千鶴ちゃんの七つのリスト
わ、私と……セックスしていただけないですか?
千鶴がそう言った後、斎藤は手にティーカップを持ったまま三回瞬きをした。
そしてたっぷり三十秒は沈黙した後。
「すまない、ちょっと聞き間違えたらしい。もう一度いってくれるか」
冷静な声でそう言われ、千鶴は真っ赤な顔のままだらだらと冷や汗を流す。日常会話で『セックス』という言葉を使う事の、なんとハードルの高いことか!
このまま、やっぱりいいです、と言って無かったことにしたい誘惑に強くかられたが、自分を変えたいと思ったのだ、最後までやりきるしかない。
「き、聞き間違え……じゃないです。あの、私と……その、一度でいいので、セッセッセッ……セックスをしてもらえませんか、とお願いを…」
「……」
斎藤は表情を変えずにティーカップを置くと、千鶴をまじまじと見た。
「……セックスというのは……俺が知っている一般的な意味で使っているのか」
千鶴はコクコクと勢いよく頷いた。斎藤の目が見れず、手元にあるケーキがおいてあった皿を凝視する。
そこからたっぷり一分は経っただろうか。
ちらりと隠れてみた斎藤は、茫然と固まったまま。背景のイングリッシュガーデンの花々が風にさわさわと揺れている。
「……少し……混乱しているのだが、俺と……つまり、つきあいたいということか?」
「つきあうっていうか……えーっと……さっき『やりたかったリストを作った』って言いましたよね? その中にありまして」
「……俺と、その……セッ、セッ、セッ……クスをしたいと?」
「斎藤さんと、というか……その……私、その……」
午後の日差しが明るく、初夏の空気がさわやかなこんなところで言うセリフではないのだが。だが説明をしないと斎藤は千鶴のことを頭のおかしな女とみなしてしまうだろう。いや、もうすでにそう思われているかもしれないが。
「私、経験がなくて」
斎藤はまた瞬きをした。千鶴は早口で続ける。
「彼氏もいたことがなくて。でもそういう経験はしてみたかったんです。映画とか小説では皆さんうっとりされてるし、普通じゃなくなってるじゃないですか。ああいう世界を一度だけでいいので経験してみたくて。恋人が欲しくて合コンにも行ってみたんですが、手を握られたり肩を抱かれたり耳元でささやかれても気持ち悪いとしか思えなかったんです。なので恋人はあきらめてそう言う経験だけでもしたいなと思って、リストの七番目にそれを入れたんです」
「……」
「さっき、斎藤さんはリストを経験していくことに協力してくださるって言ってくださったので、これもお願いできないかなって……」
千鶴がそこまで言うと、斎藤は手のひらで自分の額を抑えた。そして長くため息をつく。
「……いったい何を言っているのだ、お前は。年頃の娘がそのようなことをリストに加えて、さらにそれを単なる同僚である男に頼むとは」
「で、でも、斎藤さんさっき、俺ができることならなんでも協力するって。あ、もしかして斎藤さん、できないんですか?」
若年性EDとか聞いたことがある。もしそうなら無神経なことを……と千鶴は青ざめたが、即座に否定された。
「いや、それはできるかできないかといえばできる。が、そう言う事を言っているのではないのだ、そうではなく……」
「もしかして彼女さんとか好きな人が……そうですよね、斎藤さんならいて当然ですよね。ああ、私そんなことも考えずになんて失礼なことを……」
彼女さんに申し訳ない……! と千鶴は小さくなったが、それも否定された。
「いや、違う。彼女も好きな相手もいない。そうではなくて、お前の話しだ。そういう行為はもっと思いあった相手と……」
「この年まで生きてきてそういう人には出会えなかったんです。出会いの場に出かけて行っても男の人に触られるのは嫌悪感しかなくてもう嫌で、猫ちゃんとずっと一人と一匹で暮らすので十分かなって。でもそれはそれとして、性体験というのは一度経験してみたいんです」
斎藤は眉根を寄せた。青い瞳が鋭く千鶴を射る。
「男に触られると嫌悪を感じるのなら、性体験はできんだろう」
「でも、斎藤さんは大丈夫だったんです」
千鶴がそう言って、先程猫を抱くときに斎藤にバックハグをされても全く嫌悪感を感じなかったと伝えると、斎藤は真っ赤になった。
「バッ、バッ、バックハグなどした覚えはない! 俺はそのように不埒なことをしようとしたのではなく、純粋に猫を……」
「わ、わかってます。すいません、あの、言いたかったのは体や手の接触があったんですけど、何故か斎藤さんには嫌悪感をかんじなかったんです、っていうことなんです」
斎藤は落ち着くためか紅茶を一口飲んだ。そして咳ばらいをする。
「……わざとではないが肉体の接触をしてしまったようで、それはすまなかった。嫌悪感がなかったというならよかったことだが……」
「気持ち悪い感じやぞわっとするのがなかったんです。なので、七番目のリストを斎藤さんにお願いしたくて……駄目ですか?」
「……」
斎藤は何を言ったらいいのかわからないようで、困った顔で大きな手で自分の顎あたりを撫でていた。その手を見て千鶴は不思議な気持ちになる。骨ばった大きな手。指が長く奇麗だ。あの手が触ってくれたらどんな気分になるんだろう。
「……斎藤さん」
千鶴はそう言うと、自分の手のひらを上にしてテーブルの上に置いた。
「手を……」
そう言うと、斎藤は何が始まるのかと誘われるがままに顎を撫でていた自分の手を千鶴の手にゆっくりと合わせる。千鶴は両手で斎藤の手を包み、人差し指の腹でそっと斎藤の手首から手の甲を辿り中指の先端までをなぞった。そして手のひらの方へと人差し指を動かしていく。
「ほら、全然嫌な気分にならないんです。……斎藤さんはどうですか?」
千鶴は大丈夫だが逆に斎藤が嫌悪を感じていたら申し訳ない。そう聞いて顔を見ると、斎藤は目じりを染めてぼんやりと自分の手の上をなぞっていく千鶴の指を見ていた。
もう少し触ってみても大丈夫かもしれない。千鶴は今度は自分の指の全部を斎藤の指の間に差し込んでみた。恋人つなぎのような感じだ。全く嫌な感じはしない。それどころか少し冷たい斎藤の手に触れると胸がドキドキして何故かうっとりとしてしまう。斎藤の手も千鶴の動きに応えるように千鶴の手を握り返したり指を絡めてくる。
千鶴は人差し指と中指の先で斎藤の指と指の間をなぞった。その瞬間、斎藤の肩がビクッと跳ねた。勢いよく手を離し、千鶴が触れないように両手を万歳のように上げてしまった。顔は耳まで真っ赤だ。
「斎藤さん? どうかしましたか?」
千鶴が首をかしげると、斎藤は咳ばらいをしてあわただしく席を立った。かといってどこかへ行くでもなく、机のまわりをうろうろしている。
「いや、大丈夫だ。その……」
斎藤は千鶴に背を向け深呼吸を何度かすると、いつもの冷静な顔になって振り向いた。
「……お前の提案だが、了承することはできん。そういう……体だけの関係は俺の主義に反する。俺は付き合っていない女性とそういう関係になったことはない。無責任だろう」
きっぱりとそう言われ、千鶴はがっかりした。提案するだけでもかなりのエネルギーを使ったのに断られてしまった。
「……そうですか。残念ですけどしょうがないですね……」
そしてため息をついてつぶやく。
「また一からやりなおし……嫌悪感のない人を探して、提案して……」
想像するだけでしんどい。やれる気がしない。まあでも、リストには期限はない。のんびり次の機会を待つのでも……
「いや待て」
そこで斎藤が机に両手をついて千鶴を覗き込んだ。
「俺が断った場合、お前はまた別の男に同じことを頼むのか?」
真剣な青い瞳にじっと見つめられて、千鶴は戸惑った。
「……多分……」
「……」
斎藤の眉間のしわが深くなった。睨むように千鶴を見つめ、体を起こすと腕を組んでイングリッシュガーデンの方をじっと見る。声をかけにくい雰囲気なので、千鶴も黙っていた。
どれくらい経ったのだろうか、斎藤が振り向いた。
「保留にさせてくれ」
「え?」
「お前の提案だ。その……リストの七番目、だったか? それの協力について」
千鶴はパッと斎藤の顔を見た。斎藤は目じりを赤くしたまま視線を逸らせている。千鶴は頷いた。
「は、はい……はい! ぜひ検討してください」
斎藤は横目で千鶴の顔を見てため息をつき、肩を落とした。そして疲れたように手で額を撫でる。
「……とりあえず、猫だ。当座のエサや猫砂、ゲージやキャリーバッグなどを渡そうと思っている。雪村の家まで運ぼう」
「これではだめだな」
斎藤は千鶴の家の網戸を見るなりそう言った。
家まで荷物を持って送ってくれて、とりあえずは猫の落ち着く場所を作ってゲージを組み立て水とエサをあげてトイレを用意したあと。
『ちょっと環境を見せてもらっていいか』と言う斎藤をつれて窓際へ行った時のことだ。どうやら千鶴の家の網戸は『ダメ』らしい。
どうしてダメなのか聞いて見たところ。
「鍵がないだろう。これでは猫が爪をかけて簡単に開けてしまうのだ」
なるほど。確かにそれは危険だ。これから夏に向けてずっと締め切っておくわけにもいかない。でもどうすればいいんだろう? 鍵のついた網戸に買い替える? 二階まで含めたら結構な数だしお金もかかるだろう。そもそも鍵付きの網戸なんてあるのだろうか。
「後付けでロックできるものがホームセンターなどで売っている。全部の窓につけてもそれほど高価ではない。この近くにホームセンターはあるか?」
「はい。明日にでも買いに行ってきます」
「いや、いろいろ種類があるのだ。下につけるのは猫が遊ぶから上につけるものが良いし、粘着テープで貼るタイプでないほうがいい。雪村では難しいだろうから俺が買って来よう」
遠慮する千鶴を抑え、斎藤はお金だけ受け取りホームセンターの場所を聞くとさっさと出てしまった。
一時間程して帰ってきたが、ポツポツと雨が降り始めたらしい。斎藤はうっすらと濡れていた。
千鶴から渡してもらったタオルで拭きながら、斎藤はそのまま買ってきた網戸ロックを取り付け始める。
「さ、斎藤さん、取り付けは私がしますから……雨も降ってきましたしもう帰った方が……」
「網戸の上の部分につけるのだぞ、お前では届かんだろう」
確かに。脚立は確か物置の奥の方にあったはずだが、もう何年も出していない。そもそも物置に入ること自体ほとんどないのだ。
「……すいません、ありがとうございます」
お礼にお茶でも……とは思うものの、空はみるみるうちに暗くなり大粒の雨が窓を叩くようになってきている。お茶など飲まずに早く帰った方がいいだろう。しかし、責任感の強い斎藤は一度引き受けた仕事を放棄することなど当然無く、全ての網戸ロックを付け終えたころには、土砂降りと言っていい空模様になってしまっていた。しかもかなり濡れてしまっている。
「二階の雨どいのネジが緩んでいるようで、ぐらぐらしている。一応ねじ止めはしておいたがかなりさびていたのでな、あまりもたないだろう。雨も漏れて家が傷むし台風など来たら危険だ。機会があればちゃんと治した方がいい」
「はい。ありがとうございました」
古い一軒家なのでたいていいつもあちこちどこかが壊れているのだ。一度総点検してもらったほうがいいとは思ってはいたのだが、いかんせん経済的にできなかった。これからお金をためて検討しよう。
「斎藤さん、結構濡れてしまいましたね。タオルで大丈夫ですか? シャワーでも……」
「いや、どうせここから駅まで歩けばまた濡れる。では、俺はこれで失礼する」
猫用品を運んでくれて設置してくれて、網戸ロックをつけてくれたのになにもおもてなしもできず返してしまうのは申し訳ないが、空はどんどんくらくなっている。早く帰った方がいいだろう。
千鶴がぺこぺこ謝る中、斎藤は軽く手をあげ借りた傘をさして帰っていった。
千鶴は、ふうと一息ついて、さっそく猫を覗きに行った。黒猫はゲージの中においたキャリーバッグの中に入ったまま、暗闇でも光大きな目で千鶴を見る。
警戒してるかな? 斎藤さんはしばらく放っておけって言ってたよね。
千鶴はキャリーバッグとゲージの扉を開け、和室の扉は閉めてそっと廊下に出た。落ち着いたら自分で部屋の探索を始めるらしい。水もエサも、母猫の匂いのついたタオルケットも置いてあるし猫砂も部屋の隅にある。
千鶴はリビングに行くと窓から外を見た。外は雨が激しく打ち付け嵐の様相を呈してきている。心配になった千鶴がスマホで調べると、なんと最寄り駅の電車が止まっているではないか。
「斎藤さん!」
斎藤はまだそれほど遠くには行っていなかった。追いかけて来た千鶴に驚いたようだが、電車が止まったと聞いて一緒に家に帰ってくる。ほんの十分程度なのに、千鶴も斎藤もぐっしょり濡れてしまった。
千鶴が渡してくれたタオルで顔と髪を一度に拭き上げた斎藤は、スマホアプリでタクシーを探していた。
わ……斎藤さんのオールバック、初めて見た。
水も滴るいい男とはまさに斎藤のためにある言葉だろう。長めの前髪はタオルとともにそのまま頭長にとどまっており、そのせいで額、鼻と整った顔立ちの下にまつ毛に囲まれた深い青色の瞳が際立つ。つうっと頬から顎にかけて雨粒がつたい、ポタリと斎藤のTシャツにシミを付けるところまでまるで映画のように美しい。
「……つかまらんな」
急な雨のせいでタクシーは出払ってしまっているらしい。
「あの、しばらくゆっくりしていってください。お風呂いれますので」
「いや、さすがにそれは……」
「風邪ひいちゃいますよ」
押し問答をしていると、斎藤はクシャミをした。
「ほら! 早く入らないと。兄の服取ってきますね」
バタバタと用意し始めてしまった千鶴に、斎藤はあきらめてため息をついた。確かにジーンズからシャツから髪まで頭から水をかぶったように濡れてしまって、このままでは千鶴の家にも上がれない状態なのだ。タクシーがつかまるのがいつになるのかわからないが、それまでこのずぶぬれ状態で玄関に立っているわけにもいくまい。
「……世話になる。すまないな」
結局二人とも風呂に入った後もタクシーはつかまらなかった。千鶴が冷蔵庫の中のもので夕飯を作るというと、斎藤も手伝うと言ってくれて、二人で作る。斎藤は意外にも料理がうまかった。千鶴よりもうまいかもしれない。千鶴はどちらかというと切って煮るだけ、炒めるだけのズボラ料理なのだが、斎藤はきちんとだしをとり丁寧に作るタイプだった。
夕飯を食べながらテレビをつけると、爆弾低気圧が発生ししばらく居座りそうだと注意を促すニュースで騒がしい。外は雨だけではなく風も強くなってきて、帰宅難民が何百人も出ている状態だという。
しばらくの押し問答の末、結局斎藤は泊っていくことになった。
一階の客間に布団を敷いて、斎藤にはそこで寝てもらう。千鶴はいつも通り二階の自分の部屋で。
慣れ親しんだ自分の家だが、斎藤が同じ部屋に居ると思うと妙に寝付けない。寝付けない理由はそれだけではなく、外の嵐がすごいからでもあるが。風が音を立てて木造の一軒家を揺らし、雨粒が庭の木々や窓ガラスにあたる音が恐ろしい。
両親が事故にあったと連絡があったのもこんな夜だった。
いつもは家にいる両親が珍しく遠方に用事で不在の夜。高校生だった薫と千鶴は深夜に電話で起こされたのだ。暗いベッドの中にいるとその時のことを思い出してしまうので、千鶴は寝るのをあきらめてベットサイドの灯りを付けた。本でも読もうかと手を伸ばした時、小さな声が聞こえてくるのに気が付いた。はじめは雨や風の音かと思ったが、集中して聞いていると違う。か細く小さな声。
猫ちゃん……
夜行性だし初めての場所で不安なのだろう。千鶴は高校のクラスTシャツとジャージの長ズボンの自分の姿を見降ろす。この格好ならもし斎藤と顔を合わせても大丈夫だろう。
斎藤を起こさないようにそっと一階に降りた。