【蜘蛛 2−2】
叫び声が聞こえたような気がして、薫はベッドから起き上がった。
耳をすますようにして、二階の気配をうかがう。泣き声のような啜り泣きがもう一度聞こえ、薫は自分のベッドから飛び降りて二階へと階段を昇った。二階の廊下の先から、ちょうど父親の綱道が自分の部屋からでてくるのとばったり会う。
綱道の視線に薫はうなずいて自分が行くことを示し、まだかすかに啜り泣きの聞こえてくる妹の部屋のドアのノブを静かに廻した。心配そうに薫を見ていた綱道は、それを見届けてから再び自室へと戻る。
真っ暗な部屋の中、ベッドの上で何かがびくりと震えるのを、薫は感じた。
「俺だよ。薫」
静かにそういうと、その塊……千鶴は、ほっとしたように溜息をつく。薫は怖がらせないようにそっと千鶴に近づくと、彼女に触れないように気を付けながらベッドの枕元に座って小さなベットランプをつけた。
オレンジ色の明かりの中で、汗で髪の毛が額にべっとりと張り付いた妹の顔が浮かび上がる。
あの日から、こんな夜がもう半年続いていた。
最初は毎夜。しかも叫び声をあげて飛び起きた後の千鶴はしばらく錯乱していて落ち着かせるのがたいへんだった。夜よく眠れないため昼に支障が出始めて、父親で医師でもある綱道が睡眠薬を処方したほどだった。
しかし徐々に、千鶴が悪夢をみて飛び起きる回数は減って行き、今は一週間に一度、あるかないか……。
最初は抱きしめて落ち着かせようとしたり、一度電気をつけて完全に起こしたり、いろいろとしたものだった。しかし悪夢を見た後の彼女は、触れられるのを極端に嫌がり余計に錯乱がひどくなることがわかった。そして一度完全に起こしてしまうと、次に眠るのが怖くて眠れなくなることも……。
そこで、薫と綱道は極力千鶴に触れないように、でも一人にしないようにして、灯りは薄暗いベッドランプのみをつけ、落ち着くまで傍にいるようにした。綱道がいるよりも、歳が同じの薫が傍にいる方が千鶴が落ち着くのが早いことがわかり、それからは夜中に悲鳴が聞こえると、薫が駆け付けるのが常となったのだった。
千鶴はぼんやりと枕元の薫を見上げると、小さくうなずいて、またゆっくりと瞼を閉じた。
薫はそれを見て、千鶴が完全に寝付くまで枕元に座ったまま待つ。
自分の影が、千鶴の部屋の壁に大きく映し出されているのを眺めながら、薫はまた苛立つ思いが沸いてくるのをこらえることが出来なかった。
あの日、朝平助に千鶴のことを話したときの平助の反応。
学園の友達の家から学校に行っているらしいが、様子はどうかと、薫は平助に尋ねた。
時間が経つごとに、話を聞いたときの平助の様子がおかしいと思うようになり、薫は放課後に擦れ違いが続いていた父に連絡をとった。そしてわかったことは、父親には『薫に事情は話してある』というメールを送り、薫には『父様には説明した』と、それぞれ別のことを伝えていて結局どちらも理由をしらないまま千鶴が外泊していた、という事実だった。千鶴の携帯に電話をしても誰も出ず、メールは送信されるものの返信はない。千鶴の通う学園に連絡したところ、この3日間千鶴は学園を休んでいる、という事だった。
薫の頭に真っ先に浮かんだのは、沖田総司という名の、最近千鶴とつきあいだしたあの男のことだった。
幼馴染の平助と道場が同じで昔からの知り合いらしいが、千鶴に嘘を言わせて外泊させた前科があるため、一番に怪しいと感じた。あいつが剣道の全国大会で優勝したことは知っていたので、家の住所を調べることは簡単だった。
薫が総司の家の玄関まで辿りついたとき、ドアには学生用のスポーツバックやカバンが放り投げられて、玄関は開けっ放しで、中から怒鳴り声が聞こえきていた。
そこからの出来事を思い出して、薫は唇をぎゅっと噛む。
「そうは言われましてもね……」
その警官はそう言ってボールペンで頭を掻いた。
「青少年保護育成条例は確かにありますが、あれは基本大人が青少年に対して淫行を行う場合を想定したものであってねぇ……。青少年同士、しかもつきあってて……っていうんならこちらとしてはもうどうしようも……」
警官の言葉に、薫は真っ赤になって怒鳴った。
「なっ……!何を言ってるんですか!!親や兄弟をだまして閉じ込めてたんですよ!強姦がみとめられないなら監禁じゃないですか!!」
「……だからですね、お兄さん。その当の本人……妹さんが、合意の上だったって言ってるんですよ?そりゃあ、私も娘がいますから、こんな若さでこんなことしでかしたら黙っていられない気持ちはわかりますが、ですが警官として犯罪と扱うことは難しいですねぇ…」
結局法的手段はとることが出来ず、平謝りに謝る総司の両親たちと綱道が話し合い、もう二度と千鶴に接触させないこと、できればこの街から出ていき二度と前に現れないでほしいことを約束させて、この事件は終わらせることになった。
親代わりだという道場主の近藤や、学園の教師である土方という男や、様々な人間が、いれかわりたちかわり千鶴の家族に謝罪に訪れた。
薫は、千鶴はもうそっとしておいてほしいと告げ彼らには会わせずに、事がことなだけに公にしないよう強く言い、何人かの共通の友人はしょうがなく見逃して、他の一切の、総司に関することの連絡を絶ったのだった。
あんなことをされて、毎夜こんな悪夢に悩まされ、それでも総司を庇う千鶴に、薫はいらついた。
しかし、ひどい経験をして傷ついている千鶴にきつい言葉をいう事も出来ず、薫はただ傍にいて少しずつ癒されていく千鶴を見守っているだけだった。
すーっすーっと安定した呼吸が聞こえてきて、薫は千鶴の方を見る。瞼を閉じて唇をかすかにあけて、ようやく再び眠りについたようだ。
額にはりついた髪をそっとぬぐって、薫は千鶴の顔を見つめる。
最近の千鶴は昼はもうすっかりもとにもどったようだった。笑顔もでるし冗談も言う。
でも千鶴の瞳はどこかうつろで、会話と会話の合間にふと心が彷徨いだすのをたびたび薫は見ていた。時々、ちゃんと笑えているかどうか千鶴が自分の顔をガラスや鏡でチェックしているのも、薫は知っている。そして、その本当の傷がこうして夜になると、ときおり顔を覗かせ、家族を苦しめる。
どうしてあげることもできない状況に、薫は小さく溜息をつくと、ヘッドライトを消して、静かに立ち上がり部屋を出たのだった。
「おい、窓開いてる」
薫はリビングに入って来るなり眉間にしわを寄せてそう言った。千鶴は言われて初めて気が付いたように、風がカーテンを柔らかくゆらしている窓を見る。
「ああ……、少し暑いじゃない?」
二十歳の誕生祝いの夕飯の後片付けをしながら、千鶴は何でもないことのように言った。
「いや、なら網戸にして開けろよ。蚊とかあれとか……灯りにつられてはいってきたらどうするんだよ!」
「あれって……。ゴキブリ?入ってこないよ。だってここ5階だよ?」
「わからないだろ!!入ってきたらおまえやっつけられるのか!!」
「薫だって嫌いな癖に」
「だから閉めろっていってるんだろ?」
千鶴は両手に持っている汚れたお皿を見下ろす。
「薫が網戸にしてくれればいいじゃない」
薫の眉間の皺がさらに深くなる。
「俺が高いところ嫌いだって知ってるだろ!」
「もうっ。はいはい」
千鶴はこれ見よがしに溜息をつくと、両手に持っていたお皿を薫に渡し、網戸を閉めに行く。
高い場所が大嫌いな薫が、大学入学を機に千鶴と住むために選んだマンション……。
若い女性の千鶴がいる、ということで1階や2階ではなく上層階にしてくれたのだ。日々高いところにいる、と思わないようにすればなんとか住めるから、と言って。
もちろんもっと安く別々の部屋を借りる、とう手もあった。しかし、きっと夜時々いまだに叫び声をあげる千鶴を心配してくれているのだろう。薫は何も言わなかったけれど当然のように同じ部屋を借りてくれたのだった。
実際、今でも薫がいないときは、千鶴はマンションに一人でいるのは少し怖かった。特に何が、というわけではないのだが……。出られなくなるのではないか、視界の隅にあの人がいるのではないか、とどこかで思ってしまうのだ。
「父様、泊まって行けばよかったのにね」
千鶴が網戸にして、テーブルの片付けに戻ると、薫が食洗機に食器をつっこみながら答えた。
「あの人は一人の方がいいんだよ。今日は嬉しかったんじゃないか?手間のかかる子供二人が一気に成人したって。これで心置きなく研究に没頭できる〜ってさ」
薫の言葉に、千鶴は小さく微笑んだ。母を早くに失くして男手ひとつで薫と自分を育てるのは大変だっただろう。本当は研究の方に集中したい、というのは父の昔からの願いで、薫と千鶴が大学を無事卒業したら、きっと町医者をやめて研究の道に入るに違いない。
今日は子供たちの下宿先のマンションに来てくれて、三人で一緒に20歳の誕生日を祝ってくれたのだった。
「それで?明日は平助たちと飲んでくるのか?」
薫が、食洗機にワイングラスを入れる前に、残ったワインを飲みながら千鶴に聞いた。千鶴はうなずく。
「薫も来る?」
「いやだよ。斎藤ってやつもいるんだろ?それに俺魚嫌い」
薫の言葉に千鶴は小さく溜息をついた。
「お魚が嫌いで、高いところが嫌いで、お肉も嫌いで、野菜も嫌いで……。嫌いな物ばっかりだね、薫は」
「あと狭い場所も嫌いだし、うるさいやつも嫌い。揚げ物も嫌い」
苦笑いをした千鶴は、ふっと、同じように好き嫌いが多かった人物を思い出し、笑いをおさめた。
過ぎたこと、と忘れたつもりで過ごしているけれど、ふとした拍子に現れる。
きっといつもいつも頭の片隅に、彼はいるのだ。見ないようにわざと目をそらしているが、その存在をいつも意識してしまっている。心配をかけている家族や友人の手前、もう二度と口にはしないし前を向いて進んでいるように見せてはいるが、千鶴は彼の事を忘れたことはなかった。
怖い……
そう思う反面、会いたい、とも思う。
街で彼と似たような髪質、髪色の人とすれ違うと、思わず顔を確かめてしまう。彼はもうこの街にはいないのに……。
誰といても、何をしていても、あの頃感じていたような心の底からの感情は生まれてこなくて。でも周りに心配をかけないようにいつも通りの笑顔をこころがけて……。最近はそれが普通になりすぎて、本当の笑顔がどんなふうだったか忘れてしまうくらいだった。
そんな自分の気持ちを、千鶴はもう認めて受け入れていた。最初のころは、あんなことをされた相手をいつまでも気にしている自分がどこかおかしいのではないかと苦しみ悩んだものだが、あきらめ……とは違う。……受け入れたのだ。
私はまだ……沖田先輩が好き……。
正確に言えば、あの頃の、高校生のころの総司が好きで、彼にまっすぐに恋をしていたあのころの自分の気持ちがどうしても忘れられないのだ。
あの総司はもういない。もちろん自分も……、もうあんな風に人を好きになることはできないだろう。
でも。
彼の事を忘れて、あの出来事をなかったことにして、新しく始めることはどうしてもできなかった。
何をしてもつまらない。
興味を持てない。
心から楽しいとは思えない
そんなそぶりを見せると、薫をはじめ皆がつらそうにするからそんなところは見せないけれど……。
忘れなくてはと苦しんだ末に、もう忘れられないと受け入れあきらめた。
そうして今、これからどうすればいいのだろうか。ずっとこのまま心の半分以上を、あの時あの場所に置いてきたまま、空っぽのまま生きていくのだろうか。
それがイヤだと思うような強い気持ちも、千鶴にはもうなかった。
しかし本当の自分は、どんどんと消えてなくなって行くように思う。まわりの優しい人たちを喜ばせて、安心させるためだけに、なんでもないふりをして生きていく……。そうして社会人になり皆が結婚したり遠くへ引っ越したりして、自分ひとりになったとき、どうなるのだろうか。
何もない、空っぽな自分だけで、何のために生きていくのかわからなくなるのではないだろうか。
その思いは、最近……20歳の誕生日が近づくにつれ強く千鶴を脅かすようになった。
今、まわりの望む『千鶴』を演じることに一生懸命になって。それはそれでつらくはないが、でもその状態が5年後、10年後も続くとは思えない。父は自分の研究に没頭し、薫もきっと就職して結婚するだろう。平助も一も、それぞれ自分の志す道を進んでいくに違いない。取り残された千鶴には何ものこらない。周りのためだけに生きてきて、その周りがなくなったら……。
そしたら自分は死ぬしかないのではないだろうか。
そうして、そこまで考えるといつも、心の奥底で『死にたくない』という、自分でも驚くほど強い気持ちが湧き上るのだ。
まだやり遂げていない。
理解していない。
何も終わっていない。そもそも始まる前に終わってしまった。
あの人のことは……怖い。されたことも忘れていない。あの時潰れた心はまだそのままだ。
でも、このまま、すべてが中途半端なまま終わる、と考えると、走り出したくなるくらいの焦りが千鶴の心に生まれるのだ。
やり直したい
もう一度。今度は……今度はうまくやれるようにがんばりたい。
20歳の今になってあの時の事を思い出してみると、彼はまるで大人の男性のような熱情を持って自分を思っていてくれたんだと、わかるようになった。
彼も17歳で、大人の入口に足を踏み入れるかどうかという年齢のはずなのだが、年齢には見合わない成熟した思いを必死にコントロールしようとしていたように思う。そして千鶴は人よりもかなり奥手の16歳で、彼の想いの深さや愛し方などほとんどわかっておらず、受け止めることもできていなかった。そのせいで彼が不安になるのは当然のことだったと、20歳の今ならわかる。
今なら…、今でも奥手で臆病なところはかわらないが、わかりたい、受け止めたいと思える。
そこまで考えて千鶴は苦笑いをした。
総司はとてももてる人だった。
自分と付き合いだしたときだって、もって三か月といろんな人が言っていたことを知っている。それまでの総司はひっきりなしの彼女志願者の中から気に入った娘とつきあい、2〜3か月で別れてまた次の娘へ…、という感じだった。千鶴と付き合ったのだって実質2か月……。
今でもなぜ彼があそこまで思いつめたのか正確には千鶴には理解できないが、いろんな女性との華やかな交際をしてきた総司にとっては千鶴の奥手度合がもどかしくてたまらなかったのかもしれない。あんな事件を起こさせてしまったのが千鶴の奥手のせいのような気がして、千鶴の胸は痛んだ。
きっと自分と離されて違う街に行った彼は、いろんな女性に優しく慰められて、もう千鶴のことなど忘れているだろう。
そしてきっと、かなり面倒だった昔の彼女として笑い話になっているのかもしれない。
いや、笑い話になるほど記憶に残っていないかもしれない。彼だってあんな事件は忘れてしまいたいだろう。
頭もよく、剣道も強く、外見も魅力的な彼に、あんな事件は似合わない。
忘れてしまって新しい人生を歩きだしているのは当然だ。
今更連絡を取っても迷惑以外のなにものでもないよね……。
千鶴は小さく溜息をつくと、頭を軽く振って台拭きでダイニングテーブルを拭いた。
そして夜風を少しひんやりと感じて、網戸にした窓を閉めようと窓に近寄って、千鶴は何とはなしに外を見る。
マンション前の道路、電信柱の横に自転車が一台停めてあった。
時間も場所も忘れ、ドクン!と心臓の音が千鶴の耳に聞こえた気がした。
彼とつきあっていたころ、何回か自転車で実家の前まで来てくれた思い出が頭をかけめぐる。夜ふと窓を覗いたら自転車があり、彼がいて、甘えるようなメールで、『出てこれる?』と……。
思わず踵を返して外へ行こうとし、千鶴は我に返った。
震える指で、声がもれそうになる唇を抑える。
「か……、薫、ちょっとトイレ行くね。すぐ戻って片付け手伝うから……」
ああ、というそっけない薫の返事を背中で聞いて、千鶴は自分の部屋へと走った。
彼が来てくれた、と勘違いをした一瞬。
あの喜びと驚きと震えは、本物の感情だった。
やっぱり沖田先輩じゃないとだめなんだ……。
彼が、彼だけが、千鶴を千鶴でいさせてくれる。たとえ壊れてしまったとしても、何度でも何度でも、生まれ変わってでももう一度挑戦してやりなおしたいと思える。
そんな相手は、千鶴にとっては総司だけだった。
周りの人を不幸にするかもしれない。
今よりさらに迷惑をかけてしまうかもしれない。
でも。
ごめんなさい。
本当にごめんなさい。
でも、私は沖田先輩に会いたい。先輩が望んでくれるのならもう一度やり直したい。
もうすっかり私のことを忘れていたり、迷惑だって言われるならそれならそれでもいい。
こんな中途半端に生きていくよりは、傷ついて傷ついて泣きながら生きて行った方がいい。
千鶴は自分の部屋の机の上にあった携帯電話を操作する。
もう何度も何度も開いたホームページ。
そこで総司の通っている大学も知った。
千鶴の行ったことのない街。ここからは新幹線で何時間もかかる。
そこで彼はどんな風に生活しているんだろう。ここのホームページで知ったように、剣道部に入って全国大会に出場して、そして見事優勝したのだろう。
高校生の時、彼の活躍に胸を躍らせ応援した自分を思い出して、千鶴の瞳からは涙があふれた。
携帯の画面を、指でそっとなぞる。
会いたい……
いつも臆病で迷惑ばかりかけていた。今回も本当に今更で、遅すぎるかもしれないけど。
でもやってみよう。
そして次の夜、平助と一と一緒に、おいしい魚を食べさせてくれるという海鮮料理屋で20歳を祝ってもらった千鶴は、帰り道、彼らに切りだした。
「私の携帯の番号を、沖田先輩に渡してもらえないでしょうか……」
驚く彼らの顔が見れなくて、俯きながら、それでも千鶴の心はしっかりと決まっていた。