【今度いつ会える? 8】
「……だからあれは彼じゃなくて彼のお兄さんだったんです。39度の熱がある人に、しかもお兄さんの目の前でそんな話はできなくて、でもお兄さんにも事情を話すわけには行かなくて……。式場や二次会会場で決めなくちゃいけないことはとりあえず全部保留してきたんです」
総司の胸で説明している千鶴の髪をもてあそびながら、総司は聞いていた。
そうだったのかと腑に落ちると同時に、千鶴を疑ったことひどいことをしたことに対して悔やむ気持ちがこみあげる。
「……ごめんね。話も聞かないで……」
千鶴は総司の胸の中で首を振った。そして少し体を離して総司の顔を見る。
「……私が悪かったんです。意識してしていたわけじゃないんですけど、こんな状況でどちらにもいい顔をしようとしてた私が間違っていました」
真っ直ぐに自分を見つめてくる千鶴の瞳に、総司は呑みこまれそうになる。
「婚約者の人を傷つけたくないって思って、総司さんを傷つけて……。婚約者の人を傷つけないなんて無理なのに。傷つけて、憎まれて、恨まれて……、私は彼にとってそういう存在になるべきだったんです。私、次の週末にマニラに行ってきます。ちゃんと好きな人がいるから結婚できないって謝って、罵られてきます」
微笑みながら話す千鶴の瞳には涙が浮かんでいた。そして暖かい裸の腕を総司の体にそっとまわす。
「……私が一番大事にしたくて傷つけたくないのは、総司さんです。……ずっと、一緒に居てください……」
涙の感触がする優しいキスを額に感じて、総司は瞼を閉じた。
ああ……、彼女が好きだ……。
彼女のこの強さが、潔さが、優しさが、いつも僕を救ってくれる。
総司は再び千鶴を抱きしめた。
「……ホントに、君はすごいね……」
スルリと古い皮を脱ぎ去って、新しく美しく生まれ変わる。日々変わる千鶴に、総司は目が離せない。
次はどんな千鶴が現れてどれだけ自分を夢中にさせるのか。
果てのない、終わりのない、幸せな思い。
「僕もマニラに一緒に行く」
「ダメです」
やっぱり……。千鶴の即答に、総司はそんな顔をして黙り込んだ。
「じゃあ…、僕にできることは、千鶴が『ちゃんと』するまで最初の約束通りイイコにしていることぐらいかな……」
総司の言葉に千鶴は目を瞬いて、顔を見た。
「結局全然イイコにできなくて、君を苦しめて……。やっぱり最初に君が言ってたみたいに中半端に会わないでいた方がよかったのかもしれないね。つらいけど……。でも君にばっかりつらい思いをさせたくないから」
君から連絡もらうまで、僕は会わないし連絡もしないよ。
微笑みながら言う総司に、千鶴も微笑んだ。
「そんな無理しなくていいんですよ?もう婚約期間中に平気で浮気をしていた尻軽女になるつもりなんですから」
「千鶴はそんな女の子じゃない」
拗ねたように言う総司に、千鶴は声を出して笑う。
自分は、人の価値観なんて全然気にせずに好きなことをする人なのに……。私のことになると気にしてくれるなんて……。
「……総司さんは優しい人ですね……」
「何それ。嫌味?」
先ほどのことを思い出して、気まずそうに言う総司に千鶴は言う。
「じゃあ、お言葉に甘えて来週末マニラから帰って連絡するまで、会わないでおきましょう」
「メールも、電話もね。声とか聴くとぐらぐらしちゃうから」
「……でも、来週って月曜日から、でいいですよね?」
千鶴の言葉が何を言っているのか気が付いて、総司は緑色のきれいな目を見開いた。
「……いいの?」
「今夜と明日……。ずっと一緒にいたいです。ご飯を作ってあげて、たくさんおしゃべりしたり、いっしょにテレビを見たり……。他愛もない時間をたくさん一緒に」
千鶴の言葉に、総司も微笑んだ。
「いいね。君の作ってくれたご飯、久しぶりに食べたいな。あとは……まぁいろいろ、楽しいことをたくさんしよう」
よからぬことを考えていそうな総司の言葉に、千鶴は少し警戒したような顔をしつつも幸せそうに微笑んだのだった。
月曜日
千鶴が俯いて書類に数字を記入していると、千がスッと後ろから覗き込んできた。
「……千鶴ちゃん。髪ほどいた方がいいわよ」
不思議そうな顔をする千鶴に、千はとんとん、と自分の首筋の後ろを人差し指で指差した。
「ついてるわよ、痕。ばっちり」
しばらく千の言っている意味を考えて、ハッと何のことわかった千鶴は、バッと手のひらで首の後ろを抑えた。みるみるうちに顔が赤くなる。
千はそんな千鶴を面白そうに見て、ひやかすように言った。
「自分じゃ見えない位置だもんね〜。夕べは楽しかった?」
千鶴は顔を真っ赤にしたまま片方に寄せて緩く結んでいた髪をほどいて背中にたらした。
いつついたのかまるで覚えていない。それくらい何度も何度も総司は千鶴に触れた。
「……えーっと……」
もごもごと口ごもっている千鶴を、千は楽しそうに眺めている。
「まぁ、いいわよ。ちゃーんといつか説明してもらうから」
私も説明したい……。
仲のいい友達の笑顔に、千鶴は強く思った。こんな宙ぶらりんな説明できない状態は、もう本当にこれっきりにしよう。千鶴はカレンダーを見る。
あと5日…。
水曜日
「あれ?総司今朝早いじゃん。もしかして昨日泊まり?」
朝出勤してきた平助は、もうすでに机についてPCを立ち上げて仕事をしている総司に驚いたように言った。
「帰ったよ。始発で。帰って、シャワー浴びて着替えて、また来た」
総司の言葉に斎藤が聞く。
「始発まで会社で仕事をしていたのか?」
「……まぁ……、仮眠はとったけど。仕事はたくさんあるし、家で一人でいるといろいろ考えちゃうからさ。仕事してる方が楽なんだよね」
総司はそう言うと、ゴホゴホッと咳き込んだ。
「お前熱あんじゃねーの?どうせ家に帰るんだったら今日休めばよかったじゃん」
「熱ないよ」
それに、連絡くるかもしれないし……。
そうつぶやいてまた仕事に戻った総司に、斎藤と平助は黙り込んだ。総司の机には私用の携帯が置いてある。
日曜の夜遅くに帰ってきた総司と、たまたまコンビニで会った斎藤と平助は、だいたいの事情は聞いていた。土曜日に婚約者と別れると言っていた彼女が、事情があってまだ別れていないこと。来週末は必ず別れ話をすること。それまで彼女とは会わないし連絡もとらないと約束したこと……。
それからの総司はますます変だった。月曜日も、多分会社で仮眠をとって始発で帰ったのだろう。作らなければといいながらも忙しさにまぎれて作れていなかったマニュアルも、今週中が期限の案件についても全部処理されていた。
本当に今週だけでこんな状態が終わればいいが、先週も同じことを言っていたことを考えれば、平助には総司が彼女の言葉にもてあそばれてるとしか思えない。総司がだますことはあってもだまされることなんてありえないと思っていたが、しかし実際はそうなっている。
ゴホゴホと嫌な咳をして顔色が悪いのに自分を追い詰めるように無理を重ねる総司を見るのは初めてで。平助は、これ以上見たくなかった。
金曜日
「昨日はちゃんと帰ったのか」
斎藤の言葉に、総司はめんどくさそうに答える。
「帰ったよ。もうさすがに睡眠不足が限界で。10時ごろ家についてもう後は何にも覚えてない。9時間くらい熟睡したよ」
「そうか、ちゃんと食事もとるようにな」
「は〜い」
斎藤は総司にA4の書類を渡す。
「この前のセミナーでのアンケート結果が出た。お前がアテンドしてたあの会社の部長もアンケートをだしてくれたそうだ」
総司は書類を受け取って、椅子に寄りかかりながらぱらぱらとアンケート結果を見た。セミナーに参加した各社のアンケート結果を集計分析したものと、総司がアテンドした会社のアンケートの返答が書いてある。
これを参考にして、その会社にあいそうな自社の商品やその会社が興味をもっている商品を紹介に行き、次のビジネスチャンスにつなげるのがセミナーの目的だ。
総司はしばらく迷ったが、千鶴の会社の電話番号を押した。
千鶴が電話とるなんて、そんな幸運そうそうあるわけないか……。
総司は千鶴の会社の受付で苦笑いをした。例の部長のアポをとって、もしかしたら千鶴の声を聴けるかも、と思ったが電話をとったのは男性社員だった。すんなりその日に部長のアポがとれて、会う場所もいつもの会議室。セキュリティのため外部の人間はオフィスには入れないようになっているため、多分仕オフィス内で仕事をしている千鶴を見ることもできない。千鶴は……もしかしたら部長のスケジュールを見て、総司が来ていることを知るかもしれないが、しかし急なアポだったからその可能性は薄かった。
総司は溜息をつきながら誰もいない小さな会議室の椅子に座って部長が来るのを待った。
しばらくするとノックの音がしてドアが開く。
立ち上がった総司の前に現れたのは、千鶴だった。
恥ずかしそうな、不安そうな顔をして、千鶴は後ろ手にドアを閉める。
「部長は……前の商談が長引いてて……。少し遅れそうなんです」
「……わざわざ伝えに来てくれたの?」
誰か伝えてきてくれー!という声に、誰よりも早く返事をして立ち上がったのは千鶴だった。すべてが終わるまで会わない、と言ってくれた総司の気持ちを無視してしまうことになるが、それでも千鶴は総司に会いたかった。マニラに発つ前に、彼の顔をもう一度だけ見たかった。
総司も言葉が出ないようで、千鶴の顔を食い入るように見つめている。
二人の間には何の言葉もなかったが、お互いの想いは十分に伝わっていた。
「……明日、発つんだよね?」
「いいえ、今日発ちます。今夜発って、明日の午前中に話して、夜の便で日本に帰ってきます」
そしたら、総司さんに連絡します……。
最後の言葉は、千鶴の唇から出ることはなかったが、総司は聞こえた気がした。
その夜、千鶴はマニラへと飛び、総司は相変わらず一人になりたくなくて強引に平助と一を誘い飲んでいた。もういい加減帰ろうぜ〜、という平助たちを、総司は最後だからと左之の店へと引きずって行く。
左之の店でも総司は浴びるように飲んでいた。左之や一が心配して、何か食べながら飲むように言うがそれには生返事をして、とにかく飲む。そして想定通り酔いつぶれて後ろのソファに寝かされる。
そんな総司を見ながら、左之が言った。
「酔いつぶれたくて飲んでた、って感じだな」
「左之さん、ビンゴ」
どういうことだ?と聞いてくる左之に平助は話した。
「前話した総司が狂ってる彼女さ。先週末に婚約者と別れるって言ってたらしくて総司もそれを待ってたんだけど、結局別れてないらしいんだよ。そのくせ総司ともまだ切れてないみたいで、今度は今週末には婚約者と別れるって言ってきてるみてーでさ」
「……それでこの荒れようか……」
左之はソファの上で横になって眠り込んでいる総司を見た。
カラン、と音がしてドアが来客を知らせる。左之たちが入口を見ると土方だった。
「よっ。なんか食うもんあるか?」
「おぅ、久しぶりだな。近藤さんは?」
「あの人は昨日から出張だよ」
平助に、外の看板をクローズにしてくるように頼み、左之は何か軽いものを作りに厨房に入って行った。
「総司のやつ、そんなのにはまりこんでんのか。結婚詐欺の常套手段じゃねぇか。でも、そんな感じにゃぁ見えなかったけどなぁ」
和風スパを食べながら土方が言う。左之もうなずいた。
「俺もそう思うんだよな。あの子がそう言うんなら今週末ちゃんと別れるんじゃねぇか?」
平助がポテチをつまみながら言う。
「左之さんも土方さんも、その女の外見にたぶらかされてんじゃねーの?話だけ聞く限りじゃとんでもない女みてーだけど」
珍しく厳しい意見の平助に、左之は苦笑いをした。
「平助も実際会ったら意見かわると思うぜ。どっちかっていうとお前の方のタイプって感じだしな」
「まぁ、今週末まで待ってみるのもいいんじゃねーか?さすがに今週末も別れないようなら、ちょっと目ぇ覚まさせないといけねぇかもしれないな」
考えながら土方がつぶやいた。
総司が小さなころから近藤と一緒に総司を見てきた土方は、一度受け入れたものに対する総司の執着についてはよく知っていた。ここまで女にのめりこんでいるのをあきらめさせるのは骨がおれそうだな……、と思いながら酒を飲む。
総司を起こそうとしている平助に、左之が声をかける。
「そのまま寝かせといてやれ。今夜は俺も店の奥にある仮眠室に泊まるからよ」
「総司、変な咳してんだよな……」
「じゃああったかくしといてやるか」
左之が仮眠室からもってきた掛け布団を総司にかけて。
左之と土方、平助、斎藤は心配そうに総司を見たのだった。