【HeartBreaker 7】
カーテンの隙間から射す朝の光の中で、千鶴の長い睫が細かく震えるのを沖田はじっと見ていた。やわらかそうな唇が少しだけ開き、ん……、という声のような溜息なような吐息が漏れる。ぬくもりを求めるように沖田の胸に頬を摺り寄せ、千鶴はまた安心したように眠りにつこうとした。
「千鶴ちゃん」
低く優しい声で沖田はよびかけた。
千鶴の睫がゆっくりとあがり、焦点のあわないトロンとした瞳が現れる。
「おはよ」
「……おは……よ、ござ…います……」
まだ半分眠っているように少しかすれた声で、それでも律儀に千鶴は挨拶を返した。
夜眠れない千鶴を、沖田が抱きかかえて眠るようになってわかったこと。
千鶴は朝が弱い。
いつまでも寝てる、ということではなく、ちゃんと起きるのだがしばらくぼんやりしているのだ。その時の暖かく無防備な千鶴がかわいくて沖田は好きだった。起きる瞬間のぼんやりした千鶴、直後の妙に素直な千鶴を味わいたくて最近の沖田は千鶴を置いて一人でベッドを出ることはなかった。
「今日もかわいいね」
「ありがと……ござ……ま……す……」
会話の内容をわかっているのかいないのか……。意識がはっきりしているときだったら真っ赤になって言葉につまっているだろうに、素直に礼をいう千鶴が面白くて沖田は胸の奥で小さく笑った。
「僕はどう?」
「かっこいい……です……」
深く考えずにからかい半分で聞いた言葉に、ストレートに返事をされて沖田は目を瞬いた。
「え?僕?」
「かっこ……いいで……す……」
千鶴はそう繰り返すと、沖田の腕の中にさらに深もぐりこんで再び眠りにつこうとした。
いつもならそこで沖田は千鶴を起こすのだが、今日は不意打ちの千鶴の言葉に柄にもなく動揺してしまって、そのまま彼女を抱え込む。
寝ぼけて言っているだけだとは思うものの、なぜか耳が熱くなる。嬉しいような照れるような……。
こんな気持ちのまま温かい彼女を抱きしめていると、なんだかまずいことになりそうで、沖田は名残惜しげに彼女の下から自分の腕をそっと抜いてシャワーを浴びに、部屋に備え付けてあるバスルームへとむかったのだった。
「もう追手はまいたみたいだから、今日は場所を移そうか」
海辺の旅館に泊まって二泊目の朝、沖田が朝食を食べながらそう言った。
味は全然しないものの、千鶴も一口二口と頑張って食べる。要は栄養をとればいいのだ。人間の血が一番おいしく栄養があるとしても、普通の食糧からでもある程度の栄養は摂れるはず。
千鶴はそう考えて食欲がなくてもできるだけ食べるようにしていた。
時々全身の血が泡立つようになり、目の前が真っ赤になる時がある。毛穴のすべてから毒を注入されているように全身が痛み、気が狂うような……。
千鶴にはなんとなくそれが血を求める発作だということが分かっていた。今は一日一度あるかないかくらいだし、発作が起きている時間も1分くらいと短いが、完全に変異してしまったらきっともっとつらいのではないかと薄々感じる。
普通の食事を摂っていれば、発作の頻度や程度も軽いような気がするので、千鶴は頑張って食事をとるようにしていた。それに、千鶴が食事をすると、沖田も安心した顔をする。
千鶴は焼き鮭をつつきながら沖田を見た。
「そういえばだれも襲ってきませんね……。かなり遠くにきましたし……。最初の時はなぜあんなにすぐに追ってきたんでしょう?」
「君のカバンの中に携帯電話でもはいってたんでしょ、多分。持ち物全部あそこに置いてきたからね」
そうか……。と千鶴は思い当たった。確かに千鶴の携帯にはGPS機能がついていたし、それに綱道のことだ。ほかに千鶴の持ち物にこっそり発信機くらいつけるだろう。なんといっても今のところ唯一の適合者なのだし。
「これから君が完全に変異するまでまだ2週間くらいあるし、綱道の情報をあつめて返り討ちをする計画もたてないと、だし。ころころ居場所をかえるのは今日で終わり。この宿を出たら食糧やらなんやら買い込んで隠れ家に移動しよう」
「隠れ家?最初の日に行った3階たてのビルですか?」
「あそこはもう見張られてるよ。それに窓全部割られたし」
あーあ、土方さんに怒られそう……。と苦笑いをしている沖田を、千鶴は不思議そうに見上げた。
「土方さん?」
「20年後の未来に対羅刹の反抗勢力組織があるんだよ。そこの副長やってる人。最初の日に行った三階だての家はその人が小さい頃の家で、これから行く隠れ家もその人の家の別荘なんだって。20年後の時点で土方さんは20代後半で、その人が5歳くらいの時から両方の家はあったっていう話だから、僕が過去に跳ぶことになった時、身を隠すように使わせてもらえることになったんだ」
「……?でも、誰もいませんでしたよ?」
「この年は土方家はお父さんの仕事の関係で海外で生活している時期らしいよ。だからみんな帰ってきたら家がぼろぼろで驚くね」
くすくすと心から楽しそうに笑う沖田を、千鶴は呆れて見た。普通なら「申し訳ない」と、思うだろうに……。
「微妙な顔してるね。いいんだよ、あの人は。殺しても死なないくらいなんだからちょっと家がふっとんだくらいなんでもないと思うよ。なんだか君はそのささやかな胸を痛めてるみたいだけと」
そう言う沖田の視線が、千鶴の顔から下がって胸のあたりをちらっと見る。
千鶴は真っ赤になった。
「なっ!!さっささやかっ…。お、沖……!!」
「ぶっ!あっははっは!わかりやすいね!君って!!」
言い返そうにも何を言っても上げ足をとられて意地悪を言われそうで、千鶴は赤くなったまま黙り込む。
そして溜息を軽くついてから、まだ笑っている沖田の整った顔を見ながら味噌汁に飲んだ。
『変異したら殺す』。
最初に沖田から言われた時は恐ろしくて怖くて。
でも今は沖田のその言葉が、どこか千鶴の救いになっていた。父の事や会ったことのない兄のこと、これからのことを考えると不安で不安でどうしようもなくなる。特に発作の後は……。適合者とは言っても自分もあの羅刹たちのように血に狂わないとは限らない。理性をなくして獣のように他人に襲い掛かるようになるのでは……。そう考えたとき、『でも沖田さんが殺してくれる』と考えると気が楽になる。
完全に純血の羅刹に千鶴が変異したら、沖田は千鶴の血をとって彼女を殺し、その血と一緒に未来に帰ると言っていた。ということは自分が醜い化け物のまま生きながらえることはないのだ。
それに、綱道を殺す、とも言っていた。もし綱道がいなくなるのなら、たとえ千鶴が死にきれなかったとしても『血のマリア』として利用されることはなくなるだろう。素晴らしい自己修正能力のある純血の羅刹が自殺するのはむずかしいかもしれないが、でも自分で自分を殺すことぐらいなら理性があるうちにきっとなんとかできる。
今の千鶴にできることは、後の世のために自分の血を沖田に渡すことと、死ぬことだけだった。
「じゃあ行く?」
にっこりと笑って自分を見る沖田の顔を千鶴は見上げる。
最初の時とは違い、瞳の色がとても柔らかく、千鶴を見る目も優しい。
けれどもこの人は、きっとこんな風に優しげげに笑いながらも自分を殺すのだろう。
千鶴はそれが嬉しいのか寂しいのか、もうわからない。
頭を軽く振ると、彼女はゆっくりとうなずいて席をたち、沖田の後ろについて歩き出した。
ついたところはかなり山深いところにある、煉瓦づくりのがっしりした山荘だった。
すっきりと晴れた空が気持ちいい。
沖田が、わー!新しいなぁ!、と驚いている。20年くらいびくともしなさそうな頑丈な作りで、きっと沖田のいた時代には相当古くなっているのだろう。しかし今はまだ真新しく温かいオレンジ色の建物だった。
沖田と一緒に買い込んだ荷物を山荘に運び込みながら、千鶴は山の新鮮な空気を吸い込んだ。
山荘の後ろはなだらかな丘になっていてそのまま山に続いている。前にある舗装されていない道は山荘で行き止まりになっており、確かに『隠れ家』としてはぴったりだ。
一通り荷物を運び終わると、沖田がにっこり笑って手を差し出した。
千鶴がキョトンとしていると、彼は「ほら」と言ってさらに促す。
「家のまわりの様子を見に行こう」
沖田が手を差し出している意味がわかって、千鶴は躊躇した。変若水のウィルスのこともあるし、そもそも……手をつなぐような関係ではないし……。
沖田はそんな千鶴を見て、苦笑いをして溜息を軽くついた。そして強引に自分から手をとる。
「……君は考えすぎなんだよ、いろいろと」
二人で手をつないで山荘の後ろのなだらかな丘をのぼると、景色が大きく開けていた。
広い空とはるか遠くに小さく街が見える。そして足元には小さな白い花がたくさん咲いていた。
「へぇ、僕のいたころはこんなに広くないし花なんか咲いてなかったなぁ」
大きな石に腰掛けて千鶴は丘から景色を眺めた。
空気が静かで、かすかに鳥の泣き声がするだけ。
千鶴は久しぶりに心が落ち着くのを感じた。
生きる死ぬという経験を潜り抜けてきたせいか、自然の美しさが心にしみいる。
沖田は千鶴から少し離れたところでしゃがみこんで何かをしている。
「ほら」
しばらくたってからそう言って沖田が千鶴に差し出したのは、白い花を編んで作った花冠だった。千鶴が大きな目をさらに大きくして沖田を見る。
「これ……、私に……?」
「ううん、違う。自分用。どう?僕に似合う?」
そう言って花冠を自分の頭にのせて悪戯っぽい笑顔で見降ろしている沖田を、千鶴は目をぱちくりさせて見上げた。
2人で無言で見つめあって……。
そして二人同時に吹きだした。
「あっはっはははは!千鶴ちゃんの顔!!」
「おっ沖田さんだって……!でも、似合いますよ、花冠……!」
「自分用のわけないでしょ。ほんとにもう。君にだよ!」
まだ笑いの残った顔で沖田はそう言うと、自分の頭にあった花冠を千鶴の頭に乗せる。
まだ千鶴はくすくすと笑いながら、「似合いますか?」と言って沖田を見上げた。
沖田は返事をしなかった。
一瞬真顔になり、千鶴を見降ろしている沖田の緑色の瞳の色が濃くなる。
そのまま彼の端正な顔が近づいてきて……。
「だっだめです!!うつります……!!」
キスされる!!と思った千鶴は思わずそう言って顔をそむけた。
至近距離にあった沖田の睫が、瞬いた。そして瞳が楽しそうに煌めく。
「なんで?何されると思ったの?」
沖田の言葉に、千鶴は冷や汗をかいて真っ赤になった。
かっ勘違いだったのかな……!?
「キ、キス……?」
「うん、そうだけど。キスくらいじゃうつらないよ。それに綱道もまだ人にうつす段階じゃないって言ってたし」
よかった!イタイ勘違いじゃなかった……!と千鶴はほっとした。
「でっでもわかりません。うつるかもしれないし……!沖田さんには未来に待っている人がいますし、そんな危険を冒すわけには……!」
沖田は呆れたように体を起こして髪をかき上げた。そして千鶴の座っている大きな石の横に座る。
「僕は、軽いキスを信愛の情をこめてちゅっとしようと思ってたんだけどなぁ。なんかすごいディープなのするって期待されてる?」
にやにやとからかうように笑いながら沖田は千鶴に言う。
「かっ軽い……」
恥ずかしい……!!!なんだかやっぱり勘違いしてる女に……!!
赤くなったり青くなったりしている千鶴を、沖田は楽しそうに観察している。そして滑らかな動きで体を寄せると、今度は千鶴が顔を背ける暇もないくらい素早く、唇にキスをした。
唖然としたように口をあけて真っ赤になっている千鶴を見て、沖田は我慢できずに吹き出した。
「ぶっ!!なんて顔してるの……!初めてじゃあるまいし!」
沖田の言葉に返事をせずに、気まずそうに俯いた千鶴を見て、沖田は笑いをおさめた。
「え?まさか……初めてだった?」
千鶴は居心地が悪くてどうしようもなかったが、小さくうなずいた。
「ご、ごめんなさい……」
沖田はしばらく黙って千鶴を見ていたが、小さく溜息をついて言った。
「謝ることじゃないでしょう。どっちかっていったら僕が謝らないと」
何を言えばいいのかわからなくて、赤くなったまま千鶴が黙り込んでいると、沖田がぼつんと言った。
「じゃあさ、僕が知ってる……20年後の君は…『血のマリア』は……」
沖田はその先は言葉にせずに呑みこんだ。胸の奥からどす黒いものが渦巻いて体全体を染めていくのを感じる。
これまで感じたことのないくらいの憎しみを綱道に感じる。
隣で突然黙り込んだ自分を不思議そうに見ている千鶴を、沖田は初めて見るような目で見た。
ずっと、小さいころから悪魔のように教え込まれてきていた『血のマリア』。
自ら変若水を呑み、そして数多くの男を誘惑して破滅の道へと導いた毒婦。
自らを頂点とした厳格なピラミッド型の組織をつくり、権力と財力を使って世界を思うままに操る……。
沖田は隣の華奢な女性を見る。
きっと沖田の知っている20年後の『血のマリア』も、二十歳の時はこんな感じだったのだろう。男とキスなどしたこともなく、純粋に父を慕って。そして多分、知らないうちに変若水を飲まされた。突然の自分の体の変化や嗜好の変化を父親に相談しているうちに知らず知らずのうちに薬を与えられ判断力を奪われ、血を与えられ飲まずにはいられなくなって……。
くるくるとかわる表情。ぱっとあたりを明るくする笑顔。潤みがちの大きな瞳は曇りがなく澄んでいる。
突然こんな風に大きく人生がかわったというのに、あたりちらすでもなく、暗くなるでもなく、彼女はしなやかに何度も立ち上がろうとする。
今の自分にできる最善を探して。
たとえそれが自分の命を失くすことだとしても。
沖田は、花冠を頭にのせて自分を見ている千鶴から目をそらした。そして彼女の手をとり立ち上がる。
「家に帰ろう」
自分の使命は忘れてはいない。
彼女を殺すために、時間をさかのぼるという無茶をしてきたのだ。
たくさんの仲間たちの協力と犠牲の上に、タイムトラベルの成功がある。そして自分が任務を全うすることが人間の未来を救うことにつながるのだ。
沖田は千鶴の手を握る力をぎゅっと強めて、前をまっすぐに見た。