【蜘蛛 1−2】
あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、
たまに聞えるものと云っては、
ただ罪人がつく微な嘆息ばかり……。
「それでね、沖田君。……もしよかったら、今日部活のあと一緒にレポートやらない?」
マネージャーの、少し緊張した声が聞こえて、総司は振り向いた。
少し赤く頬をそめて、マネージャーの女の子は立ち止まって総司を見ていた。
なんとなく、……趣旨はわからないでもないけれど、総司は気づかないふりをする。
「今日は部活の後、約束があるんだ」
「約束?」
「……うん、友達とね」
総司の珍しい言葉にマネージャーは疑わし気な顔をした。総司が友達と約束をする、というのは初めて聞いた。誰ともつるまず遊ばないイメージだったのに。自分の誘いを断るための嘘なのだろうか?
そんな思いがそのまま顔に出ていたのだろう、総司がぶっと吹き出した。
「…ほんとだよ。僕にも数少ないけど友達はいるんだ。昔のね。何故だかすごく久しぶりに会いにくるっていうから、いっしょに飲む予定でさ」
だから、今日はこんなにあの子のことを思い出すのかもしれないな。
総司は頭の片隅でそう思った。
いつもあの子の事は頭を離れないけれど、でも今日はやけにあの日のことを、あの日のあの子のことを生々しく思い出してしまう。
自分では意識していなかったけれど、突然今日会いに来ると言って来た昔の友人達のことが気になっているのかもしれない。彼らを透かしてあの子の様子が知りたい。でも自分のことを忘れて他の男とつきあってたり、幸せな日々を送っている様子なんて聞きたくない。かといって、あの日の傷を引きずったまま笑わずに日々を過ごしているあの子も想像したくない。
きっと彼らはあの子の話題には触れもしないだろうけれど。
総司はそう考えて苦笑いをした。
あの事件の後、何度か彼らと会ったが、総司にどう接すればいいのか彼らも困っているようだった。彼らにとっても大事な女の子だったあの子をひどく傷つけた総司を責めればいいのか、しかし総司自身がこれ以上ないほど傷ついているので慰めればいいのか……。
どちらにせよ、あの街から総司が去り、もう二度とあの子には接触しないように、というのが、あの子の家族の希望だった。共通の友人である彼らもそれは知っている。
そのせいか、会っても全然関係のない道場の話や剣道の話、昔からの知り合いのバカ話やお互いの近況報告をして別れるのが常だった。
「いらっしゃい」
「……お邪魔します…」
総司の顔いろをうかがうように顔を覗き込んでくる千鶴に、総司はスリッパを出しながら心を隠してにっこりとほほ笑んだ。
こういうのは得意だ。
我慢して、こらえて、『イイ人間』であろうと努力する方が苦手だ。でも、それでもよかった。
……彼女が笑ってくれるのなら。
千鶴は制服のままで、きっと部活も休んで来たのだろう。襲われたのは彼女の方なのに、多分総司の事を気にして。
ずっと彼女を見て、彼女の事ばかり考えていた総司には、彼女の思考経路がわかるような気がしていた。
修学旅行前からの擦れ違い、今日の屋上へ続く階段での出来事。どうしてこんなに自分たちはうまく行かないのか考えていたのに違いない。
冷たい水がひたひたと静かに心臓を侵していくのを感じながら、総司は彼女を自分の部屋へと案内する。
「何か飲む?」
総司が聞くと、想像どおり彼女は思いつめた顔のまま首を横に振った。
「あの、私、沖田先輩と話がしたくて……」
「……」
フローリングにぺたりと座り込んでいる千鶴を見つめながら、総司はベッドに腰掛けた。
自分の瞳が笑っていないのを感じながら、総司は口だけでも微笑みの形をつくって聞く。
「何?」
「えっと……。沖田先輩……、あの、さっきのこと、すいませんでした…。私、よくわかってなくて……」
総司の顔に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「なんで君が謝るの?襲ったのは僕でしょ」
総司の言葉で、千鶴の頬が赤く染まる。
「私、わからないんです、沖田先輩のこと。それで、さっき逃げ出したのは……その…。ちょっと時間が欲しいんです」
千鶴はそう言って、総司の顔を見た。
「私男の人とつきあったことがなくて、よくわからなくていつも沖田先輩を困らせてて……。多分もうちょっと時間がいるんだと思うんです。その……、ゆっくり考えたいんです、いろんなことを」
千鶴の言葉に、総司はやっぱり……と柔らかく微笑んだ。
それはそうだろう。心の準備もできていないのにいきなり襲いかかってくるようなヤツと今後もつきあってなどいけるわけがない。
『時間がいる』というのは、彼女なりの優しい、遠回しな別れの告げ方なのだろう。
どんどんと冷たい水に浸食され、冷たく冷えていく総司を前に、千鶴は必死で語りかけていた。
「……その、沖田先輩は、どうして突然あんな……あんな……。私、何かしたんでしょうか?その、どうして……?」
彼女からしてみたらその疑問も当然なのだろう。土方と抱き合っているのを総司が見たことなど、彼女は知らない。何かの誤解なのかもしれないが、彼女に他の男が触れているのを想像するだけで視界が真っ赤になるのを感じる。しかも『あの』土方だ。さんざん暴走しそうになる欲望を抑えていた理性が、吹き飛ぶのも当然だろう。
それに彼女はあの初めてのデートの夜の記憶がないのだ。つきあいだしてからは、総司は手をつなぐことと軽いキスぐらいしかしていなかった。『ゆっくりするから』と言ったのは自分だし、彼女には前世の記憶もないし、現世でも男とつきあうのは自分が初めてだし……。総司がこんな暗く湿った感情を持っていることすら気づかれないように、ひたすら爽やかに接してきたのだ。
それを最後までやりとおすことができなかった自分に、また自己嫌悪を感じながら総司は答える。
「ムラムラしたから」
千鶴が目を見開いてこちらを見るのを確認して、総司は続ける。
「知らなかった?いっつもあんなことを考えてたんだよ。だいたい僕ぐらいの年の男が考えることなんて、みんなああいう事をしたい、って事だけだと思うけどね」
「……」
唖然と口を開けている千鶴をもっともっと傷つけたくて、壁に自ら叩きつけたガラスの玉をさらに粉々に踏みにじりたくて、総司は言った。
「でももうとりあえずはいいかな。さっき別の女の人とエッチしてきちゃったし」
総司の言葉に、千鶴は殴られたように瞬きをした。
「……え?」
「僕ってもてるみたいでさ。さっきも女の人にナンパされて。千鶴ちゃんは逃げちゃうし、もういいかなーって思って」
千鶴の黒目がちな瞳が大きく揺らいだ。
総司はゆっくりとベッドから立ち上がり、千鶴の傍に膝をついて彼女の顔を覗き込む。後ずさりする千鶴を、壁と自分の間に閉じ込めて。
「……でも、やっぱり千鶴ちゃんがいいな」
総司は言葉と同時に、千鶴の手首を掴んで拘束し唇をよせた。
「!!……やっ……いやっ!」
逃げようとする千鶴の顔を、もう一方の手で押さえて、総司は無理矢理キスをする。
のけぞる彼女をそのまま床に押さえつけ、総司の服を引っ張って引き離そうとする千鶴の両手を、総司は片手で一つにして頭の上で握り、拘束した。
「沖田先輩……!!やめて!!だめ……!!」
彼女の叫び声が、余計にこの状況を煽るようだった。総司の心の奥底から、凶暴な何かが唸り声をあげてでてくるのを感じる。これまで必死に押さえつけていた彼女への想い。
総司は理性とともに、それを解き放った。
自分でも驚くほど冷静に、彼女の制服のリボンをほどき、一つずつブラウスのボタンを素早く外していく。
「沖田先輩!!お願い!だめです!こんな……!こんな……!!どうしてっ……!」
千鶴の泣き叫ぶ顔と声を見ながら、総司は意外に平静な自分を感じていた。
嫌われるのを怖がっていたころより、もう嫌われた今の方が心が穏やかだなんてね。
「ねぇ、大丈夫。優しくするよ。だから……、もうあきらめて」
「沖田先輩……!どうして?どうして……!わからない……。だって……!」
「……もう『わからない』って言わないでよ。君は……君はわかってくれてたじゃない、昔は。僕の事、誰よりも……多分僕よりもわかってくれてた。僕を好きだって、いっしょに生きて行きたいって言ってくれたよね?」
至近距離でそういう総司の瞳に、千鶴は息を呑んだ。
総司は涙を流していた。
「……」
千鶴は、暗い緑の瞳からこぼれる涙を茫然と見つめる。
抵抗することをやめた千鶴に、総司はそのままキスをした。塩辛い味がしたが、もうどちらの涙なのかわからない。
舌で彼女の口の中を探りながら、ゆっくりと頭の上で拘束していた手を放した。床の上で両手を上にあげたまま無抵抗の千鶴の体を、総司の汗ばんだ手がなぞって行く。
ボタンを外しブラウスを開いた。白に薄いブルーの縁取りがされた可愛らしいブラがのぞく。総司はキスをしたまま手を千鶴の背中にまわし、ブラをとった。
唇を放して、明るい光の下で見る彼女の胸へと視線を移す。
総司の頭からは、これまでのすべては消え去っていた。
初めてちゃんと見た現世での彼女の裸……。それはどうしようもないほど総司を興奮させた。体のどこよりも白く、柔らかく盛り上がった二つの胸。
総司は柄にもなく震える手で、それをそっと包んだ。
「あっ…」
思わず、という感じで千鶴の唇からこぼれた声に、総司の興奮は高まる。そのまま両手で優しく揉みしだき、感触を何度も確かめる。そしてその先端、一番敏感な部分を親指で優しく円を描くように撫でていく。
千鶴の真っ白な胸を掴む自分の浅黒い手……。その対比に煽られながら、総司は千鶴の顔を見た。
千鶴は、涙はまだ乾いていないものの、頬を染めて、息を荒げて、初めての感覚に戸惑っているようだった。
「もう……君は僕のものだ…。僕だけの……」
千鶴の瞳を覗き込んで、総司はそうつぶやいた。
千鶴の瞳に、また涙が盛り上がる。
彼女はゆっくりと、祈るように瞼を閉じた。
総司は、千鶴に本格的にのしかかり、脚で千鶴の脚を割る。
遠くで、助けて……という千鶴の声が聞こえたような気がした。
ここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、
泣声を出す力さえなくなって……
「明日とかでもいいんだけど……」
マネージャーの子の言葉に、総司は微笑んだ。
「……ごめんね。君の言ってる意味はわからないでもないんだけど……。でも僕はそういう気がないんだ」
総司の拒絶に、マネージャーは寂しそうに微笑んで俯いた。
「ごめんなさい、しつこくして…。もう、あきらめるね。その…好きな子とかがいるからなの?」
その言葉に総司は苦笑いをする。
「『好きな子』ね……。そんな可愛らしいものだったら、きっと今頃は幸せだったんだろうけどね……」
総司の彼女に対する思いは、そんなに優しいものではなかった。そんな……柔らかくて幸せで、暖かいものでは。
言葉で表すとしたら、執着、依存、嫉妬、独占、支配、愛着……。
16歳で、そんな感情を自分ひとりに向けられたら、きっと千鶴でなくても困惑して逃げ出しただろう。総司は逃げ出すことも許さず彼女を捕えた。いや……捕われているのは自分なのかもしれない。
未だに彼女の細い糸に絡み取られ、4年たった今でも巣から逃げ出すことも殺されることも許されない。
あの巣の中での甘美な出来事がなければ、もしかしたら総司は千鶴を忘れることができたかもしれない。
忘れるとまでは行かなくても、中学の時のように他の女性との気晴らしで、その日その日は楽しく過ごしていくことができたかもしれない。
しかし、あの経験をしてしまった後では……。
あの堕ちていく感覚。常識など突き破って、欲望のまま貪る経験。思うまま彼女を愛する快感。そして閉じ込めて自分だけのものにする悦楽……。
それと比べると、日常のどんなことも色あせ、物足りなく感じられた。
何か足りないまま他の子に手をだすよりも、一人であの短い日々を思い出していた方が満たされる。天国なのか地獄なのかはわからないが、総司にとっては何よりも甘い記憶だった。
我ながら病んでいる自覚はあるが、もう総司にはどうしようという気もなかった。
幸せか、と聞かれれば、わからない、としか答えられないが、それでもこうして彼女との思い出がある限り不幸せではなかった。
「あ、俺は生で!」
相変わらずの平助の様子を総司は呆れたように見ていた。隣では一が黙々と焼酎を飲んでいる。
「僕もビール頼んでよ」
総司の言葉に、平助は注文を取りに来てくれた店員に、生もう一つね!と付け加えた。
「で?なにかあったの?これまでは大会とかで会った時にその後で、って感じだったのにさ。わざわざお揃いで来るなんて」
総司が焼き鳥を食べながらそう言うと、平助と一は顔を見合わせた。
「……なんだよ。別にいいだろ?特に用事がなくたって。3年になって大会とかにも出なくなるしさ、お前どうしてんのかなって」
あっけらかんと、平助はそう言った。
「執行猶予つきの犯罪者みたいなもんだからさ、僕。またあんなことしてないか様子見に来たのかと思った」
総司の言葉に一が眉根を寄せた。
「……そういう自虐的なことを言うのはやめろ」
「でも、それが本音なんじゃないの?言いにくいだろうから僕から言ってあげただけだよ」
一は焼酎を机に置くと、ぎろりと総司をにらむ。
「……そんなことは思っていない。お前は……誰彼かまわずああいうことをするわけではないだろう」
一の言葉に、今この席にいない一人の女の子がくっきりと三人の脳裏に浮かび上がる。
黒目がちの大きな目。透き通るような肌に、さらさらの黒髪。華奢な体に似合わず気が意外に強くて、でも恥ずかしがり屋で……。
総司には、4年前、16歳のあの子しか思い浮かばない。少女になったばかりのまだ幼さの残る……、でも総司にとってはだれよりも『女性』だった。
きっと目の前の平助と一の脳裏に浮かんでいるあの子は、4年後の『女性』の姿だろう。女の子が一番変わって美しくなる4年間……。どんな風になったのか、前世の時のようなしっとりとした、でも芯は強い感じの優しい雰囲気を持った女性になっているのだろうか……。
総司はその姿を振り払うように、目を閉じて軽く頭を振った。そして気を取り直すように改めて平助と一を見る。
「で?そっちはどうなの?まだ彼女できないの?」
総司の言葉から、またにぎやかな、害のない雑談が始まった。近藤の道場の様子。共通の教え子だった小学生たちが、今は中学生になり、地元の中学大会でいい成績を残していること。左之や新八たちの相変わらずの様子……。
さんざん食べてしゃべって飲んで、総司は久しぶりに腹から笑った気がした。
トイレに、と言って席を立った一を見送って、総司がぼんやりと壁に寄りかかってビールのジョッキをつたう滴を眺めていると、平助が物言いたげにこちらを見ているのに気が付いた。
「……何?」
少し酔ったかな……。
ゆらり、と揺れた視界の中で、妙に真面目な顔をしている平助を見ながら、総司はぼんやりとそんなことを思った。
平助は何も言わずに暫く俯いて……、そしてすっと手を出した。その指の間には、総司に差し出すように四つ折りにされた小さな紙片が挟まっていた。
「……?何?」
同じセリフを言って、総司がその紙を受け取って中を見ると、中には平助の字で書かれた電話番号……。
「…?携帯の番号?平助番号変えたの?っていうか、紙でわたさなくても赤外線とか……」
言いかけた総司を、平助がさえぎった。
「それ、千鶴の」
本当に久しぶりに耳で聞いた名前に、総司は一瞬時間が止まったように感じた。
妙に景色が白くかすみ、手のひらの上にある紙だけが熱く、重く感じる。
何……、何を言って……。
総司は笑顔でそう返そうとしたが、言葉がでなかった。
通路の向こうから一が戻って来て、平助と総司の様子を見て何か悟ったようだ。一は平助を見て言った。
「……話したのか」
「いや、まだ番号渡しただけ」
二人の会話に、総司は目を見開いたまま顔をあげた。
「……きつい冗談やめてよ。あの子の携帯なんて、僕に教えるの禁止されてるのに、勝手に教えたりしたら……」
ぼんやりと言う総司に、平助が言った。
「……千鶴からだよ、それ。千鶴がお前に渡してくれって」
平助の言葉に、総司は固まったまま手のひらの紙片を見た。手が震えてしまいそうで、とりあえずその紙片を、危険物のようにそうっと机の上に置き、総司は手をぎゅっと握った。
「……お前が、もう昔のことは忘れて楽しくやってたり、忘れようと前向きに努力してる風なら渡さないでくれって。でも、まだひきずっているようなら……、まだ忘れられていないようだったら、渡してほしいって頼まれたんだ」
「だっ……て……。でも、あの子僕と連絡とるの、禁止されてて……。今度接触がわかったら警察に訴えるって……」
「そう言ってたのは千鶴の家族だろ?」
平助が言う。総司は、信じられない、という顔で平助を見た。
「でも、じゃあ……、警察に訴えられてもいいっていう……?」
わかっていない様子の総司に、一が言った。
「例え今お前と千鶴が接触したとしても、もう家族は訴えることはできない」
「……」
何も答えない総司に、一は続ける。
「彼女は……もう成人だ。お前も誕生日を覚えているだろう?先週二十歳になったんだ」
成人した女性が、自分の意思で何をしようと、もう警察が介入することはない。家族についても同じだ。
一の静かな声を聞きながら、総司は机の上の紙片をぼんやりと見た。
そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、
まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、
するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか……