千鶴ちゃんの七つのリスト
断れ。
断るのだ。
チューブをローテーブルに置いてソファを立て!
いや、しかし半日かゆいというぞ。このまま放置では可哀そうではないか。
じゃあ薬を塗ってやるのか? その人差し指で千鶴の全身を触るのだぞ! 薬を塗りこむのだから円を描くようにゆっくり煽情的に!
いやいやいや、薬を塗るだけだ。煽情的とかそんなことはあるまい。人助けだ。ビールもごちそうになったことだし。
どうせこれも、先程の『誘惑』の一部だ。言われるがまま体の接触をしたら後戻りできなくなるぞ!
何を言う。わざとこんな斑点を体中に出せるわけないではないか。かゆいのだって事実だろうし、背中を塗れないのは物理的に当然だ。人としての思いやりはないのか。
勝敗は最初から分かっていた。
斎藤は、無言でクスリのチューブの蓋をとる自分の指を、まるで他人の指であるかのように見ていた。人差し指で白濁した薬を掬い取り、うなじの右側の赤く腫れた小さな盛り上がりにそっとつける。
ハッと息を飲む千鶴の声と、ビクリと揺れた細い肩。斎藤の頭と下半身に一気に血が廻った。
斎藤はそのまま、肩と首の境、腕の裏側と薬を塗っていく。千鶴は肩をこわばらせたまま無言だ。
「……背中は……」
どうする、と聞く前に、千鶴の手がTシャツを持ち上げた。肩のあたりは届かないので、斎藤がチューブを持った左手で首のあたりまでTシャツを持ち上げる。
……ブラジャーをしていない……
斎藤は絶望的な気持ちになった。
千鶴の着ていたTシャツは、前面にいろんな文字や模様が描いてあったのでノーブラとは思わなかったのだ。というか、生足に気を取られて胸はチェックしていなかった。
「……」
後ろから見る千鶴の首と耳が真っ赤だ。それが斎藤の脳をさらに蕩けさせる。
少しだけ体を傾ければ。
首を前に出して覗き込むようにすれば。
見えてしまう。
その思いは斎藤の空っぽの頭の中で何度もエコーしていたが、武士である斎藤は決してをそれを実行に移すことを自分に許さなかった。意地でも視線は千鶴の白い背中に固定し、あちこちに散らばっている赤い痕に薬を塗っていく。わき腹あたりに塗った時に千鶴から小さく「あっ」という声が聞こえてきても、斎藤の視線はゆるがなかった。斎藤の額に滲んだ汗が顎と伝い、ぽたぽたと自分の脚に落ちていくのは暑さのせいばかりではないだろう。
背中にある最後の赤い痕に薬を塗りTシャツを下げた時は、まるで無血世界征服を完了させたような気分になった。しかしその達成感も、千鶴の恥ずかしそうな「あ、あの……脚の後ろ側もいいですか……」の声に霧散する。
「……もちろんだ」
背中を制覇した斎藤にもう怖いものはない。千鶴は腰を浮かせてソファの背に体を乗せた。斎藤の目の前に千鶴のまろやかな尻と太もも、ふくらはぎが現れる。
この体勢は……
後ろからのしかかり獣のように襲うのにちょうどいい姿勢だ……などとは決して考えないようにし、斎藤は素数を数えながら、見た時から触りたかった千鶴の生足にゆっくりと薬を塗っていく。
塗り終わり、ミッションコンプリート……と斎藤が大きくため息をついて肩の力を抜くと、またもや千鶴が言った。
「すいません、首の前側もお願いしてもいいですか? あと、顔も……右のほっぺのあたりがかゆくて……」
こうなれば首だろうと顔だろうと大丈夫だ。さすがに体の前面とかショートパンツの下とか言われたら無理だろうが、首と顔なら……そう思って顔をあげた斎藤は、後悔した。これが一番ダメだったか。
千鶴は顔を真っ赤にして目を潤ませて、至近距離で斎藤を見上げていた。茶色の大きな千鶴の瞳が揺れて、桃色の柔らかそうな唇が何か言いたげにかすかに開いている。不安そうな顔。泣き出してしまいそうだ。
こんな誘惑を実行するには勇気がいったに違いない。にもかかわらず斎藤がそれにならないまま終わってしまったらと、不安なのだろう。
「……」
斎藤は視線をそらせ、まず首の鎖骨あたりの痕にそっと薬を塗った。それから左顎の下。右耳の横。そして……
最後に左頬に塗ろうとした時、千鶴の顎が震えた。
「……ヘタクソな誘惑で……ご迷惑でしたよね。すいません」
震える声が聞こえた途端、斎藤の頭は真っ白になった。
ゆらりと斎藤の上体がゆれる。
「迷惑などではない」
絞り出すようにそう言うと、斎藤は貪るように唇を深く合わせた。少し開いた千鶴の唇の中に舌を滑り込ませる。
体中の毛穴が開き髪が逆立つようなゾクゾクした感覚が背筋を駆け上がった。腰が痺れたようになり、一気に下半身が熱に浮かされドロドロと硬くなる。千鶴の中を味わった瞬間、斎藤の最後のストッパーが砕け散った。
もっと深く。もっと奥に触れたい。
千鶴のすべてを味わって、中に入って奥まで……
斎藤は千鶴の頭を両手で固定すると、食べつくしてしまうようにキスをした。呼吸が合わずお互い苦しそうな声が漏れるが、無我夢中で味わい、舐め、突き立てる。斎藤の勢いに押されて千鶴の頭がソファの背に乗る。これ以上後ろには行けなくなったことをいいことに、斎藤は舌を深く入れ千鶴を思う存分味わった。
「ん……あっ…」
千鶴が喉のあたりで上げた甘い声が、斎藤をあおった。舌で彼女の奥の奥まで探り、舌を絡めて千鶴とどんなことをしたいのかを生々しく伝える。ああ、そうだ、ずっとこれがしたかったのだ。会社で他の同僚と笑っている千鶴を見かけるたび、飲み会で頬を染めている千鶴を見るたび、そして今回のことで千鶴を近くに感じるたびに。彼女を捕まえて逃げられないようして、体の奥の奥まで探って触れて貪りたかった。
千鶴の体から力が抜けたのを感じる。ぐったりとソファの背もたれに全身を預けてくる彼女の背に腕を回し、薄いTシャツの下に手を入れた。自分の息が荒くなり、スイッチが入るのを感じる。このまままっすぐに突っ走ってしまおうとしたときに、ふと頭の片隅にチカチカと点滅するものに気づいた。
なんだったか……このまま先に進んではいけない気がするが、何を……
ぼんやりと口と手で千鶴をまさぐりながら考え、斎藤はハッとした。
「……雪村!」
このまま千鶴の温かい沼に頭まで浸かって戻れなくなりたいと体中が悲鳴を上げていたが、斎藤は意思の力で無理やり唇を離した。同時に千鶴の肩を掴んで横にずれる。千鶴の体が重なっている状態では、冷静に物を考えられない。
「……やめないで……」
千鶴がとろんとした目でそう訴えてくる。斎藤は体を離して肩で大きく息をした。冷静にならなくては。
「いや……少し待ってくれ、話がある」
そう言うと、千鶴は我に返ったように目を見開いた。
「……嫌……聞きたく無いです。続きを……」
斎藤に抱き着こうと伸ばしてくる千鶴の腕をつかみ、斎藤はもう一度言った。
「いや、聞いてくれ、雪村、俺は……」
「ダメなんですよね? 普通の人は断りますよね、セックスして欲しいなんてあんな非常識な提案。でも斎藤さん、私……」
「いや、その返事をしようとしたわけでは……」
いや、返事をしようとしたのか? セックスをして終わりではなく、付き合ってほしいという話は、もしかしたら千鶴のリストの七つ目の提案の答えなのかもしれない。だが、単にセックスをするというだけではなく、一緒に食事としたりデートをしたり……あとは、他の異性とはそう言う事をしないと言う約束も含まれる。ということは、千鶴からの提案の答えではないのか?
斎藤が混乱して、どういえばいいのかと考え込んでいると、千鶴がさらにすがってきた。
「斎藤さん、今晩だけでいいんです、最後まで……」
「雪村……」
斎藤は眉間にしわを寄せた。
「そんな風に自分を軽く扱うものではない。もっと大事にしろ」
「大事にしてます。だから斎藤さんに抱いてほしいんです」
千鶴の言葉に斎藤の胸はまた高鳴り、顔が熱くなる。
「その……なぜそんなに焦っているのだ。もう少しゆっくり……」
「だって……だって、斎藤さんは他の女性からも人気あるのを知ってるから……今日を逃すと、もうこんな機会ないんじゃないかと思うんです。だから……」
千鶴が体を乗り出し、もう一度腕を斎藤に伸ばす。斎藤はくらくらしながらもなんとかその細い手首をつかんで抱き着かれるのを阻止した。今体を寄せられたら、さすがの斎藤も理性を保っていられる気がしない。
「待て、その前に告白をさせてく……」
「私……私、初めての人は斎藤さんがいいんです」
「……ふぐぅっ!」
何というセリフだ。
なんだこの胸のぎゅっとなる感じは。胸が苦しい。息がしづらい。千鶴のえげつない可愛さとストレートな言葉に、ときめきすぎて死んでしまいそうだ。ああもう感情に任せてガバリと襲ってしまおうか。そうして欲しいと千鶴自身が言っているのだ、もういいではないか。十分戦った。斎藤は負けたのだ。喜んで敗者となろう。
そう言って白旗をあげる脳内の斎藤をよそに、最後の理性が立ち上がった。
「好きだ、雪村」
千鶴の両手首をつかんだまま、斎藤はうなる。
「お前のことは抱きたいし、女性からそこまで言わせてしまって申し訳ないと思っている。だが、その前に、好きだからこそちゃんと付き合いたいのだ」
千鶴は、目をぱちぱちと瞬かせた。
「ちゃんと段階を踏んでお互いを知っていきたい。その上でお前の最初の男に俺もなりたい」
「斎藤さん、それって……」
「付き合ってくれ、雪村」
「……」
ポカンとしている千鶴に、斎藤は畳みかけるように続ける。
「他の男にこのような提案をしてほしくないし、嫌悪感を感じない男が他にいないかもう探さないでほしいのだ。合コンとか紹介とかそういうのも、俺がいるからと断ってほしい」
「斎藤さん、だって……すごくもてるのに、どうして私なんて……あ、もしかして私があんな提案をしたからですか? 他の男性に弄ばれるのを心配して……?」
オロオロしている千鶴を、斎藤は一刀両断した。
「違う。そのような高潔な思いから付き合おうといっているわけではない。お前と付き合いたいのは……付き合いたいのはもっと自分勝手な思いだ。以前から好意を持っていたがこの週末を一緒に過ごしてそれが強くなった。これからもあんな日々をお前と過ごしたいし、不安になった時や寂しいときはおれが傍にいたいのだ」
「斎藤さん……」
千鶴の瞳がみるみるうちに潤んでくる。その瞳に緊張した斎藤が映っている。
「う、嬉しい、です……私も、この週末斎藤さんと一緒にいてドキドキして楽しくて安心して……斎藤さんのこと、好きだなって思ったんです」
『好き』。まさか千鶴の口から聞けるとは。
「でも私なんて彼女とかは無理だろうって思って、それならせめてリストの七番目は斎藤さんとがいいって」
「雪村……!」
斎藤は感極まり、千鶴を抱きしめた。そして胸の中の千鶴の顔を上げさせて、キスをする。溢れてくる涙を唇で拭い、「もう泣くな」ともう一度キスをした。今度は情欲をあおるようなキスではなく、優しく溶けてしまいそうなくらい甘いキス。
斎藤は自分にこんなキスのバリエーションがあるとは思っていなかった。だが、千鶴に対する気持ちを乗せてキスをすると、そうなるのだ。
そうか、キスも……その先も、自分の気持ちを伝えるための行為でもあるのだな。
これまでの相手に対して気持ちがなかったわけではない。だが、いつも相手から告白され、状況があえば付き合うという受け身だった。自分なりに彼氏としてちゃんと対応したつもりだったが、相手からしてみれば気持ちが乗っておらず義務的に感じ、不安に思ったことだろう。だから毎回フラれていたのか。
唇を離して千鶴の顔を見つめる。目があい、二人で微笑みあった。心がつながった感じがする。そうだ、斎藤は千鶴とこういう関係になりたかったのだ。
自分に負けて体の関係を先にしてしまわないでよかった。
斎藤の心はかつてないくらいの幸せで満たされていた。腕の中の千鶴をぎゅっと抱きしめる。千鶴も斎藤の背に手を回してしがみついてきた。
「リストを作った時は、こんなにはやく七番目が叶うなんて思ってませんでした」
胸から顔をあげて目を合わせる。
「リストを作ったのは先週だから……一週間しかたってません。十年くらいかかるかと思ってたのに」
くすくすと千鶴が笑うので斎藤も微笑んだ。
「そうだな。だが付き合ったとは言ってもまだお互いのことはよく知らんだろう。まずはお互いを知ることにして、そういう関係はもっと先の方がいいと思う」
「え……?」
千鶴が体を離して斎藤を見た。
「今夜、これから……じゃないんですか? わたしてっきり……」
「まさか。付き合ってすぐに手を出すなどするわけないではないか。雪村も初めてなのだし、まずは食事を二、三回して、そのあとはデートだな。どこか行きたいところはあるか?」
千鶴とデートなど楽しみしかない。どんなものに興味があるのだろうか。最初は無難に映画でもいいな。どんなジャンルが好きなのか、ポップコーンは塩かキャラメルか? 千鶴のことは何でも知りたい。
ウキウキしている斎藤をしり目に、千鶴は先ほどまでの幸せオーラが消え、考える顔になっていた。
「食事を二、三回、週末にデート……じゃあ、初めての、その、そういうコトはその後ってことですか?」
だいたい一か月後くらい……? と千鶴は頭をかしげている。
「そのことなのだが、雪村は初めてなのだし、やはり思い出深いほうがいいのではないかと思ってな。次のお前の誕生日にしよう」
「え? 私の誕生日ですか? 先月終わったばっかりですけど」
「そうか、では来年になってしまうが、ホテルでディナーを食べて、そのあとそのホテルで部屋を取って……というような段取りなら、いいのではないか」
これなら時間もたっぷりあるし、後から思い返してもいい思い出になるだろう。適当な形で終わらせたのではなく、大事にされたのだという思い出になってくれれば嬉しい。
うんうん、と斎藤が自己満足で頷いている横で、千鶴は茫然としていた。
「斎藤さん、でも私………」と言いかけて、口をつぐむ。
千鶴にまじまじと見られて、斎藤はどうしたのかと首を傾げた。
「……じゃあ、それまで……私、斎藤さんについて知りたい、です」
「……? 俺について?」
「はい。それに、私についても教えてほしいです。最初って上手くいかないって聞くし……痛いんですよね?」
そっち方面の話しかと気が付いて、斎藤は赤くなった。
「いや……俺は女性ではないのでよくは……」
「お互いの体についてよく知っておけば、最初の時も何も知らないよりはうまくいくんじゃないかと思うんです」
千鶴はそう言うと、そっと斎藤の肩を押した。そしてそのまま体を寄せて来るので、斎藤は押されるがままソファにあおむけに横たわる。
「Tシャツ……脱がせてもいいですか?」
「お、俺のをか?」
「はい」
Tシャツの裾をあげられるままに、斎藤はTシャツを脱がされてしまった。千鶴の顔が近づいてきて、髪がカーテンのように斎藤の頭を閉じ込める。
唇に優しくキスをされ、斎藤の胸は熱くなった。そのままキスを深めようとしたら、スッと千鶴の唇は離れてしまい、頬、耳、首筋と移動していく。
「雪村……」
千鶴に唇はそのまま鎖骨へと移動して胸へと降りていく。唇に気を取られていたが、斎藤のスェットの腰のあたりを千鶴の手がさまよっているではないか。
「ゆ、雪村、何を……」
千鶴の手が、斎藤のガチガチに強張っている部分にすっと触れ、斎藤の言葉は止まった。脳天を突き刺すような刺激に息が詰まる。
「やめ……」
「嫌……ですか?」
千鶴が顔をあげてそう聞いた。恥ずかしそうに、顔は真っ赤で手は震えている。千鶴の手が再び斎藤の一番敏感な所に近づいていく。
ゴクリ。
触れてもらえる期待で、斎藤は唾を飲んだ。
触ってほしい。気が狂うほど。
だが、そんなことをして最後まで我慢できる気がしない。
しかし、ここで断ることもどうしてもできない。
斎藤が葛藤にのまれて黙ったままでいると、千鶴は頭を下げて斎藤の腹のあたりにキスをした。肌をくすぐる千鶴の髪に全身の神経がざわめく。
「雪村、待っ……」
待ってくれと言おうとしたが、すでに斎藤は千鶴が触れてくれることを期待して全身に汗をかいていた。本気で止めようと思えば体も起こせるし手で制することもできるのに動こうとしない斎藤を見て、千鶴はそのまま続ける。
鉄壁の斎藤の理性も、とうとう千鶴の前で溶け落ちたのだった。
おしまい