千鶴ちゃんの七つのリスト




斎藤さん編 3



みゃーみゃーという細い声が雨風の合間に聞こえてくる。

子猫を置いている部屋に行き、そっと電気スタンドの灯りをつけると、果たして猫……『夜』はキャリーバッグの隅っこでうずくまりながら必死で鳴いていた。

「よしよし、寂しいよね」

千鶴が手を伸ばしそっと抱き上げても、子猫はまだ泣き続ける。

「お母さんも兄弟もいなくなっちゃったんだもんね。私もなんだよ。だから一緒に暮らそうね」

胸の近くに抱きしめて、優しく撫でながらささやきかける。子猫は千鶴の顔を見て、周囲をおびえたように見てまだ鳴いている。

ずっとここにいてあげよう。猫ちゃん……『夜』がいて欲しいのはお母さん猫だろうけど、誰かがいたほうが少しは安心するかも。

「放っておいてもいいのだぞ」

静かな声が後ろから聞こえてきて、千鶴は振り向いた。廊下に面した扉の所で、斎藤が腕を組みながら壁によりかかりこちらを見ていた。ぼんやりとした灯りと外での風雨の唸り声が二人を閉じ込めている。斎藤は中に入ってくると、隣に座って『夜』を覗き込んだ。

「二、三日放っておけばあきらめて鳴かなくなる」

そんな冷たいことを言っているのに、『夜』を撫でる斎藤の表情は優しい。

「明日も日曜日で休みですし、私も眠れなくて……こんな嵐の夜に知らない場所で一人だったら私でも不安ですから、せめて傍にいてあげたいなって」

「……そうか」

猫はようやく鳴き止んで、大きな灰色の目で斎藤と千鶴を見上げている。ガタガタと風が窓を揺らす音だけが、部屋に響いていた。

沈黙が続いたが何故か気詰まりではない。斎藤の存在が、千鶴の大嫌いな嵐の夜の不安をやわらげてくれているのだ。すぐ近くにいる斎藤の体の熱を感じて、あんなに眠れなかったというのに何故か千鶴は眠くなってきた。閉じそうになる瞼を瞬きで一生懸命持ち上げていると、斎藤が小さく笑った。

「猫ももう寝たぞ。雪村も寝るといい」

斎藤はそう言うと、千鶴の手からそっと猫を受け取り、キャリーバッグの中にいれた。その手が暖かくて大きくて、千鶴はもっと触っていてほしいと心のどこかでぼんやりと思う。

「ほら、立って二階へ行くといい。合羽を借りるぞ」

「え?」

ぼんやりしていて、最後に何を言われたかよくわからなかったのでもう一度聞き直す。

「合羽だ。雨どいを直したときに玄関の横にある納戸からドライバーを借りただろう。その時にビニールの大きい合羽がかかっているのが見えた」

「合羽……ああ、レインコートですか」

確かに父の物がかかっていた。雨の日にゴミを捨てに行くときなどに使っていたのだが。

「先ほどからバタバタとトタンのようなものが風にあおられている音が聞こえてくるのでな。庭にあった物置の屋根だろう。ちょっと様子を見てくる」

斎藤はそう言うと、猫のいる和室の扉をそっと閉め玄関の方に歩き出した。千鶴の眠気は一瞬にして覚める。

「え? この嵐の中ですか? 外に?」

「ああ、風で飛ばされたらたいへんだろう」

「そんな……あ、危ないですよ! やめてください。明日の朝で十分です」

「何を言っている。屋根が飛んだ方があぶないぞ。隣の敷地は駐車場だったではないか。他の車にあたったら面倒なことになる」

「そ、それはそうですけど……」

斎藤が気にすることではないのでは? 物置のトタン屋根も、それが飛んで人様の車に損害を与えたとしても、千鶴の問題だ。そう言ったものの、「一宿一飯の礼だ。なに、大き目の石を上に置いておけば済む話なのだからな、たいしたことではない」

斎藤はそう言うと、止める千鶴の頭をポンと軽くたたき、優しい笑顔を残して嵐の中出て行ってしまった。

五分、十分たっても斎藤は戻ってこない。

気のせいか外の風雨はさらに強まったような……うなり声をあげる風が窓ガラスどころか家全体を揺らしているように聞こえる。バラバラと激しい雨が屋根に打ち付け焦燥感を借りたてる。

そう、こんな夜だった。寝ていた千鶴は電話の音で起こされたのだ。一階へ降りて行くと、ちょうど薫も起きて来ていた。不安そうな顔でお互い顔を見合わせ、薫が受話器を取った。電話の相手は警察で……

ガシャン! と大きな音が庭の方からして、千鶴の物思いを破った。ハッと時計を見るともう三十分以上経っている。

 

さ、探しに行こう。何かあったのかも……!

 

千鶴が玄関のドアをあけ外に出ようとした瞬間、ドアが外から開けられて合羽姿の斎藤と鉢合わせた。

「まだ起きていたのか。しかもこんなところで何をしている?」

斎藤が驚いたように合羽のフードを上げ、千鶴を見下ろす。心配のあまり青ざめていた千鶴は、一瞬これが現実なのか自分の都合のいい妄想なのか区別がつかずに立ちすくんだ。斎藤は合羽をするりと脱ぎ一度力強くはたいて水を払うと、再びそれを納戸にかけた。

「やはり物置の屋根だった。なかなか良さそうな石が見つからなかったのだが、ブロックが庭の端にいくつか転がっていたのでな。物置にあった脚立でブロックを三つほど屋根の上に……」

話しながら、まくり上げていたスェットの裾を下げ、少しだけ濡れた髪を手でかき上げて水を払ったところで、斎藤はいやに静かな千鶴にようやく気付いた。

「雪村……」

千鶴が青ざめた顔をして泣いているではないか。

「ど、どうしたのだ、猫に何かあったのか?」

斎藤がオロオロと聞くと、千鶴はいっそう泣き出した。そして首を必死に横に振りながら「すいません」と何度も謝る。

「ちょっと勝手に……不安になってしまって。両親が亡くなったのもこんな夜だったので……すいません、気にしないでください」

ごしごしと目をこすり顔を背け、「タオル、もっと取ってきますね」と千鶴はパタパタと立ち去った。

「……」

残された斎藤は、兄の物だと言うビーチサンダルを脱ぎ、置いてあったバスタオルで軽くふくと家にあがった。

そうか、そう言えば雪村の両親は雨の夜にスリップ事故に巻き込まれて亡くなったと言っていたな。そうか……じゃあ今夜よく眠れなかったのもそのせいだったのかもしれんな。

リビングでタオルを持った千鶴と鉢合わせ、暖かいハーブティーを淹れてくれているというので斎藤はソファに座った。タオルで髪を拭きながら、こちらに背を向けて台所でティーポットからマグカップにハーブティを注いでいる千鶴の背中を見る。

嵐の音は相変わらずうるさく、電気はキッチンの手元用のオレンジ色の灯りだけ。

単なる別部署の同僚である千鶴と二人きりという状況なのにもかかわらず、妙に落ち着くのは何故だろう。いや、落ち着くのと同時にそわそわする。

「どうぞ」

千鶴がマグカップを差し出す。

「ありがとう」

「お礼を言うのは私の方ですよね、すいません。遅くなりましたけど、物置の屋根、本当にありがとうございました。こんな危ない目に合わせてしまってなんとお礼を言ったらいいのか……」

「いや……」

斎藤はそういうと、ゴクンと温かいハーブティを飲む。そしてしばらく沈黙してから口を開いた。

「……すまなかったな」

「え?」

斎藤は、そこに世界の真実が書かれているとでもいうように、大きな手の中のマグカップを覗き込んでいる。

「斎藤さんが謝ることなんて何かありましたか?」

ソファの隣に座って、千鶴がそう聞くと、斎藤は相変わらずマグカップを見たまま言った。

「……こんな夜に一人にしてしまった。ご両親の話を聞いていたのに考えが及ばず……俺はどうも人より鈍いようだ」

きっと嵐と深夜の魔法だったのだろう。いつもなら決して言わない話を、千鶴は、斎藤に促されるままぽつりぽつりと話しだした。両親との思い出や、両親がいなくなってからの辛かった日々について。渦中の時は認めたらもう二度と立ち上がれなくなると思い向き合ってこなかった悲しい日々。斎藤の横で、静かな声で話していると少しずつ浄化されていくような気がする。

そしてハーブティの効果もあったのか、千鶴はウトウトとし始め、斎藤に抱き寄せられたことも気づかないまま眠りに落ちたのだった。

 

 

カチャカチャという食器が立てる静かな音。

お味噌汁のいい匂い。

そして、ピーピーという炊飯器でごはんが炊きあがった音で、千鶴はパチッと目が覚めた。

慌てて起きるとそこはリビングのソファだった。斎藤に、と押し入れから出した布団が自分にかけられている。

一瞬なぜ自分かここにいるのかわからなくて、千鶴はぼんやりした。ダイニングテーブルの上にはすっかり準備のできた朝ごはんが、斎藤の手によって整えられている。

「起きたか。おはよう」

「……お、はよう、ございます……」

茫然としたままそう返事をすると、斎藤が微笑んだ。

「朝は苦手なのか? 朝食の準備ができたからそろそろ起こそうと思っていた。顔を洗ってくるといい」

炊飯ジャーをあけしゃもじを持っている斎藤にそう言われ、千鶴はようやく我に返った。

 

き、昨日の夜……! 

 

「わ、私、ここで寝ちゃったんですか? 斎藤さんは……」

顔を真っ赤にしていいかけて、千鶴は言葉を止めた。

いや、覚えている。

優しくて大きな何かにすり寄って、安心して眠りについたような……

千鶴は今度は青ざめた。

「……なんてことを……」

斎藤さんをベッド代わりにして寝っちゃったんだ。まさか一晩……?

斎藤は何も言わず微笑むだけだ。

「大丈夫だ。ほら、早く着替えて顔を洗ってこい。腹が減った」

 

だ、大丈夫だって、大丈夫だって、全然大丈夫じゃないですよね!?

 

乗っかってきた千鶴をソファに寝かせて、斎藤はちゃんと和室の布団の上で寝たのだろうか。ま、まさか一晩中抱きかかえてくれていたとかそんな……!

千鶴は火がでそうなくらい熱くなっている自分の頬を抑えて、洗面所へ向かった。水で必死に冷やすが、切れ切れの記憶をつなげると、多分朝方まで斎藤に抱っこされて眠っていた気がする。寝がえりとうとうとするたびにふと意識が戻り、暖かな腕や胸がちゃんとそこにあるか確かめた気が……

『ん? こっちがいいのか?』

という眠そうな斎藤の声。そして千鶴が体を落ち着けるとポンポンとなだめるように背中を叩いてくれた優しい手の感触を覚えている。

「……!!!」

千鶴は頭を抱えてうずくまった。恥ずかしさのあまり体中の水分が蒸発してしまいそうだ。

 

なんてことを……なんてことをしちゃったの、私!

 

会社中の女性のあこがれであるクールビューティーを、一晩中ベッドと抱き枕代わりにして、しかもあんなに……あんなに優しくしてもらって……

「なんてお詫びをしたらいいのか……」

千鶴が廊下でうなっていると、様子を見に来た斎藤に見つかった。

「斎藤さん、私……昨夜はなんてご迷惑を……」

「いや、気にしなくていい。俺もいろいろと悪かった」

「そんな! 斎藤さんには悪いことなんて一つもないです。私の方こそ猫ちゃんの世話から雨どいとか物置とか……」

「もういいのだ。昨夜は急な嵐で突発的なことが多かった。お互い思いもしなかったこともあったし、もう言うのはやめよう」

「……でも……」

「俺の方も迷惑をかけたこともたくさんある。それに昨夜のは俺がしたくてしたことだ、雪村は気にしなくていい」

きっぱりとそう言われ、軽く背中を押されて千鶴はそれ以上何も言えなくなってしまった。

斎藤の優しい言い方に、焦って恐縮していた自分が暖かく包み込まれるような気がする。

 

……昨日の夜と同じ。

 

昨夜は一晩中、この暖かな優しさに包まれていた。

「……」

何か言おうと思ったのに、言葉が出ない。声をだそうとすると何故か涙まで出てしまいそうで、千鶴は促されるままダイニングへと戻った。

ゆっくりと二人で休日の朝ごはんを食べる。

 

この食卓で、向かい側に人がいるのって久しぶり……

 

しかもそれが斎藤だというのは、変な感じだ。

会社では時々すれ違って会釈をする程度。たまに立ち話をしたり飲み会で同じ席になれば親しく話すが、個人的に飲みに行ったりランチをしたこともない。それが、朝ごはんを一緒にたべてるなんて。それに昨日ずっと斎藤に抱かれていたせいか、自分の体から斎藤の匂いがする気がする。

ちょっと前までこの家も千鶴も空っぽだったのに。

今は斎藤に両方たっぷり満たされているような気がする。

朝日(といってももう11時近いが)を浴びた斎藤は、少し乱れた前髪と眠そうな顔がオフィスでは見れないラフな感じで、千鶴は目を合わせられなかった。頬が熱くなるのを感じる。

昨日、斎藤は優しかった。不安な夜に傍にいてくれる人がいてくれることが、あんなに心休まることだなんて。

いや、誰でもいいわけではない。

 

斎藤さんだから。

 

斎藤の静かな声、優しいまなざし、大きな手。

全てが千鶴を安心させドキドキさせてくれた。

騒がしくて乱暴で、何をしてくるかわからない他の男性とは違う。斎藤だからだ。

 

……好きになっちゃった……よね。

 

我ながら簡単だとは思う。たった一晩、二日。

一緒にいただけでコロッと落ちてしまった。でも男性を見る目はあると思う。斎藤は落ちる価値がある男性だから。だから他の女性社員達もみんな斎藤を好きなのだ。

だが、斎藤のような人気のある人が千鶴とつきあってくれるわけもない。この週末はひとえに斎藤の親切心と責任感で、奇跡的に千鶴に斎藤の時間をくれただけなのだ。勘違いしてはいけない。

……でも。

千鶴の胸の奥にはどうしても譲れない思いが沸き上がってきた。

 

最初の人は、斎藤さんがいい。

 

触られることへの嫌悪感もなく、さらにはこんなに好きになってしまった人。

最初で最後になるかもしれない初体験は、斎藤しか考えられない。どうにかして斎藤に、リストの七項目にウンと言わせねば。

めらめらと闘志を湧きたたせたとき、千鶴はようやく斎藤が何度か自分を呼んでいることに気づいた。

「雪村?」

千鶴ははっと我に返り、慌てて目の前の目玉焼きと玉ねぎの味噌汁から顔をあげた。何か質問されていたらしい、斎藤が不思議そうな顔で千鶴を見ている。

「す、すいません。ぼうっとしてて。なんでしたか?」

「夕べは遅かったからな。今日は何か予定があるか? と聞いたのだ。ないようなら、もしよければ雨どいと物置の屋根を直して……」

「あ!」

今日の予定を聞かれて千鶴は唐突に思いだした。

「沖田さん!」

「……総司?」

千鶴は慌てて時計を見た。待ち合わせは沖田の実家で2時。朝ごはんはもうほとんど食べたので、片付けて準備して……ギリギリ間に合う。

「今日、沖田さんの実家で待ち合わせなんです。ハンモックを譲っていただく予定で。急いで行かないと」

千鶴は最後の一口を飲み込み食器を片付けだす。しかし斎藤は無言で千鶴を見ていた。

「斎藤さん、すいません。あの、追いだすわけじゃないんですが、私多分あと少ししたら家をでるので……」

私に合わせて急かすのは申し訳ないから、家でのんびりしておいてもらう? 鍵をポストに入れておいてもらえばその方がいいかも。食器をシンクに運びながらそう言おうとしたとき、斎藤も立ち上がった。

「俺も行こう」

そして自分の食器をまとめてシンクに持ってくる。

「女性の方が準備に時間がかかるものだろう。俺が洗っておくから準備をしてくるといい」

「……はい……え? 斎藤さん、どこに行くんですか?」

「お前と一緒に総司の家に行く。急ぐのだろう、早く着替えてこい」

「は、はい……え?」

何を言われているのかわからないまま、千鶴はとりあえず二階の自分の部屋へとあがった。

 

斎藤さんも沖田さんの家に行くってこと? なんで?

 

クエスチョンマークをいっぱい振りまきながら、とりあえず千鶴は『夜』の様子を見て、ごはんと水を変えてあげた。『夜』はキャリーバッグの中ですやすやと寝ている。夕べ遅くまで鳴いていたからだろう。斎藤と千鶴が出かけ家が静かな方が落ち着いて探検できるかもしれない。

千鶴は猫のいる和室の扉をきちっと閉めて、着替えるために急いで二階へあがった。

 






 


斎藤さん編 4 へ続く 


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