【今度いつ会える? 3】
洗面台の鏡を見ながらファンデーションを塗っていると、隣でYシャツとスーツのズボン姿で歯を磨いている総司と鏡の中で目があった。
総司は歯ブラシを動かしながら、薄くアイシャドウを塗る千鶴を面白そうに眺めている。
「……なんですか…?」
なんだかからかわれそうな雰囲気に、千鶴は顔を赤くしながら頬を少しふくらませて聞く。
「いや、千鶴が化粧してるのって初めて見るからさ」
「……そりゃ、前はおしろいとか紅とかしかなかったですし、そもそも男装してたから……」
にやにやしながら口をゆすぐ総司に、千鶴は怒ったように続けた。
「……もう!見ないでください!」
軽く総司をたたくような素振りをすると、総司は笑いながら千鶴の手首を握って笑った。
「ごめんごめん。千鶴を笑ったんじゃなくてさ。自分がおかしかったんだよ」
え?という顔をする千鶴に、総司は珍しくうっすらと目じりを赤くして照れたように言った。
「……好きな女の子の、そういう仕草が……なんだかいいなぁって。そんな思春期男子みたいなこと考えてる自分がおかしくてさ」
照れた総司に千鶴もなんだか恥ずかしくなってしまった。確かに朝の支度を見る、ということは普通はありえない。……夜を共にしなくては。ネクタイを結んでいる最中の男性なんて、千鶴は初めて見た。しかもそれは総司だ。鏡を見ながらネクタイの位置を調整している総司の姿はなんだか妙に色っぽくて親密で……。顔がにやけてしまう、という総司の気持ちが千鶴にもわかった。
総司は腕時計をちらっと見た。
「駅の近くにコーヒーショップがあったよね。あそこでご飯を食べようか」
「はい」
洗面所から出て行く総司の広い背中と引き締まった腰を見ながら、千鶴は赤くなった。口紅を塗りながら昨日のことを思い出す。
千鶴は鏡の中の自分をまじまじと見つめた。
…どこか変わっただろうか?
鏡の中から見返す自分は、ほとんど眠っていないにもかかわらず妙に生き生きとしている。瞳がきらめいて心の中を隠しきれていない。
千鶴はなんだか恥ずかしくて、化粧道具をしまうと足早に洗面所を後にした。
部屋に戻ると、総司は壁際にある腰までの高さの本棚の上をじっと眺めていた。そこに置いてあるのは、読みかけの雑誌や携帯の充電器、ハンドクリーム、そして……アクセサリー。綺麗なガラスの小皿に、はずしたままの、小さな縦爪ダイアモンドの婚約指輪が置いてあった。
それに気づいた千鶴は思わず、あっ、と小さな声を上げる。
その声に総司がゆっくりと振り返った。
「……給料の三か月分、ってやつ?」
からかうような皮肉っぽい表情だったが、暗い影は隠せていなかった。
千鶴の胸に膨らんでいた幸せな気分は、空気の抜けた風船のように急速にしぼんでいった。
そうだ、まだ何も解決してない。私が……婚約者を裏切って浮気をした、っていう事実ができただけ…。
「……なんでつけないの?昨日のセミナーの時もつけてなかったよね?」
視線をそらして尋ねる総司に、千鶴はどう答えようか迷った。結局ありのままを言う。
「……セミナーの前の夜に……、また前世の夢を見て。その夢の内容が……」
千鶴の顔が真っ赤に染まるのを総司は不思議そうに見た。
「その夢は、前世で総司さんとの……その……、初めての、……時の夢だったんです。それで、婚約指輪をつける気にならなくて……」
総司の表情は面白がっているようなものに変わった。
「へぇ?一昨日の夜に前世で初体験をして、昨日の夜は現世で初体験をしたってワケ?」
俯いたまま真っ赤になっている千鶴に、総司はさらに続けた。
「どっちがよかった?……参考までに聞きたいな」
「もっもう!総司さん!!朝からそんな話……!」
千鶴は顔をさらに赤らめてくるりと踵を返し、カバンを手に持ち玄関へと向かう。
「ごめんごめん。でもほんとに知りたいな。……今度夜に聞かせて」
総司は笑いながらスーツのジャケットをはおり、自分のカバンと机の上に置いてあった携帯を持った。
玄関で二人は顔を見合わせる。
「……行こうか」
「…はい……!」
トーストを食べ終えて、千鶴はカフェオレ、総司はコーヒーを飲んでいるときに、総司が向かい側から手を伸ばして千鶴の手を机の上でぎゅっと握った。
「夕べは……ありがとう。嬉しかった」
千鶴の瞳をじっと見つめる総司の深い緑の瞳はきらめいて、とても魅力的だった。
お礼を言われることなのかどうかわからなくて、千鶴は赤くなって俯く。
「……今度いつ会える?」
親指で千鶴の指を撫でながら、総司は瞳を覗き込みながら聞いた。
「……」
総司の視線を外して、千鶴は沈黙する。
そして、そっと総司の指を離して手を自分の膝に戻した。
「……総司さん、あの……」
俯きながら気まずそうに話し出した千鶴の言葉に、総司はかぶせるように強い口調で言った。
「これっきり、だなんて言わせないよ」
怒っているように総司の瞳は金色にきらめいた。
総司の言葉には答えずに言葉を選びながらつっかえつっかえ千鶴は話し出す。
「……ちゃんと、したいんです。総司さんのことも……婚約者の人の事も……。ちゃんとするので……」
千鶴はそう言うと、総司の瞳をまっすぐに見つめた。
「だから、それまで夕べみたいなことは……もうしないようにしたいんです」
千鶴の言葉に、今度は総司が黙り込んだ。しばらく考えてから探るように言う。
「それは……ちゃんとしたらまた夕べみたいに恋人同士になれるっていう意味でいいんだよね?」
「……それについても、一番最初にお話するのは婚約者の人の方が筋だと思うんです。総司さんとのことは婚約についてきちんとケリがついてから……話したり進めたりするのが、婚約者の人に対するせめてもの誠意じゃないかと……。そのせいで総司さんにはご迷惑をおかけしてしまって申し訳ないと思ってます。もとはといえば、ちゃんとする前に……ああいうことをしてしまった私が全部悪いのに……」
思いつめたような真剣な表情で話す千鶴を、総司はしばらく眺めて……。そしてあきらめたように苦笑いをした。
「……かわらないなぁ。そういう真面目で固くて誠実で……人の気持ちを一番に考えるとこ」
そういうところも好きになったんだしね……。総司はつぶやくようにそう言うと、にっこりと笑って千鶴を見た。
「いいよ。わかった。待つよ。夕べみたいに君の家に押しかけたり、ああいう……ことは、『ちゃんと』するまでしないって約束する。それに悪いのは君だけじゃなくて、僕も……っていうか圧倒的に僕だしね」
ほっとしたように微笑んだ千鶴に、総司は続けた。
「いつ話あうつもりなの?今日の夜?」
「彼は、一年前から転勤でマニラにいるんです。このことは電話やメールじゃなくて直接会って話しをしたいと思ってます」
結婚の話は一年前から出ていた。転勤を機にプロポーズされた千鶴は、2年も彼とつきあっていたのだが、それでもどうしても踏ん切りがつかなくて一度は断っていた。付き合いも当然終わるかと思っていたのだが、彼は千鶴がその気になるまで待つ、と言ってくれその後も何度かさり気なくプロポーズをしてくれていた。根負けした、とは言わないが、ここまで思われているのなら……という気持ちがあったのは否定できない。とにかく半年前、三度目のプロポーズでようやく千鶴はOKしたのだった。
今考えると、プロポーズを受けるべきではなかった。この人と結婚したい、という強い思いがある場合だけ受けるべきだったのだ。2年以上つきあったから、とかいい人だから、何度もプロポーズしてくれたから、というのは結婚の理由にならないのだと今更ながら千鶴は思い知った。
「来週末に、結婚式場との打ち合わせがあってそのためにいったん帰国する予定なんです。だからその時にお話ししようと思ってます」
千鶴の説明に総司は、その男はバカなんじゃないかとつくづく思った。
千鶴のような彼女がいるくせになんで日本に一人で置いていくのか。自分だったら絶対一緒に連れて行く。しかしそいつがバカなおかげで自分は千鶴と出会うことができた。結果としてはいい仕事をしてくれたと言っていいのだろう。
「今日は……木曜日か……。来週末ね。遠いなぁ……。ちゃんといい子で待つからさ…会わないとは言わないでくれないかな。そんなことされたら干上がっちゃうよ。一緒にご飯食べたりメールしたり……、お茶飲むだけでもいいから会ってほしい」
携帯の番号とメアド、教えて?という総司に、千鶴は胸の奥からこみあげてくるような幸せな何かを押さえつけることはできなかった。
ほんの少しの時間だけでも会いたい、と思うのは千鶴も一緒だった。寂しくて干上がってしまう、という気持ちも。
千鶴は迷いながらも自分のパールホワイトの携帯電話を出して、総司の瞳を恥ずかしそうに見たのだった。
その日の午後、千鶴はプリンタから書類が出てくるのを待ちながらぼんやりと朝のことを考えていた。
今夜は千鶴も会社で送別会があるし、総司も残業がある、というので会うことはできない。そのかわり明日、いっしょに夕飯を食べに行こうと約束をした。
……あと……丸一日と……7時間か……。
我知らず次に総司と会える時までカウントダウンしてしまっている自分に気が付いて、千鶴は赤くなった。
ふとプリンタを見ると用紙切れになっている。下に積んである用紙を取ろうと腰をかがめた時……。
……痛……
鈍い痛みが下腹に走り、千鶴は思わず眉をしかめた。そして痛みの原因に思い辺り、さらに顔を赤くする。
総司の手のひらの感触、熱い唇の味、彼の髪に指を差し入れ梳いたときの滑らかさ……。
千鶴はぼんやりと自分のウエストや腕、脚を眺めた。総司が触れなかった場所はないかと考えてみるがどこも思い当たらない。総司によってすべて触れられた千鶴の体は、自分のものであって、自分のものでないような不思議な感覚だった。
プリンタ用紙を持ち上げる腕が痛い。昨日痛みのあまり全力でシーツを掴んでいたせいだ。唇が少し脹れているよう気がするのは、昨日の夜から今朝にかけて散々キスしたせい。頭がぼんやりするのは、きっと睡眠不足だから…。
すべてが初めてで……とても幸せな、不思議な感覚だった。
「あれ?千鶴、何うっとり夢見てんの?」
同僚の千がからかうようにかけてきた声で、千鶴はハッと我に返った。
「えっ?べっ別に……」
慌ててバサバサとプリントアウトされた用紙を集めて、無意味に数えたり順番を変えたりしている千鶴を、千は面白そうに見た。
「何〜!?怪しいなぁ〜。なんかいいことあったでしょ!」
千鶴が今の婚約者とつきあっていることも婚約していることも、社内には秘密にしていた。特に社内恋愛が禁止、というわけではないが、結婚する前に話してしまうと周りが変に気をつかうかも、と二人は内緒にしていたのだ。部長はたまたま二人が付き合いだした時の上司だったため、特別に知っていたが……。
「な、何もないよ?」
「嘘〜!まるわかり!顔に書いてあるよ。素敵なことを思い出してました!って」
そっか〜!とうどう千鶴も遅い春が……。と一人で勝手に納得している千に、あんまり言わないで!と千鶴は釘をさした。
「え!?ってことはホントに?彼ができた?」
目をらんらんと輝かせて身を乗り出してくる千に、千鶴は指をたててシーッと声を抑えるように言う。
「……彼っていうか……。とっても、好きな人が、できた……かな?」
小さな声で恥ずかしそうに言う千鶴に、千は嬉しそうな顔をした。
「そうなんだ!よかったねぇ!ホント。うまくいくといいね!」
心からの笑顔をくれる友人に、千鶴も嬉しくなる。
人を好きになる、ってこんなに幸せで嬉しくて……楽しいことだったんだ……。
ウキウキするような、フワフワしているような、照れくさくて恥ずかしくて嬉しくて……。切ないけど、幸せな気持ち。