千鶴ちゃんの七つのリスト
「じゃあな」
薫は玄関で靴を履いてそう言うと、最後に千鶴の顔を見た。
そして吹きだす。
「なんでそんな悲しそうな顔してんだよ。俺がいなくなったら、家事が楽になる〜って喜んでただろ」
「悲しそうな顔なんてしてないから!」
千鶴がムキになって言い返すと、薫はわかったわかったと笑って、手を伸ばして千鶴の髪をくしゃっとかき混ぜた。
「元気でな」
右端の唇だけちょっとあげたいつもの薫の笑い方。
「また連絡する」
そう言いおいて、薫はスーツケースとリュックを持って住み慣れた二人の家を出て行った。
オレンジ色のパーカーが角を曲がるまで見送った後、千鶴は一人で家に戻る。気のせいかいつもよりガランとして静かな気がする。
千鶴は住み慣れた古い一軒家の天井を見上げた。
父と母が高校生の時に突然死んでしまってから、双子の兄である薫と二人で住んできた家。古くて冬は隙間風、夏はエアコンの効きが悪い昔ながらの二階建ての狭い日本家屋だけど、これからはここでずっと一人で生きていくのだ。
「……静かだなあ……」
初夏の狭い庭からは、ジージーと虫の鳴き声がして涼しい風が小さなダイニングを吹き抜ける。
何をすればいいのかわからなくて、千鶴は食卓の椅子に座るとぼんやりとカレンダーを眺めた。カレンダーには今日の日付に丸がつけられ、『薫の出発』と書かれている。
それ以降の日付は全て空白だった。
「それでそんなに暗い顔をしてるの? これから自由だーって言ってたじゃない。これまでは薫君のごはんつくらなきゃって毎日定時で帰っていたけど、フラッと飲みに行けるねって」
会社のランチタイムに同僚で仲のいい千にそう言われて、千鶴は視線をさまよわせた。
街中にあるオシャレなオフィスビルの屋上はきれいに整備されて、木々や季節の花がいっぱいの気持ちいい場所だ。お昼時のこの時間はランチを食べる社員であふれている。千鶴と千も日陰のベンチに座ってコンビニで買ってきたお昼ご飯を食べているところだ。
「うん、そうなんだけどね……」
なのにこの空っぽな気持ちは何なんだろう。別に薫とはそれほど仲がいいってわけじゃなかったのに。家に帰って誰もいないということがこんなに寂しいなんて思ってもいなかった。
「ほら、元気出して! 今日は早速どう? ビアホールがそろそろだし、飲みに行きましょうよ」
顔を覗き込んで励ましてくれる千に、千鶴は笑顔になって頷いた。
「その日の気分で夜に飲みに行くのを決めるなんて初めて」
別に薫だってもう成人していたのだから好きに飲み歩いてもよかったのだが、長年の習慣でなんとなく突発的な飲み会は避けていたのだ。
食事周りは千鶴。
掃除洗濯とゴミ出しは薫。
お互いにそう分担を決めたのは高校生のころで、必死にその分担をこなしてきたので、今もなんとなく気になってしまう自分がいる。
突然死んでしまった両親のおかげで、高校、大学と自分たちで学費を賄う必要があり、バイトとなれない家事で遊ぶ暇なんてなかった。千鶴が大学を卒業した後も、薫は大学に残って研究を続けたので、食事周りの家事に加えて経済的な負担も千鶴にかかってきた。
しかし、そんな薫もこのたび九州の研究所に就職が決まり、先週末に旅立った。
ずっと気を張っていたのがふいに抜けて、迷子みたいに何をしたらいいのかわからない。これから自分一人のためだけなら、家事も会社もどうでもよくなってしまう。こんなこと薫に言ったら馬鹿にされるから絶対言わないけど。
千にそう言ったら、彼女からも呆れた顔をされてしまった。
「なーに言ってるのよ! まだ若いのに。千鶴ちゃんの人生はこれから始まるのよ」
「でもやりたいことも思いうかばないし……何をすればいいの?」
「これまでやったことないことがいっぱいあるでしょ? その中でやりたいことをやればいいのよ」
そう言われても思いつかない。趣味もないし、仕事と家事で交友関係もかなり貧弱になってしまってる。
「それなら彼氏つくりましょう! 千鶴ちゃん、もてるのにそういうのに一切興味ないんだから」
「興味がないわけじゃ……」
興味はある。かなり。
手をつないで歩いてるカップルや、路チューをしているカップルを見て羨ましいと思うし、映画や小説でえっちなシーンを見て、どんな感じなんだろうと妄想を膨らませたことも結構ある。
しかし、実は正式に付き合ったことは無いのだ。二十六にもなって。
千鶴がそう言うと、千は大きな目をさらに見開いた。
「ないの!? なんで? 告白とかされたことあるでしょ?」
千から見ても千鶴はかわいい。絶世の美女というわけではないが真っ黒で艶やかな髪に黒目がちの大きな目、重たげなまつ毛に抜けるような真っ白な肌。男性が夢に描く清純派そのものだ。すぐ赤くなるところも恥ずかしがり屋の所も庇護欲をくすぐって、女の千でも『かわいい〜!』と時々抱きしめてしまうくらいなのに。同僚の男性からも時々『雪村さんってどんな子?』などと聞かれることもあるくらいだ。
「告白っていうか……そう言う感じのことは言われたことはあるけど……」
『雪村さんって彼氏いるの?』とか『食事でもどうかな』とか『この映画一緒に行かない?』などなど。
でももともと男性が苦手な千鶴は、薫や家事を理由にフラグを自らへし折ってきたのだ。そしてそれに対して特に後悔は無かったのだけど、今こうして空っぽになってしまうと、ちゃんと向き合っておけばよかったなと少し後悔してしまう。
「じゃあ今からよ! 今から向き合いましょう。今日のビアホール、企画部の男性三人を誘ってみるわ。前から飲もうって言われてたからちょうどいいし」
どうせ家に帰っても誰もいない。
一人だと家事もすぐすむし、なんならしなくてもいいくらいだ。
よし、ここらで人生を変えるときだと、千鶴はお腹に力を入れて頷いた。
勇んで乗り込んだものの、結果は惨敗だった。
同じ社内で顔だけは知っている二十代の男性三人。女性側の千と君菊は楽しそうに話したり飲んだりしていたが、千鶴は緊張のあまり全く楽しめなかった。会話にもなかなか入れず、千が時々話をふってくれても話を広げるなんてとてもできずに変な空気にしてしまう。そんなことが繰り返されて、千鶴は泣きそうになってしまった。
私がここにいないほうが絶対この飲み会、楽しかったと思う。空気を悪くしちゃってほんとごめんなさい。
そんなことを思えば思うほど表情が固くなり会話が続かない。
結局飲み会は一次会で解散となってしまったのだった。
「やっぱり同じ会社だと後々面倒だし、次は社外にしましょう!」
千がそう言って誘ってくれたのは、正式な合コンだった。
女子四人に男子四人。
男性は大学のサークルの時の友人とのことで、会社員一人、WEBデザイナー一人、建築士一人、研究職一人という多様な構成だ。
場所は海鮮居酒屋で、金曜日。男性側が少し年上だったせいか、今回は意外にスムーズに話ができた。
「そうなんだ、双子のお兄さんも研究職なんだね」
隣に座った男性はそう言うと、薫の研究分野を聞く。世間話や趣味の話しよりも、こういう風に答えが決まっている話題の方が話しやすい。千鶴はどもることなく男性の質問に答えることができた。
結構いろいろ質問を続けられて、千鶴は聞いた。
「あの、薫と同じ分野を研究されてるんですか?」
男性は飲んでいたウーロン杯を持ったまま「ん?」と千鶴を見る。三十二歳とのことだが若く見える。短めのストレートの髪が清潔感があり背もそんなに高くないので圧迫感がなくて話しやすい。
「全然。話してくれた分野は俺の分野と違うから、なんにもわかんないよ」
「そうなんですか? お詳しいのかと思ってました」
「知らない分野の話しはそれはそれで聞くのは面白いよね。それに、雪村さんが話しやすそうだし」
千鶴は頬が赤くなるのがわかった。
そうか、気を使ってくれてたんだ。私が普通の会話が苦手だから……優しい人だな。
「す、すいません。私、会話が下手で……」
「いや、気にしないで。僕も女の子との会話はあんまり得意じゃないんだ。雪村さんは落ち着いてる感じで話しやすいな」
同じことを思っていた千鶴は、ドキンとした。どぎまぎと視線をそらす。
「わ、私もそう思ってました……」
もごもごという。男性はそんな千鶴をじっと見つめた後、持っていたウーロンハイのグラスをおいた。
そして体を寄せて、千鶴の肩をそっと抱く。耳元に唇を寄せてささやいた。
「……ね、二人で抜けない?」
肩に男性の手が置かれ、吐息が耳元にかかった途端、言いようのない嫌悪感が千鶴の奥底からわきあがり鳥肌が立った。突然これ以上ここに居たくないという強い思いが突き上げてきて、千鶴は勢いよく体を離す。驚いた顔の男性を見て、申し訳なさがよぎったけれど、これ以上は無理だ。
「あ、あの……すいません。千ちゃんにも悪いし、抜けるのは……止めておきます」
うつむいて小さい声で言うと、男性は明らかに気分を害したようだった。返事はなく体を戻してこちらに背を向ける。そして反対隣の千に話しかけ始めてしまった。
失礼なことをしちゃったのかな……でも気持ち悪くて我慢ができなかった。
彼氏ができたらあんなことを毎日しなくちゃいけないのだろうか。
ムリだ。ムリだし、なぜそれを我慢してまで彼氏が欲しいのかわからなくなってしまった。
混乱してみじめで……
千鶴はそのまま居づらい飲み会で極力空気となって、時間が過ぎるのだけを待っていたのだった。
そんなこんなでようやく週末。薫のいない初めての週末だ。
千鶴は一人の家でゆっくりと過ごした。
土曜日は溜まっていた洗濯物を片付け、掃除をして、買い出しをして作り置きを作って、簡単に夕飯をすます。
日曜日は雨だったので、部屋の中で冬物を片付けて春夏物を出したり、物置を整理したりして過ごした。使わない部屋がたくさんあるのでたいへんだ。
昼過ぎにポンとLINEが鳴る。見てみると九州の薫からの連絡だった。薫の部屋に置いてあるテニスラケットとボールを送ってほしいと言うお願いだ。
二階に上がって一番奥にある薫の部屋のドアを開ける。
窓を開けていないし出入りもなかったので、部屋は空気がこもって蒸し暑かった。ガランとはしているが、一度に引っ越しは出来なかったので、まだ薫の存在をそこかしこに感じる。
もうここに薫が住んでいないなんて信じられない。ちょっと学会に行ってるだけみたい。
窓を開けて換気をした後、言われたラケットを探した。
確かクローゼットの奥にあったはず……
残された荷物を外に出していくと奥にラケットが見えた。引っ張り出そうとしたとき手前にあった箱がひっくり返り中の物が散らばってしまった。
「あーもう」
千鶴がこぼれたものをまた箱にしまう。
「ん? これ何?」
掴んだ箱が何かわからず千鶴はひっくり返してみた。説明文を読んでわかった。コンドームだ。
そ、そうか。薫……
そうだよね、薫だってもう二十代の半ばを過ぎた男性なんだし、彼女がいたっぽいこともあったし、当然……
慌ててコンドームをもとの箱にしまい、ラケットを取り出す。宅配に出す準備をしながら千鶴は複雑だった。
そうか、千鶴が高校の時から何も変わらなかったのは、時間がないとかお金がないとかじゃなくて自分のせいだったんだ。だって同じ環境にいた薫にはちゃんと彼女がいて年齢相応の経験を積んでいるんだから。
今、荷づめをしているこのテニスラケットだってそうだ。
もう向こうで落ち着いたんだな。テニスをする相手ができて、満喫してるんだ。
次に外に出るときにコンビニで出そうと、テニスラケットを玄関の下駄箱の上に置く。
薫は靴や鞄に拘るタイプで、玄関には薫の靴があふれていたのに、今は千鶴の靴が二足とちょっと外に出るとき用のサンダルだけだ。
「……」
玄関をじっと見て、千鶴はくるっと踵を返してキッチンまで戻った。大好きなとっておきのほうじ茶を急須にいれて、ゆっくりとお気に入りのマグカップに淹れる。そしてダイニングテーブルにメモ帳とボールペンを持ってくると、座った。
外の雨は相変わらずしとしと降っていて、家の中の静けさを強く感じる。このしんみりとした雰囲気に負けていちゃだめだ。この状況が嫌なら、変えるのは自分しかいないのだ。
「よし」
千鶴は自分に気合をいれた。
これから一人の人生の始まりなのだ。暗い気持ちで生きていくのか、楽しい事ばかりで埋め作るのかは自分の選択できまるのだから、家族の都合や経済状況とは関係なく、本当に自分のやりたいことをやる。誰に遠慮がいるものか。
一歩を踏み出すのを怖れて、置いてけぼりばかりの人生は嫌だ。これまでできなかったことでやりたいことのリストをまず作ろう。それを一個づつクリアしていけば、きっと人生も楽しくなるはず。
千鶴はペンを取り上げて、メモ帳の一行目にペン先を置いた。