【HeartBreaker 10】

 


 「ほら手を挙げて」
どこか楽しげな沖田の声が社長室に響いた。
綱道がこわばった顔で沖田と千鶴を見る。ちらりと壁にある呼び出しボタンに視線をやった綱道に、沖田が言った。
「動かないでよ。押してもいいけどあんたの大事な息子たちは来ないと思うよ」
「何!?何をした!」
「催眠ガスをたっぷりとね……。羅刹の……部屋っていうのかな?飼育室の方が正しいのかな?旧館の地下にあるでしょ」


 千鶴は緊張しながら父と沖田のやりとりを見ていた。
沖田の作戦は夜、社員たちがあらかた帰った後に決行する、というものだった。綱道はほとんど家に帰らず会社の社長室で寝泊まりをしている。社員が帰ってしまった後は、2人の警備員と、残業している2〜30人の研究員や会社員、そして20人ほどいる羅刹たちだけだった。
撃っても刺してもなかなか死なない羅刹と正面から戦いを挑むのはバカらしいと、沖田は会社の敷地のはずれで千鶴の身長ほどあろうかというライフルを取り出した。
そして地下一階から突き出ている明り取りの窓めがけて催眠弾を発射したのだ。像すら眠らせるという強力なそれを5発も打ち込み、飼育室から何の物音が聞こえなくなったのを確認した後、千鶴と二人で最上階の社長室まで堂々とエレベーターで昇り、そして現在に至る。


「そういうわけだから、あんたもこれで終り。人類羅刹化計画もジエンド。残念だったね」
少しも残念そうに見えない顔で沖田は言った。綱道は顔をゆがめる。
「くっ……!私だけを殺したとしても仲間が……幹部たちがいる。研究成果はちゃんとあがっているし、少し時間はかかるかもしれないが……」
「そっちもダメだよ。このビルごと全部吹っ飛ばしてあげる予定だから」
そんなことができるわけがない、というような呆れた顔をした綱道に、沖田は続ける。
「あんたが教えてくれたんだよ。焼却炉の下にビルごと吹っ飛ばすくらいのガスがあるって」
沖田の言葉を聞いて、綱道は笑い出した。
「はっはっはっははは!バカの浅知恵だな!どうやって焼却炉まで行くんだ!確かに社長室の横から降りて行ったあの場所で爆発を起こせば、ガス爆発も誘爆できたかもしれないが、あそこへはもういけないぞ。社長室の壁には鉄板をいれたし、焼却炉は分厚いコンクリートの壁に囲まれている。数人の我社の幹部しかあそこの鍵は持っていなし指紋認証もある!」


「私が持っています」
千鶴の静かな声が部屋に響いた。目を剥いて千鶴を見た綱道に、千鶴は沖田にさらわれた初日、コートのポケットに入れたままになっていた焼却炉の鍵を見せた。
「指紋認証にも私の指紋が登録されています。だから焼却炉に入れるんです」
綱道は、唖然と口をあけたまま、それをパクパクと動かした。
「父様……。もう終わりです。今まで……育ててくれてありがとう。それは本当に感謝してるんです。でも父様の夢には私はつきあえません。殺さなくて済むのならそうしたいけど……。でも父様の価値観はきっと変わらないと思うから……」
優しい澄んだ目で言う千鶴を横目で見て、沖田は銃の安全装置を外した。

「殺す前に最後の質問。ちゃんと教えてくれたらもしかしたら命だけは助けてあげるかもしれない。……千鶴ちゃんの羅刹の血を除去したり薄めたりする方法は?」
「なぜ薄めなくてはいかんのだ!!」
突然叫びだした綱道に、千鶴は驚いた。綱道の眼はギラギラとひかり、口の端から泡がでている。
「今にすべての人類が羅刹になりたがる時が来る……!人間は羅刹の食糧として牛や豚のように管理された繁殖をし、血を提供するのだ……!すでに変異してしまった細胞をさらに変異できるはずがないだろう!その必要もない!どうしてお前たちにはわからないんだ……!!!」
「マッドサイエンティストめ……!」
沖田は舌打ちをすると、ためらわず綱道の心臓めがけて銃を撃った。
千鶴は思わず目をそむける。
「っ……!」
綱道は声にならない叫び声をあげ、目を見開いたままその場にゆっくりと崩れ落ちた。
沖田は冷たい目でしばらく綱道が動かないのと確かめると、顔を背けて震えている千鶴の肩を抱いて、部屋の外へと促す。

「行こう。すべてを灰に戻すんだ」

 

 

 

千鶴達が出て行ってしばらくした後、綱道は撃たれたショックの気絶から目を覚ました。
胸を確認してみると、確かに血が流れておりずきずきと痛むが、致命傷ではなかった。異様に重い体を起こして胸ポケットを探ると、たまたまそこにいれていた名刺入れが出てきて、そこには小さな穴があいていた。どうやら何枚もの紙を貫通したうえで綱道の胸に弾があたったために、死ぬまでには至らなかったようだ。しかしかなりの血がながれているのとショック状態とで、体が動かない。
今すぐ病院に搬送されて治療を受ければもしかしたら助かるかもしれないが、綱道にはそれよりもしたいことがあった。
沖田と千鶴の、すべての研究成果を破壊するという作戦。
これさえ阻止できれば、たとえ自分が死んでも、きっと他の幹部たちが研究をつづけ、適合者を探し、羅刹への道は延々と続くに違いない。
綱道は床に血の跡をべっとりと残しながらはいずり、壁際までくると羅刹の飼育部屋につながっている呼び出しボタンへと指を伸ばした。

 


 沖田と千鶴はそのころ、エレベータで一階まで行き、新館の外にいったん出て、外から旧館の焼却炉の入口へと向かっていた。
旧館の向こうの暗い夜空に、まるで突き刺さる様な三日月が見える。

 そう言えば沖田さんにさらわれた夜も、三日月が見えたっけ……。

走りながらぼんやり千鶴がそんなことを考えていると、突然耳元の脈が、ドクン!と大きく脈打った。

 あ……!また発作が……!
 こんな時に……!沖田さんに迷惑をかけて……

と、思う間もなく千鶴は地面に崩れ落ちた。
ドサリという音に、前を行く沖田が振り返る。そこはちょうど新館と旧館の間の隙間で、沖田はとりあえず人目に付かないよう千鶴を抱えて狭い隙間に入り込んだ。
「……発作?」
迷惑そうなそぶりなど少しも見せずに、沖田はそう言うと千鶴のコートのポケットから自分があげたジャックナイフを取り出し、ためらいなく自分の腕を斬ろうとした。
「沖田さ、ん…!ダメです。私はもう変異しているので……舐めたりしたら傷口から移ってしまいます…!」
「大丈夫だよ。綱道もAIDSよりも弱いウィルスだっていってたでしょ?そんな簡単に……」
「ダメです!」
青ざめた顔をして、苦しそうな息を吐きながらも、驚くほど強い口調で千鶴は言った。沖田は驚いて千鶴を見る。

千鶴は沖田のジャックナイフを持っている手に縋り付いてコートのポケットから銀色に光る鍵を差し出して続ける。
「これ……。焼却炉の鍵です…!私を連れて入口で……指紋認証をしてください……。そしたら私はそこに置いて行って…。…時限爆弾を…しかけて、そして未来に帰ってください……。あの場所ならきっと私も爆発で……粉々に吹き飛ぶと思います…。だから……」
切れ切れに続ける千鶴を沖田は苛立たしげにさえぎった。
「バカなことを言ってないで、早く血を……」
「沖田さ……ん!」
千鶴はもう一度強く言うと、必死で沖田の顔を覗き込んだ。

「沖田さんは……、覚悟を決めて未来から来たんでしょう?未来を救うために…!こんな一時の情ですべてを壊してしまわないで…。沖田さんを待ってる人が……、未来にはいるんだから…」
千鶴の言葉を聞いて、沖田はギリッと音がするくらい歯を噛みしめた。そして強い光を放つ緑の瞳で千鶴を睨みつける。
止める間もなく沖田は自分の親指の付け根にジャックナイフを走らせると、滴り落ちる血を自らの口に含んだ。
そして千鶴の顎を大きな手で押さえて固定すると、自分の唇を強く押し付ける。

「!!!」
千鶴が目を見開いて抗おうとするが、沖田の力にはとてもかなわない。無理矢理指で唇をこじ開けられ、沖田の舌とともに血が流れ込んできた。
浅ましいと思いつつ、どうしても抗えずに千鶴は苦しそうな顔をしながらそれを呑みこんでしまう。
コクン、と彼女の白い喉が鳴ったのを確認して、沖田はもう一度自分の傷口から血をなめとると千鶴に口づけた。
涙を流しながら抗おうとする千鶴を、強い力で押さえつけ沖田は何度も何度も口づけをした。
ようやく千鶴の体の発作に伴う震えが止まり、彼女の呼吸が穏やかになって体の力が抜けたのを感じると、沖田は拘束していた腕を離す。

千鶴は、結局化け物のように沖田の血を飲み干した自分が浅ましくて、恥ずかしくて、沖田の顔が見ることができずにうつむいて唇の端についている血をぬぐっていた。俯いたままの彼女に、沖田が冷たい声で言う。
「……覚悟が決まってないのは君の方だよ」

彼の声の冷たさに、千鶴が下を向いたまま固まっていると、沖田は構わずに続けた。
「簡単に君を抱いたなんて思わないで欲しい。覚悟なんて最初から決まってたよ。羅刹の君の運命を背負って、20年後の世界を捨てて、自分が羅刹として生きる運命も背負う覚悟は、僕にはもうある」
沖田はそう言うと、千鶴の顎に指をかけて上を向かせ、強引に目を合わせた。
怒っているような傷ついているような緑色の瞳が、三日月の光のなかで光る。

「だから、君も覚悟を決めて。僕を羅刹にしてしまう罪悪感を抱えてこれから生きて。羅刹になった僕の運命を背負って欲しい」
沖田の真剣な瞳に射すくめられて、千鶴は動けなかった。

沖田の想いの深さを感じて、涙がにじみ出るのを感じる。
言葉を紡ぐことが出来なくて、千鶴は小さくうなずいた。
ほっとしたような沖田の顔を見て、千鶴はさらに何度もうなずく。
手を伸ばして沖田の首に腕をまきつけ、千鶴は自分から彼に抱きついた。

「ありがとう……。ありがとうございます……!ごめんなさい……」
何度も何度もつぶやく千鶴に、沖田が呆れたように言った。
「千鶴ちゃん。ここは愛の言葉を言うところだよ」
悪戯っぽく、でも嬉しそうに笑う沖田の瞳にも、涙がにじんでいるように見えるのは気のせいではないはずだ。
千鶴は至近距離で沖田のきれいな緑色の瞳を見つめる。そして自ら唇を沖田の唇へと寄せ……。

「……愛しています……」

言葉と共に合わさった、柔らかく暖かい唇を、沖田は優しく受け入れた。







沖田御手製の時限爆弾を焼却炉に仕掛け、外に出ようとしたときいきなり上から何かが降ってきてた。
沖田はとっさに振り向きざまそれを撃つ。
弾はそれの眉間を貫いたが、その瞬間すごい力で腕をはたかれ、沖田の手から銃がはじかれて遠くへと転がった。
眉間を撃たれたそれは、凶暴な赤い瞳が命の力を失くして、どんよりと曇り、撃たれた反動のまま後ろへとゆっくり倒れる。

「ら、羅刹……!?」

眠っているはずなのに…!千鶴がそう思ったとたん、もう一度上から何かが降ってきて、沖田を馬乗りになって抑え込んだ。

「と……父様……!」
銃で撃たれたはずなのに……!?
綱道は全身血まみれで、額に脂汗を浮かべながらも沖田の首をぐいぐいと締める。体勢を崩した状態で馬乗りになられた沖田は、はねのけるだけの力をだせずに苦しそうに呻いた。
「ちづる…ちゃ……!早く…逃げ……!あと三分で…爆発…!」
必死で言う沖田に、千鶴ははっとして先ほど仕掛けた時限爆弾を見た。
綱道が気が狂ったように笑う。
「そうだ!逃げろ千鶴!お前さえ生きていればまだ望みはある!このままわしはこの男を道連れに……ぎゃっ!!」

ジャックナイフを振り上げて、千鶴は思いっきり綱道を背中から刺した。
綱道の力が抜けた瞬間、沖田が綱道を振り払って咳き込みながら立ち上がる。青ざめた顔をして血の付いたナイフを持ったまま震えて綱道を見ている千鶴の手を引いて、沖田は走り出した。

 多分あと二分ちょっと……!爆発の規模から考えたら走っても間に合わないかも……!!!

沖田は信じてもいない神に祈りながら、必死で千鶴の腕をひっぱり走った。後ろから、カチカチカチと時限爆弾が時を刻む音が聞こえてくるようだ。
ふと視界に正門の分厚いゲートが見えてきた。ちょうど車が入って来て、ゲートはまだ少し開いている。沖田はさらに足を速め、千鶴を引きずるようにゲートの隙間から外に出た。

その瞬間、世界中の音が止まり視界が真っ白にそまり……。

一瞬の後に爆風と轟音と熱風が、まだ少し空いていたゲートの隙間から怒涛のように流れ出してきた。
沖田はとっさに千鶴を抱え込むと、爆風に抗わず、ゲートの外の草むらに転がる。

 

背後から聞こえてくるものすごい轟音がようやく止み、降ってくる細かな鉄くずやガラスも収まってきたころ……。
沖田は恐る恐る抱え込んでいた千鶴を離して、彼女の顔をのぞきこんだ。すぐに上を向いた千鶴を瞳があい、無事だとわかる。
沖田は次にゆっくりと体を起こして後ろを振り向いた。沖田の背中越しに向こう側をすでに見ていた千鶴は、茫然としている。

そこは重いゲートと鉄柱以外すべてが瓦礫とかしていた。

 

 

「っつ…!」
「あ、ごめんなさい!痛かったですか?」
千鶴は、ぱっと消毒液にひたされた脱脂綿を沖田の背中の傷から取り除いた。
「いや、いいよ。大丈夫。続けてくれる?」
上半身裸でブラックジーンズだけをはいてベッドに座っている沖田が、気にするふうでもなく言った。
出来るだけ痛くないように……。千鶴は気を遣いながら、背中一面にある傷の消毒を続ける。

最後の爆発の時に、千鶴を抱いて自分の背中で爆風や降ってきたガラスや鉄くずから千鶴を守ってくれたせいて、沖田の背中には大きいのから小さいのまでかなりの数の傷がついてしまっていた。

 私は傷が治るんだから、私がかばえばよかったんだよね……。

痛々しい背中に、千鶴は眉をひそめがならそう思った。

 でも……

「何考えてるの?」
沖田がこちらを振り向きながら聞く。最後の傷を消毒して絆創膏を貼って、千鶴は微笑みながら言った。
「かばっていただいたせいでこんな傷ができてしまって、申し訳ないって……。でも、よかったって思います。傷が治らないっていうことは沖田さんは羅刹になってないってことですから…」
綱道が言っていたことが本当だとすると、適合者でない人間には羅刹の兆候がすぐ現れるらしい。爆弾を仕掛けに行くときに沖田と深いキスをしてしまったので、もしかしたら……と思っていたのだ。

千鶴の言葉に沖田が背中越しに振り向いた。
「……まだ言ってるの?僕は君の傍に……」
「沖田さん」
千鶴は沖田の言葉をさえぎった。千鶴の強いまなざしと言葉に、沖田が目を瞬かせる。

 「沖田さん……。私、すごく嬉しかったです。私と一緒にいる覚悟でいてくれるって……。私も覚悟を決めてって……。でも、私はもう羅刹で、だからわかるんです」
そう言って千鶴は言葉を探すように言い淀んだ。沖田は黙ったまま千鶴の言葉を待つ。

 「多分……私はいつか血に狂います。人格も何も崩壊してしまって、人間の血だけを浅ましく求める獣に……なるって、自分でわかるんです。理性でこの衝動を抑えられなくなった時、きっと……沖田さんのことも分からなくなると……。もう見える世界も人間だった時とは違います。太陽の色も、空気の感触も…人間も」
唇をかんで辛そうに言う千鶴を、沖田は黙って見ていた。
「私はそんな私を沖田さんに見られるくらいなら死にたいんです。そして、沖田さんにも……私の好きな人にはそんな化け物になって欲しくないんです」
「……化け物になった僕は愛せない?」
はっとして千鶴は沖田の眼を見つめる。

「……愛せます…!でも沖田さんには苦しんでほしくない。いつも幸せでいて欲しいんです」
「君といられたら僕は幸せなんだけどね」
沖田の言葉に、千鶴はまた視線を逸らした。
「……でも時間制限があるんです。いつ狂うのか、今日?明日?そんな日々しか沖田さんにあげられない自分を、きっと自分で嫌いになります。覚悟ができてないって言われれば……、多分そうかもしれません」

千鶴はそう言うと、再び目を挙げて沖田を見た。


「私を殺して、未来へ帰ってください」


ごめんなさい……。と言って俯く千鶴を、沖田はしばらく見つめて、小さく溜息をついた。
「ねぇ、こっちに来て」
唐突に沖田はそう言うと、ベットのヘッドボートへと移動してそこへ背中をもたせかけ腕を千鶴へむかって広げた。
「……え?」
「なんだか……君に触れながら話したい。こっちに来て」

断りにくい空気に、千鶴は頬を染めながらもベッドに乗って沖田の傍へと移動した。沖田は近くまで来た千鶴の手首を掴んで自分の膝の中に後ろ向きに座らせ、後ろから裸の腕を千鶴にまわした。
千鶴は沖田の腕の中で固くなっていたが、沖田は千鶴の頭に自分の頬をのせて黙ったままだ。
かなりの時間そのままで、千鶴はだんだんと体の力を抜き、沖田に寄りかかる。

 暖かくて、安心できて……、とても大事。
 たった一か月でここまで人を好きになるなんて……。

千鶴が、今更ながら出会いからを思い返して運命の不思議を思っていると、沖田が口を開いた。

「……じゃあさ、賭けをしよう」
「え?」
沖田の唐突な提案に、千鶴は沖田の腕の中で振り返る。沖田はいつもの笑顔で続けた。
「僕はこれから君を……抱く。思う存分。それで明日の朝僕が羅刹になっていたら、僕の勝ち。人間のままだったら君の勝ち」

千鶴は唖然として沖田の悪戯っぽい笑顔を見た。沖田は千鶴の視線は気にせず言う。
「僕が勝ったら未来へは帰らない。君が勝ったら……しょうがないから帰るよ。それでどう?」
「ダメです!なっなにを……何を言ってるんですか!うつっちゃったらもう治せないんですよ?」
「未来に帰っちゃったらもう二度と会えないよ?」
沖田はもう笑顔ではなく、真剣な表情だった。千鶴は黙り込む。
「同じでしょ?帰ってほしい君と帰りたくない僕。どっちが正しい、なんてないよね?……二人とも、相手を思ってるのは同じだけど出す結論が違う。こうでもしなけりゃ決められないよ」

「……でも……」

その通りだ……。共通している結論は、どちらが勝ってもハッピーエンドなんてないこと。

「僕がこんなに譲歩するなんてね……。自分でもびっくりだよ。……でも、自分のしたいようにしたら……ここに残ったら君が悲しむでしょ。僕じゃなくて自分を責めるだろうし……。君に逢うまでは自分の好きなように行動できたんだけどなぁ…。色恋ってめんどくさいもんだね」
沖田はほがらかに笑って、千鶴を後ろから抱きしめる。

そして耳元で甘くささやいた。

「でもとても幸せなものでもあるって初めて知ったよ」







 カーテンを閉めていない窓から差し込む朝の光で、千鶴は目が覚めた。
なんだかいつもと何かが違うような気がしてぼんやりと天井を見る。そしてゆっくりと起き上り隣へと視線を移した。

隣には誰もいなかった。
朝の空気が、空っぽのシーツをさらに冷やしている。
部屋にも、家の中にも、千鶴以外の人間がいる気配はない。


千鶴は胸にぼっかり穴が空いたように感じた。
いない、ということは、自分は賭けに勝ったのだろう。
沖田が羅刹にならなかったこと、未来で待つ人たちのもとへ帰ったことを、心から嬉しく思う。
初めて好きになった人、初めてキスをして初めて肌を合わせた人……。
幸せになってほしい。誰よりも。

 逢えてよかった……


千鶴の黒い、大きな瞳からは音もなく涙があふれ、頬をつたっていた。







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