【HeartBreaker 2】
コンビニのおにぎりと菓子パン。そして水。朝の光に照らされてダイニングの机に転がっている。
菓子パンの袋を開けながら、沖田はテレビの電源を入れた。
次々とチャンネルを変えて、朝のニュースを別の局で見る。テレビを見ている沖田を、千鶴はぼんやりと机の横に立ったまま眺めていた。
沖田は昨日と同じ服を着て、家の中なのにカーキ色のパーカーを着ている。そして…ごついワークブーツもはいたままだ。
あのまま寝たのかな…。
どこか現実味のない光景に、千鶴はそんな他愛もないことを考えていた。
暖房の入っていない部屋は凍えるようで、千鶴も、黒いコートにベビーピンクのマフラーをしたままだ。
昨日のこの時間は……、確かお弁当を作って朝ごはんを食べて……。いつもの朝の用意をしていた。今は……、今は自分はなにをやっているのだろう?
何故ここにいるのか……。そんなとりとめのない考えは、沖田の声で破られた。
「見事にどこもやってないね」
ね?と千鶴を見上げた総司を、千鶴はぼんやりと見返す。
「昨日の騒ぎ。会社を襲って、一応禁止されてる銃で何人も人を撃って、車も盗んだし……。まぁバイクはニュースにもならないだろうけどさ」
千鶴はテレビに視線を移した。
確かにそうだ……。いくら会社の敷地内の出来事でもニュースになるはずだ。でもどこの局もやっていない。と、いうことは……?
「と、いうことは君のお父さんは警察に通報しなかったんだね」
そう言って、彼は意地悪な瞳で千鶴を見る。
「あれだけ従業員を殺されてかわいい娘をさらわれたのに、何にもしていない。どうしてだと思う?」
「……もちろん、通報したと思います。きっと、警察が捜査の都合上マスコミには流さないって決めたんだと思います」
小さな声だが、目だけはちゃんと沖田をまっすぐと見つめて、千鶴はそう言った。
沖田は片方の眉をあげておもしろそうに軽く口笛を吹く。そして返事はせずにパンにかぶりついた。
「食べないの?お腹すいて倒れられても迷惑なんだけど」
菓子パンを食べながら、彼はにこやかにそう言う。
千鶴はぼんやりと机の横に立ったまま、昨夜これを買った時のことを思い出していた。
昨夜、千鶴が自分で沖田に切りつけられた傷の手当てをした後。
銀色に光る銃を、ジーンズの背中側ウエストに無造作に差し込み、上から見えないようにカーキ色のナイロンパーカーを着て、沖田は千鶴に手を差し出した。千鶴は、先ほど沖田から切りつけられた手をかばうようにして一歩後ずさる。そんな千鶴の様子を見て沖田はおもしろそうに笑った。
「何もしやしないよ。手をつなぐだけ。仲のいい恋人同士みたいにね」
「……」
さらに後ずさる千鶴の手を、沖田は強引につかんで引き寄せた。
「…!いや…!!」
反射的に振りほどこうとした千鶴の手首をさらに強く掴んで、沖田はあざけるように言う。
「何か勘違いしてない?頼まれたって君なんか襲わないよ。ここにはなんの食糧もないから外に買いに行くだけ。たった20年だけど未来は今と全然違うから変に怪しまれるのも困るし」
あ、お金はあるから、とにっこり笑う総司の顔を、千鶴はぼんやりと見上げる。
どうして……どうして……?何が起こってるの?
私は、これからどうなるの……?この人は、…この人はいったいなんなの……?
コンビニでお金を払うためようやく手を離してもらった千鶴は、ちらりとレジを操作している店員を見た。沖田はぴったりと後ろに立っているが、店員に助けを求めれば……。いやダメだ。最悪この店員も殺してしまうかもしれない。走って逃げるのは……?
なんとか逃げられないか考えている千鶴に、後ろの総司がそっと囁いた。
「……逃げる方法とか考えてる?逃がさないよ。それに……、君がもしうまく逃げられそうになったら、周りの人を殺す。ほら、あそこの親子連れとか…」
そう言う沖田の視線を追うと、飲み物コーナーでジュースを選んでいる小さな男の子がいた。
「……逃げません」
青ざめた顔で千鶴が言うと、総司はにっこりと笑った。
「いい子だね」
その顔はまるで邪気がなくて、ぱっと周りが潤うように優しく、残酷な笑顔だった。
妙に爽やかな朝の光の中で、促されるまま千鶴はダイニングテーブルの椅子を引いて座る。
おにぎりを取ろうとすると、向かいに座っている総司の手からパンが落ちた。
どうしたのかと千鶴が彼を見ると、沖田は自分の頭をかきむしるようにして片手で髪をつかんでいる。
「っく……!」
うめくような声が聞こえ、そのまま沖田は何かに耐えるようにじっと固まっていた。千鶴が、あの……、とかけた声にも気が付かないようでしばらくそのままでいる。
千鶴が沖田の顔を覗き込むと、彼は青ざめた顔でぎゅっと目を瞑っていた。額には汗が浮かんでいる。
「ど…どうしたんですか……?沖…」
千鶴の声で、沖田はぎらぎらと光る瞳で千鶴を見た。
そして震える手で千鶴の手首をつかむ。つかんだまま沖田は椅子から崩れ落ちた。
「きゃあっ!!」
沖田にひっぱられ千鶴も床へと転がる。それでも沖田は千鶴の手首を離さなかった。
したたかに床に打ち付けた肩と腰を庇いながら千鶴は声をあげた。
「なっ何を……!」
千鶴の言葉は、沖田がナイロンコートのポケットから取り出したものを見て途切れた。
それは手錠だった。
銀色にきらめくそれを、沖田は苦しそうな表情のままなんとか千鶴の手にはめた。なんの衝撃もなくほとんど音もせずに自分の手首にはまった手錠を、千鶴は茫然と見つめる。
沖田はそれにはかまわずに、手錠のもう一方の輪を自分の手首にはめた。そして力がつきたかのように仰向けになり、苦しそうに大きく息をする。
「何するんですか…!取ってください!」
「……僕…多分しばらく立てないからね。君を逃がすわけにも行かないし。ちょっと我慢……っっ!」
うっと呻いて総司は頭を抱えて横になった。痛みに耐えるように丸くなる。
尋常ではない苦しみ様に、千鶴は不安になった。あまり近寄らないよう体を離しながらも心配そうに彼に聞く。
「あの……大丈夫ですか……?いったいどうしたんですか?」
千鶴の言葉に返事はない。恐る恐る千鶴が、向こう側を向いている総司を覗き込むと、彼は青ざめた顔で意識を失っていた。
千鶴はそのまましばらく沖田の横で座っていた。
沖田の手と自分の手をつないでいる手錠のせいで、立ち上がることもできない。コートのポケットに手錠の鍵があるかもしれないと思い、こわごわと探ってみたが、やはり何も入っていなかった。迷った末にブラックジーンズのポケットも上から触ってみたが、何かが入っているような手触りはない。彼が起きていないかドキドキして、千鶴は横向きに横たわっている沖田にかぶさるようになった姿勢のままでそっと彼をの顔をうかがってみたが、彼は目を閉じたままだった。
千鶴はその姿勢のまま、彼の顔をじっくりと見る。
睫……長いな…。それにとってもたくさん…。男の人にしては肌がきれいだし髪もさらさら…。
冷たい緑の眼が閉じられている沖田の顔は、とても端正だった。いつも千鶴に対して嘲るようなカーブを描いている唇は、今はきれいなラインのまま閉じられている。髪の一筋一筋から滴り落ちているような華やかな色っぽさに、千鶴はぼんやりと彼に見惚れていた。
あの凍えるような瞳が、暖かく瞬くことはあるのだろうか。いつも意地悪そうにゆがんでいる唇が、甘い言葉をささやいて女性の唇に重なることは……?このがっしりとした腕の中に抱きしめられた女性は、彼がもと居たという20年後にはきっといたのだろう。
そこまで考えて、千鶴ははっと我に返り赤くなった。
さらわれて、切りつけられて、さんざんひどい言葉を投げつけられて……。こんな恐ろしい犯罪者に何を考えているのかと今度は青ざめる。
そもそも20年後の未来とか、血のマリアとか、どこかおかしいとしか思えない。そう思って当然だと思うものの……。それでも千鶴は総司の瞳に、おかしくなどなくむしろ聡明な光を見ていた。
そして覚悟の色も。
言っていることが本当とは思えないが、それでも彼はまともで、多分命をかける覚悟でいる。何がしたいのか、なぜ千鶴をさらったのか、なぜ人を殺すのか、何もわからないが彼にとってそれは正当性があることなのだということを、千鶴は感じていた。
ちゃんと聞こう。
千鶴はお腹に力を入れる。
怖がって逃げてばかりじゃだめだ。多分もうもとの生活には戻れない。彼は……、ちゃんとした人だ。何がしたいのか、私をどうしたいのか、ちゃんと聞いて……なんとかしなくちゃ。父様も心配だし、会社がどうなったかも知りたいし…。
「ん……」
一時間ほどしてから沖田は目を覚ました。意識を失った時の苦しみ様が夢だったかのように平静な表情だ。
彼はぼんやりと天井を見てから、顔を横に向けて千鶴を見た。
「どれくらい意識がなかった?」
「……一時間くらい、です」
「逃げなかったんだ?」
沖田の言葉に千鶴は手錠につながれている自分の腕を軽く上げて見せた。総司はそれを見て、くっと笑う。
「……確かにね」
そう言うと千鶴を促して二人で立ち上がる。そして冷蔵庫をあけると小さな銀色の鍵を取り出し手錠を外した。
自分の手錠をはずしている沖田を見ながら千鶴はつばを飲み込んで、そしておずおずと聞いた。
「……なんだったんですか?さっきの…。どこか悪いんですか?」
総司は外した手錠をまたポケットにいれて、千鶴の顔を見る。
「タイムトラベルの後遺症。時間がたてば薄まっていく……筈だけどね」
「タイムトラベル……」
「タイムトラベルの技術はまだ未完成なんだ。試作品が一つと、猿までの実験のみ。猿を1時間後の未来に送ったら?過去は?その実験結果から、脳がしばらくの間腫れて頭痛と熱に悩まされることはわかってた。そして極限までの体力の減退。二回タイムトラベルをした猿は死んだよ」
淡々と話す沖田の顔を見ながら、千鶴は混乱した。
狂っているようにも嘘を行っているようにも見えない。しかしタイムトラベルなんて……。信じられない。しかもそんな危険なものをなぜ……。
「そんな危険なことを、なぜ…沖田さんはしたんですか?」
「だから昨日言ったでしょう?君のせいで20年後の未来は羅刹だらけ。このままじゃあ人間は単なる羅刹の食い物でしかなくなってしまう。そんな未来を変えるために来たんだよ」
「でも……、さっき沖田さんが言ったことが本当なら、もう帰れないじゃないですか。二度目で死んじゃうんでしょう?」
沖田は、ああ、と千鶴の言っている意味がわかったように軽くうなずいて、ダイニングテーブルの方に歩きながら答えた。
「タイムトラベルによる死は、移動した個体の体の大きさと移動した時間の長さにかかわってくることは分かっているんだ。開発者が複雑な計算をしてくれてね、移動時間が20年前の昨日の日付までが、僕の体格で2度トラベルできるギリギリの時間だったってこと。タイムトラベルのためのエネルギーもその分しかないしね。もっとさかのぼれるんなら君が生まれた直後……いや、綱道が生まれた直後に移動して殺して、すべての問題を解決してたよ」
思わぬところで父の名前が出て来て、千鶴はダイニングテーブルに向かっていた足を止めた。
「と、父様……?」
沖田は先ほど机の上に落としたパンを再び食べながら、軽く言う。
「そう。変若水から『血のマリア』をつくったのは綱道なんだからね。その綱道がいなけりゃ血のマリアもいない。そして血のマリアがいなければ羅刹もいない」
「……」
きょとんとしている千鶴の顔を見て、総司は苦笑いをした。
「君、何もわかってないんだね」
「……何が何だかわかりません。私は……どうして私を殺さないんですか?夕べ、私を殺しに来たって……。タイムトラベルが20年後にできるようになる、なんていうのもまるで夢物語みたいで……」
沖田はその透き通った緑の瞳で千鶴を見つめた。
「……僕が知っている『歴史』を話してあげようか?」
挑むような瞳で射すくめられながらも、千鶴はまっすぐ見つめ返してうなずいた。
沖田が小学生ごろから聞かされていた、『血のマリア』とそれをとりまく綱道コーポレーションの発展の歴史……。
昔から『変若水』という、知能、体力、筋力、免疫力……すべてにおいて人間をはるかに凌駕する羅刹に変異させるウィルスの存在は、一部では知られていた。
それは体に取り込んだ者の遺伝子を変異させる、特殊なウィルス。しかし『変若水』をどんなに改良しても、それを飲んだ人間は一瞬にして変異し、しばらくすると副作用で血に狂い己に狂い暴走して灰となってしまう。
その副作用なしに羅刹に変異させることに、綱道コーポレーションは世界で初めて、そして唯一成功したのだ。
その方法は、『変若水』の適合者の発見。20年後これまでも、ただの一人しか適合者は見つかっていない。その適合者は『変若水』を飲んでも副作用がなく、さらにその適合者の変異した遺伝子は、それ自身がウィルスのように他の人間を、羅刹に安全に変異させることができた。
人よりも一歩でも有利でいたいと思うのは人の常。綱道コーポレーションは、そのたった一人の適合者を厳重に管理し、羅刹志願者を、客、と呼んで金銭と引き換えに羅刹に変異させ、わずか10年の間で世界一の大企業へと成長した。そして羅刹に変異した人間は、その優れた頭脳と底知れぬ体力で、科学を飛躍的に進歩させたのだった。
しかし羅刹のエネルギーの源は、人間の血……。
貧しい地域や国で、人間が餌として残虐に扱われる事例が増えた。体中すべての血を抜かれた子供や女性の死体が路地裏で発見されることは、20年後の世界では日常茶飯事でニュースにすらならない。そんな事態に、とうとう羅刹に変異をすることをよしとしない人間たちが羅刹の排除にのりだした。
20年後の世界は、羅刹と人間の、生き残りをかけた戦争となっていたのだった。
その、羅刹のキィとなる適合者。その唯一の純血の羅刹が、人間だった時の名前は……雪村千鶴。
20年後に血のマリアと呼ばれ、羅刹たちに厳重に守られている存在だった。
「タイムトラベルも、皮肉だけどそんな羅刹の頭脳から生まれ落ちたものなんだよね。僕たちは唯一の試作品と実験結果を羅刹たちから奪って、そして僕が志願してこうして過去に来たってわけ」
まるで学校の暗記テストのように滔々と『歴史』を言う沖田に、そしてその突拍子もない内容に千鶴は目を見開いたまま固まっていた。
筋は通っている……。通っているけど……。
茫然としている千鶴には構わず、沖田は続けた。
「君が2010年の10月に『変若水』を飲んだことはわかっているんだ。そして半年後には君の体は純血の羅刹……『血のマリア』に完全に変異する……、いや変異したことも20年後にはわかってる」
「去年の…10月に?そんなもの飲んだ覚えは…。半年後っていうと……あと一か月後?に……私が変異するんですか?沖田さんは、じゃあ変異する前に私を殺すために来たんですか?じゃあ何故今こうして……?」
頭に渦巻くクエスチョンマークを、千鶴はそのまま沖田にぶつける。
「純血の羅刹の君の血は、人間を羅刹に変えることができる。そして君の血のある成分を分離解析すれば、羅刹になった人間を元の人間にに変えることが多分できる薬をつくりだすことができるんだよ。その薬をつくるための君の血が、……純血の羅刹の血が欲しい。もう変異した後は綱道コーポレーションが君を奥深くに厳重に匿って君に接触することは不可能だからね。僕が君を殺すのは一か月後、完全に変異した君から血をとってからだよ。君を殺したことで未来が変わるかもしれないし、変わらなかったとしても君から取った変異後の血を僕が20年後に持ち帰って薬をつくってもらえば、多分羅刹達を人間に戻すことができるはずだ」
筋が通っている……。本当かどうかはわからないけれど、でも沖田の中ではこれが真実なのだということが千鶴にはわかった。『変若水』の存在も、それを自分が飲んだということも全く心当たりはないが、とりあえず沖田から逃れることだけは不可能だ。ここまで根拠があり考え抜かれたうえで、あの襲撃を行い自分をさらったのだとしたら……、自分は一か月後に殺されるのは確実だ。
彼が狂っているとは思えないが、それでも千鶴はまだ沖田の話に半信半疑だった。
でも……。逆に言えばあと一か月は、沖田は千鶴を殺すことができないのだ。一か月一人の人間を監禁するのは見張りが一人ではかなり厳しいはずだ。一瞬たりとも目が離せないのだから、そんなことほぼ無理に近い。
あきらめずに隙を見つけよう……!そして父様になんとか連絡をとって……。
「あ、それとこの一か月の間に綱道も殺さないとね」
二個目のパンを食べながら平然と沖田は言った。
「君を歴史から抹殺しても、諸悪の根源の綱道が生きていたらまた同じことがくりかえされる可能性があるからね」
「父様を……」
「そう、一か月後には雪村家はこの世から消えてなくなるんだよ」
口を開こうとした千鶴の背後から、ピシッという乾いた音がしたと同時に窓ガラスが大音響をたてて砕け室内に吹き込んできた。
「……!!!」
あっと思った瞬間、千鶴は沖田の胸に強く抱き寄せられ床に転がる。沖田は千鶴が床に打ち付けられないように自分の体で彼女をかばってくれていた。沖田はそのまま降ってくる細かなガラスの破片を自分の背中で受ける。
「……おいで!」
強く耳元で沖田は囁いて、千鶴を抱き上げたまま窓ガラスとは反対の方向……台所の横の、これまで開けたことのない扉へ向かった。
「なっ…何……何が……?降ろして…!!」
動揺している千鶴に、沖田は鋭くシッと口止めをした。
「床はガラスだらけで君は靴はいてないでしょう。多分君を取り返しに来たんだよ」
扉の向こうは小さなテラスだった。そこから見下ろすと、ビルの表側に車が2台、男が4人道路に降りてこちらに昇ってこようとしているのが見えた。
自分を助けに来た、と聞いて千鶴は思わず男たちに向かって叫ぼうと口をあけた。
すぐに沖田の大きな手が口をふさぐ。そして千鶴を壁に押し付けて自分の体を密着させて動けないようにした。
「〜〜!!」
もごもごと暴れる千鶴を軽々と抑え込んで、沖田は楽しんでいるように小さく呟いた。
「……さて、どうしようか……」