
「これ、多分アレルギーです。私この時期の雑草にアレルギーがあるみたいで、時々こうなっちゃうんです。ここまで全身になることはないんですけど、今日は庭で作業したから……アルコールのせいですごく赤く見えますけど、これぐらいなら薬をぬれば大丈夫です」
「そうなのか、知らなかったとはいえすまなかったな。俺が物置の屋根の修理などを言いださなければ……」
千鶴はまたソファから立ち上がり、テレビの横にある棚の引き出しから、チューブ状の薬をとりだした。
「いえ、とんでもないです。いつかは自分でやらないといけないことなのに、斎藤さんに甘えて全部やってもらっちゃって。おかげでアレルギーもこの程度ですみましたし」
そう言いながらソファにまた座り、薬を腕に塗りだした。千鶴の足はまるで伝染病にかかったようだ。ぎょっとして心配ではあるが、正直斎藤は『誘惑』からそれた会話にほっとしていた。あの時の選択肢は、斎藤の脳内には『誘惑される』しかなかったからだ。それでは結局千鶴の提案……リストの七つ目を受け入れることになってしまうではないか。最終的にそうなるかもしれないが、斎藤はもっと深いつながりが欲しいのだ。
「かゆいのか?」
千鶴は苦笑いをしながら頷いた。「結構かゆいんです。でもこれくらいなら掻くのを我慢していれば一日ぐらいで治まるので大丈夫です」
千鶴の白くすんなりした指が、腕、脚と薬を塗っていくのを斎藤はぼんやりと見ていた。なぜこんななんでもない動作がここまで煽情的なのだろうかと考えながら。あの細くしなやかな指で触ってほしい。斎藤の顔、肩、腰、そして……
「……」
ふと気が付くと、千鶴も黙り込んでいる。顔を見てみると何かを考えているような瞳で、下唇をぎゅっと噛んでいる。目じりと頬が赤いのは、アルコールのせいかアレルギーのせいか?
「さ、斎藤さん」
意を決したような声音に、斎藤はぎくりとした。もしや俺の下劣な思いを読み取られてしまったか?
「な、なんだ」
斎藤の声に、千鶴は顔をあげた。そして斎藤と目を合わせる。
「薬、塗ってもらえないですか?」
そう言って、ソファの上に置いてあった斎藤の手をとると、手のひらに薬のチューブを置いた。その時ちょうど千鶴の耳の後ろから、つっと鎖骨を伝って襟ぐりに入っていった彼女の汗……いや、まだ少し濡れている髪から落ちた雫だろうか……に気を取られていた斎藤は、そのままチューブを受け取ってしまった。
「え?」
斎藤はマヌケな声とともに自分の手のひらの上のチューブを見、千鶴の顔を見、もう一度チューブを見た。
「俺が塗るのか? なぜ」
「脚の後ろ側とか、首とか……せ、背中とか。自分では塗れないので」
千鶴はそう言うと斎藤に背を向け、うなじを見せた。
「お願いします」
「……」