千鶴ちゃんの七つのリスト
次の日の朝。
低気圧は無事通り過ぎて、カーテンの隙間から爽やかな光が差し込む中、千鶴は何かが焦げた匂いで目が覚めた。
隣には沖田はいなくて、起き上がった時に脚に違和感を感じる。あれ? と思う間もなく昨日の夜と明け方の出来事を思い出した。
そっか、夕べ……
暗い部屋と、沖田の苦しそうな顔。激しい雨音を強く覚えている。
いつもは両親が亡くなった夜を思い出すせいで雨の夜はなかなか眠れないのに、昨日は何も考えずに眠ってしまった。
沖田は優しかった。
大切な宝物のように千鶴の全身に触れ、それを沖田も楽しんでいるように見えた。何度もキスをしてくれて、千鶴の感じ方を気にしてくれて。あまりの優しさに泣きたくなってしまうくらいだった。
……セフレでも沖田さんと関係を持ちたいっていうの、わかるな……
あんな大切にされているように思わせてくれるのなら、彼女じゃなくてもいいと千鶴でも思ってしまった。初めてで痛かっただろうしと、二回目は千鶴が気持ちよくなることを一番に考えてしてくれた。千鶴自身は、一晩に二回もするのかと驚いたのだが。
だが、結局明け方起こされて、もう一度してしまった。
『めくるめく快感、理性が吹っ飛ぶような体験、知らなかった世界を味わってみたい』
これが千鶴が七番目のリストを書いた理由だったが……
「……十分味わったよね……」
今思い出しても自分の痴態や声に恥ずかしくなってしまう。
でもその最中は、沖田の優しくて熱い目線に熱に浮かされたようになって、沖田の甘く艶やな声に自分の意思なんてなくなってしまって、「大丈夫だよ、全部見せて」と言われるがままに体を動かしてしまった。
こんな爽やかな朝日の下でも思いだすと目がトロンとしてしまうほど、甘く蕩けるような夜だった。
好きな人と初めてを経験できたと言うだけで幸せなのに、その内容自体もあんなに素晴らしかったなんて、初めてを失った思い出としてはこれで十分ではないだろうか。
今夜を大事に胸に抱きしめて、これからは一人で暮らしていくのだ。
しっとりと昨夜の情事を思い出して感傷に浸りたかったが、先程から漂ってくる焦げた匂いは緊急事態を継げているような気がする。その上、一階から「うわっ」という沖田の驚いた声がして、千鶴は慌てて立ち上がった。その時ふわりと沖田の匂いが自分の体からした。
沖田のいつもの香水の匂いじゃなくて、沖田自身の匂い。昨日はこの匂いに包まれていたのだ。
自分の体から違う男性の匂いがすること。
恥ずかしくて幸せな気分なこと。
手の感触やいろんな感触を体が覚えていること。
リストの七つ目を経験したことで、初めて分かったことだ。
どこか切ないこの胸の甘い痛みも、知らないよりは知れてよかった。
一階に降りていき台所へ向かうと、沖田がフライパンを持ち途方に暮れた顔をしていた。沖田の手元の散らかったハムや割れた卵、ダイニングテーブルの上にある皿、煙を上げているフライパンを見て、状況を把握する。
「おはようございます」
千鶴が隣に行って声をかけると、沖田は気まずそうな顔で頭を掻いた。
「ああ……もうちょっと寝ててもよかったのに」
「朝ごはんを作ろうとしてくれたんですか?」
「……」
沖田は顔を赤くして黙り込んだ。図星だったらしい。
「……美味しい夕飯を作ってくれたし、昨日はいろいろと……疲れさせたし? ちゃんと食べさせてあげようと思って」
作ったところで起こそうと思ったが、ゆで卵は爆発しハムは焦げてしまったらしい。
「料理はしたことがないんだよね」
千鶴は自分の唇がゆっくりと笑みの形になるのを感じた。
沖田は会社では何でもスマートにやってのけて、失敗したりまごついたりしているところを見たことがない。実際、天才肌というのか、要領がよく飲み会の手配から大規模プロジェクトのマネジメントまで余裕でやってのけてしまうのに。
その沖田が、千鶴の古い家の小さな台所で、朝ごはんに悪戦苦闘してくれているなんて。
恥ずかしそうな顔が可愛くて、千鶴は胸の奥がキュンキュンとなる。あんまり好きになりたくないのに。かっこよくて優しい上に、かわいいなんて最強ではないか。
「……ありがとうございます。嬉しいです」
千鶴の笑顔を見た沖田はふと真剣眼差しになった。
鮮やかな緑色の瞳が濃く陰り、千鶴を見ているのに千鶴と会話をしていないような瞳。飲み込まれてしまいそうな眼差しに千鶴も目が反らせなくなってしまう。
二人の間のわずかなスペースを、沖田は一歩進むことで埋めた。左腕が伸びてきて、千鶴の後ろの壁に手をつく。さらに体を寄せて肘で体を支えて、沖田の体が近くなる。広い肩で目の前がふさがれ、千鶴は沖田しか見えなくなった。
磁石で引き寄せられるように、沖田の唇が千鶴のに近づいてきた。瞳はずっと見つめあったまま、二人の唇が重なる。
沖田の唇は優しかった。
探るように千鶴の唇に重ねられ、いったん離して角度を変えて今度は啄むように触れる。触れたところがしびれたようになり意識がぼやけた。
優しく触れてくる唇の事しか考えられなくなったとき、そっと舌が千鶴の下唇に触れた。誘われるように開いた千鶴の唇の中に、それはするりと入り込んでくる。昨日の夜はあんなに激しかったのに、今は探るように許可を求めるように千鶴の反応を確かめながら口の中を探っていく。
穏やかな感情の交歓がさらに深まり、熱い欲の塊が千鶴の中に入ってきた。
口の中に千鶴のすべてがあるかのように、沖田の舌が念入りに千鶴を味わっていく。
沖田のキスはどこまでも優しかった。昨日の夜の、布団の中でしたような貪るようなものではなく、千鶴をあやすように甘やかすように、蕩けてしまうような甘いキス。
体は寄せてきてはいるもののどこにも触れておらず、触れているのは唇だけ。
……気持ちいい……
キスも気持ちいいけど、心が気持ちいい。
満たされているような感じがする。
千鶴がうっとりとキスに酔っていると、耳元で沖田の甘い声が聞こえた。
「……どうする?」
千鶴がぼんやりと瞼を開けて沖田を見る。沖田の瞳は黒に近いくらい陰って、千鶴と同じく溶けてしまいそうになっていた。
「これで終わる? それとも二階に行く?」
「……」
沖田の言葉が意味として理解できるまでぼうっと沖田を見つめ。
ハッと我に返って千鶴は赤くなった。
「あ、朝ごはんにします」
「どうして? 体が痛い?」
その訊き方が親密で、千鶴の顔は赤くなった。朝のキッチンでなにをしてしまったのかと千鶴は沖田から急いで離れる。
「か、体は……大丈夫です。あの、痛くないです、けど、朝ですし……」
「なんだ、残念」
笑みを含んだ沖田の声が後ろからして、千鶴は耳まで赤くなった。千鶴はバタバタと食器を出したりコーヒーの準備をしながら、さっきのキスのことを考える。
なんだったんだろう、あのキス……
夕べの、最中のものとは全然違うキスだった。何といえばいいのか……沖田の一部があのキスで千鶴の心の中に入ってきてしまったような。
危険だ。
これがセフレやワンナイトをたくさんしてる人のテクニックなのだろうか。
千鶴はつくづく、一晩限りでお願いしてよかったと思った。
あんなのが何日も続いたら、沖田のすべてが千鶴の奥深くに居座って離れられなくなってしまうだろうから。
遅い朝ごはんは、沖田の努力を活かすように、崩れたゆで卵とハムの焦げてないところを切り取り、さらにピーマンと玉ねぎをスライスにしてチーズと一緒にトーストにのせ、ピザトーストにした。
コーヒーを淹れて、二人で遅い朝食を食べて。
昨日のことを思い出すと恥ずかしかったけど、目が合うとにっこりと笑ってくれる沖田が美しすぎて、千鶴はぼうっとしながら食卓を囲んだ。昨日の夕飯とは違い、沖田の目が優しくて心が浮き立つ。
会社ではスーツを着ている彼しか見たことがなかったし、いつもピシッとしているのに、今の沖田は薫のフリーサイズの黒いTシャツを着て、寝ぐせのついた髪で、千鶴の作ったピザトーストをおいしそうに食べていて、かわいい。
「千鶴ちゃん? 僕の言ったこと聞いてた?」
ぼーっと沖田に見とれていた千鶴は、その声にハッと我に返った。何か話しかけられていたらしい。
「す、すいません。なんでしたか?」
「昨日話してたじゃない、やりたいことリストの話し。他にどんなのがあるのか見せてって」
ああ、その話か、と千鶴は席を立ってテレビの横に置いてあったメモとボールペンを持ってきた。沖田と自分の間に置いてメモを開けて見せる。
1.高いお店でゆっくり食事する(フルコースとか)
2.朝帰りをする。
3.夕飯をポテトチップスですます。
4.ハンモックを買う。
5.夜の散歩をする。
6.猫を飼う
7.セックスを経験する。
千鶴はとりあえず、4のハンモックの項目と7の項目にボールペンで横線を二本引いた。妙な達成感が胸に湧き上がる。
これを書いた時はさすがに七番目のこれはできないかもな……と思っていたのに蓋をあけてみればどうだ、なんとかなりの初期に達成してしまったではないか。しかも嫌悪感もなく誰もがうらやむような素敵な人で……そしてこれが一番大事なのだが、好きな人とだ。
好きな人と初体験を経験できたのなら、もう後は思い残すことは無い。心おきなくおひとりさまを楽しむことができる。
同じくメモを覗き込んでい沖田は無言だった。千鶴が沖田の顔を見ると、妙な顔をして線を引かれた七番目を見ている。
「……なんか、やな感じなんだけど」
微妙な顔のまま沖田が言う。
「え? 何が嫌でしたか?」
「何がっていうか……」
沖田はそう言うと口をつぐんで考えるように長い指で自分の顎のあたりを撫でていた。千鶴は続きの言葉を待っていたが、「まあいいや」と言われてしまった。
「他はどんなのがあるの? えーっと……高い食事に朝帰り……何これ」
沖田が吹き出す。「夕飯をポテチですますって、こんなとこに書かないといけないこと? 僕はまたスカイダイビングをしてみたいとかカジノに行って見たいとかそう言うのかと思ったよ。……で、ハンモックで? あとは……」
沖田の人差し指が指す順番でメモを見ていた千鶴は、5,6と来て、目を見開いた。
ネコチャン!
「わ、忘れてました! 斎藤さん!」
勢いよく立ち上がったので、椅子がガタンと大きな音を立てた。沖田がびっくりしたように千鶴を見上げている。
忘れていた、斎藤の実家にいって猫を貰う約束をしていたのだ。あの日、沖田にハンモック確保の連絡をして会う日を決めた後斎藤にも連絡したんだっけ。斎藤にも土曜日の午後と言われたが、その時間は沖田の実家に行く約束が先に入っていたから断り、次の日……つまり今日の午後からの約束にしたのだった。
時計を見ると、今から急いで準備をすれば間に合う。
千鶴は事情を沖田に話し、慌てて準備を始めた。
斎藤の実家は沖田と同じ豪邸だった。違うのは沖田のは洋風だったのだが、斎藤のは純和風というところと、お姉さんはおらずお手伝いさんがいたことだ。
お手伝いさんが出してくれたお茶を飲みながら、千鶴はうつむいて掌の中の湯飲みを覗き込む。
机の向かい側に座っている斎藤からの視線が痛い。
気まずい。
気まずくて、斎藤の顔が見れないし、隣に座っている人の顔を見れない。
手のひらの中のお茶を覗き込むしかないのだ。
「……なぜ総司が一緒にいるのだ」
斎藤の静かな目が、千鶴とその隣に座っている沖田を交互に見つめていた。
そうだろう。当然の質問だ。千鶴もなぜ沖田が自分の隣に座っているのかわからないのだから。
「荷物持ちだよ。猫以外にも飼育グッズがいろいろあるでしょ?」
家を出るときに千鶴も同じことを言われた。一緒に斎藤の家に行くという沖田を断ろうとしたときだ。
『千鶴ちゃんさあ、猫を一匹持ち帰るだけとか思って無い? 多分いろいろ他に荷物が出てくると思うよ』
『そういうのはあとから別で買いに行こうと思ってたんですけど……沖田さん、猫を飼うの、詳しいんですか?』
『猫には詳しくないけど、斎藤君には詳しいからね』
そう言われて、荷物持ちに沖田も絶対一緒に行ったほうがいいと主張されて、千鶴は半信半疑で沖田と一緒に来たのだが……
案の定、出迎えてくれた斎藤の顔を見て千鶴は失敗したと思った。斎藤の顔に不信感があふれていたのだ。
荷物持ちはわかる、だがなぜそれが沖田なのか、という不信感だ。
斎藤が知る限り、沖田と千鶴の接点なんて無いはずなのだ。そしてそれは正しい。なのになぜ、休日に一緒に斎藤の家に来るのか。
それの答えは千鶴にもわからない。千鶴だってここに来る前に、沖田までついてくることはない、斎藤に何か誤解されるだろうし説明も難しいから来ないでいい、ということをさんざん言ったのだ。なのになぜついてこようなんて言うのかと、何度も沖田に聞いてもごまかされてしまうし……
だから黙って掌の中のお茶を興味ぶかそうにのぞき込むしかないのだ。
「……」
斎藤は深い青い瞳で沖田をじっとみた。だが沖田は平然として見返している。斎藤はそれ以上は追求をあきらめたのか、お茶は飲まずに立ち上がった。
「猫を見るか?」
助かったと千鶴は大きくうなずく。
「はい! お願いします」
この気まずい雰囲気を、きっとネコちゃんが緩和してくれるに違いない。
案内されて奥まった和室に行くと、写真通りお母さん猫の周りに子猫はわちゃわちゃと遊んでいた。千鶴が一目ぼれした真っ黒な子猫もいる。写真ではわからなかったが、しっぽの先だけが白いのがまたかわいい。
「かわいい!」
千鶴はしゃがんで、近寄ってくる猫たちに手を伸ばした。