【HeartBreaker 5】
ゆっくりと瞼をあけると、白い天井に白い蛍光灯が目に入ってきた。
頭がなんだかぼんやりして何も考えられない。千鶴は瞳を開けたままぼんやりと周りを見渡した。
ここは……覚えがある。
会社だ。
社長室の隣にある父の宿泊用の部屋。
千鶴はすべてを一気に思いだし、勢いよく起き上った。
『血のマリア』のこと、父綱道のこと、そしてさらわれた自分、最後の瞬間に見た沖田の驚いた顔……。
その時社長室へと続くドアが開き、綱道が入ってきた。千鶴が起き上っているのを見て驚く。
手に持っていた中身の入ったワイングラスを置いて駆け寄ってきた。心配そうな顔は千鶴がさらわれる前と同じで……。
「起き上ったりして大丈夫なのか。どこか痛いところは?」
そう言って千鶴のおでこに大きな温かい手をやり熱をはかる。千鶴は綱道のあまりの変化の無さに一瞬とまどった。沖田と一緒に居たときに聞いた話は夢だったのか……。あの時見た羅刹も、何かの間違い……?
「父様……。私なぜ……?」
「連絡があったんだよ。お前を無事保護したってね。お前がさらわれたと聞いて個人的に懸賞金もつけて情報を集めていたんだ」
本当に無事でよかった……。綱道はそうつぶやいて、千鶴を優しく抱きしめた。
小さいころから何度も抱きしめられた胸。父の匂い……。綱道は千鶴が幼いころ、怖い夢を見たときにいつもそうしてくれたように、優しく彼女の髪をなでてくれた。
千鶴はこれまでの緊張の糸が解けたのか、突然涙がこぼれだす。しゃくりを何度もあげながら綱道の白衣にしがみついた。
しばらく千鶴が落ち着いて泣き止むまで、綱道はそのままでいてくれた。
ときおり思い出したように千鶴がしゃくりをあげる声しか聞こえない、静かな時間……。
「落ち着いたかい?」
綱道の優しい声に千鶴は小さくうなずいた。
「ほら、気付けのかわりにこれでも飲んでごらん。お前が前に好きだと言っていたワインだよ」
綱道が差し出したグラスに、千鶴は思わず吹き出した。
千鶴が20歳になった夜、父と湖の傍にある別荘で二人でお祝いをした。そして初めてアルコールを飲んだのだ。
それが赤ワインで……。
正直おいしいとは思えなかったが、期待するように見ている父の気持ちを裏切りたくなくて、千鶴はおいしい、と喜んで見せたのだ。
綱道はとても喜んで何度も千鶴にすすめた。
今日も、不器用な人だから、きっと何か千鶴が好きな物を……と一生懸命考えてくれたのだろう。
ほとんど食欲はなかったが、千鶴は申し訳程度にワイングラスに口をつけた。
と、ふっとなんだか嗅ぎ慣れた懐かしいような匂いがして、千鶴は誘われるようにさらにワインを口に含んだ。
これまで何を食べても飲んでもまるで味のない紙を食べているようだったのに、これは……。口の中にふわりと匂いが広がり喉を滑るように落ちて行く。
おいしい…
千鶴は夢中でワインを飲んだ。アルコールにはそれほど強くないから一息に飲むことはできないがそれでもかなりの速さで飲み干してしまった。
綱道は千鶴が全部飲むのを嬉しそうに眺めている。
飲んだワインが胃におさまり、そこが温かくなる。そしてこれまで冷え切って固まっていた体全身にワインのエネルギーがまわり力が満ちてくるように感じた。頭も雲が晴れたようにすっきりする。
それと同時に千鶴は、はっと思い出した。
「…っと、父様……!大久保のおじさまは……?」
千鶴が綱道の顔を見上げると、綱道は鎮痛な顔をして、ゆっくりと首を横に振った。
「心臓を一発……だった。千鶴、お前は大丈夫なのか?何もされていないか?侵入者も捕まえてくるように言ってあったんだが、取り逃がしたと報告があった。いったいそいつはなぜあんなことを……?お前をさらったりしたんだい?」
「父様……!!!」
綱道の言葉に千鶴は堰を切ったように話出した。
大久保を殺し自分をさらった男は20年後の未来から来た、と言っていること、銃を持っていること、人を平気で殺すこと、そして……一か月後に千鶴を殺すという事……。
「……一か月後……?」
綱道の眼がキラリと光ったような気がした。いつもの父親のまなざしではない何かを感じて、千鶴はふと口をつぐむ。
「なぜ一か月後なのか、その男は言っていたのかい?」
「……」
頭の片隅で、うるさいくらいのアラームの音がしているような気がする。けれども千鶴は自分を見つめる綱道の強い瞳に射すくめられたようになり、口を開いた。
「……羅刹……羅刹と言う化け物を……私が作り出さないように……」
「お前が羅刹を作り出す?」
羅刹とは?とは綱道は聞き返さなかった。千鶴は綱道が周りの風景から浮き上がるように見える。そのままどんどん大きくなり千鶴を呑みこんでしまうような……。
「私が……私の変異した遺伝子で、ウィルスを安全に人にうつすことができると………」
「やっぱりそうか……!!!!」
綱道は突然叫んだ。
千鶴はその声に驚いて、目を見開いて綱道を見る。綱道は瞳孔が開いたような、何かに取りつかれたような、高揚した感じで千鶴に勢いよく話しかけてくる。
「その男は20年後から来たと言ったな?それは……それは本当かもしれないぞ!やはりお前は成功するんだ!」
父の言葉に、千鶴は冷水を浴びせられたように冷たくなった。
お前は成功するんだ……。
沖田が言っていたこととつながる。千鶴は全身が知らず知らず震えだすのを感じた。
父様は……、父様は、沖田さんが言っていたとおり……?
バン!!
突然天井から大きな音共に何かが降ってきた。
「きゃあ!」
「なっなんだ!!」
「おっと、動かないでよ。綱道コーポレーションの社長さん」
艶のある、笑みを含んだからかうような声…。
「沖田さん!!」
沖田はいつもどおり黒のタートルにブラックジーンズ、カーキ色のナイロンパーカーに茶色のワークブーツ姿で消音機付の銃を綱道の心臓にピタリと狙いを定めていた。
ベッドの上で身を乗り出している千鶴と目が合うと、にっこりとさわやかに微笑む。
「おはよ。僕がいなくてもよく眠れたみたいだね」
その時隣の社長室へと続く扉が開き、千鶴も顔を知っている綱道の秘書の女性が顔を出した。
「社長?何かすごい音が……!!」
秘書は沖田が銃を構えているのを見ると息を呑んだ。綱道は油断なく沖田を見ながら女性に言う。
「しばらく入って来るんじゃない。外に『兵隊』達を武装して待機させておけ」
秘書は、はっはいっ!と裏返った声で叫ぶように返事をすると、バタンを勢いよくドアを閉めて出て行った。
千鶴は、先ほどの綱道の指示をなんとも思っていないように飄々としている沖田を、逆に心配するように言った。
「沖田さん……どうしてここに…」
「君をまたさらいに来たに決まってるじゃない。このまま綱道に渡して羅刹製造機になられちゃ、僕がなんのために未来からきたのかわからないでしょ」
その時沖田と千鶴の会話を聞いていた綱道が突然小さく笑い出した。
ふふふ……、という声からだんだんと、まるで気が狂ったような笑い声になっていく。
千鶴は唖然として、沖田は冷たい目で、綱道を見た。
「すばらしい!すばらしいぞ!今の段階では羅刹のことを知っているのは私と一部の人間だけのはずだ。それを知っているということは……。タイムトラベルだと?その技術や研究もきっとこれから生まれる羅刹の人間を超えた知能から生まれたものなのだろう?やはり……やはり羅刹は世界を支配するのだ!!」
「そうはさせないよ。そのために僕がきたんだから」
沖田の冷たい声が高揚した綱道の言葉をさえぎった。
綱道と沖田のにらみ合いに、千鶴は思わずベッドから降りて言った。
「と、父様!あの、羅刹はね、確かに優れた能力を持ってるけど、でもそのエネルギーの源は……羅刹の食糧はね……人間の…」
「血だろう?」
綱道は、何をいまさら、という顔をして千鶴の言葉を引き取った。
知っていたのか……。知っていたのに羅刹を作ることをあきらめようとはしなかったのか……。千鶴は愕然とする。
「お前もおいしそうに飲んでいたじゃないか」
綱道が続けた言葉に千鶴は目を見開いた。
「え?」
「さっき飲んだだろう?あれは半分は赤ワインだが半分は人間の血だ」
千鶴は青ざめて立ち尽くした。
胸の奥からすっぱいものがこみあげてくるのを感じる。ガクガクと震える手で、彼女は自分の喉を抑えた。
信じられないくらいおいしいと感じた……。それまで何を食べても味がしなくて喉につっかえるように感じて…。
でもあのワインは……。でもあのワインは体中にしみわたるような……。
「力がみなぎるようだろう?人間の血は栄養が豊富なんだ。まだお前は完全に変異をしているわけではないから、生の血のままは飲みにくいだろうとワインと混ぜてあげたんだよ。あの量で人の一日分の食事と同等のエネルギーを得ることができる。まだ人にうつすことができるほどウィルスが安定してはいないだろうが、それもあと少しだ。それに薬もそろそろ切れたろう?新しいのを渡してやろう」
綱道は、銃に狙われていることなどすっかり忘れているようにべらべらとしゃべりながら自分の執務机と歩いていくと、ひきだしから見慣れた薬を取り出した。
「それ……」
「いつも眠るために飲んでいただろう?羅刹は太陽に弱い。夜に眼が冴えてくるようになっていないか?昼間眠くてしょうがないことはないか?徐々に体の変化が起こってくるころだ。本当は自然のまま夜に起きているのがいいんだが、今の段階ではまだどっちつかずで難しいだろう。薬で眠って……」
綱道はとりつかれたようにしゃべりながら、千鶴の方へと歩み寄ってきた。
「い…いや!いや!!」
千鶴は後ずさりをして、悲鳴のような叫び声をあげた。
「来ないで!!父様……やめて!」
「動かないで」
ぶしゅっという音とと総司の静かな声が同時だった。綱道の手にあった睡眠薬の束が粉々に飛び散る。
綱道は薬を持っていた手を反対の手で押さえて憎々しげに沖田を見た。そして次に綱道は困ったような顔をして千鶴を見る。
「どうした。おいで千鶴。大丈夫だ。羅刹の生態は研究済みだからお前につらい思いはさせないよ。人を羅刹にするのだって嫌がる人を無理やりするわけじゃない、希望する人を羅刹にしてあげるだけだ。いい事なんだよ、これは。お前は感謝されて…」
「適合者じゃない人間をどうやって羅刹にするか、この子は知ってるの?」
沖田の冷たい声が、綱道の言葉をさえぎった。
沖田の言葉に千鶴は綱道の顔を見る。綱道はこれまで見たことのないような表情で沖田を睨みつけていた。千鶴から……『血のマリア』から人にうつす、その感染の仕方にも何か問題があるのだろうか?
千鶴は綱道に問いかけた。
「……父様……?」
千鶴の促すような言葉に、綱道はしぶしぶ口を開く。
「……変若水のウィルスは……とても弱くて、空気にしばらくさらされると死滅してしまうんだ。熱さにも低温にも弱い。つまり……とても感染力が低いんだ。確実に感染させるには……、その、AIDSウィルスを考えてもらえればわかりやすいと思う。AIDSがどうやって世界中に広まったか知っているだろう?変若水のウィルスはAIDSよりも弱くて……うつりにくいんだ」
そう言って、綱道はさらに慌てたように説明を続けた。
「いやっしかし大丈夫だ。お前が嫌な思いはしないようにちゃんと意識がないようにするから大丈夫だよ。それにいい薬もある。それを飲めばなんだか幸せな気分になることができる素晴らしい薬だ。純血の羅刹であるお前のウィルスが一番正常で活発だが、それをうつしてもらった者も他の人間にうつすことができるんだ。まぁどんどん血は薄まっていってしまって知力も体力も純血から遠くなればなるほど劣っていくし羅刹のマイナスの特徴しか最後には残らないできそこないになっていってしまうが……。だから直接お前からうつす人間は厳しく選ぶし数も限らせるつもりだ。エリートとして世界の幹部になる人間たちだからな。雑魚や兵隊の羅刹を増やすのはそういった者たちにやらせるつもりだよ。そういう方法でちゃんと我々がバックアップをするから、お前は何も不安に思うことはないんだよ」
千鶴はもう胸が痛すぎて言葉もなかった。
泣くつもりもないのに、涙が後から後から頬を伝っていくのがわかる。視界の端で、沖田が無表情のままこちらを見ていた。
彼は知っていたのだ。『血のマリア』がどんな方法で羅刹を増やしていったのか。だからあんなに軽蔑した…嫌悪したまなざしで千鶴を見ていたのだ。触られるのすら嫌がって……。
父と慕っていた男が、こんなことを考えているということも知らずに、自分はのうのうと生きてきたのだ。千鶴はなんだかおかしくなった。こらえきれずに、くすくすと笑いだしてしまう。止まることなく流れ続けている涙をぬぐいもせずに、千鶴は笑い続けた。
「千鶴ちゃん」
総司の平坦な声が千鶴の笑いを止めた。焦点の合わない目で沖田を見ている憔悴した様子の千鶴に、沖田は手を差し出した。
「おいで」
千鶴は戸惑ったように沖田の手を眺める。そして綱道へと視線を移す。
しばらくの間沈黙が部屋を支配していた。
沖田も綱道とも一言もしゃべらず動かずに千鶴を見つめる。
千鶴はゆっくりと綱道から視線をはずすと、まっすぐに沖田の翡翠のように輝く瞳を見つめた。
沖田もしっかりと見つめ返す。
そして、千鶴は沖田の方へと足を進めた。