【HeartBreaker 8】
千鶴は洗面所の鏡の前で、沖田にもらったジャックナイフの刃を自分の左腕の内側にあて、スッとひいた。
覚えのある、慣れた痛みが肌を焼くが、千鶴はかまわず傷口を見つめる。
ポタポタと洗面所のボウルにしたたる血を、千鶴は静かな目で見つめた。
腕の内側には似たような傷跡が3つ…。右腕の内側には4つ。
毎晩毎晩、千鶴は眠る前に一人でこっそりと自分に傷をつけるのが習慣になっていた。もう完全に変異したのか、まだなのか……。完全に変異するまでは人にはうつさないと綱道は言っていたが、いつ完全に変異するのか正確にはわからない。そのために、傷の治りが異常に早くないかどうかを調べるために、千鶴は毎晩自分を傷つけていた。
普通にしていればうつらないとはいうが、それでも一緒に暮していればうつる危険はゼロではない。もし変異してうつすことができるようになってしまっていたら、もう手をつないだり食事をつくってあげたりすることはやめようと千鶴は思っていた。
洗濯もお風呂も分けた方がいいのかもしれない。時々、沖田が突然してくる軽いキスや抱きしめてきたりする行為も、断固として断るようにしなくてはならない。そのタイミングを見誤らないために、千鶴は毎晩自分に傷をつけ、治らなければよし、としていた。
相変わらず傷口からはぽたぽたと真っ赤な血が垂れ続けていた。
千鶴はほっと安堵の溜息をついて血を洗い流し、清潔なタオルで止血をする。そして絆創膏で血が沁みないように手当をして……。
「千鶴ちゃーん?どこにいるの?もう寝るよー」
「あ、はーい」
寝室から聞こえてきた沖田の声に、千鶴はあわてて傷口を長そでで隠すと返事をした。
あれから毎晩、千鶴は沖田の抱き枕のような恰好で一緒に眠っていた。沖田もその方が眠りやすいというし、なによりも千鶴がそうでないと眠りにつけないのだ。沖田に抱え込まれて安心して、彼の深い呼吸を聴いていると、千鶴は自分でもなぜだかわからないが眠ってしまう。
それでも時々太陽が妙に明るく感じられて、光がまるで肌を刺すように痛く感じる瞬間がある。
変異は……確実に進んでいるのだ。
千鶴は服の上から、先ほどつけた傷をギュッと握った。いくつもある傷跡が痛む。
けれどもこの痛みは、正常であることの証……。
「何してるの。腕、どうかした?」
はっと振り向くと沖田が洗面所の入口に立ってこちらを見ていた。すでにパジャマ替わりの白いTシャツと薄手の茶色のズボンをはいているから、なかなか寝にこない千鶴を呼びに来たのだろう。
「あ、いえ…あの……あっ」
何と言おうか戸惑っている千鶴にかまわず、沖田は強引に彼女の腕をとりTシャツの袖をまくりあげた。
そしてそこにいくつも貼ってある絆創膏を見て、沖田の表情が曇る。
「あ、あの……。完全に変異してるかどうかを調べたくて…。ご迷惑をかけるのはいやなので。でも今のところ傷は治らないので大丈夫みたいです」
絆創膏を眺めたままの沖田は、千鶴の顔を見た。そしてゆっくりと……ぽつんと言う。
「……もう、こんなことは止めて欲しい。君が傷つくのを見るのはつらい」
沖田の表情は、何故かとても悲しそうだった。千鶴が何も言えずに彼を見つめていると、沖田は続ける
「血はつながっていないとはいえ綱道はよく……あんなウィルスを飲ませたね……。君は……、君のこれまでの人生は幸せだった?」
千鶴は沖田の言葉に目を見開いた。自分を思いやってくれているような沖田の言葉に、胸が温かくなる。
千鶴の手をひいて、寝室へと足を向ける沖田を、千鶴は見上げた。
そして自分の半生に思いをはせる。
「……父様は……、ちょっとかわってましたけど、優しかったと思います。多分私が血のつながった実の娘でも、適合者であれば同じことをしたと思います。父様は羅刹になることが不幸なことだとは思ってないみたいなんで……。父様にとっては、羅刹という存在になることは素晴らしいことで、皆がなりたがって当然のことなんだと思います。だから娘の私にはなおさら、なってもらいたいくらいだと……」
2人でゆっくりと歩きながら、千鶴はそう言った。
沖田は小さく溜息をつく。
「あきれたお人よしだね」
ベッドの横で沖田はそう言って、寝室の電気を消す。そして千鶴を優しく抱き寄せてベッドに横になり、二人の上に布団をかけた。
「……でも、そういうところも好きだけどね」
沖田の言葉に、千鶴は彼に抱かれた腕の中で固まった。暗闇で見えないとは思うものの、自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。
す、好きって……。どういう、どういう意味…?え?
沖田は特に言葉を続けるつもりはなかったようで、体の力を抜いて眠る体勢になる。
千鶴は暗闇の中で目を見開いていた。
「沖……、沖田さんは……」
「ん?」
「沖田さんは、未来では……、どんな風だったんですか…?」
「未来で?うーん……別に普通。仲間がいて、尊敬する人がいて……バカやりつつも羅刹と戦って……」
「……きっと皆さん、沖田さんを待ってますよね……」
「まぁ、僕、というよりは僕が持って帰る君の血を待ち望んでるね」
「でも、でも、沖田さん本人に無事で帰ってきてほしいって思ってる人が……」
千鶴が食い下がると、闇の中で沖田が少し体を起こして千鶴の顔を覗き込む。
「?僕本人に……?まぁ近藤さん、っていう僕の兄みたいな人は待っててくれてると思うけど……」
「いえ、あの……その……女の人……とか……」
千鶴の言葉に、沖田は黙り込んだ。暗闇でも目を瞬かせている様子が感じられる。
千鶴は彼の胸の中で、恥ずかしさのあまり小さくなっていた。
沖田の笑みを含んだ、からかうような声が聞こえてくる。
「ふーん…。さぐってるの?僕に恋人がいるかどうか?」
「……」
「千鶴ちゃん、なんでそんなこと聞くの?」
「……な、なんとなく……です……」
この話を出したことを激しく後悔しながら、千鶴は体を固くしていた。体中がほてったように熱い。
ふっと沖田が体を離したのを感じ、千鶴は彼を見上げた。
そこへ、沖田の吐息がかかり……、沖田の囁くような声が千鶴の耳元でした。
「そんなのいないよ」
そして、ちゅっと軽い音とともに暖かく柔らかいものが千鶴の唇に重なる。
千鶴はぎゅっとつぶっていた目をゆっくりと開けた。
暗闇に慣れてきた瞳に、至近距離での沖田の顔が映る。
アーモンド形のきれいな瞳、長い睫、整った鼻筋に、少し薄い唇……。
いつも皮肉っぽく微笑んでいる彼の表情だが、千鶴と視線があうと、妙に真剣な表情に変わった。
千鶴もそのまなざしに呑まれるように、瞬きもせずに彼を見つめる。彼の視線が千鶴の唇に移る。そしてだんだんと近づいてきて……。
もう一度柔らかく唇があわさった。
これまで何度かしてきた唇をあわせるだけの軽いキスとは違い、今度のキスは甘かった。彼の唇は離れることなく千鶴の唇をさぐる。
彼女の下唇をやさしくついばんだかと思うと、唇の裏側の敏感な所を舌でそっと刺激する。その刺激に、千鶴がぴくりと動いて反応すると、沖田はさらに深く侵入し息もつげないほどの熱い口づけをしてきた。
初めての深いキスへの驚きと、ウィルス感染の気兼ねから千鶴が体をひこうとすると、沖田が彼女の頭を抑えて動けないようにした。そして千鶴の、かすかに開いた唇の間からするりと沖田が入り込む。
「!ん!んん!!」
びっくりして沖田を押しのけようとする千鶴に、沖田は今度は本格的に体ごとのしかかり抵抗を奪った。
優しく、熱く、激しく、甘く……とろけるように彼の唇が動く。
沖田の口づけに、千鶴はだんだんと酔わされて、もう何も考えられなくなってきていた。
羅刹のことも、自分を殺すと言っている沖田の事も、血のマリアの事も、すべて忘れて真っ白になって、沖田の存在だけを感じる。
沖田は顔の角度を何度も変えながら、千鶴の手を求め指をからめてシーツの上に押し付けた。
唇を離すたびに二人から甘い溜息が漏れる。
2人とも堰を切った感情に押し流されて、もう夢中だった。沖田にもいつものような余裕は感じられず、千鶴への口づけも、握った指の力も、切なそうに動く体も彼が熱い思いに呑まれていることを表していた。
沖田の唇が、ようやく千鶴の唇から離れて彼女の顎のラインをつたい、うなじへと降りていく。
千鶴は耳の下にキスをされて、全身が泡立つような快感を感じた。沖田の手がゆっくりと千鶴の肩をさすり、下へと降りて行く……。
「っ!!あっ!!!」
ドクン!
千鶴の血が一瞬止まり、次の瞬間勢いよく逆流するような感覚がした。
そしてそのすぐ後に全身を激しい、さすような痛みが襲う。
こんな時に…!沖田さんの目の前でこんな近くで発作が……!ごまかせない…!
これまでの中で一番強い痛み……。血を求める発作だ。我慢ができず体がこわばり反り返る。体がばらばらになるような感覚がして思わず両腕で自分を抱きしめた。
「くっ!!」
千鶴の視界が真っ赤になり、エビのようにまるまってころがる。
「千鶴ちゃん!?」
驚いたような沖田の声が遠くに聞こえて、それと同時にベッドサイドの小さなオレンジ色の灯りがともされた。
「どうしたの!?苦しいの?どこか痛い?」
「だ、だいじょ…発作……」
「発作!?何の…!?」
千鶴は、沖田の問いかけに必死になって首をふる。
こんな自分は、見られたくない。
沖田には……沖田にだけは見られたくない。
千鶴は、ぎゅっと目をつぶってこのひどい発作がはやく収まってくれるよう祈った。
しかし今回は、これまでの中で一番長く終わりがいつまでも感じられない。
「血の……、あああっ……!!」
あまりの痛みに、千鶴はもう我慢できずに声をあげてしまった。涙がぽろぽろと頬を伝う。
痛い……!痛い!!!誰か……誰か助けて……!!!
「これが初めてじゃないね……!隠してた?」
沖田の腹立たしそうな声が聞こえてきて、千鶴が謝ろうとした時、目の前に沖田の手が差し出された。千鶴の眼の前で沖田は反対の手に持ったジャックナイフで、自分の親指の付け根をかなり深く切る。
とたんに血がこぼれおちた。
千鶴は自分の目を疑った。
寝室の淡い光の中で見るその血は……たとえようもなく美しく抗えないほど魅力的だった。これまで特になんとも思っていなかった『血』というものがきらめいて、その赤色に魅せられる。
沖田の指から流れ落ちる血から目が離せないまま、千鶴はふらふらとそこへと唇をよせた。
沖田は自分の指に吸い付こうとしている千鶴を見て、目を細めた。
彼女のピンク色の唇はわずかに開いて、中から赤い舌が少し覗いているのが見える。その唇がまるで磁石に吸い寄せられるように自分の指に吸い付く。
そしてうっとりと……、まるで極上のワインを味わうように舌で沖田の血を絡め取る。千鶴の唇に咥えられ優しく吸われ舌が柔らかく傷を辿る。
千鶴の頬はほんのりと赤く染まり、唇は血で真っ赤だ。そして瞳は……、酔っているようにトロンとしてうっとりと焦点があっていない。指をなめる合間に、悩ましげな溜息が彼女の唇からこぼれる。
セックスを連想させる彼女の様子に、沖田はこんな時なのに体が熱くなるのを感じた。
彼女を押し倒してむしゃぶりつきたくなる衝動を必死で抑える。
血の味が口にひろがり、喉を滑り落ちていくに従って、先ほどまであんなに千鶴の全身を苛んでいた痛みは嘘のように抜けて行った。かわりに、体が軽くなり頭がこれまでにないくらいすっきりとする。少しづつ霧散していた理性が戻ってくるに従って、千鶴は沖田の手にあさましくむしゃぶりついている自分を意識した。
「……」
千鶴はゆっくりと沖田の手から唇を離す。沖田の親指の付け根には深い、赤い傷口がぱっくりと口をあけていた。見るからに痛そうで、まだじわじわと血がにじんできている。
千鶴は沖田の顔が見れなかった。
夢中で血をなめていた自分……。
さぞやおぞましい化け物に見えただろう。『血のマリア』の名に恥じない……。
「っ……うっ……」
千鶴の瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちた。胸の奥からこらえようのない笑い声がもれてくる。泣きながら笑っている自分を冷静に眺めている自分もどこかにいて、気が狂ったみたい、と思っていた。
「……殺して……。沖田さん、もう殺してください……」
千鶴の懇願するような言葉に、沖田は驚いたように彼女を見た。
「お願い……。沖田さん。化け物に完全になってしまう前に……。あんな風に人の血を欲して浅ましくすすって生きていきたくなんてない…!」
殺して……と泣きながらうわ言のようにつぶやく千鶴を沖田は強く抱きしめた。
「大丈夫…。僕が傍にいる。たとえ君がどんなふうになっても僕が傍に……、ずっと傍にいるから……」
抱きしめた彼女の体は驚くほど華奢で細かった。少しでも力を入れたら折れてしまいそうな…。
泣き止まない彼女をなんとか慰めたくて、彼女の傷を少しでも癒したくて、そして自分の強い思いに流されて、沖田は彼女の血の味がする唇に再び貪るようなキスをした。千鶴は抗うような素振りをしたが、構わず強引に押さえつけてさらにキスを深める。
「化け物じゃない、君は君だ。君がすべてを諦めるつもりなら…」
熱い吐息と彼女の体中を這いまわる大きな手…。その合間に沖田は囁く。
「僕が殺してあげる。僕が……終わらせてあげるよ」
だから大丈夫……。沖田の言葉は熱い愛撫に溶けていった。千鶴はその言葉に縋り付くように彼の首に腕をからませる。下へと降りていく沖田の唇に千鶴は上ずった声をあげた。
「あ……沖田さん……。ウィルスが……」
「大丈夫、傷治ってないでしょ?まだ大丈夫だよ」
千鶴をなだめるように囁いて、沖田は千鶴のシャツの下に手を入れた。
だから力を抜いて……。
沖田の甘い言葉に、千鶴はどうしても力が入ってしまう体から力を抜こうと努力した。深呼吸を何度かして、握っていた手を広げる。
沖田の唇が首のラインをさまよい、彼の柔らかな髪が頬をくすぐる。おおいかぶさるようにのしかかっている彼の体が熱い。
いつのまにこんな展開になってしまったのか。
先ほどまで化け物のように彼の血をすすっていたのに、今は彼の与えてくれる愛撫に甘い声を上げている。
ウィルスが……とか、彼は未来に帰ってしまうのに……とかいろいろ考えることがある筈なのに、彼が自分の胸を包んで柔らかく揉むとすべての理性は霧散した。
「あっ……、沖田さん…!沖田さん沖田さん……」
初めての感覚に戸惑い、不安そうに自分の名を呼ぶ千鶴に、沖田は胸の底から愛おしさが湧き上ってくるのを感じた。柔らかく滑らかな彼女の体に夢中になりながらも、少しでも不安をとりのぞいてあげたくて、優しく、安心させるように囁きかける。
「ほんとうに可愛い……。大丈夫だよ……。僕にまかせて……」
彼女のズボンを脱がせて下着をとろうとすると、千鶴が少し抗った。沖田はキスをして彼女の抵抗を奪い、最後の一枚を奪い取る。生まれたままの姿になった千鶴が、寝室の柔らかな灯りの中で浮かび上がった。
恥ずかしそうに頬を赤らめている彼女の顔には、先ほどの涙はもうない。
まるで傷一つない透き通った玉のような千鶴……。
総司は震える手をそっと彼女にのばした。胸の先を口に含んで舌でもてあそぶと、千鶴は背中をそらせて小さな声をあげる。その切なげな声が、沖田の腹の奥をさらに熱くさせる。かろうじて残っている理性をかき集めて、沖田は優しく千鶴を愛撫した。
キスでさえ初めてなのだからもちろん体を合わせることだってはじめてだろう。沖田は千鶴をさぐり、彼女が気持ちよく感じるところを探し出す。
「あっ…!んっ…ああ……!ダ、ダメ……。ああ…」
千鶴の切なげな声が部屋に響く。ウエストの下のくぼみ、耳、そして唇……。
準備が出来たのを感じて、沖田は優しく千鶴を導く。
「力を抜いてね……。僕の目だけを見てて…」
沖田の口調から、特別なことが始まるのだと感じて千鶴は焦点の合わない目で彼を見上げた。
浅い息を何度も吐く。
ゆっくりと沖田が入ってきた。思わず力が入ってしまう千鶴に、沖田が力を抜くように言う。
痛いけれど……それでも言いようのない幸せな感情が千鶴を満たした。
今、沖田が見ているもの、感じているものは自分だけ……。
そして彼にすっぽりと包まれて大事にされている。
触れたすべての場所から、彼の愛が流れ込んでくるように感じられて、千鶴の瞳に涙がにじんだ。
沖田がそれを唇でそっとぬぐう。
彼がゆっくりと動き出すと、千鶴は強い感覚に呑みこまれてもう何も考えられなくなった。
沖田が深く入るたびに、叫ぶような甘い声が喉から勝手に漏れる。
千鶴は足元が揺らぐような心細さを感じて、沖田に必死でしがみついた。沖田も強く彼女を抱きしめる。
もう止めるものは何もない。止めなくてはいけないような理由も、この圧倒的な感情の前には小さなものだった。
先に押し上げられて震える千鶴の顔を見つめながら、沖田は彼女深くに自分をうずめ、全ての熱を彼女へと注ぎ込んだ。