【夏と海と冒険と】
「はい、『きらきら青い海』です〜。……はあ、はあ……あーその日は他の予約が一杯で……はい、そうなんです。やっぱり夏は沖縄はハイシーズンなんで。ええ、また機会があったらよろしく〜」
総司はあきらかに気のない返事をして携帯電話を切り、それを散らかった机に放りだした。
その古い型の携帯電話は、紙切れやら折れ曲がったパンフレットやら食べかけのサータアンダギーの間をすべり、紙コップにぶつかる。
紙コップが倒れ、底に少しだけ飲み残されていたコーヒーが紙切れの上にこぼれたが、総司は気にすることも無く島草履を履いた足を机の上にドンと乗せた。
隣のデスクでパソコンに向かっていた斎藤が眉をしかめる。
「総司、電話の応対は『はい、誠がモットー、どんなご要望にもお答えするマリンスポーツ専門店の『きらきら青い海』です』だろう。それに他の予約などはいっていないぞ、むしろ現金収入の仕事は喉から手が出るほど必要だ。何故断ったのだ」
斎藤の問いに、総司は首をソファの背もたれにもたせかけて彼を見た。
もともと茶色かった髪の色が、今は沖縄の強い太陽にさらされて毛先が金色になっている。少し長めの前髪が明るい緑色の瞳にかかっていた。そして数多くの女子から『なんでもしてあげたくなっちゃう!』と言われてきた拗ねたような顔をして、総司は言った。
「えー?だって明日丸一日、船だして沖でダイビングっていう依頼だったんだよ」
斎藤の眉間の皺がさらに深くなる。
「いい話ではないか。船を出すならある程度まとまった金になる。明日も別に……」
「明日は土曜日で、北谷で祭りがあるんだよ。仕事なんてしてる場合じゃないよ」
「……」
黙り込んでしまった斎藤は気にせず、総司は軽く伸びをすると「平助は?」とあたりを見渡した。
「……総司。ちょっとこっちにこい」
斎藤の声は真夏の暑い盛りの沖縄でも背筋が寒くなる様な冷たい声だったが、総司は気にせず立ち上がった。
斎藤はいつもこんな感じなのだ。たとえ沖縄でも、たとえラテンの国にいようとその場所に染まることはないだろう。
総司が斎藤の指し示すパソコンの画面を覗き込むと、斎藤が数字の羅列を指差した。
「……ここを見ろ。今月の我社の収支だ。そしてこの店の賃貸料と保険の支払が来週末にある。このままだと明らかに足りないのはわかるな?その上月末にはお前たちに給料を払わなくてはならんだろう。今お前がやらなくてはいけないことは、自ら営業してでも客を取ってくることだ。それを電話までしてくれた客を断るとは……」
「あー、ごめんごめん。明日の祭りはもう予定があって、つい、ね。次からは気を付けるよ」
お説教が始まりそうな雰囲気に、総司は手を軽く振って誤り店から出て行こうとした。
斎藤は相変わらず顔をしかめたまま聞く。
「予定とはなんだ。お前まさか先日の客と……」
「そうそう、今月初めに体験ダイビングとシュノーケルプランのあの内地からのOLさんたち。日曜日に帰るから土曜の北谷の祭り一緒に行きませんか〜って」
斎藤は溜息をついた。
「客とそういうことをするなと言っているだろう!変な評判がたったらどうするのだ」
「一対一じゃないよ、内地の女の子三人を僕が案内って感じ。ツアーガイドだね、いわゆる。しかも無料の。それに今サービスしておけば来年また来てうちを利用してくれるかもしれないじゃない?」
「そんな遠い先の事よりも今は来週末と月末の心配をしてくれ。いいか……」
斎藤が説教を続けようとすると、総司が両手をあげて降参のポーズをとった。
「はいはい、わかってるって!ちゃんとするから、とりあえず平助探してくるよ」
総司の天使のスマイルに、斎藤は言いたい言葉を飲みこんだようだ。溜息をついて答える。
「……平助は外で道具の手入れをしている」
総司は、「じゃあ平助の手伝いをしてくるよ」と言うと、潮風でかなり傷んだ小さな店のドアを開けて外へと脚を踏み出した。
外は一瞬ひるむほど熱かった。
暑いというよりは熱い。
日向にしばらくいたら死んじゃうよこれ。
総司は出口のすぐそばに置いてあるシュノーケルを持つと、店の脇の日陰でダイビングセットの点検をしている平助に軽く手を挙げて、通り過ぎる。
そして目の前のビーチを横切り、木でできた小さな桟橋へと向かった。
桟橋を大股で歩きながら、総司は島草履を脱ぎ、慣れた手つきでシュノーケルをつける。
そしてTシャツにサーフパンツのまま桟橋から海へと飛び込んだ。
途端に視界が透明な薄い蒼に覆われる。
ひんやりとした水が体を包み、自分の吐く息とかすかな水音しか聞こえない世界。
総司は慣れ親しんだその感覚に、ゆったりと体を延ばし水面を漂った。
眼下には澄んだ水とちらちらと動く色鮮やかな小さな魚たちが見える。総司はそれを見ながらゆっくりと進んだ。
マリンスポーツ専門店の『きらきら青い海』は、腐れ縁三人で東京から沖縄にまで引っ越してきて作った小さな会社だった。特に起業のノウハウや売り上げをあげる秘策などない内地の男三人組。
会社はなんとか軌道に乗ったけれども、余裕があるわけではない……というよりカツカツだった。
これまでのたくわえと斎藤のやりくりでなんとか食べて行ける程度。
しかしそれでもいいんじゃないかと総司は思っていた。
斎藤君の言うことももちろんわかるし何とかしなくちゃとは思うけどさ、東京から沖縄にまで来たのは、のんびり好きなことをしながら生きていきたいからだったのに。仕事をし過ぎたら本末転倒じゃないか。
斎藤君は、『将来のことも考えて』とか『何かあったらどうするのだ』って言うけど、そんな東京的な考え方は沖縄では捨てた方がいいと思うんだよねー。ここでは今が楽しければそれでいいんだよ。
まあ『きらきら青い海』がつぶれるのは困るから何とかしないといけないけど。
そもそも店名のネーミングセンスが一番最初の躓きだと思うんだけどね……
平助と斎藤たちと沖縄に来て、この会社をつくるためにあれやこれやしていたころのある夜。
総司が泡盛に酔いつぶれて眠ってしまった後に、そういうことに興味のない斎藤と極めてセンスのない平助とが店の名前を勝手に決めてしまったのだ。
そして総司が二日酔いで倒れている間にホームページやら役所やら賃貸契約やらに書き込んでしまった。気づいた時には、もう遅かった。
怒ったもののすべてを訂正するのは面倒だし、それにこの沖縄ののんびりした空気になれるとそんなことはどうでもよくなってしまうのだ。
沖縄で買った社用車(軽トラ)にも、平助は勝手に『ドキドキ号』とかいう訳のわからない名前を付けてしまった。
平助が『だからドキドキで迎えに行けばいいんじゃね?』とか『ドキドキがときどき調子悪くてさー』と言いだすと、総司は最初はかなり抵抗のあったけれど、今では慣れた。
……慣れたくはないのに、慣れてしまったのだ。
『斎藤君、あそこのビーチどうだった?』『ドキドキがとめられなくてな』『そうなんだ、それなら仕事にならないなあ』などと、傍から聞いていたらわけのわからない会話も平気でするようになってしまっていた。
大企業のエリートサラリーマンというわけにはいかないが、現状には満足だ。……『きらきら青い海』がつぶれなければ、だが。
総司は小さく水中で溜息をつくと、体を起こして立ち上がった。
海の深さは腰より少し高いくらい。総司はシュノーケルをとり、濡れて額にかかる髪をかき上げ桟橋と店の方を見る。
「……あれ?」
店の脇の空き地に、一目でレンタカーとわかる真っ青な軽が停まっていたのだ。そして店の方へと目をやると、ドアをあけようとしている女性の後姿。
総司は桟橋の方へと海の中で水を切り、歩き出した。平助も、軽自動車の方を見ながら桟橋の方へ歩いて来る。
もの問いたげな総司の視線を受けて、平助は肩をすくめた。
「いや、俺もわかんね。一息つこうかなーって俺がこっちに来たら車が停まってさ」
桟橋の上の平助と、海の中に突っ立った総司は再び店の方を見た。
その女性は後ろ姿しか見えないが、この暑さにもかかわらず、かっちりとしたクリーム色のスーツを着ていた。
遠目でも何の面白味もないPTAのようなパンツスーツ。
髪も肩より少し下くらいの長さなのだが、結わえたりもせずそのままたらしていて、見るからに暑そうでやぼったい。
旅行会社の営業というかんじでもないし、現地の会社の社員と言う感じでもない。そしてマリンスポーツを楽しむための客にも見えない。
「……俺たちも行った方がよくね?」
「……そうだね」
平助と総司は顔を見合わせると、店へと向かうことにした。
「どうぞ、座ってください」
と、黒髪のクールな美形に薦められた黒いビニール張りのソファを、千鶴は複雑な思いで見た。
あちこちほつれて中の黄色いスポンジがはみ出しており、空のペットボトルが転がっている。黒髪の男性が慌ててペットボトルを取り上げた時に、黒く小さい何かが焦ってソファの隙間に隠れたように見えたのは気のせいだと、千鶴は自分に言い聞かせた。
黒髪の男性は、ペットボトルを手首のスナップを効かせて部屋の反対側にあるゴミ箱に綺麗にシュートした。
千鶴が驚いて男性を見ると、彼は気まずそうに咳払いをして、ふたたび「どうぞ」と千鶴に椅子をすすめる。
ソファが黒くてわからないが、正体不明の汚れが自分のクリーム色のスーツにつかないことを祈りながら、千鶴は恐々と腰を下ろした。
ゴミばかりが乗っている机の向かい側にある、木でできた堅そうなベンチにその男性は座ると、自己紹介をした。
「『きらきら青い海』の斎藤と言います。あいにく名刺はきらしてしまっていて……」
初めから作ってもいないのだろうと思いながら、千鶴はうなずいた。千鶴も名刺など持っていないから別に構わない。
「で、船をだして欲しいということだが、いつがいいですか?何名のご利用で?」
ゴミに埋もれていた小さな卓上カレンダーを掘り出して、斎藤は4月のままになっているカレンダーを四回めくり、8月にする。そしてそれを見ている千鶴の視線に気づくと、うっすらと目じりを赤くして言い訳をした。
「この事務所に客が来ることは滅多にないので……」
「そうなんですか?すいません、私知らずに……どこに行けばよかったんでしょうか?」
「たいてい電話で予約をしてもらい、ここから歩いて少し行ったところにあるオープンカフェを併設している施設で落ちあうことにしています。直接ここに来る客はあまりいないが、特に来ていただいても問題はありません。事務所なので少々汚ないだけで」
客商売に慣れていないのか言葉づかいが固い…というか荒いが、誠実な斎藤の様子に千鶴は少しだけほっとした。
「それで日程ですが」
「ああ、はい。あの……」
千鶴がそう言いかけた時、ギイッと音を立てる。千鶴がそちらを見ると、ちょうど入り口のドアが開き、男性が二人入って来るところだった。
一人は背が高く水に濡れており、上半身裸で髪の毛が金髪に近いほどの茶色だ。手に濡れて絞ったTシャツらしきものを持っている。
鮮やかな緑の瞳が印象的なかなり魅力のある顔立ちだ。
遊び人
千鶴は即座にそう判断を下し、後ろから入ってきたもう一人の男性を見る。
こちらもまた別のタイプの魅力ある男性だった。背はそれほど高くないが、人なつっこい陽性のオーラを醸し出している。友達になりたいと思わせるような元気のよさそうな顔。
この人が一緒に行動してくれると嬉しいな
千鶴はそう思った。
目の前にかりゆしを着て座っている斎藤という人は、どうみても事務的な処理を担当しているスタッフにしか見えない。実際に船を出したりダイビングを教えてくれるのは、今入ってきた二人のどちらかに違いない。
千鶴は遊び人が苦手なのだ。……いや、遊び人というか軽い人と言うか、人当たりがいい人というか今風の人というか……上手く言えないが、馬鹿にされそうで呆れられそうで一緒にいると疲れてしまう。
一番一緒に居て楽なのは、この中では斎藤のような気がするが、事務処理担当のようだしそれなら……
千鶴があれこれ考えていると、斎藤が立ち上がり、うちのスタッフだと二人を千鶴に紹介した。
千鶴の第一印象の通り、総司と紹介された『遊び人』は千鶴を冷めた目で頭の先から爪先まで見た後、興味なさそうな見下すような視線で「はじめまして」と言い、部屋の隅に置いてあった乾いたTシャツを着た。
小麦色の滑らかな肌とがっしりした肩、きれいに筋肉がついた胸板が見えて、千鶴はぎょっとして頬を染めて顔をそらす。
平助と紹介された方はニカッと笑って「よろしく!」と感じよく挨拶をしてくれた。
平助の笑顔もあったのに、千鶴は何故か総司の視線を思い出して頬がさらに赤くなるのを意識していた。
沖縄らしくない服装だったのかな……こっちで見かけた女の人達はみんなTシャツにショートパンツとかの開放的な恰好だったもんんね……
小さなころからそういったTPOを読むのがうまくなく、家族や友達に呆れられたことが何度もある千鶴は、総司の視線の前で小さくなった。
だからこういう……なんというか選ばれた感じの人は嫌なのだ。男も女も。
自分のセンスがいいことを知っていて、受け入れられることが当然と思ってる人達。
千鶴のコンプレックスをちくちくと刺激する。
木のベンチに斎藤と平助が座り、横のパイプいすに総司が座る。
「で、日程だが」
「あ、はい」
救われた気がして、千鶴は斎藤の声にパッと顔をあげた。
「あの一日だけではなく、一週間……場合によっては二週間毎日船を出して欲しいんです」
斎藤の眉間にしわがよる。総司も平助も驚いたように目を見開いたが、この反応は千鶴の想定内だ。
「毎日?いろんな場所に行ってみたいという事か?」
「いえ、同じ場所です」
「……」
斎藤、総司、平助は顔を見合わせた。
総司が聞く。
「同じ場所に行って、そこで君は何をしたいの?あ、ホエールウオッチングかな?くじらが見れるまで行きたいってこと?」
「いえ、違うんです。そこでダイビングをしたいんです。私はダイビングをやったことがないので、教えていただきながら」
千鶴が答えると、平助が手のひらをストップというようにあげた。
「……ちょっと待ってちょっと待って。整理させて。君は個人客?何人いんの?船だすってけっこー金かかるしそれを毎日、プラスダイビングの練習って大人数の頭数で割ってもかなり金かかるぜ。それにダイビングライセンスとか取りたいならそれように練習するスポットがあるしわざわざ船はださなくてもいいんじゃねーの?」
平助が両手をあげて身振り手振りで説明する。千鶴は小さく首を振って口を開いた。
「ライセンスを取りたいわけじゃないんです。友人たちと沖縄に来たわけではなく私一人です。船に乗せてもらうのもダイビングも私だけです。目的はマリンスポーツではなく探し物です」
千鶴の言葉に、総司達はますます訳が分からないという表情になった。
探し物?海の上で?海の中で?何をさがすのだろうか。
昔見た写真の場所とか、珍しい珊瑚とか貝とか?それとも魚?
総司達の質問すべてに、千鶴は首を横に振った。
「違います。私が捜したいのは、第二次世界大終戦時に沖縄近海に沈没したといわれている小さな船です」
ポカンと三人のイケメンの口があいた。
いつもなら彼らに相手にされそうもない千鶴が、そんな衝撃を与えたことが密かに気持ちよくて千鶴は心の中で小さく笑ってしまった。
「沈没船に多分乗っていたあるものを見つけるために、私は沖縄に来たんです」
「……沈没船……」
思いも寄らなかった千鶴の言葉に、三人は唖然としたまま彼女の顔を眺めていた。
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