ひととせがさね 9






《冬 雪村千鶴》

『……もしも変若水を飲まなかったら、ぼくはあの日に死んでいたかもしれないね』
 あの日……そう、薫とともに屯所の沖田さんの部屋に羅刹隊が乱入した夜。刀を持つ力すらなくなっていた沖田さんは、変若水を飲まなければきっとあの場で羅刹隊に殺されていた。
 部屋一面に広がる血の海の中、開いたままの瞳の緑色は生き生きとした光を失って、千鶴をからかいほほ笑み笑っていた唇はも動かない。
『あの日を生き延びたとしても、どうせ労咳で死んでたと思うよ』
 穏やかな若草色の瞳。軽やかな笑みを含んだような声。
布団の半分すべてが真っ赤に染まり、その中でうつぶせに横たわったまま動かない総司。どこからか雪が舞い散り、総司の赤い血に染まっていく。しかし総司は血まみれのまま立ち上がり、歩き出した。
 待って。行かないで。行かないでください。だって、私、まだ何も……何も伝えられていない。沖田さんのために何もできていない。何を伝えればいいのか何をすればいいのかわからないけどでももう少し。もう少しだけ傍にいたい。
 降り出した雪が勢いを増して、千鶴はまつ毛に降りかかる雪を払うために何度も瞬きをした。でも総司はそんな千鶴の声が聞こえないのか、振り向かないで歩いて行く。その背中がどんどん遠ざかり、雪で見えなくなる。キシ キシという固い雪を踏んで必死で追いかけようとした千鶴は、転んでしまった。膝が積もった雪に埋もれるが、冷たさなど感じない。
待って! 沖田さん、待ってください!!
            
「待ってっ……!」
 ガバッと飛び起きた勢いと自分の声で目が覚めた。
真っ暗な部屋。冷たい空気。一瞬ののちにここが江戸で、総司は別の部屋で怪我の療養をしていることを思い出す。
 ふう……と、胸に詰まった不安とともに腹の底から息をついた。両手に顔をうずめ震える体を落ち着かせようと深呼吸する。
 夢。あれは夢。
何度も言い聞かせるが、血の海の中で息絶えているはずなのに、また立ち上がり去っていく総司が目の奥にちらちらと浮かび、千鶴はぎゅっと目をつぶった。
 まさかとは思うけど……
虫の知らせとか、第六感とか。そう言うのがあの夢を千鶴に見させたのかも、と一瞬でも思ってしまうともう不安が止められない。総司の部屋の方へ耳を澄ませてみても何も聞こえない。静かすぎる。
 千鶴はパッと立ち上がった。
眠っているだけなのだから、静かなのは当然なのだが。またもや先ほどの総司が息絶えた絵がちらついて、千鶴は裾さばきも荒っぽく部屋の襖をあけて、外へ出て驚いた。
「雪……」
 静かに音を吸収しながら、雪は降り続いていた。湿気をはらんだ空気の中に雪の匂いが混じっている。
夕方ごろ山崎と今夜は降るかもと話していた。その記憶と総司への不安がまじりあってあんな夢を見てしまったのか。
 千鶴は、外廊下を歩きながら雪が積もった庭を眺めた。
こんなにゆっくり雪を見たのは……大坂で左之と話したとき以来だと、千鶴はふと思い出した。
 それ以降も江戸で振ったことはあったが積もりはしなかったし、千鶴も越してきたばかりなのと総司の体調が油断を許さない物だったのとで、雪をしみじみと眺める余裕などなかった。屯所で雪が降ると、皆でのんびりお茶を飲みながら眺めたものだ。またあんな風にのんびりとした時を、気心の知れた誰かと過ごせる日が来るのだろうか。
 総司の部屋の前で膝をつき、中の様子をうかがう。寝ているのだからあたりまえだが、何の音も聞こえない。
 ……失礼します。
起こしてしまうのも申し訳ない。でも無事であることを確かめないともう一度眠りにつけない。千鶴はそっと襖に手をかけて開けた。
 布団が盛り上がっているのが分かるが、詳しく見えない。千鶴は部屋に入ると総司の枕元に座った。
 寝てる……
特に体調を崩してたわけでも無いし、撃たれた傷跡もよくなってきているから寝ているのは当然だ。だが千鶴はほうっとため息をついた。そして妙にあせって深夜に総司のところにしのんできた自分がばからしくなった。
 夢見が悪かったからって、こんな夜中に寝てる男の人のところに女が一人で行くなんて。山崎さんに知れたらたいへん。立ち去ろうとして千鶴はふと思い立ち、三つも置いてある火鉢の火の様子を確かめた。消えかかっているモノは少しだけかき上げて、ちょうどいいものは炭を重ねてしばらくもつように。
「ん……誰?」
 ふいに総司の声が聞こえて、千鶴は飛び上がった。
「お、沖田さん、すいません。起こしちゃいましたか」
「千鶴ちゃん?」
 夜目に慣れた千鶴の目に、総司が肘をついて布団の中で体を起こしたのが見えた。
「何? 夜這い?」
 さらりと聞かれて、千鶴は慌てて否定した。
「ちっちちちちち違います!」
「そんなに全力で即答されると傷つくなあ」
ええ? と思ったが、こういう場面でおしゃれかつハイセンスな会話など千鶴には無理だ。
「すいません……」
と冷や汗をかきながらあやまるしかない。
「冗談は置いておいて、どうしたの」
総司が布団の上に座りなおす気配がして、開いているふすまからの雪明りで顔が見えた。大きくはだけた夜着に眠そうな顔。千鶴は恥ずかしくて慌てて目をそらした。
「えっとー、えー……」
 夢で見て総司がいなくなってしまったのではないかと思って慌てて様子を見に来たのだが、冷静になった今それを言うのは恥ずかしい。そんなことで不安になるのかとか夢と現実をごちゃまぜにするなんてとか、そこまで総司が心配なのかとか。総司のことを好きなのがばれてしまうではないか。
 そこまで考えて、千鶴は先日山崎に言われたことを思い出した。
『知らないと思っているのは君ぐらいだろう。副長も局長も、他の組長もわかっている。もちろん沖田組長も』
 あれって……ばれてるってことだよね。沖田さんも……え? えええー?
 一人で百面相をしている千鶴を、総司は不思議そうに見ている。何か言わなきゃ! と千鶴は先ほどまでしていた作業を口実にした。
「えっと、す、炭の、様子を見に……」
火かき棒が刺さったままの火鉢を見て、総司は一応納得したもののまだ釈然としないようだ。
「ふーん」と言い、また無言になってしまった。
 気まずい沈黙をどうしたものかと千鶴がせっていると、総司が言った。
「この部屋、火鉢が三つもあるんだね。最初のころは江戸ってあったかいんだなあって思ってたよ」
話しやすい話題になって、千鶴はほっとした。
「ちょっと多いかなって思ったんですが、沖田さんの体調を考えると寒いのはよくないと思って無理を言って集めたんです。もともとこの家にあったものと、買ったものと、あと京から持ってきたのが……」
「持ってきたの? 京から?」
 総司の驚いた顔に千鶴は赤くなった。山崎にも土方にも、火鉢も持っていきたいと言ったとき呆れた顔をされたのを思い出す。
「江戸で療養できるかどうかもわからなかったですし、そこで新しい火鉢を調達できるかもわからなくて、それなら京から持っていけばいいって」
「京から、ね……。火鉢なのに船に乗ってはるばる江戸まで……たいへんだね」
総司はそう言うと火鉢を見ていた視線を千鶴に移した。
「君は……それでよかったのかな」
「え?」
 唐突な言葉に千鶴は一応うなずいた。「そうですね。この家に来たばかりのころは京から持ってきた火鉢しかなかったんで重宝しましたし…運んでくれた人達にはご迷惑だったかもしれないですけど、よかったかなって思ってます」
 そう言うと総司はぷっと吹き出した。
「そうじゃなくてさ。火鉢の事じゃなくて……まあいいや、もう寝なよ」
「す、すいません。何の話ですか?」
 見当違いの答えをしてしまったのかと千鶴は赤くなりながら聞いた。
「もういいって。……何、そんなに僕の部屋にいたいって添い寝でもしてくれるつもりなの?」
「いっいいえ! もう、もう帰ります!」
 千鶴が焦って立ち上がり部屋を出ようとしたとき、後ろから手首をつかまれた。まだ何か用があるのかと千鶴が振り向くと、総司がいたずらっぽい顔でほほ笑みながら言った。
「夜這いの件、僕はいつでも大丈夫だからね」
「!」
あわわわわわ…とどう返事をすればいいのかわからず、千鶴は真っ赤な顔のまま「はあ、まあ……いえ、じゃあ…」と意味不明なことをつぶやき、逃げるように総司の部屋から飛び出す。
 後ろから総司の艶やかな笑い声が聞こえた。

 

《冬 土方歳三》

「お昼、食べて行ってください」
布団から起き上がり肩に袢纏をかけた総司ににっこり微笑んでそう言われ、土方は「お、おう」と返事をした。
 ……なんだこの雰囲気。
 土方は狐につままれたように総司を見る。総司はと言えば至ってくつろいで、先ほど千鶴が持ってきてくれたお茶を飲んでいた。
 土方がついさっきこの家に来た時からこうだった。
 新選組幹部のために誂えた洋装を持ってきたのだ。山崎から逐次報告を受け、総司の体調が回復してきていることは知っていた。千鶴も変わりなく元気でやっていると報告を受けていた。が、この雰囲気は聞いてねえぞ!
 土方は、目の前の総司を見ながら心の中で叫ぶ。
何と言えばいいのか……言いにくい。まあだから山崎も報告しなかったのだろうが、その……一家の大黒柱というか、妙な落ち着きというか。新選組から離れて療養しているのだからさぞかし焦ってわめいていつものように空回りしてるんだろうと思いきや、この落ち着きは何だ。いつものケンケンと土方につっかかって くるめんどくささもなくて、これじゃあまるで……まるで、大人の男じゃねえか。
「千鶴ちゃん! ちょっとおいで」
総司が開け放したふすまから千鶴のいる勝手場の方へ声をかけた。千鶴の「はーい」という返事が聞こえて、すぐに膝をついた千鶴が部屋に顔をだす。
「なんでしょうか?」
「ほら、今朝話してたでしょ。土方さんのお昼」
「あっああ〜……あの、お魚を用意していたんですがちょっと……」
「何? 失敗しちゃった?」
優しい口調に土方は目を剥いた。
「焦げちゃって……すいません」
しゅんとする千鶴に、総司は笑った。
「いいよ、別に少しの焦げぐらい。壬生狼って言われてた時は自分たちでまずいの作ってたんだし食べれればなんでも大丈夫だからこの人」
「お、おう」
土方もうなずいた。千鶴は「そうですか? でもほんとに焦げちゃってて……」と言っていたが、総司に強引に推されて気にしつつもうなずいた。じゃあ、お口汚しで申し訳ないんですが……と千鶴が去っていく。
 土方は横目で総司を見た。
「なんですか?」
「いや……」
 えらい優しいじゃねえか。という言葉は飲み込む。おまけに土方へのおもてなしについて事前に打ち合わせをしておくとか、これまでになかった気の配り方だ。これじゃあまるで……まるで、なんだ?
 ふさわしい言葉が喉まで出かかっているのに出てこない。
もやもやしながらも土方は持ってきた洋装の話しや、宇都宮での戦の話、近藤の話や隊での皆の話を総司としていた。    そうこうしているうちに千鶴が昼餉の膳を持って来た。
 魚と菜物、味噌汁に飯。
失敗したと言っていた通り、魚は焦げる……というより炭化しているように土方には見えた。飯はうまく炊けているが、味噌汁の味がどうにも薄い。菜物もシンプルというか……もう少しゴマを和えたり何か手を加えられるのではないかと思わないでもない。
 千鶴は最初は新選組の皆の食事当番を手伝ってくれていたが、屯所を西本願寺に移して以降は下働きの雇人がすべて作ってくれていた。そのせいで一から作る場合の千鶴の料理の腕は土方は知らなかったが、これは……
「……」
 総司は、とみると、表情も変えずにパクパクと炭化した魚を食べ汁を飲んでいる。
「その……千鶴は料理が苦手なんだな」
土方がそう言うと、総司は目を上げた。
「そうですか? 僕はおいしいと思いますけど」
その言い方と表情に無理をしているところがこれっぽっちも見えなかったので、土方も苦労して無表情を貫いた。
こいつぁ……まじでうまいと思ってんな、これを……
「あー……その辺は人それぞれかもしれねえな……。ところで、飯炊きや掃除用の手伝いを頼むように松本先生に言っておいたんだが、千鶴が全部やってんのか?」
「いえ、僕の分だけです」
「……へ?」
「ああ、千鶴ちゃん自身の分もやってるのかな? 今日はたまたまお手伝いの人がお休みで山崎君もいないし、朝からてんやわんやしてましたよ、あの子。あとは僕の分の食事とこの部屋の掃除は千鶴ちゃんですね」
「……そりゃまたなんでだ?」
総司は肩をすくめた。
「知らない人が作ったご飯とか、知らない人が僕の部屋に入ってきてあれこれいじられるのって、嫌なんですよね」
「お前が?」
総司はうなずく。
「僕がです」
「……」
 そうかよ……と土方は心の中で呟く。なんだか盛大に目の前でいちゃこらされた上にのろけられたような気分だ。
旨くはないが食べられなくはない千鶴の作ってくれた昼餉を、土方はなんとか平らげた。そしてその後もしばらく総司と話した後、土方はこの屋敷を辞した。
「ふー……」
 屋敷を出る時、千鶴と総司が二人で見送ってくれた。あれは……あの雰囲気は、なんというのか……
土方はしばらく考えて思い当たる。
「そうだ、夫婦みてえなんだ、あいつら」
 自分で呟いてぎょっとする。総司が?あのガキが女と……千鶴と? 千鶴が総司のことを好いているのは前からなんとなく感じていた。総司はどうするかと思っていたが、特に普通に接していたから、応える気はねえのかと思ってたがなあ。いつも自分と近藤を追いかけてきたあいつが……そうだ、だから違和感を感じたんだ。今日のあいつにはいつもの、近藤さんに 必死で置いてかれないようにしてる必死さがないっつーか……。
 近藤さんがあの腕の状態のまま甲府へ参戦することについても、ぜってえケンケン言ってきやがると思ったのに。……まあ不満そうではあったが、殴り掛かっては来なかったな、覚悟してたのによ。
 あいつがまさか相愛になるとは……いやいや、まだわからねえぞ。いくら雰囲気が夫婦のようだと言っても、それはたまたま同じ屋敷に二人きりだったせいかもしれねえし。
「土方副長」
 声をかけられて、土方は物思いから覚めた。振り向くと、密偵に出ていた山崎だ。
「おう、戻ってきたのか」
「はい。副長は沖田さんのところからの帰りですか? もしお時間があれば密偵の報告をしたいのですが」
「ああ、いいぜ」
 屋敷に戻ろうかと思ったが、幸せボケの顔をさらしていた(ように土方には見えた)あの屋敷に帰るのは嫌だ。
土方と山崎は、は近くの茶屋の外の椅子に座った。結構人はいるが出入りが激しくがやがやと騒がしいので秘密の話には帰ってちょうどいい。
 山崎から密偵の結果について報告を受けた後、土方は茶をすすった。
 熱いお茶が体に染み渡り、土方はようやく一息ついた。どう切り出そうかしばらく考えた後、口を開く。
「あー……、あいつらのことだがな」
「あいつら……とは?」
「総司と千鶴だよ」
 そう言った途端、山崎は「ああ」と何を言いたいのか悟ったような顔をした。土方は助かったと飛びつく。
「俺の言いたい事わかるか?」
山崎はうなずいた。「なんとなくでしたら」
「あいつらは……そのう……」
 デキてんのか? とズバリ聞くのは聞きにくい。総司はまあいいが、千鶴は少女のころから一緒に暮らした、土方にしてみれば親戚の子か妹のような存在なのだ。
 千鶴の想いが叶ったのは喜んでやりてえが相手が総司ってのがなあ……
「えらく仲がよさそうだが、もう……もう…つまり……」
「夜を共にしているのか、という意味でしょうか」
 ずばり聞かれて、なぜか土方が赤くなった。「お、おう」と小さくうなずく。山崎は真面目な顔で腕を組むと首を傾げた。
「おそらく、ですが、まだ布団は共にしていないと思います。それどころか思いも伝えてないような。雪村君の想いは別に何もせずとも伝わってきますが沖田組長の気持ちが計りかねています」
「総司の気持ちか? 京の時と全然千鶴に対する態度が違うじゃねえか。それなのに気持ちが計りかねるってえのは?」
「確かに雪村君には優しくなっていますし恋情も持っているようにも見えますが、言葉や態度にはあらわしていません。……つまり、床を共にするとか手を握るとか、将来の約束を取り交わすとか、そういったことです」
 もやもやと疑問に思っていたことをテキパキと説明してもらって、土方は我が意を得たりと思いつつもやはりなんだか気恥ずかしい。
総司に恋情なんてあんのか? あの剣術馬鹿、近藤馬鹿によ! ……にしても山崎の奴、よく知ってるな。
「おまえ、どうしてそんなによく知ってるんだ? まさか総司たちのことも覗いたり密偵をしたりとかは……」
 さすがにそれはやりすぎだぞ、というつもりで土方が言うと、山崎の表情がぴしりと固まった。
「密偵せずともわかりますので。沖田組長はああいう性格の方ですので、ことさら俺の前で俺を無視して雪村君にあれこれ仕掛けています」
 吐き捨てるように言われて土方はたじたじとなった。
土方ですらもあの短時間の訪問でいたたまれなくなったのだ、毎日あそこに詰めてあそこで寝起きをしている山崎にとっては地獄に違いない。しかし江戸に新選組の密偵の拠点があるのはありがたいし、総司と隊との連絡係も山崎にしか頼めない。
 土方は湯呑を置くと、膝に手を置いてあらためて山崎に向き直った。
 新選組副長として。
 総司の昔からの知り合いとして。
「……すまねえ。我慢してくれ」

 屋敷では総司と千鶴がそんなことは知らずに、無邪気に夕飯について話していたのだった。

 

《冬 松本良順》

 撃たれた傷は、痕が残っているがすっかりふさがっていた。若いし羅刹の体だ、痕も多分すぐに消えてなくなるだろう。松本はバチンと総司の裸の背中を叩くと言った。
「完治だ」
横で心配そうに見ていた千鶴が、嬉しそうに言う。
「おめでとうございます!」
 松本はほほ笑んで千鶴を見た。
自分を庇って撃たれた彼を、一番心配していたのは千鶴君だからなあ。それに沖田君のことを想ってもいるようだし、余計にうれしいだろう。
 着物を直している総司を見て、松本はふと思いついた。
「そうだ、ついでに胸の音も聞いてみるか?」
 変若水を飲み、労咳特有の咳や微熱が全くなくなってから胸の音は聞いていない。江戸で療養している最中も、診たのは銃弾の傷跡だけだった。労咳はもう治ってはいるのだろうが物はついでだ。
 松本がカバンのなかから道具を取り出そうとすると、総司が松本の手に手をかけて止めた。
「大丈夫ですよ」
「そうか? だが……」
「自分の体のことは自分でわかります」
ニッコリとほほ笑まれ、松本はまあいいかとうなずいた。
「労咳患者がこんなに顔色がよく元気でいられるはずもないしな。十分戦場で働ける体に仕上がってるよ。土方さんからは、おまえさんに異常がないかしっかり診てくれといわれていたが、正直なとこ心配なのは近藤さんの方だな」
総司の表情が曇った。
「もう……剣が持てないっていうのは本当なんですか?」
松本はため息をついた。
「……残念ながらな」
「そんな怪我人を戦場に連れ出して……土方さんは新選組の事しか考えてないですよね。僕が早く行って近藤さんを守らないと」
「あ、ああ。今のお前さんなら十分近藤さんを守れるだろう。……だが、近藤さんは自分で参戦したがったって私は聞いたがな」
総司は吐き捨てるように言った。
「だとしても近藤さんの体のことを考えたら止めてあげるのが思いやりじゃないですか? 戦うことができないのに戦場を連れまわして、近藤さんの危険についてあの人は何にも考えてない。新選組の士気が云々。優先したのはどうせそんなことじゃないですか」
 松本は困ったように自分の顎を手のひらでさすった。
沖田君の気持ちもわからんでもないが……
「近藤さんは、仲間が戦場に行って命を散らしているのを後方の安全な場所で聞いているのは性に合わんだろう。近藤さんに無事でいてほしいというお前さんの気持ちもわかるがな、だが、近藤さんの気持ちも考えれば土方君の気持ちもわかるんじゃないのか」
総司は皮肉っぽくふっと笑う。
「僕には『異常があれば参戦を自重するように』って言って、近藤さんは本人の意志だからと言って異常だろうが連れていく。この差はなんなんですかね」
「それはまあ……年の差もあるし、お前さんはあいつらの弟分みたいなもんなんだろう? あれこれ過保護になるのは……あるかもしれないな」
総司はしばらく黙っていが、納得できないようだった。
「土方さんの気持ちは、とにかく新選組が名をあげることだけが大事なんです。自分勝手なんですよ。近藤さんは、皆に慕われて担ぎ上げられたらそれに応えようと自分がつらくても無理してしまう人なんです」
 なるほどな、と松本はこの青年剣士のどこか冷たく感じる整った横顔を眺めた。
 だから、近藤さんの傍に行って自分で彼を守りたいと、そういうわけか。
 だがまだ若い。世界に日本に徳川幕府。その中での新選組の立ち回りまで見据えている土方君や近藤さんよりは視野が狭い……と言うか純粋だな。人を大切に思うことというのは、相手の命を守ることだけじゃあない。その人の考えや希望を尊重し、かなえてあげることでもある。たとえそれが自分からその人が去っていくことであろうとも。
 ……まあ、これはそのうちいやでもわかるだろう。
 これからの彼の行動を思うといろいろきついだろうとは思うが、銃弾の怪我も労咳も治ったこの青年の体力なら問題ないだろう。
「……しかし、甲府行きか」
 松本は、先ほど山崎が持ってきてくれた熱燗を、自分の盃に手酌で注いだ。総司にも快癒祝いのつもりで徳利を差し出すと、総司は自分の盃で受けてグイッと飲み干す。
 甲府に行き、さらにそこで戦闘がある。京で屯所にいるのならともかくこれから行く先は戦闘だ。沖田君一人なら問題ないだろうが……
「……彼女も連れて行くのか? 置いて行くなら私が面倒を見るが」
 そもそも松本に会うために、彼女ははるばる江戸から単身京までやってきたのだ。運悪く会えず新選組に保護されていたが、本来は松本が面倒を見る間柄だ。       
綱道さんのこともあるし、できれば彼女だけは私のもとで危ない目に合わずに幸せにしてあげられれば、と思っていたのだが。
「連れて行きます。目の届く場所にいてくれた方が落ち着くし」
 総司の即答に、松本は目をパチパチとまたたいた。
部屋の中に妙に気恥ずかしい空気が流れる。その証拠に千鶴の頬も赤くなっている。
「千鶴ちゃん? なんで赤くなってるの?」
またそれを楽しそうにからかう総司に、松本は首の後ろを掻いた。
 そういうことか。いつからそうなったのかは知らないが、どうも相愛のようだ。

「そうか。……ならばお前たち、祝言をあげたらどうだ」

 平時ならともかく今はいろいろと先行きが不安定だ。こういうことはちゃっちゃと進めた方が良いと言う親切心で言ったのだが、顔の半分が目ではないかという くらい大きな目でぎょっとしたように千鶴から見られ、松本は面食らった。千鶴の顔がみるみるうちにさらに赤くなり、「なっなにを……! そっゲホッゴホッゴ ホゴホッ!」
 慌てて何かを言おうとして気道に唾液が入ってしまったようで、千鶴は顔を真っ赤にして咳き込んでいた。
「千鶴ちゃん、むせ過ぎ」
総司の方はというと、面白そうな顔で彼女を眺めているだけ。松本は二人を見比べた。
 相愛で言い交しているのかと思っていたのだが違うのか? 松本が首をひねっていると、勝手場の方から山崎の声が聞こえてきた。
「雪村君! ちょっと来てもらえるか」
「はっはい!」
千鶴は顔を真っ赤にしたまま飛び上がるようにして立ち上がった。
「あの、私、ちょっと失礼します。あ、お酒のおかわりも持ってきますね、おつまみも何か……。その、失礼します」
助かったいう心の声がダダ漏れのまま、千鶴は慌てて立ち去って行った。松本は頭を掻き掻きそれを見送る。
「……何か……すまなかったな。てっきり相愛なんだとばかり……」
総司はほほ笑んだまま盃をあけた。
「相愛、ですか。これまでの僕にはなかった言葉だなあ」
「ほんとのところはどうなんだ? おまえさん、あの子のことはどう思ってるんだ」
「……」
総司は自分の盃にさらに酒を注ぎ、松本の盃も満たす。
「……誰かさんと違ってあんまりそう言う話が無かったもので。気持ちを計りかねてる……ってとこですかね」
「気持ちを計りかねるというのは、おまえさんのか?」
総司は首を横に振った。
「あの子のです」
松本は首を傾げた。彼女の気持ちはかなりはっきりとわかると思うが。
「まあそうなんですけどね」
総司はそう言うと、また盃を開ける。
「おい、治ったからと言ってあまり飲みすぎてはいかんぞ」
松本に注意され総司は笑った。
「今日ぐらいは大目に見てくださいよ。これが別れの酒になるかもしれないのに」
甲府行きのことだ。松本は顔をしかめた。
「そういう言い方は……よくないな」
「そう、僕もそこなんです。あの子の気持ちを計りかねてるのは」
松本は、自分の杯を空けた。しばらく考えたがわからない。
「どういう意味だ?」
総司は盃を置くと、松本に向き直った。
「……松本先生は、命の使いどころはどこか考えたことはありますか?」
「命の使いどころ?」
「昔、山南さんに言われたんです、命の使いどころを考えろって。僕は、近藤さんのために使おうとその時決めました。それならなんの悔いもないですしね。僕は……僕にはずっと親しい人はいなくて誰かのことを考えて行動を変えるなんてこともなくて、……まあ今も変える気はないんですけど」
「なるほど……」
松本は総司が言いたいことが何となくわかってきて、うなずいた。
「おまえさんは近藤さん第一でそれは変わらなくて、彼女はそれでいいのかどうか計りかねてるってことか?」
「僕は僕自身のために生きたことがあまりないんです。もともと親にも早くに死なれ、姉には優しくしてもらったけれどもう同じ輪の中にいる家族でもないし……そういう意味では誰とも同じ輪にはいなくて、そのおかげで自由にこの命を使える。でも彼女にはその覚悟あるのかなって」
総司はそう言うと、小さく笑った。
「僕なんかじゃなくてもっと優しくて心の平穏を与えてくれるような相手が、あの子には良いと思うんですけどね」
「なら、彼女を江戸に置いて行けばいいじゃないか。愛しく思っている君が目の前で自分の命を捨てるのを見るのは、あの子にとってはつらいだろう」
総司は今度は声を出して笑った。
「そこは僕のわがままです」
 松本はどこか吹っ切れた様子の総司を眺めた。
彼女にそばにいてほしい。でも自分の生き方を変えつもりはない。彼女はそれでもいいのか計りかねてる……か。何も考えずに自分の欲望のまま自分のものにしないところは『わがまま』とは言えんな。今、彼女に迫れば惚れた弱みで後先考えずに簡単に落ちるだろうに。
「……そこまで真面目に、千鶴君のことを考えてるってことだな」
 しみじみと松本がそう言うと、今度は総司がむせた。松本は思わず笑ってしまう。
「おいおい、大丈夫か」
 千鶴君は見た目はおとなしく弱そうだが、中はなかなかどうしてかなり意志が強いし驚くような大胆なことをする。見た目と中身がずいぶん違うと思ったが、この青年もそうなようだな。
 松本はふすまを開け、勝手場の方に向かって言った。
「すまないが水を一杯もらえるか」
すぐにパタパタを慌てた足音がして千鶴が盆にのった湯呑を持ってくる。
「沖田さん! 大丈夫ですか? 発作……」
水を渡しながら心配そうにのぞき込む千鶴に、総司は苦笑いで返している。
「大丈夫。そういうのじゃないから」
 松本は、総司を眺めながら思った。
 何事も軽くこなしてあっさりと対応しているように見えるが、その下では泥臭い努力を幾重にも積み重ね真剣に自分と相手のことを考えている。
 ……まあ、沖田君がそこまで真剣に考える『相手』というのが、本当に数少ないんだろうが、彼の底にある真面目さを考えれば、そうそう手広くいろんな人を受け入れることはできんだろう。
 綱道からの預かりもののようになっていた千鶴について、松本は少なからず責任を感じていたのだが、総司なら預けても大丈夫だと感じた。
 彼なら、たとえ千鶴君が泣く結果になろうとも、ちゃんと彼女に向き合って誠実に対応してくれるだろう。

『人を大切に思うことというのは、相手の命を守ることだけじゃあない。その人の考えや希望を尊重し、かなえてあげることでもある。たとえそれが自分からその人が去っていくことであろうとも』

 先ほど、総司と近藤との話をしたときに思ったことだが、多分千鶴はこれを理解している。
 それが総司の望むことなら、たとえ彼と二度と会えなくなるとしても、たとえ自分がその後泣き暮らすことになろうとも、彼の意志を尊重し、彼の好きにさせるだろう。
 そういう意味では、千鶴君の方が一枚上手だな。
「じゃあどうして咳をしてるんですか?」
千鶴が聞くと、総司はうるさそうに横を向いてしまった。
「うるさいなあ、むせただけだって」
「だから、どうしてむせたりなんて……」
松本が口をはさむ。
「まあ、そこは追及してやらんでやってくれ。男にはいろいろあるんだ」
「松本先生!」
総司がそれ以上言うつもりじゃないでしょうねという顔で松本をにらみ、松本はわかっているよとほほ笑みながらうなずいた。

 

10へ続く


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