【蜘蛛 3−1】
朝のひんやりとした静かな空気の中を、総司は走っていた。
いつもはロックを聴きながら走るのだが、今日は何故かそんな気になれずiPodは持ってこなかった。そのせいで自分の呼吸音が嫌にはっきりと聞こえる。
大学の構内は緑が多くて、昨日の夜突然降り出した雨のせいで緑は青々としげり、空気はしっとりと湿気をはらんでいた。
早朝の大学になど学生の姿は全くなく、総司の軽快な足音だけが響く。
正直、昨夜はほとんど眠れなかった。
徹夜明けの早朝。普通に考えたら疲れて眠くてどうしようもない状態になっているはずなのだが、なぜだか総司は体も軽く頭も妙に覚めていた。
まぁ、理由は深く考えるまでもなくわかる。
二度と聞くことができないと思っていた声を、もしかしたらもう一度聞けるのかもしれない。それだけで妙にハイになり、頭が興奮しているのだろう。
総司がゴールと決めている大学の門が見えてきて、総司は一気にスパートをかけた。心臓が悲鳴をあげるが、それを気にせず走りぬく。
門を出て、総司は一旦止まって大きく息をつくと、息をふっと吐いて額に汗で張り付いた前髪を吹き上げる。
そしてゆっくりと一人暮らしのマンションへ向かって歩き出した。
昨日、平助からもらった千鶴の携帯番号。
これが総司を悩ませていた。
千鶴はどういうつもりであの番号を平助たちに託したのだろうか?
20歳になって、改めて当時の恨み言を言うために?
総司は頭を振った。
それはありえない。もう彼女は自分とは二度と会いたくないと思っているはずだ。わざわざ恨み言を言うためだけに接触してくるとは思えない。
逆かもしれない。
総司ともう一度話すことで、彼女は自分自身がもう過去のあの事件から立ち直っていることを確認したいのかも……
総司の脳裏に、透明な蝶の姿をした千鶴が浮かぶ。
総司の吐く蜘蛛の糸でどれだけがんじがらめにしても、結局総司には彼女を捕まえておくことはできないのだ。幾重にもまいた糸を軽やかに断ち切って、彼女はふわりと飛び立っていくのだろう。
地上に取り残された哀れな蜘蛛には一瞥もくれないで……
逃がしたくない、という残酷な気持ちが彼女に向かって手を伸ばす。飛び立とうとする蝶を力任せに掴み、握りつぶす。自分の手の中でバラバラになる彼女を感じて……
総司は立ち止まって頭を強く振った。
人気のない歩道の大きな街路樹を見上げる。葉の一枚一枚についた雨の雫が、朝日に反射してきらきらと光っていた。
もううんざりだ
総司はきらめく滴を見上げながら奥歯を噛みしめた。
高校生の時から、自分は少しは成長しているはずだ。
体も鍛えて剣道と勉強に打ち込んで。
それはあの出来事をしでかした自分を悔やんでいるから。
もう二度と愛しい人を自分の手で傷つけたくないから。
電話をかけよう。
もしかしたらこんな自分でも何か彼女の役に立てるのかもしれない。
総司の心は決まった。
「沖田君?帰るの?」
大学のクラブハウスからの暗い夜道で、総司が大学の外に向かって一人で歩いて行くのを見つけ、剣道部のマネージャーはそう声をかけた。
「今日の引退飲み、沖田君たち三年生が主役なのに」
不思議そうにマネージャーが言う。
個人的な飲み会には、どんなに誘われても行かない総司だが、なぜだか部全体でやるようなみんなでワイワイとする飲み会は好きなようでいつも最後まで出席していたのだ。特に誰かと話し込む、と言うわけではなくあちらでしゃべりこちらで酌をして…という感じなのだが、楽しんでいる様子は毎回感じられた。今日も剣道部のクラブハウスで行われる部全体の飲み会で、総司達三年生の引退飲みだった。沖田は全国大会優勝者でもあり、当然最後までいると思っていたのだが。
一次会も終わっていないだろう夜の7時過ぎに、もう総司は帰るようだった。
「買い出し?」
彼女の質問には答えず、総司は聞いてきた。
「そうなの、重くて…。沖田君急ぎでないなら手伝ってもらえないかな?」
剣道部どころか大学内でも有名人の総司に、こんなことを頼めるのは三年生のこのマネージャーくらいだ。一年生の二人は驚いたように遠巻きで総司達を見ていた。
一年生のマネージャー二人と、三年のマネージャー一人。重いビールケースを抱えるように持ち、かさばる菓子類を山のように両手にぶら下げいるので聞くまでもなく追加の買い出しだとわかる。総司の言葉に、手伝ってくれるのかと三人の顔が一瞬明るくなった。
「大丈夫でしょ君なら。力もぢだし」
総司が楽しそうに緑の瞳をきらめかせてそう言うと、マネージャーたちは沈黙した。その微妙な顔を見て総司は吹き出す。
「くっ…!あはははは!その顔!」
総司はそう言うと、彼女が抱えているビールケースを軽々と持ち上げた。
「面白いもの見せてもらったしね。これは手伝うよ。ほら君のも貸して」
一年生のマネージャーがおっかなびっくり渡したビールケースを積み重ねて、総司は再びクラブハウスへの道を戻り始める。自然と総司と三年生のマネージャーが並び、少し後ろから一年生マネージャー二人が着いてくる形となった。
「あの…、ありがとう」
少し頬を赤らめながら言うマネージャーに、総司は笑いながら、どういたしまして、と答えた。
「新部長には、ちょっと用があって帰るってことは言ってあるから」
総司の言葉に三年生のマネージャーはうなずいて黙り込む。
どうやっても入れなかった総司の私生活。彼の内側。もうあきらめたと思っていたがこういう機会にふと気になってしまう。
いつも必ず参加する全体飲み会を途中で抜けるほどの用ってなんなんだろう?誰かと会うのだろうか。何かすることがある?結局自分は彼の中では何の意味のない存在のままで終わるんだろうけど…
彼女の物思いは、総司の問いかけで破られた。
「昔のさ…元カレとかに会いたくなる時ってある?」
「……え?」
これまでは決して触れることのなかった踏み込んだ内容の質問に、彼女は目を見開いた。
「ない?」
「え…と……」
動揺しながらも彼女は一生懸命質問の内容について考えた。
元カレ…元カレに会いたくなる時…?
「貸してたものを返してほしいときとか…?」
彼女の返答に総司が吹き出す。
「ぶっ!…そう。リアリストなんだね」
おかしそうに笑う総司の表情を、彼女はまじまじと眺めた。
なんだか…質問の内容もそうだけど、雰囲気もいつもと違う…
ピリピリしているような、ハイになっているような…、ううん違う。何か不安なのかな…?
でもそれよりも何よりも。
総司の表情には生の想いが現れていた。
いつも仮面のように心の中までは見られなかったのだが、今は珍しく…というより初めて、瞳に力が入っているような…。
本物の総司の姿がちらちらと瞳の奥に現れている。
「……何か、あったの?」
おずおずと、返事を聞きたいような怖いような気持ちでマネージャーが聞く。
「ん?うーん、あるのかないのか…っていうかこういうのがいけないんだよね」
「え?こういうの?」
「……電話一本をするしないでここまで夢中になっちゃうのがさ」
「……」
よくわからない、という顔をしている彼女に、総司はかすかに自嘲するように笑って続けた。
「前に…僕が好きすぎて壊れちゃった関係の女の子がいてね。その子に連絡をとるっていうだけで全神経がそこにいっちゃって…。そういうのって女の子からしたらうざいでしょ?」
まぁ男からしてもうざいけどさ。
そう呆れたように言う総司を、マネージャーは初めて見るように見上げた。
総司が好きすぎて壊れてしまった、という関係にも驚いたが、そんな過去を話してくれたことにも驚いた。きっと考えたうえでの相談などではなく、総司が自分でも言っていたが神経が高揚していて思わずもらしてしまった、そんな感じだった。
彼はもともとそんなに自分の感情を表す人ではないから、きっと余程その昔の彼女のことが……
そこまで考えてマネージャーは自分の胸の痛みに顔をしかめた。
「あの、ありがとう…。もうクラブハウスだから…」
彼女が剣道部の部室の前で立ち止まってそう言うと、総司は、ああ、という表情でビールケースを置いた。
部室の中からの光が総司の右半身を照らしているせいで、いつもよりも線がくっきりとし怖いくらいに魅力的だった。
「用があるんでしょ?……がんばってね」
これからその『彼女』に連絡をとるのだろう。そのために今日の飲みも途中で切り上げるのだ。明日や明後日ではなく今日。しかも多分彼女の迷惑いならないよう遅すぎず早すぎない時間で……
「…うん。ありがとう」
総司は、そんなマネージャーの痛みには気づかずに爽やかに笑うと踵を返し去って行った。
夜の7時半。
千鶴は薫と自宅で夕飯を食べ終わり、後片付けを終えたところだった。薫はリビングでテレビを見始め、千鶴はお茶でも入れようかと思いやかんに手を伸ばす。
そのとき、冷蔵庫の上に置いてあった千鶴の携帯電話が鳴った。
ドキン!と自分の耳に心臓の音が響く。
平助に、総司に渡してくれるよう自分の携帯番号を伝えてから、携帯電話が鳴るたびに千鶴は飛び上がっていた。
そのたびに違う人からの電話で……
平助たちが総司にいつ渡したのかもわからない。まだ渡してないのかもしれない。渡しても総司が電話をしてきてくれるとは限らない。
最近の千鶴は、電話が鳴るたびにそう自分に言い聞かせ心を落ち着かせてから液晶の番号表示を確かめるようにしていた。
今回も同じように自分に言い聞かせながら携帯の液晶を見ると、知らない携帯番号だった。
途端に表情がこわばり、心臓が一瞬止まったような感覚になる。
千鶴は、震える手で鳴り続けている携帯をつかみ、そのまま台所をぬけて自分の部屋へと急いだ。
部屋に入り、ベッドの横に座り込むと、千鶴は震える指と心臓を必死に宥めて通話ボタンを押した。
「も、もしもし……」
『も、もしもし……』
携帯の向こうから聞こえてくる懐かしい声に、総司は一瞬頭が真っ白になった。
最初に言おうと思っていた挨拶、近況を尋ねる言葉、すべてが吹っ飛び、総司は珍しく次の言葉に詰まる。
「………」
『………』
沈黙が続く携帯に向かって、千鶴は恐る恐る言葉を続けた。
「……沖田…先輩……?」
『……うん。久しぶり』
「お、お久しぶりです…」
相変わらずの艶やかな総司の声に、千鶴はどもりながらなんとか答えた。何から話せばいいのか、散々シュミレーションしてきたつもりだったが、久しぶりの総司の声が耳元に響くと何もかも忘れてしまった。
二人とも同じ状態になり、そのせいで沈黙が続く。
最初に言葉を紡いだのは総司だった。
『元気だった?』
「はっはい…!沖田先輩は……?あ、剣道の全国大会優勝、おめでとうございました」
総司の近況をとりあえず聞こうと思い、連鎖的に剣道での優勝をしたこととそれに対するお祝いを言おうと思っていたことを思い出し、千鶴は上ずった声でそう言った。そしてすぐに後悔する。
今このタイミングでいわなくてもよかったのに…!
元気かどうかの話でいきなりこんなこと…
千鶴は自分のタイミングの悪さを激しく後悔していたが、総司は全く気にしていないようにさらりと礼を言った。
『ありがとう。優勝したこと知っててくれたんだね』
「は、はい。あの、インターネットで調べて……」
そう続けて、千鶴はまた自分の失言を後悔した。これではまるでストーカーだ。
「あの、すいません。勝手に調べて……」
千鶴が思わず謝ると、電話口の向こうで総司が吹き出した。
『ぶっ…!なんで謝るのさ。その情報は公開されてるんだから別に知ってておかしくないでしょ。……というより、気にしてくれてるみたいで逆に嬉しいよ』
総司の言葉に、千鶴は真っ赤になった。電話でよかった…と思いながら何故かまた、ありがとうございます、と礼を言う。
インターネットで勝手に追いかけまわしていたことを許してくれた総司にお礼を言ったのだが、言葉だけをならべるとここで礼を言うのは意味がわからないと千鶴は気づく。とんちんかんな受け答えばかりをしている自分を嫌になり、千鶴は再び沈黙した。
落ち着け、自分、と言い聞かせ、そもそも総司の質問はなんだったかと、千鶴は必死に思い出した。
「あ、あの、沖田先輩は……、お元気でしたか?あ、あのでも元気でなければ、優勝なんてしないですよね…!すっすいませんでした。何度も…!」
もう何を話しているのか訳が分からなくなり、千鶴は真っ赤になって冷や汗をかきながら黙り込む。
『……うん。元気だよ』
小さな子をなだめるような優しい声で総司が応えてくれた。
「よ、よかった…です…」
甘やかすようなその懐かしい声の調子に、千鶴は再度赤くなりながらなんとか返事をした。
『お互い元気なのもわかったし、そろそろ本題にはいろうか?何か僕に用事だった?』
ストレートにそう聞かれて千鶴は言葉に詰まった。
あなたがまだ好きなんです。
忘れられないんです。
もう一度おつきあいできないですか…
言いたいことはあるのだが、言葉が出てこない。総司の口調は昔と変わらず相変わらず優しいが、どこか他人行儀だ。要件を聞くためだけに電話をかけてくれて、聞いたら終り…そんな感じがして、千鶴は自分の気持ちを言う勇気が出せなかった。
沈黙を続ける千鶴に、総司が電話のむこうで苦笑いをしたのがわかった。
『イキナリじゃ言いにくい?じゃあなにか世間話をしようか。大学はどう?』
総司のその言葉に、千鶴の胸は詰まった。
ああ、かわらない…と千鶴の瞳に涙がにじむ。
千鶴の気持ちを考えてくれて、楽になるようにいつも気を配ってくれた。わざと気まずくするようなことを言うかと思えば、本当に気まずくてつらいときにはちゃんと気が付いて包み込んでくれる。
「大学は……あまり楽しくはないです。高校ほどは。……沖田先輩がいないとすべてが楽しくないんです」
千鶴の口をついて言葉がぽろぽろと零れた。
「先輩のご迷惑になることはわかっています。家族や…斎藤先輩や平助君にも申し訳ないと思っています。でも、自分ではもうどうしようもなくて……。でもなんとかしたいとは思ってて……沖田先輩ともう一度…もう一度会えれば、何かかわるかもしれないって思って。それで携帯電話の番号を伝えてもらったんです」
突然こんなこと、すいません……
唐突で、支離滅裂な自分の言葉に嫌気がさしながらも、千鶴は必死でそう言い、最後に謝った。
総司に何をしてほしいのか、何がしたいのか、これではわからない。でも千鶴にもわからないのだ。わかっているのは、とにかく現状をなんとかしたいと思っていること。そしてそれができるのは総司だけだということ。
そして何よりも…総司に会いたい、という事…
声を聞いて、その思いはさらに強くなる。
要はそれだけだったのだ。
あの事件のあと、声も聞こえず姿も見ない日々が続いた。
それがつらかったのだ。
「……会いたいです」
この糸に縋(すが)りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。
いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも………