LOVE STORY  1




第一話 




ドキドキと痛いくらい打つ心臓の音を意識しながら、千鶴は月明かりの下、人気のない屋敷へ向かって走った。
痛い位の寒さのせいで空は澄み、まるで夜空に穴をあけたような満月がくっきりと見える。
広い敷地の反対側からは、かなり遠いにもかかわらず盛大な茶会のざわめきが聞こえてくる。このあたりには誰もいないのは確認済みなのに、誰かに見られているのではないかという焦りが千鶴の足を速めた。
思った通り今日はいつもは居る監視の武士がいない。他藩の殿様や家老を大勢呼ぶ今夜の茶会で、例え別棟の使われていない屋敷の前だとしても武骨な武士の見張りが突っ立っているのは見栄えが悪いと、容保様が言ったとうわさに聞いている。
容保様の敷地の片隅にあるこの小さな建屋は、正面玄関は厳重に鍵をかけられているが、その横の小さな通用口は開いているのだ。
 千鶴は素早く左右を確認して建物の中へ滑り込んだ。
まだ肌寒いと言っていいくらいの気候なのに、千鶴の額にはじっとりと汗がにじみでていた。緊張でガクガクと震える脚に力を入れて、千鶴はわらじを履いたまま板張りの床の上へあがった。昔は普通に人が暮らしていたのだろうが、いつのころからか――千鶴の推測が正しければ多分二年前から――この屋敷は牢として使われており、各部屋の間仕切りも畳も取り払われている。
 満月を見ながらの茶会が催されている夜だけあって、雲一つない見事な満月が空にかかっていた。
薄暗く不気味な牢屋敷にも、満月の冴え冴えとした光がさしこんでいた。吐く息が白く浮いて暗闇の中に溶けていく。その中を千鶴は、痛い位打つ心臓の音を意識しながら周囲の気配に耳をそばたて、建物内へと進んでいく。
 暗く湿気った牢の中には灯りらしきものは無く、中はよく見えない。が、獣のような息遣いや時折聞こえるうめき声で何かがいるのはわかった。
多分薫が文で教えてくれた『羅刹』なのだろう。塗り壁に鉄の鎖でつながれて、かつては日々の実験に使われていた……
すえた臭いが鼻をつき千鶴は吐き気を我慢して息を止め、足早に牢の前を通り過ぎた。目指すは建物の一番奥にある実験室だ。
そこは一段高い板敷になっていた。千鶴はそっと襖をあけ中をうかがい、誰もいないことを確認すると部屋の中へ入る。そして部屋の隅に置いてある文机と隣にある書棚に近寄った。
満月の光が入るように窓を少しだけ開けて、千鶴は膨大な量の書物が収められた書棚を見上げ、文机の上においてあった紙をまとめた台帳のようなものを手に取る。パラパラとめくると『綱道』と言う名前が目に飛び込んで来た。

……!父様だ……!

 思わず食い入るように紙を覗き込んだ瞬間。
千鶴は何かの気配にはっと後ろを振り向いた。
部屋の隅、薄暗い角の辺りに何か―
千鶴が息を止めてそこを見ていると、暗闇の中にゆっくりと赤い光が二つ灯った。何なのかわからず、千鶴は目を眇める。

……目……!

 分かった瞬間に千鶴が飛びのくのとその塊が飛びかかってくるのとが同時だった。
「きゃああ!」
思わずあげた叫び声。飛びのこうとした千鶴が、床板のはがれたものに足をとられ尻餅をついてしまったのだ。その塊は人間離れした速さで先程前千鶴が居たところめがけて飛びかかった。
ガシャン!と激しい音がして書棚とそこに置いてある書物や筆、筆記具、その他よくわからない実験用具の様なものが飛び散る。頑丈な作りに見えた書棚は、粉々に壊れて中に立てかけてあったものが辺りに散乱していた。
転んだおかげであの化け物の一撃を防ぐことができた。
千鶴は、息を荒げながら立ち上がる。そして震える手で腰を探った。
そこには父である綱道からもらい、江戸からここ京までの長旅の間千鶴を守ってくれた小太刀がある。千鶴はそれを抜くと、書棚からゆっくりとこちらに向き直った『それ』に向かって構えた。
 窓から入る月明かりで、千鶴ははじめて『それ』を見ることができた。

……髪が……白い…目も赤いなんて……

虹彩も白目もない単調な赤い色の瞳が、闇の中で光っている。口元はだらしなく開き、よだれのようなものがつたっていた。
姿かたちも着ているものも、人間の男……だと思う。しかし前のめりになっている姿勢も、理性を全く感じない表情も、人間というよりは獣……それも狂った獣の様だ。
千鶴は小太刀の柄をギュッと握った。
小太刀どころか、大ぶりの日本刀でも勝てないかもしれない。男が突っ込んだ書棚はバラバラで、跳躍力も獣の様だった。
 千鶴は瞬きもせずバケモノを見つめながら、唇をぎゅっと噛み、小さく首を横に振った。
このままこの化け物に嬲り殺されるわけにはいかない。はるばる江戸から京まで単身やってきたのは、こんなところでこんな化け物に殺されるためではない。行方が分からなくなった父と兄を探すためなのだ。
 目の前の化け物が、ゆらりと揺れる。
「くくくくく……」
何の声かと思ったが、それは化け物の笑い声だった。妙に甲高い酔っぱらいのような声。千鶴が勝てないのを笑っているのか。千鶴がぐっと眉尻をあげて化け物をにらみつけると、『それ』は再び腕をのばして、今度はゆっくりと千鶴に近づいてきた。
千鶴は後ずさりをしたが、すぐに背中に壁がつく。
後ろは壁、目の前は化け物。
大人しくやられるくらいなら、と千鶴は一歩前に踏み出した。そして小太刀を振り上げて斬りかかる。
千鶴の一太刀はあっけなく化け物に振り払われた。軽く腕で払っただけなのに、千鶴は吹っ飛び壁にぶち当たる。
「うっ…!」
一瞬息が止まり、視界が霞んだ。化け物が狂ったように笑いながらとびかかってくるのが見えて、千鶴はもう駄目だと思いながらもかろうじて小太刀を構えた。かなわないにしても抵抗もせずに殺されるままなんて嫌だ。
白く弾けてしまいそうな意識を必死につなぎとめて、千鶴が小太刀を振りかざしたとき―

 千鶴の耳に、カチャリと硬質な音が小さく聞こえた気がした。
そして直後に目の前が真っ赤に染まる。

 千鶴の目の前には、後ろから心臓を一突きされた『羅刹』があった。
『羅刹』の胸から突き出ている銀色の刀が月の光を反射して、血の隙間から怪しく光るのを、千鶴は茫然と見つめる。
そして一瞬後にはそれは抜かれ、支えがなくなった『羅刹』は崩れ落ちる様にして大きな音とともに床に転がった。
「っ…!」
血まみれの体が千鶴の方に転がり、千鶴は声にならない悲鳴を上げて体を起こした。床に転がった羅刹の背中からは禍々しい黒いシミがどんどん着物に広がっていく。
 そして倒れた羅刹の向こうに、足が見える。
先ほどまでは羅刹の体のせいで見えなかったが、どうやらこの人が羅刹を殺して千鶴を助けてくれたらしい。
千鶴は震える体を起こして、その人を見上げた。

 あちこちにはねた髪。着崩した着物に二本差し。冬なのに驚くほど薄着だ。
そして羽織っている羽織は京に来たばかりの千鶴でも知っているだんだら模様……
力を抜いて立っているようなのに、何かあれば瞬時に動けるような隙のない立ち姿。結ってはいるものの緩やかに束ねただけの柔らかそうな髪は、彼のすっきりした額にかかっている。月明かりのせいで陰影が濃く見えるその顔は若い男性で、整っていた。少し大きめな瞳も柔らかそうな髪も、普通の人よりは色が薄くそれが彼を華やかに明るく見せている。
 しかし今千鶴を見ている彼の表情は、一月の夜の空気よりも冷たかった。助けてくれたのかと千鶴が礼を言おうとしたとき、千鶴を見下ろしているその男の唇が動く。
「……こいつが君を殺しちゃうまで黙って見てれば、僕たちの手間も省けたのかな?」
水の珠が転がる様な艶やかな声。
しかし彼の言っている意味がわからず千鶴は目を見開いたまま固まっていた。すると実験室のさらに奥、千鶴が気づいていなかったところから襖を開けて、もう一つの静かな声が聞こえてくる。
「さあな。……少なくとも、その判断は俺たちが下すべきものではない」
「え……?」
その声の内容と、暗闇から現れた全身黒ずくめの上に同じだんだら模様の羽織を羽織っている男性に驚いて、千鶴は視線をそちらに移す。
その時不意に、左側からふっと影がさした。
月明かりが入り込む窓側に三人目の誰かの姿が見える。
カチャリという鯉口を切る音と共に、スラリと千鶴の目の前に白銀にきらめく刀の切っ先がつきつけられた。
そして現れた第三の男は、ちっといまいましそうに舌打ちをすると、千鶴に冷酷に告げた。

「いいか、逃げるなよ。背を向ければ斬る」

 

 血まみれの化け物の横で、最初に現れた男がまるで世間話のように千鶴に話しかけてきた。
「君さ、その小太刀であの化け物をどうするつもりだったの」
「……」
唐突な質問に、千鶴が言葉に詰まっていると、その男はさらに続けた。
「最初に君があの羅刹に向かって斬りかかるのを見たとき、あの子頭大丈夫かなって思ったんだけど、最後に僕が助けるちょっと前にも、小太刀を構えて何かしようとしてたでしょ。あの化け物相手にどうするつもりだったの?その小太刀じゃあたとえ力士でもあの化け物に致命傷はあたえられないよね」
「……目を……」
「目?」
「あの化け物の目を狙うつもりでした」
男の目が見開かれる。月明かりの下、間近でそれを見た千鶴は、その男の目がとても薄い緑色だということがわかった。
緑の瞳の男は千鶴の言葉に楽しそうに笑った。
「君みたいな子は初めて見たよ。大の男でもアレを見たら腰抜かすって言うのに…!」
男は笑いながら懐から縄を出す。
「手を出して」
千鶴が手を出すと男は「違う、両手。手首を合わせて」と言い、千鶴の手首を掴んで縄で縛りだした。
「そんなに無茶な子なら屯所に連れて行く途中で逃げようとするかもしれないからね」
 その時、緑色の瞳が『あれ?』というように少しだけ見開かれたのに千鶴は気づいた。
そして、少し首をかしげて探るように千鶴を見る。
「君さ……」
言いかけた彼の言葉は、後ろからかけられた声にさえぎられた。
「総司!ここは化け物がうようよしていて危険だ。早く出るぞ」
総司と呼ばれたその人は、その言葉に千鶴の手をひっぱり立ちあがる。それ以降は何も聞かれなかったが千鶴には彼が何を言おうとしていたのかがなんとなくわかってしまった。
袴をはいて男装はしていても千鶴はもう世間では嫁に行ってもいいくらいの年齢なのだ。江戸から京への道中は泥や炭で顔や手を汚し、胸にはサラシ、細い腰には別の布を巻いて気を使っていたが、今夜は誰に会うわけでもなしと服装と髪型のみ男装をしていたが他は素のままだった。手首の細さや近くで顔を見られたことで、気づかれてしまったのかもしれない。
このままこの人達の屯所に連れ去られてしまって大丈夫なのかと千鶴は唇を噛んだ。
彼らは新選組なのは間違いない。屯所というのは新選組屯所のことだろう。
男ばかりの人斬り集団。
総司という人に女子だとばれてしまった今、そんなところに連れ去られ無事に帰してもらえるとは思えない。
 だが……
千鶴は、縄を持ちさらに自分の手首をがっちりと掴んで大股で歩いている隣の人を見上げた。
さきほど羅刹をたった一突きで刺殺した腕。千鶴の手首を掴んでいる手の力。そして彼の冷たい表情―
月明かりの下、彼の緑の瞳は冴え冴えと輝き、前を見つめていた。先ほどの人なつこい笑顔が嘘のようなその表情には、どんな感情も現れておらず『冷酷非道な人斬り集団』という京の噂にぴったりだ。そんな彼を出し抜いてこの状態から千鶴が逃げ出せるとは、どんな楽天家でも思わないだろう。
 彼を見ていた千鶴は、彼の頬に赤い血が飛び散っているのに気が付いた。
さきほどの羅刹の血だ。
千鶴の視線に気づいた彼が、「何?」とこちらをむく。透明かと思う位色が薄い緑色の瞳が千鶴を捕えたとき、千鶴はなぜか背筋が寒くなった。
「あの……血が……」
千鶴が恐る恐る総司の頬を指してそう言ったが、総司は小さく肩をすくめてまた前を向いて歩き出しただけだった。
差し出がましかったのか、言わない方がよかったのかと千鶴が視線を落とすと、自分の手首を掴んでいる総司の手にも血が点々と散らばっているのに気が付いた。

 血を浴びて平然としている彼が新選組を象徴しているようで、千鶴は胸の奥から沸き起こる恐怖に小さく震え、大股に歩く彼に引っ張られながらも必死について行ったのだった。

    
  

第二話 へつづく 




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