【HeartBreaker 4】
その夜……。
「いつまでそこに座ってるの?もう寝るよ。こっちにおいで」
電気を消した薄暗い部屋で沖田が言った。
沖田はダブルベッドに服を着て靴をはいたまま寝転んでいる。千鶴は窓際にある椅子に座ったままだった。
「もしかして何か期待してる?『血のマリア』に手を出すなんて恐ろしいことしないから大丈夫だよ。僕はこのまま布団の上で寝るから、君は布団の下に寝れば安全だし」
千鶴は苦笑いをした。
「……そうじゃなくて……。眠れないんです、私。いつもは薬を飲んでいるんですけど手持ちの薬はもう昨日で無くなってしまって」
「眠れないって……なんで?」
「父様に診てもらったんですが、交感神経と副交感神経の入れ替わりがうまく行かなくなって……とかなんとか…。全く眠れないわけじゃなくて、どうしても疲れがたまると昼間とか少しの時間にうとうとしたりするんで、大丈夫です」
沖田はベッドの上に起き上った。
「……それ、大丈夫じゃないでしょう。夜にまとまった睡眠がとれなきゃいつまでも疲れがとれないんじゃないの?」
千鶴は困った顔をした。
「そうですね……。こんな状況じゃご迷惑をかけてしまうかもしれないんで、明日にでも薬局で睡眠薬を買ってきます。強いのでないと寝れないんで処方箋無で買えるかどうかわからないんですが……」
「ずっと薬で眠ってたの?いつから?」
「去年の……」
言いかけて千鶴ははっと気づく。
眠れなくなったのは去年の10月……ごろ。
それまでは「眠り姫」とからかわれるくらい、夜の11時には眠くなって朝は7時に起きるという、超健康優良児だったのだ。
ある夜突然眠れなくて…。それが3日続いて日常生活に支障がでてくるようになって父親で医者でもある綱道に相談した。綱道は血をとって検査をして……、そして強力な睡眠薬を処方してくれた。何か重大な病気が隠れてるかもしれないから一週間に一度採血に来るように言って……。
胸にじわじわと広がっていくどす黒い疑いの雲を千鶴は押し殺した。
沖田は何も言わずそんな千鶴を見ている。
「あの……、気にせず寝てください。眠くなってきたら勝手に寝ますから」
千鶴は笑顔を張りつけて言う。
「そうもいかないんだよね。まさか寝首をかかれるとは思わないけど、そこで君に起きていられると僕も眠れない」
「あ……、すいません……」
どうしようか、じゃあ廊下にでも出ていれば……、と千鶴が考えていると、沖田はベッドから立ち上がり近寄ってきた。千鶴の傍まで来ると彼女の手首をつかみ引き寄せ抱き上げた。
「ひゃっ!なっ何……!」
「僕が寝付くまで拘束させてもらうよ」
「こっ拘束って拘束……!?」
まっまた手錠!!?と千鶴は焦ったが、沖田はそのまま千鶴を自分の胸に抱え込むとベッドに横になった。そして二人の上に布団をかける。
「ほらじっとして」
押し付けられた胸の奥から聞こえてくる沖田の声に、千鶴は赤くなったり青くなったりして言った。
「おっ沖田さん!!離してください!こんなんじゃ余計眠れません!」
「君はどうせ眠れないんだからいいでしょ?僕が寝入ったら出てってまた椅子に座るでも床で転がるでも好きにしてくれていいからさ」
僕が眠るまでこうしてて……。
沖田の最後の言葉が何故か甘えているように響いて、千鶴は抵抗するのをやめた。
狂ってて、イカれてて、冷たくて、意地悪で、冷酷で……。
でも彼だって遠くから来たのだ。
たった一人で。
闘うために。
未来を守るために。未来にいる大事な人達を守るために。
命をかけてまで守ろうとしてくれる、彼のような人がいる未来の人たちを、千鶴は少しうらやましく思った。
千鶴がじっとしていると沖田はそれ以上何も言わずに静かに呼吸をし始めた。まだ少し腕に力が入っているからきっと寝付いてはいないのだろう。沖田のがっしりした体は暖かくで抱かれていると何故か安心した。千鶴は力を抜いて沖田に抱かれるままになる。そしてそのまま彼の呼吸の音に耳を澄まして……。
千鶴はいつのまにか、薬を飲まずに眠りについていたのだった……。
カーテンの隙間から差し込む鋭い光に、沖田は目を覚ました。腕の感覚がないくらいしびれているのに気が付いて自分が抱え込んでいるものに気が付く。
……よく眠ってる……。
薬がないと眠れないと言っていたが、昨日彼女が腕の中で眠りについたのは自分より早かった。言っていることとやっていることが違うじゃないか、と少しおかしかったが、なぜか自分の腕の中で安心したように眠ってくれる彼女が嬉しかった。
沖田は少し体を離して、自分の胸にうずめている彼女の顔を覗き込む。
薄暗い部屋の中でははっきりとは見えないが、それでも彼女はきれいだった。
幾重にも重なった黒く長い睫が、彼女の滑らかな頬に繊細な影を落としている。鼻は高くはないが、そこが可愛らしい。唇は…唇は何もつけていないだろうに柔らかそうなピンク色だった。滑らかな黒髪、華奢だが女らしい曲線を描いた体……。
沖田はがまんができなくなって、思わず千鶴のうなじに顔をうずめた。彼女の暖かく清潔な匂いがして沖田は目を閉じる。そのまま衝動に抗わずに彼女の首筋に自分の唇をそっと押し付け味わう。
「ん……」
くすぐったかったのか千鶴が小さく声をあげた。
沖田はその声ではっと我に返り、勢いよく体を離した。
一晩中腕枕をしていたせいてしびれている腕も引き抜いて、ベッドから勢いよく飛び降りる。
タイムトラベルと逃亡劇とで疲れていたのは確かだが、警戒することすらすっかり忘れてこんなにたっぷり眠りこけていた自分にあきれる。
さらに、千鶴に思わず反応してしまったことにも。
彼女は『血のマリア』だ。どんなに純真そうに見えたとしても……あれはすべて偽物のはずなんだ。
いや……。
そこで沖田はふと思う。もしかしたらあのままなのかもしれない。20年後の彼女を知っている自分でさえも惑わされそうになったのだ。何も知らない男どもが、羅刹になれるなれないにはかかわらず彼女を欲しがるのは当然だ。彼女はそれをどこまで知っているのか……。
昨日までの印象では全く何も知らないようだった。さらに羅刹が支配する世界には反対だとも……。
しかし羅刹は『血のマリア』の協力がなければつくれない。どこかの時点で協力姿勢に変わったのだろう。それはなぜ?父親が説得したのか、もともとその素養があったのか……。そうは見えないが……。
結論の出ない思考を打ち切って、総司はまだ眠っている千鶴をおいて、シャワーを浴びにバスルームへと入って行った。
「食べないの?」
ファーストフード店の朝メニューを前にして沖田が言った。
「なんだか食欲がなくて……」
よく眠れて頭はすっきりしているのに食欲は無い。千鶴の顔を覗き込んでくる沖田の視線をさけて、千鶴はうつむいた。
朝起きたら、沖田が頭をふきながらバスルームから出てくるところだった。ついさっきまで夜で、眠れないと言ってて……。あれ…?と不思議そうな顔をしている千鶴に、沖田はからかうように言った。
僕の腕の中でよく眠っていたよ。
千鶴は男性とつきあったことなどなく、もちろん男性の腕の中で眠ったことも、シャワーを浴びたてのいい匂いをさせている男性と話したこともなかった。それ以来なんだか沖田の顔が見れなくて……。
千鶴の思いは沖田の苛立ったような声に中断された。
「君さ、昨日もほとんど食べてないんだよ。朝も昼も。夜は少しだけ食べたけど、ほんとに2,3口だけだったよね?『眠れない』ってのもそうだけど、どこか悪いんじゃないの?精神的ショックも大きいだろうけど、お腹がすきさえしないなんておかしくない?」
千鶴は困ったように目の前のハンバーガーとコーヒーを見る。
「でも……ホントに食欲がわかなくて……」
ハンバーガーを一口しょうがなく口に含むが、まるで紙を食べているようで全く味がしなかった。総司は冷めた目で千鶴を見る。
「……まぁいいけどね。倒れたりして迷惑かけないでよ」
沖田は千鶴には構わずハンバーガーとポテト、ホットコーヒーを全部平らげた。
「今日は追手をまくためにまた場所を変えるよ。いろいろ買うものがあるから行きたい所もあるし」
沖田はそう言って財布から何か紙切れを取り出した。そこには几帳面な字で(多分沖田が書いたのではないだろう)住所が書いてある。
「ここの場所わかる?」
千鶴はその紙を覗き込んだ。
「ここは……はい。最初の日に行った繁華街の裏ですね」
表通りから何本か裏に入った場所で、なんとなく居心地の悪い地域だ。でもその分安いネイルの店などがあり、千鶴も何度か行ったことがある。何の用があるのだろうか?
「あれだけの装備を備えてる綱道コーポレーションにガチで戦争しかけるつもりだから、それなりの準備をしないとね。このあたりは外国の漁船から密輸したそういう物騒な物を隠れて売ってる場所らしいよ」
総司の言葉に千鶴は目を剥いた。
これまでの彼女の人生では決して触れることのない別世界へ、総司がずんずんと引きずって入り込んでいくのを感じて、千鶴は小さく溜息をついた。
なんだか荒れた感じのする店に、沖田はすたすたと入って行く。千鶴も、置いて行かれるよりは、と一緒に中に入る。中は別に普通の……でも商品が何なのかよくわからない店だった。
トロフィーが置いてあるかと思えば、無線機らしきものが隣においてあったり、かと思えば大量の新品の靴下がつまれていたり……。
千鶴がきょろきょろと店の中を見ている間に、沖田はカウンターに行って、中年男性の店主らしき人と話し出した。一通り店を全部見ても、沖田はまだ店主と話していてさらにカウンターには何に使うのかわからないが箱やらコードやらがどんどん積まれていっている。
千鶴はそれをちらりとみると、店の外に目を移した。
確かここから少し行ったところに前に行ったネイルの店があったような……。
別にその店に行きたいわけではないが、千鶴はなんとなく店の外にでてそちらを見てみた。
そう、確かあそこの角を曲がったビルの一階に、看板があって……。
以前の日常との接点が何か欲しくて、千鶴はそのネイルの店があるかどうかを確かめるだけにそちらに足を向けた。しかし店を出て10歩も歩かないうちに声をかけられる。
「おい、ちょっと」
最初は自分の事とは思わず、千鶴はそのまま歩いていたのだが、おい!という声とともに乱暴に肩をつかまれて千鶴は後ろを振り向いた。
みるからにチャラそうな男といかつい黒いひげを生やしキャップをかぶった若い男が千鶴を見ていた。
まずい……!と思ったものの無難に何とかやり過ごして沖田のところに戻ろうと千鶴は平然としているふりをして、なんですか?と聞く。
2人は千鶴をじろじろ見ながら、おい…これ例の女じゃね?とか、それっぽいよな……等と話している。
「あの、用がなければ、私、人を待たせているので……」
千鶴がそう言って二人の脇をすり抜けて沖田がいた店にもどろうとすると、ひげを生やした男が千鶴の手首をつかんだ。
「待てよ。ちょっと……おい、確かめようぜ」
ひげの男がチャラい男に言う。チャラい男はうなずくと千鶴に猫なで声で言った。
「怖がらなくていいよ。ちょっと顔をよく見せて欲しいだけだからさ、誰もいないところで」
そのままビルとビルの間の路地を引きずられ裏にある駐車場へと千鶴は連れ込まれた。
「いやっ!!誰か……!沖田さん!!」
「静かにしろ!」
パンッと乾いた音がすると同時に千鶴の頬に衝撃がはしり、彼女は駐車場に停めてあった車のボンネットに倒れかかった。
チャラい男が千鶴の両手首をつかみのしかかる。至近距離でまじまじと顔を見られて、千鶴は必死に押し返そうとした。
「おい、これやっぱそうだぜ」
「じゃあ先輩に言うか。すげー金になるんだろ?」
何を言っているのかわからない二人の会話に、それでも千鶴は何か…どこかに連れ去られるようなニュアンスを感じで必死で抗った。
「離して!!離してください!!」
パン!ともう一度乾いた音がして、千鶴はボンネットに再び叩きつけられる。
「あんまりうるさいとおしおきしちゃうよ〜?」
チャラい男はそう言うと千鶴の首筋に唇をはわせてきた。手はウエストをいやらしくなぞり男の脚が千鶴の脚の間を割って入ってくる。
ひげの男が眉をしかめた。
「おい、そんなの後で……」
ぷしゅっ
既に聞きなれた水っぽい音とともに、ひげの男が頭から血を飛び散らして横に倒れた。驚いたチャラい男がひげの男に駆け寄ろうとした時…。
ぷしゅっ
また消音機をつけた銃の音がして、チャラい男の茶色い髪が一房ふっとんだ。それと同時に、ちっ、という舌打ちの音が後ろから聞こえる。千鶴がボンネットから体を起こして振り向くと…。
「急に動くからはずしちゃったじゃないか」
沖田が大きなディパックを肩からさげて銃を構えていた。
「沖田さん!!」
沖田の登場がこんなに嬉しく思えたのは初めてだ。千鶴は車から離れて沖田に駆け寄った。
沖田は千鶴の肩を抱いて引き寄せると、もう一度銃をかまえ、倒れているひげの男の横で青ざめているチャラい男を狙った。警告でも脅しでもなく撃とうとしている沖田に、千鶴は再度慌てた。
「おっ沖田さん……!あの人達普通の人です!羅刹とかじゃなくて…!ダメです。もう一人殺しちゃってるじゃないですか!!」
沖田が片眉をあげて千鶴をちらり、と見た隙に、チャラい男は脱兎のごとく走り出した。沖田はもう一度舌打ちすると、ぷしゅっ、と一度銃を撃った。しかし寸前でチャラい男は角を曲がってしまい、銃弾はコンクリートの壁をかすっただけだった。
「君、自分のしたことわかってるの?」
冷たい緑の眼で見られて、千鶴はうつむいて小さくなった。
「……すいません……」
「殺すな、とか言うけど、殺すようなはめになったのは君がちょろちょろして厄介ごとに巻き込まれたからなんだよ?僕の傍にいるように、って言ったよね?」
沖田が銃を、ジーンスのウエストに差し込みながら言う。千鶴はちらりと頭から血を流して駐車場に倒れている男を見た。
ほんとうにそうだ。ずっとあの店にいたらこんなことにはならなかった。
もう救急車を呼んでも無駄なことは一目見たわかる。千鶴は殺された男を気にしながらも、踵を返して歩き出した沖田の後を追った。
「あの…、あのすいません。これからはもう……」
謝ろうとした千鶴の口が、後ろから誰かの手にふさがれた。
「!!?」
えっ?
と思った瞬間、すごい力で後ろに引っ張られ、そのまま急停車してドアが開けられた車の後部座席の中に投げ飛ばされる。
「きゃああ!!」
思わず出た悲鳴で、前を歩いていた沖田が振り向いたのが見えた。しかしそれは一瞬で……。千鶴はすぐ後から乗り込んできた男と共に、車におしこめられた。そしてドアがまだあいたまま、車は再び急発進する。その反動で千鶴は後頭部を反対側の扉のでっぱりにしたたかに打ち付けた。目の前に本当に星が飛び、視界がかすみにかかったようになる。そして、先ほど千鶴を襲った片割れのチャラい男の、緊張したような横顔が見えた。
何かが……多分沖田が撃っている銃の弾が車のあちこちにあたる音がして、後部座席後ろのガラスが粉々に砕け散った。
頭の上から降ってくる細かなガラスがきらきらと光りに反射するのをぼんやりと見ながら、千鶴は意識を失った。