【蜘蛛 3−2】
『……会いたいです』
耳元で聞こえたか細い声に、総司の胸は震えた。
想像もしていなかった言葉に頭が混乱する。
返事をしようと口を開けたものの、何を言えばいいかわからずまた閉じる。
「……千鶴ちゃん……」
自分の罪をなじられると思っていた。いや、なじられないまでも忘れることはできないだろうと。
彼女の中で傷として残り、それと同じだけ自分にも傷が残るのだと。
彼女は何故こんなことを言うのだろう?あの事件のことはどう思っているのか。会ってどうしようと……
「僕も会いたいよ」
考えていることとは別に総司の口は勝手に動いていた。
脳裏に先日、剣道部のマネージャーと話した他愛もない会話が浮かぶ。
『いわゆる「神」と言われている何か大きな存在っていうのはいつも気まぐれに人間を翻弄する、ってことかな』
『極楽に行けるかどうか不安になった時点で、自分から蜘蛛の糸を切るね』
頭の片隅に浮かんだ先日の自分の発言に、総司は冷笑をした
望んで焦がれて切望した銀色の細い糸。
それが目の前に降りてきて掴まずにいれる人間なんているのだろうか?
『掴まないでいられる』『自分から切る』と言っていた先日までの自分は、所詮頭だけでしか『救い』について考えていなかったのだ。
心が、感情が、細胞すべてが、こうして彼女に救われることを願っている。
そして自分は迷わずにつかむのだろう。
例えそれが彼女を再び不幸にしてしまうかもしれなくても。
そのせいで今度は自分が二度と立ち直れないくらい傷つくかもしれなくても。
総司の心は、ある意味冷たく固まった。
彼女には自分のような男ではなく優しく包んでくれるような穏やかな男の方があっていると思う。
でももう総司には、そのせいで自分が身を引くというような選択肢は捨てた。
例え彼女を不幸にするかもしれなくても、それでも僕はこの糸をもう二度と放さない。
糸ごと彼女も地獄に落ちてしまうかも知れなくても……
総司の澄んだ緑の瞳には、心を決めた残酷な光が浮かんでいた。
「……でも、よくそんなことが言えるね。また僕に捕まっちゃうとか考えなかったの?」
捕まえた獲物を持て遊ぶネコのように、総司があからさまにそう言うと、携帯電話の向こうで千鶴が息を呑んだのがわかった。
もう遅い。もう救いの糸を差し伸べたことを後悔しても、もう……
もう放す気はない。
総司はなんだか楽しくなって、一人暮らしの部屋のベッドに寄りかかった。
こうなると一刻も早く彼女に会いたい。会って、もう一度彼女のすべてを自分のものにして、彼女の瞳に自分しか映らないように……
『捕まりません』
意外にしっかりとした言葉が携帯の向こうから聞こえてきて、総司はもう一度ベッドに寄りかかるのをやめて座りなおした。
「……そうなの?でも、もう一度僕の傍に飛んできたら、こんどこそ捕まえて離さないよ?」
もう離さないと決めたのに、なぜこんなに怖がらせるようなことを言うのか、総司には自分がわからなかった。
自分から逃げ出せるよう最後のチャンスでも与えているつもりなのだろうか?何も言わないまま甘い言葉で近づかせ、捕まえた方がいいに決まっているのだが…
『……飛んで……?』
「ちょうちょみたいだからさ、千鶴ちゃんが。そして僕が蜘蛛。前は失敗したけど、もう一度僕の巣に捕まっちゃったら、もう逃げられないよ?」
暗く深い僕の闇
君は知らないでしょう?
隠してきたけれど、僕の中には確かにこんな地獄があるんだ
ヤケなのか露悪趣味なのか、よくわからないと思いながら総司は髪をかき上げて自嘲するように微笑みながらそう言った。
『……前に、巣に捕まえた時は、蜘蛛さんが望んだ結果だったんですか?』
「え?」
『高校の時の、あんな終わり方……。もう二度と会えなくなって話もできなくなって……沖田先輩はあんな終わり方を望んで私を閉じ込めたんですか?』
千鶴の言いたいことがわからずに、総司は目を瞬いた。
「いや、違うけど……」
『二人でずっと一緒にいたいと思って捕まえたんじゃないんですか?』
「……」
『私……私も沖田先輩とずっと一緒にいたいです。沖田先輩のこと、前も好きでしたし、今も……好きです』
千鶴の告白に、総司の瞳の奥が揺らいだ。
『あの時は……あの時はやり方が間違っていただけだと思います。捕まえなくても私は先輩の傍にいます。今は、実際に傍にいられないこともあるかもしれないけれど、心は……。昔は私、沖田先輩に甘えるばっかりで先輩がそこまで…思い詰めてるなんて気が付けなくて……』
千鶴の必死な声を聴きながら、総司は体の奥の柔らかいところが震えるのを感じていた。
『今もうまくできるか自信なんてないですけど、でも頑張りたいんです。沖田先輩とずっと一緒にいられるように、焦らないで壊さないようにして、ゆっくりと慎重に…。今度は、沖田先輩をあんな風に不安にさせないように、がんばりたいです。だから、沖田先輩も……』
総司は震える手で、もう一度髪をかき上げる。
『二人で……二人一緒にもう一度はじめからやってみませんか?』
総司は観念したように瞼を閉じた。
ああ、本当に君にはかなわない
僕を本当の意味で救ってくれるのは、君だけだ
僕の自分勝手な君への想いさえ受け入れて、浄化してくれる
総司は震える声を抑えながら答えた。
「……うん」
授業の終わるブザーで、学生たちはバタバタと本を閉じ立ち上がる。
総司も教科書を閉じ手早くカバンへ放り込み、席を立った。
「沖田君!」
剣道部のマネージャーの声で、総司は立ち止まって振り向いた。
「今日の午後練行くんでしょ?部長が……」
「今日は僕休むよ」
「え?」
そのまま講義室を出ようとする総司について、マネージャーも教室を出た。
「っていうか…、多分これからあんまり部活に出なくなると思うんだ」
カバンを肩にかけながら速足で歩く総司に追いつくため、マネージャーは小走りになった。
「あ、もしかして就職活動が忙しくなりそう?」
マネージャーのその言葉に、総司は片眉を挙げておかしそうな顔をした。
「ん?そういうわけじゃないんだけどね…。ちょっといろいろ…バイトとか?交通費とかかかるしね……」
妙にウキウキとした珍しい総司に、マネージャーは目を瞬いた。
「でも今日は次の大会にむけての練習メニューを考えるって言ってなかった?」
「うーん、大会も……もうでるのやめようかな。三年だしね」
この前とは180度違う総司の言葉にマネージャーが唖然としていると、総司が立ち止まって両手で髪をかき上げ呆れたように言った。
「あ〜……こういうのがいけないんだよね。ちょっとOKがでるとすぐに全力でむかっちゃうところが……。ちゃんともとの生活は維持してあまり負担にならないようにしてあげないと…」
独り言のように総司は言い、付け足しのように、どう思う?とマネージャーに聞いた。
「どうって……何が?」
「だからさ、つきあうってことになったとたん部活やめて時間つくったりバイトしてそのための交通費かせいだり…こういうことされると重いかな?」
キラキラと緑の眼を幸せそうに輝かせそう聞いてくる総司に、マネージャーは合点がいった。
「前に……話してた人?『元カレ』じゃなくて『カレシ』になったの?」
総司はその質問には答えなかったが、まぶしいまでの明るい笑顔で十分に答えになっていた。
初めて見る子供のようなその表情に、マネージャーは驚いた。
「……今日もその人の関係で休むの?」
「うん。あと少しで……」
そう言って総司は腕時計を見る。
「駅に着くと思うから迎えに行かないと。もう一度やり直すことにして今日が初めてなんだよね、会うの」
緊張するなぁ、と言っている総司を、マネージャーは初めて見る人のように眺めた。
いつもどこか影があった総司が、今は無邪気に感情をあけっぴろげにして笑っている。
マネージャーが好きなのは総司であり、それを総司もを知っている。それなのに、そんなマネージャーの前で、昔の大好きな彼女とやり直すことになったことを嬉しそうに話して。その残酷で冷たいところも、マネージャーが総司に惹かれたところだった。
彼にとっては大事なものはほんとうに少ししかないのだろう。前はそれが剣道だと思っていたが、それすらも昔の彼女の前では霞んでしまっているようだ。
泣きたくなる気持ちを笑顔で隠して、マネージャーは総司に言った。
「……はやく行ったら?待たせたらまずいんでしょ?」
マネージャーの言葉に、総司はにっこりとほほ笑んだ。
「うん。じゃあね」
そのまま後ろを振り向きもせず歩き去る総司の背中を、マネージャーはじっと見つめていた。
イギリス人教授が、バサッと置いたレポートの束。
それの一番上を見るとはなしに見た秘書は、少し驚いた。
「珍しいですね。教授が……A+、ですか?いつも厳しい評価で有名なクラスなのに?」
教授はジャケットを研究室の本棚にかかっているハンガーに掛けながら、秘書が持ち上げているレポートを覗き込んだ。
「ああ……それか。久々に面白いレポートだったよ。『蜘蛛の糸』が題材だとたいてい学生は皆同じような答えになるんだが」
「彼は違ったんですか?ええと、名前は……」
「沖田。あんまり他の学生とつるまないミステリアスな学生だったが、こんなことを考えていたとはね」
「ちょっと読ませていただいてもいいですか?」
秘書の言葉に、どうぞ、とうなずいた教授は、そのままコーヒーを入れに窓際のコーヒーメーカーまで歩いて行った。
秘書は視線を手元のレポート用紙に落とし、ソファに座るとそのレポートを読みだした。
……というわけで、自分がカンダタだったら、愚か者の僕はカンダタと同じことをして同じ結果だと思う。
でも、この話から僕が読み取る普遍的メッセージは、カンダタとお釈迦様との関係からのものではない。
以前ひどいことをして血の池に落ちていた僕は、もう二度と希望は必要ないと思っていた。
しかし実際に目の前に蜘蛛の糸が垂れてきたときに、掴まずにいることはできなかった。
掴めばまた苦しみが始まることはわかっているのに、掴んでしまった。
その途端始まる、恐怖と苦しみ。
天国に行けないかもしれない。行けてもいつ追い出されるかわからない。一度与えられてから取り上げられるのは、一度も与えられないよりもつらい。蜘蛛の糸
に群がってくる他のやつらが憎い……
掴まなければ、天国にいけるかも、という残酷な希望を持つこともなく平穏に血の池の中で日々苦しんでいられたと思う。
それでもやはり、平穏な地獄の苦しみよりも、天国での希望に満ちた苦しみの方がはるかに魅力的だ。
世の中には一度だけでは自分の過ちに気づかない人もいて、「蜘蛛の糸」を本当に必要としているのはそういった類の人種だと思う。
お釈迦様は、カンダタにもう一度チャンスを与えるべきだった。
カンダタがそれでもまた失敗するのならもう一度。さらにもう一度。何度でも彼が成功するまで。
しかし、お釈迦様はそれをしないだろう。なぜなら蜘蛛の糸をたらしたのはほんの気まぐれだから。
そして気まぐれでは人を救うことはできない、ということをこの話はよく表していると思う。
何度でもあきらめずに救ってくれようとする蜘蛛の糸にこそ、自分は救われたいと思う。
人を本当に救うことができるのは、お釈迦様といった絶対的な権力者ではなく、あくまでも人なのだ。
そして僕に蜘蛛の糸を差し伸べてくれるのは、僕にとってはなくてはならない大事な人。
一度した失敗を、もう二度と繰り返さないなどとは言えない。
また繰り返してしまうかもしれない。
それでも君はまた蜘蛛の糸をさしのべてくれるのだろう。
僕だけの蜘蛛の糸を。
そして僕はそれを掴む。
何度でも。
君が見せてくれる天国にあこがれて。
蜘蛛の糸を差し出す人と掴む人。
これは糸を掴み昇る人のみの罪で試練だと思っていたのだが、それは違うとその人が教えてくれた。
蜘蛛の糸を昇り切り、幸せになるのは二人にとっての試練でもあり目的でもあり夢でもあった。
ちゃんと昇り切れるかどうかはわからない。
でも二人で、君のためにも成し遂げたいと、今の僕は心から願っている。
沖田総司
-----If you love something,
let it go.
If it comes back to
you, it's yours;
if it doesn't ,
it never was.
(もし愛しているのなら、手放してあげなさい。戻ってくればあなたのもの、戻ってこなければ最初からあなたのものではなかったのです)
【終】