君の名は 3
「一体何の用ですか」
その、男にしては小柄な男子生徒は、不機嫌であることを隠しもせずに、部屋に入ってきた総司達にそう言った。
「……」
総司は入口で立ち止まる。一と平助はかまわず無人の委員会室に入って行った。
総司はその小柄な男子生徒を指差した。
「一君、違うよ。僕は女の子の南雲薫チャンをってお願いしたんだけど?」
一は相変わらずの無表情で振り向く。
「風紀委員には南雲という苗字の者は一人しかいない」
平助が首をかしげる。
「んん?総司の気に入った女の子を見せてくれるっていうからついてきたのに、どいうこと?」
三年生三人の視線が集中して、その小柄な男子生徒の眉間の皺はさらに深くなった。
「なんなんですか、一体。斎藤先輩?」
一は静かな蒼い瞳でチラリと総司を見、その小柄な男子生徒に向き直った。
「日曜日に駅前でチラシを配る役目はお前だったな、南雲。総司はそこで女子生徒に会ったと言っているのだが心当たりはあるか」
「ありません」
即答だった。平助と一は顔を見合わせる。
総司は、その小柄な男子生徒を凝視していた。
……似ている。そっくり、と言う訳ではないが、バッと見だったらわからないかもしれない。
十六、七歳くらいで、こんな感じの髪型で、黒目がちの大きい目で、色が白くて、華奢で……という特徴しか、普通は他人のことについては覚えないものだ。その特徴が、総司が日曜日に一緒に配った女の子と今目の前にいる男子生徒はそっくり同じなのだ。
「……君、名前は?」
総司がそう聞くと、その男子生徒は不愉快そうに視線を逸らした。
「南雲薫」
あの子と同じ名前だ。いったいどうなっているのか。
総司は混乱した。一緒に来ている平助と一も同じだ。
「どーいうこと?総司が気に入った子ってこいつ?一緒に日曜日にチラシを配ったヤツなんだろ?」
「そうだけど……こいつじゃないよ」
一が薫に聞いた。
「日曜日のチラシ配りはお前が行ったのだな?学園に同姓同名の者はいるか?」
薫は最初の質問には頷いて、次の質問には首を横に振った。
「家族や親せきは?兄弟はいるのか?」
「家族は四国に住んでいます。親戚もこっちにはいません。兄弟はいません」
「ウソだね。昨日会ったのは確かに女の子だったよ、君じゃない」
総司がきっぱりとそう言い切ると、『南雲薫』はバカにしたように笑った。
「……夢でも見たんじゃないですか?どっちにしても南雲薫と言う名前の人間は俺が知る限り俺一人です。年の近い兄弟もいとこも南雲家にはいません」
平助と一から『一体総司はどうしたのか』というような視線をひしひしと感じて、総司は額を押さえた。
「いやいやいやいや……おかしいよ。君、何か隠してるでしょ。言ってることが本当かどうか学園長の近藤さんに言って調べさせてもらってもいいんだよ?」
薫は総司の脅すような言葉に反発するように口を開いたが、暫く思いを巡らせて考えを変えたのか口を閉じる。そして頷いた。
「どうぞ。そこまで言い張るのなら好きなだけ調べてもらって構わないですよ。それで調べた結果『南雲薫』が俺しかいないとわかったとしても、俺は男からのそういうお誘いは一切お断りなんで、もうこういう呼び出しは止めてください」
「ちょっ…なんだよ、それ。総司が男のお前を好きになったとかそういうこと?」
そう言った平助を、総司は冷たい瞳で見た。
「平助、あんまりバカな事言ってると殺すよ」
薫は嘲笑する。
「勘違いは誰にもあることだと思いますよ。俺としては男から好かれても迷惑でしかないですけどね」
「そ、総司……お前まさかほんとに男もいけるクチだったとかそういう……」
「あるわけないだろ!」
総司は珍しく声を荒げた。しかし一が冷静につっこむ。
「だが事象だけ見るとそういうことだな。日曜日に総司は、この南雲を女と勘違いし気に入った、そういうとだろう?」
「違うって!僕は女の子が好きなの!そういう気持ち悪いこと言わないでくれるかなあ」
「それはこっちの台詞です」
すかさず薫に切りかえされて、総司のいら立ちはつのる。
「〜〜〜!」
総司は『黒い笑顔』と言われる表情を浮かべて、『南雲薫』を見た。
見た目がちょっと似てただけで中身は昨日の子と全然違う。表情も違うし、よく考えれば声も違う。絶対違う人間のはずなのに証拠がない。
総司は舌打ちをすると踵を返した。
「どこへ行く、総司」
「近藤さんのところ。絶対ウソをついてるね」
近藤の許可を得て個人情報を見させてもらった結果は、自信たっぷりだった『南雲薫』の言うとおりだった。
彼は戸籍上もちろん男で、彼の家族は四国に住んでいたおり、こちらでは一人暮らし。そして彼は一人っ子で女の兄弟はいなかった。
「……」
「そ、総司……」
これで総司が男に惚れたことは確定だ。平助は初めて見る人のように恐々と古くからの友人である総司を見た。
「違うって!そういう顔するのやめてくれない?」
「しかし、これで状況証拠は全て固められてしまった。何か他に、あいつが実は女だという証拠でもあるのか?」
「だから、あいつが女なんじゃないよ。昨日のあの子はあんな性格悪くないしもっとかわいかった。もう一人いるんだよ!」
言えば言うほど皆の痛々しいものを見るような目が強くなる。総司はイライラと爪を噛んだ。
何かないか。昨日のかわいい『南雲薫ちゃん』と今日のあのくそいまいましい『南雲薫』が別人だという証拠……
そうだ!
総司は勢いよく立ち上がった。
向かった先は二年A組。薫の教室だ。
二時間目の休憩時間で教室内にいた生徒たちは、突然飛び込んできた学校の有名人三人組に驚いて会話を止めた。ざわざわとしていたクラスがシーンと静かになる。
総司と一、平助は、このスポーツ強豪ぞろいの薄桜学園でも一番強い剣道部で華々しい成果をあげており、全国的に注目をあびているため、この学園では知らない者はいないのだ。
その三人が血相をかえて二年生のクラスにずかずかと入ってきたため、皆は何事かと注視した。
「南雲薫。いる?」
総司がそう聞くと、入口近くに座っていた女子高生は教室の奥で机に座っていた薫を指差した。
総司は皆の視線の中、つかつかと薫に歩み寄ると、ぐいっと手首を掴んで引寄せた。
「きゃあ!」
何事かという女子の嬉しそうな黄色い声。
「総司!」
総司が薫を襲う(性的な意味で)のかと勘違いした、平助と一の慌てた声。
「ちょっ……!なにす……」
抵抗しようとする薫を押さえつけて、総司は無理矢理ひき寄せた。そして抑え込み左手首を持ち上げる。
冬の制服とシャツのせいで見えないことが分かると、総司は今度はブレザーを無理矢理脱がせた。
「きゃあああああ!」
女子の黄色い声が更に高まる。
「総司!待て!落ち着け、ここは教室だぞ!」
「そうだよ、総司!そいつの意思も確かめてやらねーと!」
平助と一の声を無視して、総司は薫を抑え込んだままシャツの袖口のボタンをはずしまくり上げた。
そこには昨日総司がつけたミサンガはなかった。
「総司、やめろ!」
駈けつけてきた一と平助に取り押さえられて、総司は素直に薫を離した。証拠は抑えたのだからもうこの南雲薫という名の男には用がない。
薫は総司の手を払いのけると、ギッと総司をにらみつけた。総司も睨み返す。
「……ミサンガはどうしたの?」
総司の問に、薫は一瞬ポカンとした。
「ミサンガ……」
その反応に、総司は確信した。やっぱりこいつは嘘を言っている。
「昨日、一緒に作って僕が手首に結んであげたでしょ、君の。あの、黒と黄色のヤツ」
総司がそう言うと、薫は一瞬言葉につまった。
「ああ、……あれ。……あんなの家に帰ってすぐに捨てたよ」
「ふうん……黒と黄色は気に入らなかった?なら別の色でまた作ってあげようか?」
ざわっと教室がざわめくのを総司は背中で感じていたが、気にしなかった。薫は総司の言葉のどこかに罠が仕掛けられているのではないかと慎重に答える。
「いらないよ。だから俺は男からプレゼントをもらって喜ぶような趣味じゃないって何度言えばいいのかな。男ならこの学園には俺の他にもたくさんいるんだから、そっちから探したらどう?沖田センパイ」
総司は薫のイヤミは気にならなかった。これで確実だ。
「僕が君に作ってあげたミサンガには黒も黄色も使ってないよ。君はあのミサンガを見ていないことがこれではっきりした。ってことはあの子は当然ながら君じゃなくて、でも君のふりをした君の周辺の誰かってことだ」
決定的な証拠をつきつけられたというのに、薫は動揺していなかった。
馬鹿にしたような笑みを浮かべて総司を見る。
「……知らないな。たとえそれが本当だとしても見つけられなかったらいないのと同じだ」
挑戦的な黒い瞳を、総司の冷たい緑の瞳が見下ろした。
「見つけてみせるよ。必ずね」
「千鶴!」
薫は、家に帰るなり玄関でそう叫んだ。
薫の声に驚いて、千鶴が台所から顔を出す。帰ったばかりなのかまだ島原女子の制服姿のままだ。
「ど、どうしたの?おかえり、薫」
「……」
薫は千鶴の顔を見ると、つかつかと千鶴に近寄り左手首を掴んだ。細い手首の周りには、白に紫とピンクの女子らしいミサンガが燦然と輝いていた。
千鶴は薫の瞳にいらだちが浮かんだことに気が付いた。
「薫?」
「おまえ、これを沖田からもらったのか」
はっと小さく息を飲んだのが千鶴の答えだ。
薫は舌打ちをした。
「……まあいいさ。お前がもう沖田と会わなければいいだけの話だし」
千鶴は、日曜日からずっと頭を占領し続けている人の名前を薫の口から聞いて、驚いた。
今日、薫は総司から何か言われたのだろうか?日曜日は、結局かなりいろいろと総司と話して仲良くなってしまったし、そのあとに薫と会えば流石に日曜日の『南雲薫』とは別人だとばれてしまうだろう。
だけど正直に言えば、千鶴の心の隅には、総司に気づいて欲しいと思う気持ちが確かにあった。南雲薫だけど、日曜日にあったのは南雲薫じゃなくて……
薫には迷惑をかけてるし、総司も騙していることになってしまったが、やはり好きな人には自分を認識して欲しい……
そこまで考えて千鶴は目を見開いた。
す、好き!?
好きとか……好きとかそんなことないよね?
だって会ったのは一日だけだし、しかも薫のフリをして……あんまりうまくできてなかったかもしれないけど……。
それに沖田さんは、男の人が好きなんだし。
しかし日曜日、帰ってきてから千鶴の頭に浮かぶのは総司の姿ばかり。食欲もほとんどなくて、これは恋煩いと言う物なのだろうか。
学園で薫は総司に会ったのか何か言われなかったか、千鶴の存在に……南雲薫とは違う存在に気づいてくれたのかを聞きたくて、急いで帰ってきてしまった。
これは、総司のこと好きだということなのだろうか?たった一日一緒にいただけなのに。
……自分はそんなに惚れっぽかったのだろうか。
「……お前、日曜に沖田との間であったことは本当に全部俺に話したんだろうな」
入れ替わった日曜日の夜、千鶴は薫に今日起こったすべてのことを洗いざらい話した。薫としてチラシを配ったのだから、明日学園に行って誰かに何かを言われた時に薫が自分の行動に覚えがないのはまずい。
薫にキツイ眼差しで睨まれて、千鶴は慌てて何度もコクコク頷く。薫は冷たく言った。
「でもミサンガの話は聞いてなかった」
「……」
薫に睨まれて千鶴は後ろめたさに目を逸した。
これはなんとなく言えなかったのだ。薫の代わりではなく『千鶴』としてもらったような気がして……そう思いたかっただけかもしれないが。
「ごめんね……」
しょんぼりを謝る千鶴に、薫はため息をついた。
「まあいいよ。それより俺は今日からマンションの方に戻るから」
「マンションって……、こっちに来るときに南雲の人に借りてもらったあのマンション?」
千鶴が聞くと、薫は頷いた。
四国の南雲家に養子に行った薫は、高校と大学はこっちで通うことになり南雲家から一人暮らし用のマンションを借りてもらっているのだ。実際は本来の家族である雪村家の方が居心地がよく、マンションにはほとんど住んでいないのだが。
「どうして?」
無邪気な顔で首をかしげている千鶴を見ながら、薫は考えていた。
日曜日の夜。
あのプロレス部のキモい文教委員がチラシ配りに来ずに、代わりに沖田総司という三年生が来たということは千鶴から聞いてわかった。
千鶴が総司のことを、プロレス部の文教委員と勘違いして男が好きなキモいストーカーだと思い込んでいることにも気づいた。
気づいてすぐに、薫は一応訂正しようとしたのだ。薫のキモいストーカーは別にいて、今日千鶴が会ったのはそれとは別人なのだと。だが、総司のことを話す千鶴の様子を見て考えを変えた。
沖田総司は薄桜学園では知らぬもののいない有名人だ。
剣道での全国大会優勝に加えて要領の良さと外面の良さとで、世間的にも女子的にもかなりの人気だ。そして薫はそんな総司のことを嫌いだった。尊敬できるところが一欠片もない上に、顔をみるだけでいけすかない。話したことは一度もないが、委員会の先輩である斎藤とよくつるんでいるので、総司のことは目に入る。
そんな総司のことを、妹が心なしかうっとりと話しているような気がする。迷子の親探しの出来事など、千鶴の話だけ聞くとまるで総司はヒーローか何かのようではないか。しかも、話し終えて部屋を出るときに、千鶴が小さく呟いた言葉を、薫は聞き逃さなかった。
『……いいなあ、薫……』
再び寝ようと思っていた薫は、その言葉を聞き返す。
『いい?何が?』
『薫は嫌なんだろうけど、沖田さんってとっても……素敵な人だと思う。そんな人に思われてる薫も、きっとすごく魅力的なんだね。私もそんな風に思ってもらえるようになりたいな』
薫のストーカーは実は総司とは違う男なので、薫は答えようがなくてその時は黙っていた。だが、あとから考えるとあの発言の趣旨は、要は千鶴が総司を気に入ったということにほかならないではないか。
妹がこれほど男を見る目がないというのも衝撃だが、自分の家族があんな男を好きだという事実だけで薫が鳥肌が立つほどの嫌悪感を覚えた。真面目に勘弁して欲しい。
なのにその上、今日の総司の態度。
最悪なことに総司も千鶴のことを気に入ったらしい。一緒に来た藤堂平助がそう言っていたし、そうでなければあの沖田総司があそこまで執着するはずもない。
しかし薫は、総司と千鶴が……と考えただけで虫唾が走った。それはありえない。あってはならない。
だから今日の学園からの帰り道、薫は決心したのだ。
千鶴と総司を二度と会わすわけにはいかない。
薫は、驚いている千鶴の顔を見た。
「沖田は、学園関係者なんだよ。学園長とも親戚みたいなものだし、教頭の土方先生とも学園外でも古くからの付き合いらしい。今日、沖田とミサンガの話になって、日曜日にチラシを一緒に配ったのは俺じゃないんじゃないかって少しだけ疑問に思われた。何かの拍子に一緒に住んでるお前のことが沖田にばれて、日曜日にチラシ配りを俺がサボったことが学園長にバレたら下手したら停学だ。南雲の家になんて言われるかわかったものじゃない。だから家をしばらくの間移って、お前との接点を絶ちたいんだよ。幸い公式書類には俺は南雲で家族はこっちにいないし、マンションでひとり暮らしだと書いてある」
ミサンガのせいで薫の立場が悪くなっていることを知り、千鶴は唇を噛んだ。
ミサンガのことを薫に言わなかったのは、千鶴のエゴだ。もしかしたら総司に気づいてもらえないかというちょっとしたワガママ。そのせいで薫が停学になったら、ただでさえ養子の薫にキツイ南雲家が、ここぞとばかり難癖をつけてくるだろう。大学も四国につれもどされてしまうかもしれない。
それに総司は、昨日は千鶴と、今日は薫に会ったというのに『少しだけ疑問に思われた』程度だったのかと、千鶴は内心がっかりしていた。
総司と、初対面の壁のようなものを乗り越えてかなり仲良くなれたと思ったのに。
好きだと思うくらい、総司のことをよく知ったと思ったのに。全部千鶴の一方通行だったらしい。
……もともと沖田先輩は薫のことが好きなんだから、当然か。
千鶴が勝手に横恋慕していただけなのだ。
「わかった。迷惑かけてごめんね。荷造り、手伝うね」
「ああ、今日中に移らないと、明日からはもしかしたら俺の帰りのあとをつけられかもしれない。雪村の家は薄桜学園から近いからな。お前もあんまり用もないのに近所をうろちょろするなよ」
部屋に行きタンスをあけながら薫が言う。ポンポンと放り投げられる洋服を受け止めながら、千鶴は聞いた。
「今日は大丈夫だったの?あとをつけられたりはしなかったの?」
電話攻勢やらプレゼント攻勢など、もともとストーカーっぽいところがあったから、あとを付けられてもおかしくはない。
日曜日のチラシ配りの時だって、さりげなく千鶴の……いや薫のことを誘っていたし結構積極的な人なのだろう。
今度は学校で使うものをまとめながら薫は答えた。
「帰りに念のため確かめたら、保健室で寝てたよ。熱が出て倒れたらしい」
「え?倒れた?風邪?」
「さあね、知らないし興味もない。ほら、そのカバンよこせよ」
アタマが痛い。
アタマという漢字が思いだせないくらい痛くて、おまけにボーッとする。体の関節が痛くてじっとしていられない。
総司は硬い保健室のベッドの上で落ち着き無く寝返りをうった。
動くとだるいし痛い。しかし動かないでいるのもつらい。
先程保健医の山南から市販の風邪薬をもらって飲んだのに、全く効いてない気がする。
総司は今が人生のどん底のような気がした。
昨日の日曜日には、初めてドキドキする女の子と出会えて人生の絶頂だったというのに。
デートに誘ったら断られて、そのあと逃げるように帰られて、そこからは坂を下るように運命は暗転した。
再び会えると楽天的に思っていた今朝、想像はひどい形で裏切られた。男と女を間違えて好きになったアホか、男のことを好きな変態かの二択。
あの、自称『南雲薫』だけは真実を知っているはずなのに決して口をわらない。『南雲薫』の日常の行動を探って日曜日の女の子を探そうと思っていたら、午後になってから急に体調が悪くなってしまった。
山南からもらった薬が効くまで保健室で休もうと思っていたら、楽になるどころかどんどん気持ちが悪くなり、寒くて熱くてアタマが痛くて、もう最悪だ。
姉さんに連絡して迎えに来てもらおうか……
でも、仕事中だからまたやいのやいの言われそうだし。ただの風邪だしそれほどの大事でもないかな。
総司はぼんやりと目を開けた。視界がぐにゃりと歪んだり小さくなったり大きくなったりして見える。
放課後の学校は静かで、生徒の声も足音もしなくて総司は何故か小さな子のように心細く、寂しくなった。
誰かにそばにいて欲しい。
それと喉が渇いた。でも起き上がるくらいならこのまま乾いたままでもいいくらい体が重い。
まとまらない考えをまとめる気もないまま、総司はベッドの周りをぐるりと囲んでいるクリーム色のカーテンを見ていた。と、ふいにカーテンが大きく揺れ、合わせ目からするりと誰かが入ってきた。
……あれ、夢かな、これ
一瞬総司はそう思った。
入ってきたのは『南雲薫ちゃん』だったのだ。
熱のせいでピントが合わせづらく、最初は男の『南雲薫』かと思った。だが、ちらっと総司の顔を見てそして枕元にある椅子を確かめて、うつむいたままそこに座る『南雲薫』の動きを目で追っているうちに、これは日曜日に会った女の子の方だとわかる。
黒っぽい服を着て(日曜日に着ていたダウンだ)全体的に男っぽい格好をしているけど、華奢な顎とかほんのりピンクに染まっている頬とか、恥ずかしそうな表情とか、女の子であることは間違いようがない。
「……き、み……」
総司は話そうとしたが、口の中が乾いている上に喉が死にそうに痛くて途中で声が途切れてしまった。
彼女がハッと顔をあげて心配そうに総司を見る。
「大丈夫ですか……?」
声質は男の『南雲薫』と似てるけど、やっぱりあの子だと総司は思った。日曜日に、仲良くなったあの女の子。
「……水、くれる?」
苦労してそう言うと、彼女は慌ててカーテンの向こうに消える。そしてグラスにいれた水を持ってきてくれた。少しだけ体をおこして水を飲んだあと、総司はまじまじと彼女を見つめた。
「……日曜日の子、だよね?」
「……」
彼女は、否定も肯定もせずにうつむいたままだ。総司は手を伸ばして、彼女の手首をつかんだ。
「あっ!」
驚く彼女には構わず左手首を見る。
「……」
あった。
総司の作ったミサンガだ。
「いったいどういう……」
総司が追及しようと聞きかけた時、彼女がさっと手首をひいて立ち上がったた。総司は慌ててもう一度彼女の手首を掴む。
熱のせいで体がふわふわしていたが、なんとか捕まえることができた。彼女は怯えたように総司を見ている。
「ま、待って……待って。逃げないで。聞かれたくないなら聞かないよ、だから逃げないで欲しい」
「……」
逃げられたら今の体調ではとても捕まえられない。
無言で見つめてくる彼女の大きな黒い目を、総司は吸い込まれそうになりながら見つめる。
ああ……熱のせいで理性がぶっとんでるからかもしれないけど、ほんとに……
かわいい。
こんなに可愛かっただろうかと思うほど胸がキュンキュンする。顔も全体の雰囲気も表情も、全部可愛くて頭から食べたくなるくらいだ。
逃げられたくない。
怯えさせないようにしないと……
「いい?」
総司がそう聞くと、彼女は緊張した面持ちでコクンと頷いた。総司はそれを確認して、ゆっくりと手を離す。
「ふう……」
とたんに体が重くなり、総司はベッドに倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
彼女は身を乗り出して、心配そうに総司の顔を見た。
「うん……ついてないと思ってたけど君に会えたからついてたのかな……」
「熱、高いんですか?」
「多分ね。計ってない」
流石にしんどくて総司は目を閉じたままそう言った。その時、ひやっとしたものがオデコを覆う。
目を開けると、彼女の白い手が額に当てられていた。
「……」
彼女の手に触れられて、総司は熱がさらに上がるのではないかと思った。彼女は真剣な顔で熱を測っていて、総司と触れ合っていることになど気づいてないようだが。
「……高いですね……」
「まあね。自分でもなんとなくわかるよ」
彼女は手を離すと、改まった顔で総司を見た。
「インフルエンザだと思うんです。だから早めに病院に行った方がいいと思います」
総司はパチパチと目をまたたいた。
「インフルエンザ?」
「そうです。……多分私が仲介して日曜日にうつしちゃったんじゃないかって……。私の、その、近しい人が日曜日の時点でインフルエンザだったんです」
千鶴の言葉に総司は一瞬キョトンとして、次に吹き出した。
本気で自分のせいだと心配してくれているのは彼女の表情からわかる。誰からうつったかなんでウィルスに名前がかいてあるわけでもなし、わかるわけもないのに責任を感じているなんて。
「真面目なんだね、わざわざありがとう。……そうだな、インフルエンザの可能性があるなら、ここで寝てないで病院に行った方がいいね。土方さんか……近藤さんにたのもうかな。学園長の仕事で忙しいかな……でもあとで様子を見に来てくれるって言ってたし……」
『学園長』という言葉に、千鶴の表情がこわばったことに総司は気づかなかった。
「あーあ、君に逢えたけど、でもやっぱりついてないな。インフルエンザがうつるようなことは何一つしてないのに。これで手をつないだりキスでもしてれば、まだインフルエンザをうつされても納得できたんだけど」
総司が悪戯っぽくそうぼやくと、ぼぼぼっと音がしそうなくらいの勢いで、彼女の顔は真っ赤に染まった。
総司はそんな彼女の表情を見る。
やっぱりかわいいし、……しみじみと好きだなあと感じるのは熱のせいだけではないはずだ。
「ね、日曜日にあったかいもの食べない?っていう誘いを断ったのは迷惑だったから?」
「……」
彼女はしばらく考えて、そして静かに首を横に振った。総司の気持ちが再び上向く。
「じゃあさ、次に誘ったら一緒に遊びに行ってくれる?」
彼女は一拍置いて、優しく微笑んでくれた。
「ちゃんとインフルエンザを治してください」
「じゃあ、治ったらデートしてくれるんだ?」
再びニッコリと微笑んで頷いた彼女に、総司はほっとした。真面目な彼女のことだから、きっと約束は守ってくれるに違いない。
「どこに行く?映画とかがいい?遊園地とか―……」
考えているうちに、総司の頭はますますぼんやりとしてきた。
行く場所を決めて、日にちと時間を決めて……ああ、名前も聞かないと。ずっと薫ちゃんって呼ぶわけにもいかないし。
それにそもそも連絡先を聞かないと、どうしようも……
スー……と眠り込んでしまった総司を、千鶴は見つめた。
薫のこと、南雲家のこと、総司のこと、それと学園長のこと……
「ごめんなさい……」
千鶴はそう呟いた。嘘を言ったわけではないけれど、総司の期待に応えることは多分難しいということがよくわかった。でも、総司が『日曜日の子』と言ってくれたことはとても嬉しい。『何も聞かない』と言ってくれたことも。デートに誘ってくれたことも、本当に嬉しかった。
薫ではないと、千鶴個人を『日曜日の子』として認識してくれてることはわかったけれど。
「でも、私、……男じゃないんです」
千鶴は薫が言っていたことを思いだす。
『あいつは、昔から女には興味がなかったらしい。学年も部活も違うのになんかいきなり手紙を渡して来てそれから追い掛け回されてるんだよ。俺の前にも他の男にちょっかいかけてたらしい』
薫の身代わりになったことをなんとか許してもらえたとしても、千鶴が女だとわかったら、彼は興味を失ってしまうに違いない。自分は男だと嘘を言ったわけではないけれど。でも今日もジーンズだし総司が誤解したとしても仕方がない。総司の関心を失うのが怖くて、女ですとは言えなかったのは千鶴だ。
「総司はまだ寝てるのか?」
「あいつ、生意気なくせに体が弱えんだよな」
廊下の遠くの方からそんな話声が聞こえてきて、千鶴は反射的に立ち上がった。総司が言っていた学園長の近藤という人物だろうか。
「私、……私、私……」
最後に伝えたい。眠っているからわからないから余計に言える気がする。
「私、沖田さんのこと、好き……です。多分。多分好きになってると思います。デート、誘ってくれてとっても嬉しかったです。行きたかったけど、行っちゃいけないんだと思います。でも、もし行けたら……行けたら、映画にも遊園地にも、一緒に行きたかったです」
さようなら。
最後に眠っている総司の顔を見て心の中でそう別れを告げると、千鶴はくるりと踵を返して保健室から出ていったのだった。