千鶴ちゃんの七つのリスト
斎藤の家にいった日の夜、沖田は深夜にふと目が覚めた。
見慣れない天井を見上げてしばらく考える。ああ、千鶴ちゃんの家か。
そうだ、今夜も泊まったのだった。二日連続だ。
夜に泊って、次の日も一緒に過ごして、またその夜も泊まる……こんなにずっと一緒にいるのに、まだまだ満足できない。もっと一緒にいたい。いったい自分はどうしてしまったのかとぼんやりしていると、隣に温もりがないのに気が付いた。抱きしめて、首筋に鼻を埋めて全身で千鶴を味わいながら眠っていたのに、今は隣は冷たくなったシーツのみ。いなくなって随分時間が経っているらしい。普通ならそのまままた眠りにつくのに、沖田は起き上がった。あくびをしながらどこに行ったのかと、慣れない家の中を探しに行く。
廊下にでると、妙な音が聞こえて来た。
ミャーミャーという泣き声、そして囁くようになだめる優しい声。千鶴だ。
ネコか。小さな小さな黒猫。
斎藤の家からもらってきてからずっと、千鶴は夢中だった。斎藤のアドバイス通り、連れて来てすぐは構いすぎないように少し離れた小部屋にゲージを作って中に母ネコや兄弟の匂いのついたバスタオルをいれてそっとしておいた。そわそわしている千鶴をなだめて夕飯を食べ、お風呂に入り、まるで同棲カップルのようにまったりと同じ時間を過ごす。
沖田がまた泊ることに千鶴は少し抵抗を示したが、もらったばかりの猫に何かあったら困るでしょ? と強引に納得させ昨夜と同じように……いや昨夜よりもたっぷりじっくり千鶴を堪能させてもらった。
にやにやしてしまう口元を手で隠しながら、沖田は暗い廊下を歩いた。やっぱり想像どおりだ。猫を置いておいた奥の和室の灯りが廊下に漏れている。
和室の隅に置いた小さなスタンドライトのあたたかなオレンジ色の弱い灯り。
部屋をそっと覗くと、案の定ゲージの前に千鶴がしゃがんで、腕の中に子猫を抱いてなだめていた。夜になって寂しくなったのだろう、千鶴が撫でているのにミャーミャーと黒猫は泣き続けている。
「寂しいよね、ごめんね」
千鶴のささやき声。
「急に一人になっちゃったもんね、すごくわかるよ。よしよし、いい子ね。これからは私の家族になってね。私がずっと一緒にいるからね」
淡い光の中にぼんやり浮かぶ千鶴の小さな背中。
沖田は和室の入り口に立ったまま、その背中を見た。
両親を若くに失くし兄が巣立った後に残された彼女。
昨日今日で色々話していくうちに、高校と大学の学費も双子の兄とバイトでまかない、大学を卒業せずに研究のために大学に残った兄の学費と生活費も千鶴が就職した給料で支払っていたということを聞いた。家事と仕事を頑張り、その分兄の就職で空っぽになってしまったのだろう。
空っぽの家と時間を、それでも自分でやってみたかったことリストなんて作って前向きに埋めていこうと頑張ってる細い背中。
あの背中を腕の中に抱え込んで守ってあげたい。この先の人生で、もう二度と寂しいと思わないように。そして、その腕の中で沖田を見上げ、笑ってくれたら。
あー……ほんとに落ちちゃった感じがするな。自分でもなんでかわからないけど。
一生を共に過ごしたい結婚相手かとりあえず付き合うだけの相手かは、わかる時にははっきりわかると聞いたことがある。
確かにわかった。
この後どんな美人や相性のいい女性が出てきたとしても、千鶴がいい。
沖田は部屋に入ると千鶴の隣にしゃがんで、千鶴の手の中から黒猫を持ちあげた。
「……こいつも眠れないって?」
「沖田さん」
千鶴が驚いて振り向いた。そして沖田の猫の持ち方を見て慌てる。
「だ、だめですよ。そんな風に持ったら怪我しちゃいます」
「そうなの?」
教えてもらった通りに持つと、猫は静かになった。不思議そうに大きな灰色の目を見開いて沖田を見上げている。
「沖田さん、明日スーツを取りに一旦家に戻るんでるよね、朝早いんじゃないですか? ネコちゃんは大丈夫なんで寝ててください」
「そうだけど……」
そう言ってから沖田は吹き出した。千鶴は「なんですか?」という顔で沖田を見ている。
「なんかさ、夫婦みたいじゃない? 赤ちゃんが夜泣きして夜に二人で困りながらあやしてる新米夫婦」
千鶴は一瞬きょとんとした後、同じく楽しそうに声を出して笑った。スタンドライトの灯りがその笑顔の輪郭を金色に輝かせていてきれいだ。
沖田はぼうっと見とれていた。
こんな夜がずっと続いたらいい。
隣に笑っている千鶴がいて。
涙がでそうなくらい親密で幸せな夜。
「……恋人と一緒に暮らすとか結婚とかってさ、こんな風なんじゃないかな。重いものを持ってあげたり、ごはんを作ってもらったり、夜に寝ぼけ眼で笑ったり」
沖田の言葉に千鶴は小さく頷いた。
「そうですね。この週末は自分でも意外なんですが、すごく……楽しくてリラックスできました。不思議ですよね。家族以外の人とこんなに長い時間を一緒に過ごして……一人でいるよりも楽なんてことこれまでなかったです」
千鶴の言葉に沖田の胸の動悸は強く早くなった。
これは沖田から言うまでもなく、千鶴の方で自覚してくれたのではないだろうか。沖田との生活が楽しいこと、沖田と過ごす時間が幸せなこと。これからも二人でこんな時間をすごしたい、だから沖田さん、私と……
「だから……」
言い淀んだ千鶴。沖田は促した。
「うん、何?」
千鶴は恥ずかしそうに視線をそらせた。沖田の手の中の黒猫を見つめる。スタンドライトの弱い灯りのせいで頬にくっきりとした影を落としている千鶴のまつ毛から目が離せない。
「……君の気持ちを言葉で聞かせて?」
我ながら甘い声だ。子猫を甘やかすような低い声。
千鶴は恥ずかしそうに笑って、沖田がうっとりと見守る中で桜色の唇を開いた。
「だから、これからちゃんと合コンとかに行こうって思いなおしたんです」
千鶴の言葉を聞いて、沖田は目を見開いた。しばらく黙って、まじまじと千鶴を見てしまった。
「……え?」
「前に嫌な思いをしたんでもう合コンに誘われても行くのはやめようって思ってたんですけど、頑張ろうって思いなおしました。何度も行くうちに、きっと沖田さんみたいな人と出会えるかもしれないですよね」
「……僕みたいなの……」
「はい。嫌悪感もないし、逆に触ってもらえると気持ちよくて安心して……って人です。そういう人に恋人になってもらえたら嬉しいなって」
恥ずかしそうに頬を染めて、沖田の手の中の黒猫を撫でながら言う千鶴。
一方沖田は訳が分からなかった。
は? 何? 僕みたいな彼氏を見つけに合コンに?
なぜわざわざ別の男を探さなくてはいけないのかわからない。
沖田は唇には笑みを貼り付けていたが目は笑っていなかった。
「……そっか、合コンね……」
「はい。二回いっただけで諦めてちゃだめですね。結婚紹介所とかマッチングアプリとかもいいかもですね。あのリストに八番目を作って、それは恋人を作る、にしようかと思……」
「あのさ」
沖田に強引に遮られて、千鶴は視線を黒猫から沖田へ移した。薄暗い中見上げるようになった千鶴の顔が可愛くて、沖田の心臓が跳ねる。しかしさっきの言葉は聞き捨てならない。
「僕との週末が楽しかったんだよね?」
「……はい」
「僕みたいな彼氏が欲しい、と」
「……えっと……はい」
「じゃあなんで僕はダメなの」
千鶴のきょとん顔を見て、沖田はイライラした。
なんで『まったく想定外でした』って顔してるのさ。
「僕は結婚もしてないし彼女もいないよ? 千鶴ちゃんが今言う事は、『合コン行ってみます』とかじゃなくて、『沖田さん、彼氏になってください』じゃないの?」
「沖田さんは……」
千鶴は言い淀んだ。視線を逸らして気まずそうな顔をするのが余計に腹が立つ。
「何」
「沖田さんとは、私はつきあえないかなって思うので……」
「はあ? なんでそう思うの」
沖田はイライラを通り越してムカムカしてきた。この週末は楽しかったって言った口でつきあえないとは。
「私、その……」
言葉を探している千鶴を見る。千鶴はしばらく考えて、思いきったように沖田を見た。
「私がしたいのは、ちゃんとしたお付き合いなんです。その…………沖田さん、モテますよね、多分私、それは……」
沖田の眉間のしわが深くなる。
「僕がモテるとなんでだめなの」
千鶴は自分の手で赤くなった両頬を抑えながら恥ずかしそうに言った。
「つまり……沖田さんが悪いんじゃなくて、私が……その……多分すごく嫉妬しちゃうので」
沖田は目を見開いた。
何かが遠くからひゅーっと飛んできて沖田の心臓をまっすぐ突き刺した。実際にぎゅううううっと胸が痛くなる。
『嫉妬しちゃう』とは……。
恥ずかしそうに頬を染めているところもかわいい。可愛すぎる。
落ち着くために二回深呼吸して。
「……千鶴ちゃんの嫉妬はぜひ見たいけど……でも僕は彼女がいたら合コンにもいかないし浮気とかしないよ、絶対。他の女の子といちゃいちゃしたりとか二股とかも」
「でも、私聞きました。沖田さんの……沖田さんの、その……セ、セフレだっていう人から、沖田さんは彼女は作らないって。私にはそういう関係は難しいかなって……」
「ああー……それは……」
頭が痛い。ちゃんと訂正しておけばよかった。言いたいなら言えばいいと放置していたせいでここで本命からフラれるのは避けたい。
「それはさ、誤解なんだよ」
いや、自分が悪い。
告白されたらたいして好きでもないのに受け入れて付き合ってきた。そんな付き合いは当然長く続くわけもなく、彼氏なのに冷たい沖田に傷ついて、自分から別れを告げて来た子もいれば、あまりにも束縛がひどくて沖田から別れを告げた子もいる。そんなことを十代からくりかえしているうちに、女の子と付き合うのが面倒になってしまったのだ。
同じような会話をして同じような店に行って食事をし、同じような場所でデートをしてホテルでセックスして別れる。やっていることは要はそれだけで、社会人になって時間が貴重になると正直な所時間の無駄としか思えなくなってしまった。
それですげなく断り続けていたら、あることないこと噂が立ってしまったのだ。
最初は訂正していたが、途中からそれも面倒になった。目立つ人間に対して、それほど悪気もなく作り話をする女性がこれほど多いとは。好きだと言うくせに沖田のことなど考えていない。自分の虚栄心や承認欲を満たすための道具として沖田を使っているだけ、その場の楽しい話題として沖田を消費しているだけじゃないか。
うんざりして、変な噂も放っておくようになった。わかってくれる人だけわかってくれればいいと思っていたのだが、千鶴に変な誤解をされてしまうのは痛い。
「……っていうわけでね、なんか言い訳すればするほど嘘臭くなるけど、もう彼女は二年近くいないし、セフレなんて一人もいないよ」
「そんな……急に言われても……」
「千鶴ちゃんには信じてほしいんだけど」
気恥ずかしいことを言ってるなという自覚はある。沖田は自分の頬が熱くなるのを感じた。きっと耳まで赤くなっているに違いない。
千鶴は何も言わなかった。沖田も何を言えばいいのかわからなくて黙り込む。
くーくーという子猫の寝息が沖田の掌の中から聞こえてくる。
真夜中の静けさの中で、自分の心臓の音と子猫の寝息だけが大きく部屋に響いているように感じた。
沖田は気まずくて、とりあえず何かしようと掌の中の子猫をそっとゲージの中に戻した。子猫は疲れていたのか、目を覚まさずにそのまま柔らかなタオルを敷き詰めたベッドに丸くなる。
千鶴があまりにも長い間何も言わないので、沖田は心配になってきた。
断り文句を探しているのだろうか?
振り向いて千鶴の顔を見ると、千鶴は両手で顔を覆ってうつむいていた。
「え? ち、千鶴ちゃん? どうしたの」
まさか泣いてる?
焦って顔を覗き込むと、千鶴が指の間から沖田を見た。
沖田はほっとした。
泣いてない。顔が真っ赤だ。この表情は……
「千鶴ちゃん……」
沖田は千鶴の手首をつかんで千鶴の顔を見ようとすると、千鶴は顔をそむけた。これは……
期待をしていい表情だとおもうんだけど……
「千鶴ちゃん、顔見せて」
「嫌です。手、離して……」
「なんで。見せてよ」
両手首をつかんでこちらを向かせると、千鶴は真っ赤な顔で恨めしそうに沖田をにらんだ。
「……嬉しくて変な顔になっちゃって……」
「……」
沖田は胸がいっぱいになった。思わず千鶴をぎゅっと抱きしめる。
「……嬉しいの?」
返事がないので胸の中の千鶴の顔を覗きこんだ。
「ねえ、僕と付き合うってことでいいんだよね?」
コクンと千鶴が頷くの感じて、沖田の胸の奥からクスクスと笑い声がこみあげてくる。
こんな幸せで浮かれた気分は初めてだ。
「……明日も泊まっていい?」
「でも、明日は会社が……」
「家に一回帰って身の回りのものを持ってくるよ」
ああ、キスがしたい。
沖田は少しだけ体を離して、千鶴の頬に両手を添える。千鶴は恥ずかしそうな顔をしていたが微笑んでいた。その表情を見て沖田もほおが緩む。さぞかし自分はにやけた顔をしていることだろう。
そのままキスをして、もう一度抱きしめた。
「あー、たまんない。嬉しい。かわいい」
そっと背中に千鶴の手が回されるのを感じて、沖田は幸せがこみあげてくるのを感じた。千鶴の頭に顎をのせる。
「ねえ、明日もこの家に来ていいよね?」
「……はい。来てください」
ちゃんと了解を貰えて、沖田はさらに舞い上がった。天にも昇る気持ちとはこのことか。
「じゃあさ、明日の夕飯は僕が準備するよ」
「……沖田さんがですか? 料理は苦手じゃ……」
「大丈夫。明日の夕飯は千鶴ちゃんのリストの……何番目だっけ? 忘れたけど、ポテトチップスにしよう。いろんな味のやつ買ってくるから」
千鶴が胸の中で吹き出すのを感じて、沖田も笑い出した。腹の底からあとからあとから幸せな気持ちが吹き出してきて止まらない。
「それから夜の散歩を一緒にしよう? フレンチのフルコースデートも、あと朝帰りも協力できると思うし……全部僕と一緒にしようよ」
そうだ、これから楽しい予定をいっぱい立てるのだ。
千鶴がやったことがなくてやりたいこと。沖田が千鶴とやりたいこと。
七つのリストを全部クリアしたら、それからは二人で日常を埋めていこう。
千鶴が胸の中で声を出して笑っている。顔を見上げて、沖田と目があい二人で笑う。
子猫はそんな声が聞こえているのかいないのか、くーくーと安らかに眠っていた。