【夏と海と冒険と 4】
「いた……」
打ったせいでしびれている肘を庇いながら、千鶴は何度か瞬きをした。
エアバックは開いていない。落ちる速度もかなりゆっくりだった。ただ、車体が斜めになってしまったせいで、自分の体が車内でころがってしまって。
ん?
千鶴は目の前にある、暖かくて弾力がある白い布を見た。これがクッションになってくれたおかげで、千鶴は助手席側の窓に体を打ちつけることも無く……
目の前から視線を上へとずらしていく。
そこにあったのは超至近距離の長い茶色の睫に囲まれた緑の瞳。
……わあ、まつげがたくさん……。それにくっきり綺麗な目、透明な緑色……
どこかでこの色、見たことがある……
「僕の上はそんなに居心地がいい?」
からかうような声に、千鶴ははっと我に返った。
「きゃあ!す、すいません!!」
のしかかるようにして総司の上に体を投げ出している自分に気づいて、千鶴は慌てて立ち上がろうとした。
千鶴が膝をつくと、総司が妙な声を出す。
「ちょっ…!ちょっと動かないでそこ大事なトコだから」
「は?」
「膝!膝!体重かけられたらお婿にいけなくなっちゃうよ」
「……」
困ったようなからかうような緑の瞳で見つめられながらそう言われ、千鶴はしばらくポカンと口を開け、しかる後カチーンと固まった。
真っ赤になったまま固まった千鶴の肩を持ち、総司は自分の体をずらす。
「ふう、これで大丈夫。千鶴ちゃんどこか打った?痛いとことかない?」
ふるふると赤い顔のまま首を振る千鶴に怪我がないことをさっと確認して、総司は後部座席を覗き込んだ。
「平助?大丈夫……みたいだね」
「…おう」
後部座席の足元の部分に転がっていた平助は、窮屈そうに丸まっていた。
真っ赤になったままの千鶴は、頭の中も同じように混乱していた。
あんなに近くで男の人の顔を見たのは初めてだ。それを言うなら男の人に乗っかったこともそうだし、あんなふうに軽口をkきくのも……
いつも華やかな人達が楽しそうに話しているのを聞いているだけだった。それの相手になるなんて。
混乱していたけれども、千鶴は至近距離で覗き込んだ総司の瞳の色を、どこで見たかだけは思い出した。
沖縄の海の色だ……
「車は後でレンタカー会社に連絡するとして……僕の携帯はここ電波はいらないな。携帯使える人いる?」
なんとか車から抜け出して、原生林で辺りを見渡して、総司は自分の携帯を確認して言った。
「俺のもだめ」「私のもです」
三人は顔を見合わせて溜息をついた。車がずり落ちてきた丘を足で登り道路に出て、ホテルか国道かを目指さなくてはいけないらしい。
「どっちが近いんかな」
皆で緩い丘を登りながら平助が言う。道路傍でもさすが沖縄、植物が亜熱帯で嫌になるほど元気に茂っている。
そこらへんに落ちていた木の枝で草をかき分け、変な虫や蛇がいないのを確認しながら三人はゆっくりと登っていく。
「さあね、勘で行くしかないんじゃない?あーあ、歩きなんて夜があけるんじゃないの」
総司がうんざりしたように言うと、千鶴がおずおずと言った。
「あの…多分ホテルの方に戻った方が早いと思います。国道にでてもそこからさらに民家や店があるところまではかなりありますし、多分ホテルなら歩いて2時間程度でつくと思うので……」
一番先頭で枝を持ってあたりを払いながら歩いていた平助が、驚いたような顔をして千鶴を振り向いた。
「なんでわかんの?」
「いえあの…ここまでの車の速度と時間で……。人間の歩く速度を時速5k程度とすれば2時間くらいかな、と」
「……」
総司と平助は星明りの中、列の先頭と後ろで顔を見合わせた。間に居る千鶴が不思議そうに二人を見る。
聞いてみれば小学校でならう算数の問題だが、それをさっと現実に使う機転に驚いた。さらに国道に出てからの状況なんて総司達地元の人間の方が知っているはずなのに、緊急事態ですっかりそんなことを考える余裕もなくなっていた。
「頭いーんだな、千鶴は」
「ええ?そんな、これは小学校での……」
びっくりして否定する千鶴に平助は重ねて言う。
「いやあ、すげえよ。頭がいいって言うか…なんだろ?冷静だし先を考えてる感じ。うちの会社の救世主でもあるし、俺これから千鶴についていこっと」
「会社の救世主ってどうしてですか?突然こんな依頼をしてご迷惑だとばっかり……」
「何言ってんの!金がなくてピーピー言ってたんだからさあ。千鶴のおかげで借金返せるし今月の家賃も給料もって一君泣いて喜んでたぜ。前から一君が欲しがってた会計ソフトとノートパソコンも買えるし、俺も『どきどき号』を車検にだしたりおめかししたりしてやれるしさあ、ほんと千鶴サマサマだっつーの」
「いえっそんなこちらこそ……!」
千鶴は例のごとく恐縮したように慌てて否定しているが、平助の言った通りだと総司も認めざるを得なかった。
なんとなくしゃくではあるが。
右往左往してる大の男二人がバカみたいだ。
アスファルトの道路にひきあげようと、平助が千鶴に手を差し出す。
それにつかまり笑顔で平助に礼を言う千鶴を見ながら、総司はなんだかいろいろ面白くないのだった。
「……さっき聞いていて思ったんですが、『どきどき号』ってなんでしょう?」
車が通らない暗い道路をホテルに向かって三人で歩いていると、千鶴が不思議そうに聞いてきた。総司は顔をしかめて「あの軽トラの名前だよ」と説明する。そしてその最悪のネーミングセンスで『きらきら青い海』なんていう店名もつけられてしまったのだと。
千鶴は笑い出すのを我慢していたようだが、とうとう我慢の限界がきれ、プッと噴出してしまった。
「楽しそうですね、とっても…!」
彼女が声を出して笑うのを、総司も平助も初めて見た。
大人しく堅苦しいイメージが一片して、ころころと華やかで楽しそうで。
そしてかわいい。
とても。
千鶴の笑顔に、平助と総司もなんだか少しだけ気分が明るくなった。
この笑顔と笑い声を聞きながらなら二時間の散歩もそんなに悪くない。
何かあったときのためにとお互いに携帯電話の番号をその場で交換して、三人は歩き出した。
そうはいっても、その夜は結局散々だった。
夜とはいえそれほど昼と夜の寒暖の差のない沖縄で、2時間水なしで歩き続けるというのは何かのトレーニングだとしてもきつい。にもかかわらず三人は一日の仕事を終え夕飯前の疲れ切った状態なのだ。
さらに千鶴は華奢なサンダルだ。平助や総司と靴を交換しようにもサイズが全然あわないし、おんぶや抱っこは千鶴が固辞するし(当然だが)で、結局三人はそのまま歩き続ける。3時間後にホテルの灯りが見えたときは三人ともぐったりと言葉もないくらいだった。
北谷の祭りは当然キャンセルで、三人は解散した。
「今日は…そうだな、昨日の復習と……あと北谷に結局Tシャツとか買いにいけなかったろ?買いに行こうか?」
外の日陰にあるテーブルに座ってコーラを飲みながら、平助は朝一番にそう言った。隣にだらりと座っていた総司も合意というように頷く。
「あーそうだね。昨日の夜中のウォーキングの疲れもあるしね」
今日こそは沈没船のある海域に行って潜れると思っていた千鶴は沈黙する。
「……あの、お気づかいは嬉しいんですが早く……」
「まあまあ!気持ちはわかるけどさ!でもそんな服じゃ暑いだろ?」
今日の千鶴の服は初日のスーツでジャケットを脱いだものだ。
「服なんてどうでもいいんです。復習ももう覚えたので必要ないです。私は早く潜りたいんです!買い物はまた夜に行くので今日は船を……」
「あ!じゃあさ!北谷の近くのダイビングスポットで練習がてら潜るってのはどうかな?」
総司がパチンと指を鳴らして提案すると、平助も頷いた。
「おお!それいいな!あそこにぎやかで楽しいんだよなー!」
「あの…!あの、練習とかもういいんで、船を……」
「水着は?持ってきた?」
「え?ええまあ……」
「よし決まり!ドキドキはみんなで乗れないから千鶴ちゃんのレンタカーでね。斎藤君も行くかな」
立ち上がり事務所へと向かう総司に平助が声をかける。
「俺、ダイビングスーツ用意するから!」
「りょーかい。昼はあそこで食べようよ、あのアメリカ軍のさあ」
「おお!いーな!あそこ量多いしうまいんだよなー!!」
千鶴をおいて楽しそうに会話している二人を見ながら、千鶴は沈没船調査を依頼する会社を間違えたのではないかと激しく後悔していた。
みんないい人達だ。
……かっこいいし。
でも千鶴は、早く沈没船が沈んだと思われる海域に行きたいのだ。そのポイントだって確かなものではなく、当時の資料と祖父の日記から千鶴が計算してはじきだしたものなのだ。間違っていたら修正し、また挑戦して……ポイントを確定するだけに何日もかかるのかもしれない。こんな調子ではいつ終わるのかわからないではないか。
『アレ』の存在自体はあいつらは知っているだろうし、公開期限がきたせいで当時の文書が読めるようになったのは千鶴も相手も同じ条件なのだ。ただ千鶴はそれに加え祖父の日記があるから奴らよりは先んじているがそのリードもいつくつがえされるかわからない。
こうしてのんびりTシャツの買い物をしたりアメリカ軍御用達のレストランで食事をしている暇はないと言うのに。
「斎藤くんは今日の午前中に例の会計ソフトとノートパソコンが届く予定だから行かないって!」
「おっけー!」
ダイビングとお出かけの準備をしながら能天気な会話を交わしている平助と総司を見て、千鶴は深くためいきをついたのだった。
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