千鶴ちゃんの七つのリスト




斎藤さん編 1 



まずは猫ちゃん……斎藤さんの方に連絡してみよう!

 

 

 

千鶴は急いで自分の席に戻り、斎藤の内線へ電話をかけてみた。ちょうど席にいたのかワンコールで斎藤の静かな声が聞こえてくる。

『はい、斎藤です』

「斎藤さん、雪村です。仕事中にすいません、あの、私、掲示板にあった猫の張り紙を見ました。黒い子猫を譲っていただきたいんですが、どうすればいいか教えていただけませんか? お昼休みでもいいので……」

『ああ、あれか。いやこちらこそ助かる。今朝はそれほど急ぎの仕事も打ち合わせもない。もし雪村の方も時間があるようなら今から五分ほどいいか』

斎藤に指示された通り、廊下にあった張り紙のところまで行ってみると、斎藤が先にきて、腰を曲げて張り紙に何か書いていた。ジャケットは着ておらず真っ白なYシャツがまぶしい。ぶらんとぶらさがったネクタイは細身の濃いブルーだ。千鶴が近づいたのに気づき顔をあげる。

「雪村」

「すいません、お忙しいのに」

「いや、かまわない」

何を書いているのか見てみると、黒猫にバツをうち、『売約済み』と手書きで書いてあった。

「よかった。かわいいからすぐに売れちゃうかと思って急いで連絡したんです」

「雪村が一番乗りだ」

スッと立ち上がりサインペンの蓋を閉める。ふわりとシトラスの香りがした。

優しい笑顔で見られて、千鶴は何故か赤くなる。

それでいつ渡すかだが、今週の土曜日はどうだ? 猫はうちの実家にいるのでそこまで来てもらう必要があるが」

千鶴は頷いた。もらえるなら早いほうがいい。お母さん猫や兄弟たちと別れさせてしまうのは可哀そうだが、猫を飼おうと決めた瞬間に早く欲しくて欲しくてどうしようもなくなってしまったのだ。

名前ももう考えた。真っ黒な毛並みなので『夜』はどうだろう。一緒に寝て一緒に起きて。千鶴の家は広いし二階もあるから子猫の遊び場には困らない。夏はエアコンをつけてあげて冬はこたつで一緒に暖まろう。

にゃあ、と鳴いて一緒のお布団に入ってくれる『夜』を想像するだけで、千鶴はにやにやしてしまった。

「猫が好きなのだな。かわいがってもらえると嬉しい」

「はい、大事にします。じゃあ土曜日に伺いますね」

「ああ、俺も実家に行って待っている」

そうして教えてくれた斎藤の実家に、土曜日の午後二時に現地集合で集まることとなった。

 

 

斎藤の家はかなり大きな純和風の家だった。いや、家というよりは屋敷? 邸宅? 何と言っても正面に車回しがあるのだ。

「すごい……」

すっかり委縮してしまった千鶴は、こわごわと呼び鈴を押した。

『はい』

と中年の女性の声がインターホン越しに聞こえて来たので、どもりながら名前と訪問の理由を言う。

『ああ、雪村さん。坊ちゃまから伺っていますよ。どうぞおあがりください』という声と共に、玄関からカチリという音がした。どうやら鍵が開錠されたらしい。

 

坊ちゃまって、斎藤さんのことだよね。つまりさっき出てくださったのはお手伝いさん……

 

それはそうだろう。これだけ広い家を斎藤の母親が一人で掃除するわけもない。持ってきた手土産は近所のおいしい和菓子屋のお饅頭だが、こんな家に住んでる方々の口には合わなかったかもしれない。服装もこんな服でよかっただろうか。千鶴はそう思いながら自分の服装を見下ろした。

黒のスキニーに青いストライブのオーバーブラウス。猫を持ち帰るのだからカジュアルでいいとは思ったが、こんな広い玄関にいると場違いに思える。

靴を脱いで勝手に上がってしまっていいのか迷っていると、足音がして斎藤が顔をのぞかせた。

「ああ、来たか。悪いなせっかくの週末に」

会社で見慣れた顔をみてほっとしたのもつかの間、初めての私服の斎藤を見て千鶴はドキリとした。

 

かっこいい……

 

黒のストレートジーンズに白のTシャツ、上に黒のニット地のカーディガンというラフな格好だが、モノトーンが斎藤に似合っていた。スリッパを出してくれた時にふわっと匂うシトラスの香りが会社と一緒で、さらにドキドキしてしまう。

「黒猫が欲しいとは聞いていたが、一度全部の子猫を見てみるか。こっちだ」

連れて行ってもらったのは、長いピカピカの廊下をずーっと行った一番奥にある狭めの和室だった。障子が閉められ薄暗いその和室の隅に囲うように段ボールの壁が作られていて、中からミャーミャーという子猫の甘い泣き声が聞こえてくる。

手招きしてくれた斎藤についてそっと覗いてみると、毛玉のような子猫が五匹じゃれあっていた。千鶴のお目当ての『夜』もいる。

「わあ! かわいい!」

跪いてのぞき込み、横たわった母猫とその足の間でうごめいている子猫たちを眺めた。

「お母さんも真っ黒なんですね」

赤ちゃん猫は黒は一匹だけで、あとはブチが二匹と灰色だ。

「母猫は俺が大学生の時に拾ってな。ちょうどこの子猫たちぐらいの大きさだった。夜、ランニングをしていたら公園から鳴き声が聞こえてきたような気がしてみてみたら、ベンチの足のところに一匹だけ」

近くに段ボールの箱があり、おそらくほかにも子猫はいたのだろうが……

「広い公園だったのでな。カラスや犬にやられてしまったのだろう」

その後斎藤の家ですくすくと育っていたのだが、脱走名人の猫だったようだ。

「だがたいていは一日で見つけて保護していたのだが。まったく、ほんの数時間だというのにどこかのオス猫に手を出されてしまった」

腕を組んで憤慨したように言う斎藤が自分の大切な娘を傷物にされた父親そのもので、千鶴は吹き出してしまった。斎藤も自分の発言に気づいたのか、気まずそうに咳ばらいをする。

「ほら、これが雪村が希望していた黒い猫だ。抱いてみるか?」

急に耳元で斎藤の静かな声が聞こえ、千鶴はビクリと顔を起こした。千鶴の背中から覆いかぶさるようにして斎藤が両手を伸ばし、黒い猫を持ち上げる。

 

わ……! 斎藤さんの息が……それに背中に感じるのは多分……

 

斎藤の硬い胸だ。これではまるでバックハグではないか。しかし飛びのくようなスペースは無いし、斎藤にその姿勢で黒猫を渡されたので、千鶴は固まったまま手の中の黒猫を眺めた。

「全身黒いのではなく、ほら、見て見ろ。前足としっぽの先は白い」

後ろからのぞき込むようにして黒猫の模様を長い指で指す。千鶴は顔が熱くなるのを感じた。「ほんとうですね」と相槌を打つが棒読みになっているのは否めない。

 

さ、斎藤さん! 近すぎます。い、いい匂いがして……手、大きい。指、長くてきれい……

 

誰か助けて! と思った時、ちょうど廊下から、お手伝いさんが顔をだした。

「まあ、坊ちゃん、探しましたよ。お客様にお茶をお出しする前にこんなところにご案内するなんて。サンルームの方にお茶のご用意をしましたんで、どうぞ」

「ああ、そうか。いくか、雪村」

すっと斎藤の体温と匂いが離れ、千鶴はほっとしたのかがっかりしたのか。よくわからない感情に戸惑いながらも顔の熱をさまそうと掌で扇ぎながら、斎藤の後をついていった。

 

斎藤に連れられて行った『サンルーム』は、和風の邸宅には似合わない洋風のしゃれた中庭だった。ガラスで囲まれているが今日は正面が開け放されていて、気持ちのいいの風が入ってきている。

「母親の趣味でな。イングリッシュガーデンが作りたいとのことでこの区画だけこうなっているのだ」

困ったような顔の斎藤を見て、千鶴はまた笑ってしまった。自由なお母さんなのに違いない。斎藤のようなかっちりしたお父さんをきっと翻弄しているのだろう。仲のいい家族なのだなというのが伝わってくる。

「素敵な所です。私、ここが大好きです」

小さなタイルで模様が描かれている真ん中のスペースには洋風のガーデンチェアとテーブルがあり、その上にケーキとポットが置いてあった。

斎藤に促されて椅子に座り、花や緑にあふれた庭を見ながら二人でゆっくりとお茶をした。

会社では遠い存在の斎藤とこんなゆっくりした時間を持つなんて。まるで現実の事とは思えない。

名前も知らない小さな花が咲き乱れたイングリッシュガーデンを背景に、高そうなティーカップで紅茶を飲む斎藤……

会社の女子社員達に見せてあげたいほど絵になっている。

「ところで、どうして急に猫を飼おうと? 育てる環境は整っているのか?」

「家は一軒家で広いですし、引っ越す予定も特にないので大丈夫です。家族は私一人なんで寂しがっちゃうかもですが、定時で必ず帰りますし週末は一緒にいます」

「そうか、それならいいが。これまでも飼っていたのか?」

斎藤はティーカップを持ったまま視線だけで千鶴を見た。

「ずっと飼いたかったんです。でも今までは一緒に暮らしていた兄が猫がダメで。この前兄が就職で家を出たので、これまでできなかったことをやろうって思ってやりたいことのリストを作ったんです。猫を飼いたいっていのはその中の六番目です」

「なるほど。やりたいことリストか、面白そうだな」

「そうですか? 多分他の人には大したことの無いことだと思いますけど。例えば夕飯を作らないでポテトチップスですます、とか」

千鶴が照れ隠しにそう言うと、斎藤は一瞬目を見開き次の瞬間に笑い出した。低くて心地のいい笑い声がイングリッシュガーデンに響く。

「ポテトチップスの夕飯か、不良だな。他には何かしたいことはあるのか?」

レアな斎藤の笑い声に、千鶴の顔はさらに赤くなった。

「たくさんありますよ。えーっと、夜に散歩するとかハンモックを買うとか……あ、営業部の沖田さんが不用品でハンモックをあの掲示板に貼っていたので、明日いただきに伺う予定なんです。それに、ゆっくりと高級なコース料理もたべてみたいですし、後は……」

言いかけて千鶴はふと気づいた。

リストの七番目だ。

 

『セックスをしてみたい』

 

斎藤を見ると、ちょうど目が合った。

たった今自分が思いついたことに衝撃を受け、千鶴の息は一瞬止まる。

目の前では斎藤がケーキを一口食べながら、「そう言えば俺の張り紙の横に総司の張り紙もあったな。その中にハンモックがあったのか」と話しかけてきているが、千鶴には聞こえていなかった。

 

そうだ、斎藤さん……

 

斎藤にリストの七番目について頼んでみるのはどうだろう。

先程黒猫を渡してもらう時に、後ろから抱かれるような体勢になった。背中と腕も触れ合ったし耳元でささやかれもしたが、合コンの時に感じたような嫌悪感はまったくしなかったのだ。それどころか温かくてがっしりした体に包まれる心地よさとさわやかな香りにドキドキしてしまったくらいだ。

おまけに斎藤は優しい。仕事で何度か助けてもらったし、すれ違う時は会釈をしてもらえたり食堂で会う時は世間話をするぐらいには仲もいい。

「さ、斎藤さん……」

「うん?」

話してみようか。

斎藤なら、千鶴の提案を聞いても笑い飛ばしたり言いふらしたりはしないだろう。

だが、斎藤の女性関係についてはあまりしらない。ワンナイト的な関係に頷いてくれるかどうか……

千鶴は斎藤の顔を見てみた。クールビューティーと女子社員から騒がれている顔が不思議そうに千鶴を見ている。合コンで会った男性のように単なる性欲から千鶴の提案を受け入れてくれるようには見えない。

千鶴の頭は猛スピードで働いていた。

どうすれば斎藤が『うん』と言ってくれるのか?

「……斎藤さん、私……」

千鶴は頭の中で立てた戦略をもう一度おさらいした。よし、これで行こう。

「私、両親を高校生の時に亡くしたんです」

突然とんだ会話に、斎藤がケーキから目を離して千鶴を見た。

「雨の夜に高速道路でのスリップ事故に巻き込まれて二人一緒に……。そのあとは、親戚もいないので双子の兄と二人で必死になってバイトをしてお金を稼いで家事と勉強をやって……両親が死んだ哀しさに浸ることもできないくらい一生懸命の日々でした」

「……そうだったのか。その年で一軒家に一人暮らしとは不思議に思っていたのだ。ではご両親との住まいにずっと住んでいるのか」

千鶴は頷いた。

「はい。家族で住んでいて両親が亡くなってからはそこに兄と二人でずっと住んできました。大学の学費は大変でしたけど、兄と二人で頑張って。兄は研究の道に進んだので、私は大学を卒業して就職して。今の会社に勤めてからは、兄の生活費と学費も払っていたので節約ばかりしていて、猫を飼う余裕なんてなかったんです」

斎藤の深い青色の瞳が同情の色に染まる。

「その兄も今年の四月にようやく就職して、家を出ました。就職先が九州の研究所だったので」

「そうか、それはよかったな」

「はい。ずっと走り続けてたのがようやく一息付けたような気分だったんですが……」

「……だったのだが……?」

千鶴はふっと視線を斜め下に外した。寂しそうに見えるだろうか。いや、実際に寂しいのだけれど。

「……家が広くて。帰っても誰もいないし、誰とも話すこともなくて心の中に大きな穴が空いたみたいな感じなんです。経済的にも時間的にも楽になるはずなのに、昔の方が良かったなんて思っちゃったりして」

家で薫のラケットを荷造りしたときの寂しさを思い出して、声が震えてしまった。

「そうか、なら猫を飼うというのもいい考えかもしれんな」

「はい、それにやりたかったリスト……七つ考えたんですが、とりあえずそれをやることで、寂しいとか余計なことを考えないようにできたらなって」

斎藤は大きく頷いた。

「いい考えだな。ちゃんと自分の考えていることを書くことによってやりたいことが明確になる。リストを一つづつ叶えていくのは達成感もあるだろうし、それを実行していくうちに寂しさも埋まっていくだろう」

優しい青い瞳。

千鶴は口を開けて、やっぱり言うのはやめようかと迷った。斎藤はまさかそんな提案をされるとは思っていないだろう。

 

……ううん、ここで言わないと。斎藤さんに提案して断られるのならともかく提案すらしなかったら、多分もう他の男性に提案なんてできない。一度も経験しない人生で後悔しないの?

 

する。

セックスを経験できないと言うだけでなく、こんなチャンスを逃した臆病者の自分に幻滅するだろう。もうすでに性体験をするかしないかの問題ではないのだ。

未知の経験に一歩踏み出す勇気があるのかないのか。

これまで怖気づいていたことに挑戦して自分を変える気があるのか。

千鶴のこれからの生き方の方向性を決める問題なのだ。

千鶴はゴクリと唾を飲んだ。いよいよだ。

「……ありがとうございます。斎藤さんにそう言ってもらえると心強いです。あの、今回の猫みたいに、斎藤さんに協力してもらえそうなリストの項目があったら、またお願いしてもいいでしょうか」

斎藤はまたもや大きくうなずいてくれた。

「もちろんだ。俺ができることなら何でもしよう」

「ありがとうございます。あの……早速お願いがあるんですが。リストの最後で、七つ目なんですけど……」

斎藤はティーカップを持ち、紅茶を飲んだ。

「いいぞ、何でも言ってくれ」

急に空気が薄くなった気がする。

耳がキーンとして周囲の風景がぼやけ、音も聞こえなくなる。

背中を伝う汗の感触だけを感じる。

 

「わ、私と……セックスしていただけないですか?」

 

 


斎藤さん編 2 へ続く 


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