千鶴ちゃんの七つのリスト
私と、セックスしてくれませんか!?
思い切ってそう言った後の沈黙は痛かった。しばらく下を見ていたがあまりにも反応がないので、そろっと顔を上げて沖田を見てみる。
沖田は、ぽかんとした顔をしていた。
「今……幻聴?」
「げ、幻聴じゃないです。あの、私……その……一度経験してみたくて……」
「……」
沖田は今度は心配そうな顔をする。
「千鶴ちゃん、頭、大丈夫? 酔っぱらってる? それともこれが何か怪しい薬だったとか?」
沖田はそう言って、机の上に乗ったままの豆菓子をつまんでしげしげと観察した。
「いえ、よ、酔ってないでです。変な薬物もやってないです。その……真剣に沖田さんにお願いを……」
「……」
沖田は相変わらず鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。こんな雰囲気でエッチをするしないの話をするものなのだろうか。外は大雨なのに二人の間の空気はからっからに乾いているではないか。もうすこし、こう……湿り気が欲しい。
沖田が相変わらず何も言わないので、千鶴は説明することにした。
「私、その、ずっと兄と二人暮らしだったんですが、先週就職して九州に行ってしまいまして。それでその……私、両親が早くに亡くなってしまったので、兄と二人でずっとバイトしながら高校や大学に通いまして、就職した後も兄は大学に残って研究を続けていたので、生活費とかは私のお給料だけで、その……つまり言いたいのは、時間的にも経済的にもずっと余裕がなかったってことなんです。それで、一人暮らしになりましたしお給料ももう私一人分の生活費でよくなったので、これからはこれまでできなかったことをやってみようと思いまして……」
「ハンモックとか? やりたかったことをやってみようと思ったとかさっき言ってたよね」
「はい! そうなんです。思いつくことをいろいろリストにして。ハンモックはリストの四番目なんです。それで、そのう……せ、性体験を、ですね。一度してみたいなって言うのもそのリストにありまして……」
「僕とセックスしたいって?」
少し違う。千鶴は首を傾げた。
「沖田さんと、というか、一度経験してみたいなって思ったんです」
沖田はあきれたように「はあ〜?」と髪をかき上げながら千鶴を見た。
「なんだ、ヘタクソな告白かと思ったら……そんなんなら普通に彼氏作ればいい話じゃない」
そうだろう。普通はそう思う。千鶴もそう思ったのだ。
そこで千鶴は、そう思った末の千に誘われた二回のコンパの話をした。
「……なるほど、生理的に無理っていうカエル化か。女の子がよくそういうこと話してるよね」
「そうなんです。でも沖田さんは今日地下室でトーテムポールから助けてくださったときに同じような接触があったのに、嫌悪感がまったくなかったんです」
「……へぇ」
「それで、沖田さんさえよければ、と、いった提案をさせていただいたわけで……」
外は大雨。風もさらに強くなってきている。そして部屋の中は、煌々と明かりがついた家族向けの居間。
いったいこんなところで自分は何の話をしてるんだろうと千鶴は奇妙な思いにとらわれた。沖田もきっとそう思っているに違いなく、女性から誘惑されたような顔はしていない。
「ふぅん……」
沖田はそう言うと、じろじろ千鶴を眺めた。そういう対象としていかがなものかという観察だ。千鶴は緊張して観察結果を待つ。
「で、君に経験させてあげたとして僕には何かいいことがあるの?」
確かに。
処女はめんどくさいと言うのも聞いたことがある。好きな子の処女は嬉しいがそうでないのは面倒なだけなのかもしれない。よっぽど飢えてる人なら喜んでくれるかもだが、沖田は違うだろう。
「……お、お金を払う……とか?」
男女逆にするとそうなる。要は風俗だ。
しかし沖田は顔をしかめた。
「うーん……お金ねえ……君から二万とか三万とかもらっても特に面白くないかな。同じ社内で顔見知りだと、そういうことをするのはリスクでもあるし」
リスク? と千鶴は首を傾げた。それに沖田は気づいたらしい。
「何?」
「い、いえ……」
目ざとい。そう言えば沖田さんはよく気づく人だったっけ。
懇親会で、千鶴が若手の男性社員に囲まれてお酒を飲まされそうになっていた時に、どこからかやってきて代わりに飲んでくれることがよくある。お弁当を食べようとして箸を持ってくるのを忘れた時にも、通りすがりに「これ使わないから」とコンビニの箸をくれたこともあった。千鶴の背では届かない所にあるキングファイルをとろうとしている時も、一番すぐに気づいてくれるのは沖田だった。
「お金のこと? 僕、お金に困ってそう?」
「いえ、そうじゃなくて……社内でそういうことを、って言うリスクの方です。その、沖田さんは……沖田さんと、その……そういうこと? つまり、その場限りのアレコレの話を……社内の女性とのそういう話を、聞いたことがあったので、こういうのもそれほど抵抗が無いのかなって思って……」
そうなのだ。それもあって沖田にこんな提案をする勇気がでたということもある。
千鶴は沖田についての噂話を聞いた時のことを思い出した。
確か一年ほど前、定番の女性トイレで。
千鶴がランチの後歯を磨こうとしていたら、顔だけは知っている営業部のきらきら女子三人がやってきたのだ。
『えー! 誘ったの!? とうとう?』
『そうなの。この前の金曜日にね〜』
『どうだった? 沖田さん、なかなか誘いに乗ってくれないって話だけど。でもあなたとはよく楽しそうに話してたよね』
『ん〜? まあ……よかったよ』
真ん中にいる髪がツヤツヤで肩までのゆるふわの女性がそういうと、他の二人がキャー!! と大声をあげた。びっくりした千鶴に「すいません」とあいさつをしてきて、イイ子たちだなと千鶴が思う間もなく怒涛の質問攻めが始まり、歯を磨いていた千鶴は全部聞いてしまったのだ。
いわく、彼女にはしてくれなかったけど定期的にデートをしてもらえる関係になったそうだ。
『セフレってこと?』
『うん。まあしょうがないけど、そこから始められればなって』
『そっかー。資材調達部のあの子はワンナイトだけだったっていうからそれに比べれば希望がまだあるよね』
『そうなの。それにすっごく上手だったし、なんかこう……会えるだけでいいかもとか思っちゃうくらいよかったんだよね』
また、キャー!! という悲鳴。
『懐に入れた子には優しそうだしねえ。受付のあのきれいな人と二人でラブホ街を歩いているところを見たってのも聞いたことあるし、あれだけカッコよければそれでもいいかもね。将来有望そうだし捕まえられればラッキーぐらいな感じで』
などなど。
噂話はまだまだ続いていたが、歯を磨き終わった千鶴はトイレをでた。
あけすけな話に顔は真っ赤で頭は混乱していた。
そ、そうか。沖田さんは上手なのか……
そうだよね、上手で優しくて気持ちがいいなら、別に彼女にならなくても女性の方にもメリットはあるわけで……
経験のない千鶴には縁遠い話だが、勉強になった。
それにしても沖田さん……前に委託の関係で経理トラブルがあったときに結構お話したけど……そうだ、それでちょっと仲良くなって、笑顔で話してくれるようになったんだっけ。それからは電子申請でできる経費申請を何故かいっつもプリントアウトして持参してくるようになったんだよね。
女性関係についてそんな人だとは思わなかった。仕事ぶりは誠実で、視野が広くていろんなところに気を配っていて、千鶴は自分にない沖田のそう言うところに少し憧れていたところもあったのに。幻滅……とまではいわないが、さらに遠い人になった感は否めない。
そのあと社内の男性社員情報に詳しい千に沖田について聞いてみたところ。
千はじっと千鶴の顔を見て言った。
『……正直難易度は高いわよ』
千が言ったのはそれだけだった。でも、千がそういうのならあまりお勧めではない……つまり、トイレで聞いた話はある程度本当なのだろう。
千鶴は以降、沖田のことを自分とは住む世界の違う人だと切り分けて考えるようになった。実際気を付けてみるようになると、ランチや懇親会の時の沖田の周りにはいつもキラキラした女性がいたし、沖田と飲みに行ったとか、沖田が今日は朝帰りらしいとかの噂話はちょこちょこ耳に入ってきた。どうやら特定の彼女は作らない主義のようで、あれだけ格好良ければそれも当然だろう。
しかし、今沖田を目の前にしてそのすべてを言うわけにはいかない。
「その場限りのアレコレの話をよく聞いていたので、こういうのもそれほど抵抗が無いのかなって思って……」
「その場限りのアレコレって?」
「……私が聞いたのは、沖田さんと一晩だけ……そのう……そう言う関係になったっていう女性のお話と、付き合うわけじゃないけど体だけの関係を持つことに沖田さんが了承してくれたって喜んでた女性です」
他にもラブホテル街を沖田さんと女性があるいていたとか、夕飯を一緒に食べてそのあとも……と匂わせを話している女子社員の話を懇親会で聞いたことがある。
どれも女っぽくてきれいな人達ばっかりだったな……
あんな人達と華やかな交友関係のある沖田さんが、わざわざ面倒な千鶴なんかとする気がおきないのかも……と不安になり沖田の顔を見ると、沖田は大雨が降っている庭の方を見ていた。
その表情からはいつものからかうような笑みが消え、暖かな緑の瞳は凍えるほど冷たい。
あ……何か……失敗した?
こんな顔の沖田は、初めて知り合った頃でも見たことがない。千鶴は背筋がひやりとした。
謝ろうと口を開ける前に、沖田の冷たい声がする。
「……いいよ。申し出を受けてあげる」
沖田は庭から視線を外して、千鶴をまっすぐに見ていた。その表情に、千鶴はごくりと唾を飲む。
申し出を撤回したい。
唇は微笑んでいるのに目が笑っていない。
「あ、あの……すみません。私、何か……」
「何で謝るの。申し出受けてあげるって言うのに」
沖田はまた視線を庭に戻す。取り付く島もないその態度。
沖田は怒っているのだ。
「あ、ありがとう……ございま、す……」
こういうしかない。
他の女性の話をしたのがまずかったのだろうか。
千鶴にはわからなかった。