ひととせがさね 6
大きな石の上に座って、蔵の壁に寄りかかって、総司があくびをするのを千鶴は横目で見ていた。
午後おそく。でもまだ夕方までには時間がある夏の昼下がり。
千鶴が涼みに来た例の場所には、例によって総司と、例の黒猫がだらっとくつろいでいた。あの大きな石は夏はひんやりとして涼しいのと、蔵の影になっていて通り抜ける風がここちいいのを、総司と猫は知っているらしい。
千鶴も当然知っているから来たのだが。
あいにく一番ひんやりとして涼しいところは総司と猫にとられていたので、石の手前側に腰かけた。それでも生い茂った木の影でさやさやと葉擦れの音と共に通り抜ける風が涼しい。
「眠いんならお部屋で横になってた方がいいんじゃないでしょうか? 安静にしてろって言われてるのに……」
総司は寝っ転がってるくらい深く腰掛けて蔵の壁に寄りかかって、足を投げ出していた。あくびをして目を閉じている。
「ここでちゃんと寝てるよ。だいたいあの部屋で布団の中でなんて暑くて寝れないよ。今日は熱もないし体も楽なんだってさっきも言ったよね。君こそこんなところで油売ってないで、洗濯とか炊事とかないの?」
「炊事はもう雇われてる方たちがやりますし洗濯も……」
「僕のごはんでも作ってきたら? あれこれ食べろー食べろーって持ってくるじゃない」
千鶴は赤くなってぷうっと膨れた。
「あれは……私だけじゃなくて、近藤さんとか他のみなさんが沖田さんにって持ってくるんです……あれ?」
ふいにぎらぎらと照り付けていた日が陰り、千鶴は空を仰いだ。ふっと吹いてくる風もひんやりと冷たい。
総司も片目をあけて空を見上げた。
「一雨きそうだね。涼しくなるな」
「昨日も今ぐらいの時に夕立がありましたもんね」
「雷がすごかったよね」
他愛もない話をしているうちに、空はどんどん暗くなりとうとうポツリとしずくが千鶴の頬にあたった。
「あ……」
どうしようかと千鶴が立ち上がる。千鶴の場所では濡れてしまう。総司と黒猫のいる場所は蔵からのひさしが伸びているせいで濡れないが、狭い。総司が寝そべっている今の状態では千鶴は入れない。
部屋に戻ろうと千鶴が石から離れた時、「どーぞ」といたずらっぽく笑みを含んだ声で総司が言った。
「いいんですか?」
「別に僕専用の場所ってわけじゃないし。狭いけどね」
雨脚が早くなる。夕立の常で雨粒が大きく、このままではずぶ濡れになってしまう。
「すいません! お邪魔します」
総司がやや体を起こしてくれたおかげでできたスペースに、千鶴は体を潜り込ませた。黒猫が迷惑そうに立ち上がる。が、外は大雨で出て行けずに、不満そうに「にゃ〜」と鳴いた。
「ご、ごめんね。狭いよね」
千鶴が猫に謝っていると、「手、どかして」と総司の声。
え? と思っている間に、どさっと総司の頭が千鶴の膝に乗っかった。いわゆる膝枕だ。
「!!!」
驚きで固まっている千鶴を、総司は膝の上から見上げて笑った。「狭いからしょうがないでしょ」
茶色の前髪の間から見える、総司のきれいな若葉色の瞳に微笑みが浮かび金色に解けた。
千鶴の心臓は一瞬ではるかかなたの空へと飛んでしまう。
しかし、総司はいつも通り。視線を空に移すと、「あー、凄い雨。でも涼しくなったな」とつぶやき、また目を閉じてしまった。
猫も、わずかにできたスペースにめんどくさそうに再び丸くなって落ち着く。
ふ、普通にしなきゃ……! 猫さんにも沖田さんにも居心地が悪くならないように、普通にっ…!
真っ赤になってる顔は寝てる総司にはみえない。猫も気にしないだろう。うるさく話したり体をそわそわ動かしたりしないで、ゆっくりと……
千鶴は深呼吸をした。この猫にも、総司にも、こんなに近づいたのは初めてかもしれない。
「……」
平常心平常心…と唱えているうちに、はるかかなたに飛んでいた千鶴の心臓がようやく戻ってきた。
茶色の髪に長い睫、すっきりした鼻筋に広い肩。すぐそばには黒くてつやつやした毛のカタマリが丸くなっている。
千鶴はなんだか楽しくなってきて、心の中でふふっと笑った。
雨に閉じ込められてるみたい……
目線だけで空を見上げる。ひさしから雨粒が次から次へと滴り落ちてきて少し先の景色も見えにくい。
雨の音がうるさいのにとても静かだ。空気がひんやりとして雨の匂いに包まれる。
そして千鶴は、自分の膝の上で目を閉じている総司を見た。端正な顔のつくりはそのままなのに、肩の厚さや顎のあたりが薄くなっている。彼の中の病魔が、ゆっくりと侵食していっているのだ。
いつも飄々としてこの世に未練などないようにふるまっている彼が、実は病魔と必死に戦っているのを千鶴は知っている。
食欲がなくてもいつも無理やり食べて、食べて、眠って。
もっと組長として働きたいのに。新選組の剣として役に立ちたいのに、できない口惜しさを我慢して、それでもちゃんと薬を飲んで療養しているのを、看病している千鶴は知っていた。それなのに、病魔は総司の努力をあざ笑うように彼の体力を奪い、熱をだし、食欲を奪っていく。
彼が、薬を飲みたくない、食事はいらないとわがままというのは、いつまで病魔と戦えばいいのか、いつかは勝てるのかいやどうせ勝てはしないのにと心が折れそうになった時。
それでも彼は一人で折れた心をまた結びなおして、病魔と闘っていることも千鶴は知っていた。
沖田さんの目に映っているのは、近藤さん。そしてその隣の土方さん。新選組として活躍している隊のみなさん。
千鶴は再び雨空を見上げた。
千鶴のことは映っていない。でもそれがさみしいとはなぜか思わなかった。
さっきよりは雨の勢いが弱くなってきた気がする。
周りの木の葉は雨に洗われて緑が濃く、土は水を含んで生き生きと、カエルの鳴き声に、木の枝で雨宿りをしている鳥の声。
なんでだろう? と千鶴は空を見上げながら考えた。この気持ちはなんなんだろう?
『その人が好きでその人の役に立ちたいって思える人。自分のことより大事に思える人』
この場所で初めて金平糖をもらった時の、総司の笑顔を思い出す。
あの時も夏だった。とっても暑くて……
きっと、それは、私にとっては沖田さんなんだ。
わが身を犠牲にしてとかそんな悲壮感は一切ない、今の自分の気持ちを千鶴は理解した。そしてそれが幸せな理由も。
『大事に思ってもらうより、誰かを大事に思う方が幸せだよ』
沖田さんが大事。
沖田さんが幸せで笑っていてくれてたら、それで私は幸せなんだ。たとえ沖田さんの病気のせいでそれが残りわずかだとしても。傍にいられるだけで私は幸せなんだ。 とても幸せで、その人を思うだけでこんなに心が温かくなる。
涙も衝撃もなく、その感情はすとんと千鶴の中に降りてきて胸の奥に落ち着いた。
こうやって沖田さんと雨宿りをして夏を過ごしているのがとても幸せ。
西瓜を食べて秋の紅葉に冬の大根、着物を冬物に変えて雪を見て。
そしてまた春の若葉。
これまで一緒にいくつもいくつも日々を重ねて季節を重ねてきたように、これからも普通の毎日を沖田さんのそばで重ねていきたい。
残された時間がわずかだとしても、その間はずっと。
千鶴が身動きをしたのが伝わったのか、総司が目を閉じたまま口を開いた。
「雨音が小さくなってきたね。雨はやんだ?」
千鶴は空を見上げた。だいぶ空は明るくなってきたけれど、まだ雨はぽつぽつと降っていた。
「いえ、まだ少し……降ってます」
千鶴の声が変だったのか、総司は目を開けた。
「どうしたの?」
千鶴はほほ笑んだ。人の感情の動きに敏感な沖田さんらしい。
「いえ、別に……涼しくなって過ごしやすくなってきたなあって」
総司もゆったりとほほ笑んで、再び目を閉じた。
「そうだね」
こんな言葉ですら、交わせることがとても幸せ。
「はい」
しばらくして雨がほぼあがるころ。
ひさしからぽたりぽたりとおちてくる雨の名残を、千鶴は見ていた。
「雨、やんだ?」
再び目をつぶったままの総司に聞かれ、千鶴は首を横に振る。
「いいえ、まだ……」
「まだ降ってるの?」
「はい」
雨音はもう聞こえないはずなのに、総司は目をつぶり千鶴の膝に頭を預けたまま動こうとしなかった。
千鶴は総司の顔を見て、そして傾いてきた夕日に反射して輝くしずくを眺める。
この時間が、もうちょっとだけ続きますように。
もうちょっとだけ、もうちょっとだけ、重ねて行けますように。
《秋 南雲薫》
鋭くとがった三日月が雲に隠れるのを待って、薫は繁みの中から屯所へとすばやく移動した。
使われていない納戸。隅の天井板を外し屋根裏に上る。
空気が乾燥しているせいで、月の光も鋭く物音もよく響く。薫は慎重に足を進めた。目星をつけていた沖田の部屋に差し掛かると、薫は足を止めて下をうかがう。
「……いつまで許されるのかな。戦えない僕が新選組の……、みんなのそばにいること」
沖田の、珍しく弱音を吐いた声が聞こえてきた。それに続いて千鶴の必死な声も。
「ずっとです! ずっとそばにいられます。沖さんが望む限り、ずっと……!」
三文芝居を聞いたような白けた嘲笑が、薫の顔に浮かんだ。
さんざんぐずって甘えたことを言いやがって。
千鶴も千鶴で、文句も言わずに甘やかしている。それをいうのなら新選組すべてがそうだ。なんのかんの言って沖田を気にかけている土方も、戦力にならない沖田をいつまでも新選組で面倒を見ている近藤も。それに異を唱えない他の隊士たちも。見ていて、聞いていて、吐き気がするほどいらつく。
薫は気を乱して気づかれないように、静かに呼吸をした。今日は沖田と妹の猿芝居を見に来たのではない。風間達に協力するよう薫たち土佐の鬼に強く要請があり、屯所襲撃に適した日時を探りに来たのだ。
新選組の羅刹隊に一般の隊士、さらに鬼にとってもかなり手ごわい組長級が屯所にそろっている時では、いくら鬼とはいえ苦戦するだろう。風間の狙いは羅刹隊の殲滅と千鶴の誘拐。余計な手間はかけないほうがいい。
幸い新選組は伊東派とのいさかいが激しくなってきている。多分ちかいうちに何らかの動き……新選組による伊東派殲滅の襲撃があるに違いない。その方法と日を知るには、こんな所で沖田と千鶴の寝言を聞いていても意味がない。
そっと立ち去り、近藤や土方たちの部屋へ行こうとした薫は、聞こえてきた声に足を止めた。
「他に居場所なんてないのに、どこにいけばいいんだろう」
その言葉は、薫の奥底に抑え込んでいた強烈な憎しみに火をつけた。千鶴が何も言えないまま静かに沖田の部屋から立ち去るのにも気づかなかった。
居場所だって?
あるだろう、お前には。山ほど!!
新選組にも一番組組長としての席は空いたままだし、近藤や土方達試衛館からの仲間という場所もある。実家で弟を思っている姉から季節の折々に着物や食べ物が届くとも聞いている。そして千鶴がいる。
京の町で、屯所で見かけた千鶴の視線の先には、いつも沖田がいた。そして今でも傍にいて泣き言を聞いてくれているじゃないか。
薫は南雲に行ってからの日々を思い出し、血が出るほど唇をかんだ。
千鶴は、薫との幼い日々を忘れた。薫は忘れなかった。
父さまと母さま、千鶴がいたあの幸せな日々を、折檻の最中や痛みで眠れない夜、飢えに苦しんでいる毎日にいつも思い出して自分を慰めていたのだ。あの思い出がなければ心が折れてしまっていた。そして自分を恨み南雲を恨み、鬼を恨んで千鶴を恨んだ。その恨みを晴らすため。そのためだけに今、薫は動いているのだ。
雪村の再興。
誰にも気づかれないように、綱道はもうすでに雪村の里にいる。後は西の鬼に協力しているふりをして千鶴を新選組からさらい、それをさらにさらって雪村の里へつれていくだけだ。養父も兄もいれば、千鶴も雪村家の再興に協力するに違いない。
もうすべての手筈は済んでいる。あとは西の鬼たちが新選組屯所を襲う、その日を調べればそれで終わり。
だが、薫はどうしても我慢が出来なかった。
甘えた沖田に。
その沖田を心配している千鶴に。
当初の予定では、羅刹隊か風間かに沖田は殺され傷心の千鶴を連れて雪村の里へ行く予定だったが……
やめた。
薫はどこか苦しそうに笑った。千鶴に似た優し気な風貌が、まがまがしくほほ笑む。
このまま沖田を、はかなく散った新選組最強の剣士などに祭り上げてやるものか。そしてそんな沖田を美しい思い出として懐かしむ千鶴にも我慢できない。
恵まれた甘えたあいつらには、俺と同じ思いをしてもらうよ。
薫は足音に気を付けながら屯所を後にした。
さてどうやって苦しめようか。
伊東を襲撃する日はわかった。やはり野良犬のような新選組にふさわしく、伊東を呼び出し酔って帰す夜道で奇襲をするという姑息な策だった。
酔って油断しているところを。さらに一人対多数で。夜に不意打ち。
「くっ」
夜道を急ぎながらも薫は吹き出してしまった。
あれで『武士だ』って言ってんだから笑っちゃうよ。鬼もまがい物、武士もまがい物。あそこにいるのはまがい物の奴らばかりだね。
西の鬼たちの屯所襲撃は、当然伊東襲撃の夜にするとして……千鶴の目の前で沖田を殺そうか。いや、沖田に殺される方があいつには応えるかな?
近藤を助けてやる代わりに千鶴を殺せって言ったら、沖田はどうするかな。千鶴を殺すよね、たぶん。
まあもちろん目当ての千鶴を殺されちゃあ困るから、本当に殺す前に沖田を殺さなくちゃならないけど。でも千鶴はその一瞬で、殺意のこもった沖田の目を見るはずだ。好いた男が自分のことを虫けらのようにしか思っていないという現実も知る。
「千鶴の人間への未練も断ち切れていいかもね。でもそれじゃあ沖田があっさり死んでつまらないなあ。千鶴を殺すか近藤を見殺しにするかで葛藤してくれればまだ楽しいけど……」
薫が見る限り、あれは千鶴の完全な片思いだ。沖田は特に悩みもせずあっさりと千鶴に刀を上げるだろう。
「沖田を苦しめてさらに千鶴も苦しめるには……」
思いを巡らせる薫の横顔を、秋の月が冴え冴えと照らしていた。
「選ぶのはあなたです。戦いたいと叫ぶだけか、これで羅刹となるか」
沖田が変若水を口にしたのはおそらく、自分のため。
薫は、羅刹となってまさに悪鬼のように羅刹隊を斬りふせていく沖田を見ながら冷静に思った。
薫と同じだ。
結局あいつも俺も、最終的には自分のことしか考えていない。自分の居場所をつくることしか。
沖田は、それを剣士である自分でなくては作れないと考え、変若水を飲んだ。新選組最強の剣士であるために。
新選組局長である近藤の役に立つ自分であるために。
千鶴のことなど眼中にない沖田。
部屋中に飛び散る血しぶきの中、茫然と沖田を見ている千鶴を見て、薫はいい気味だと思った。
求めても求めても受け入れられることがない感情を、妹も味わっているのかと思うと胸がすく。
そしてこれからさらに千鶴には地獄の日々が待ち受けているのだ。目の前で愛しい男が血にくるった化け物になっていくのを見守ることしかできない日々。ああ、そうだ。それに変若水を飲むきっかけになったのは千鶴のせいだと言うのも加えてやろう。千鶴が沖田を好きだから……千鶴が傍にいるから。だからそいつを苦しめたかったから、お兄ちゃんはそいつに変若水を与えたんだよと言えば、千鶴はさらに苦しむだろう。千鶴は自分の血をやるかもしれない。でもそれによって沖田はさらに血に狂う。
できれば沖田もそこでみっともなくあさましく生にしがみついてくれればなおいいんだけどね。こんな体になったのは千鶴のせいだと責め立ててくれれば。
お前は諸悪の根源だと、疫病神だと、出会わなければよかったと言えばいい。沖田にそう言われるのが千鶴は一番傷つくだろう。
自分の存在や性質を憎み、自分を憎むだろう。自分の存在すら消してしまいたいと思うほどに。
「くくくっ」
沖田の斬った羅刹隊の血が薫の頬に飛ぶ。
沖田はもう血まみれだ。
千鶴も血だまりの中に力なく座り込んでいるのが見える。
汚れてしまえ。
俺と同じに。
《冬の初め 藤堂平助》
「気にしてるんでしょ? 僕があれを飲んだこと」
夜、見回りをしていた平助は、総司の声が聞こえて足を止めた。屯所の壁の端から声がした方を見ると、総司と千鶴が庭に立ったまま話しているのが見えた。
「気に病むことはないんだ。僕が決めたことで、僕は悔やんでいないんだから」
総司がそう言っても、千鶴は納得してないみたいだった。
そっか、千鶴のやつ……気にしてんのかな。総司が変若水を飲んだ時傍にいたって話だから。
このままだと盗み聞きになってしまう。平助は立ち去ろうかどうしようか迷ったが、その場にとどまった。
総司のやつ、羅刹になったヤケで千鶴にあたったり、なんか嫌味とか傷つけるようなこととか言わねえよな……
総司は千鶴に向き直って真顔になる。
「君はもう、僕にかかわらない方が良いと思うな」
うわ、きっつ…!
平助は千鶴の気持ちを思って首をすくめた。総司のことを思ってる千鶴にはこれは応えるだろう。だけど、これでもう千鶴は、総司のことはあきらめて傷つきながらも引き下がるかもしれないと平助は思った。その方が千鶴にとってもいい。そういう意味ではこのきつい言葉は総司のやさしさなのかもしれない。
だが。
「嫌です」
驚いたことに千鶴は、総司と同じく目を見返して、真顔できっぱりそう答えた。その返事が意外だったことは、総司の驚いた表情を見ればわかる。
その上千鶴は、総司は総司だとか、総司が千鶴の役に立つから傍にいたわけじゃないとか、いろいろ叱り飛ばしている。千鶴の逆襲にぱちくりとさせている総司はこんなときでなければ笑える光景だっただろう。新選組一の剣士が、肩までしかない身長の女の子につけつけと言いつのられてタジタジとなっているのだから。
それでも総司はあきれたように、「やれやれ……そこまで言うなら、好きにすれば?」と、また突き放すようなことを言った。
平助は心の中で舌打ちをする。
もー! なんでそうくんだよ! 心配してくれてありがとうくらい言えないのかっての! 千鶴が可哀想だろ!
しかし、平助が千鶴の事を心配する必要なんてなかった。
「ええ、好きにしますとも」
千鶴はふんぞり返ってそう答えて、平助も目が点になる。総司は負けたというように苦笑いだ。
「なんか君、変わったよね。そんな性格だっけ?」と言う総司に、「そりゃこれだけいろいろあれば変わります。沖田さんだって変ったじゃないですか!」と言い捨てて、のしのしと千鶴は夜の闇の中へ立ち去った。
「あーあ……」
千鶴が去ってもその場から動かないで、総司は空を見上げてつぶやいている。やれやれ、と思いながら平助は声をかけた。
「どうすんの?」
総司が振り向く。「何が?」
「千鶴。……わかってんだろ?」
総司は、ここにも世話焼きが一人という呆れ顔をして平助を見た。
「なんで平助が気にするのさ。千鶴ちゃんのが好きなの?」
……こういう風に変にからかってるみたいに聞いてくるのが総司なんだよなー……と、付き合いの長い平助はスルーして真顔で答える。
「ちげーよ。いや、そりゃ好きだけど、そういう好きじゃねえし」
総司は苦笑いをして真っ暗な空を見上げた。
平助も見上げる。今日は月がなくて星明りだけだけど、羅刹の目にはよく見える。寒くなっている季節なのに寒さもあまり感じない。
もう人間じゃないんだよな……
チクンと痛む胸を平助は無視した。総司はそういうの、気にしてんのかな……と総司の顔を見るが、相変わらず何を考えているのかわからない。
「なんでそんなに人のことを気にするの? 平助なんて僕が千鶴ちゃんをどう扱おうが関係ないよね」
「そりゃそうだけど……。千鶴はいい子じゃん。悲しい思いをしてほしくないっていうか……」
仲間のことを心配するのってそんなに変か? 総司は小さく笑った。
「平助は……千鶴ちゃんもさ、余裕があるよね」
その言い方にトゲがあるような気がして、平助は総司の顔を見た。想像した通り冷たい色の瞳をしている。
「あいにく僕は自分のことだけで精一杯なんだよ。自分と……近藤さんのこと。それと剣。それ以外は迷惑」
あからさまに拒絶をされて平助はひるんだ。
「め、迷惑って……おまえのことを思って……」
「勝手に思ってるだけならいいけど、それに対してお礼が欲しいとか気持ちを返してほしいとか気にかけてほしいとか、そういう事を望まれても迷惑だよ。僕にはそんな余裕はない」
「おまえ、どうしてそういう……」
「こういう人間だってわかっててちょっかいをかけてきてるんじゃないの。拒絶されて傷つくのが嫌なら近づかなければいい」
カタンと音がして、平助は振り向いた。
千鶴が去って行った方、幹部棟につながる庭先の奥で何かが暗闇の中で動く。人間の目ならわからないけれど、今の羅刹の視界でははっきりと見えた。千鶴だ。
「ち、千鶴…!」
戻ってきたのか、なんで? ってか今の話……
千鶴は、傷ついた泣きそうな顔で言った。
「すいません、おやすみなさいって言おうと……」
「戻ってきたんだよね」
総司がわかってたように千鶴のセリフの後半を引き取る。
「総司、お前、知って……」
「せっかく平助が話を振ってくれたんだし、ちゃんとわかっておいてもらった方が良いと思って」
なんでおまえはそうなんだよ! 平助がかっとなって思わず本気で総司にそう怒鳴ろうとしたとき。
泣くかと思っていた千鶴は、平静な声で言った。
「お礼とか気にかけてほしいとか、思ってません」
「ち、千鶴……」
俺があんな話を総司に振ったせいて、俺のせいで……
おろおろしている平助とは好対照に、千鶴は落ち着いていた。総司は肩をすくめる。
「そっか。それなら別に気にしなくていいんじゃない?」
「ええ、気にしません」
千鶴はそういうと、立ち去ろうと一歩二歩と歩き出してからもう一回振り返った。
「おやすみなさい!」
そう言うと、足早に再び立ち去った。
「総司〜……」
いいかげんにしろよと総司に文句を言おうと平助が一歩詰め寄ると、総司は降参、とでもいうように両手をあげた。
「あとで聞くよ。今はちょっと行くところがあるから」
「何言ってんだよ、こんな夜中に行くところなんかないだろ! それより千鶴のこともっと考えてやれよ! 総司は千鶴のことなんにもわかってな……」
「だからさ、その千鶴ちゃんのところに行かないと」
「そうだよ! 千鶴になんであんなこと………え? 千鶴のところに?」
平助が目をぱちくりさせていると、総司は軽く片手をあげて踵を返した。
「そ。たぶんあそこでまたぐちぐち一人で悩んでる気がするんだよね」
そう言って小走りに去っていく総司の背中を、平助はポカンと眺めた。
あそこ……ってのは、よく千鶴が泣きに行って総司と会うっていう秘密の場所だよなたぶん……
二人の関係がわからなくなって、平助はしきりに首をひねる。わかったのは、平助のおせっかいなんて不要だと言うことだけ。
「はあ……」
平助はまたも心の中で千鶴に謝った。
《冬 沖田総司》
驚くほどよく見えた。
月灯りはあるけれど雲が多い夜なのに、辻の向こう側、かなり遠くにいる奴らの首筋から胴体にかけての急所が、そこだけがくっきりと目に入ってくる。
体も軽い。まるで滑るようにそいつらに近づくと、総司は一言もなく抜刀し、斬りつけた。
一、二、……四人か。
首筋から血を吹き出し、ゆっくりと倒れるそいつの恐怖に歪んだ唇が見える。すぐに視線を巡らすと、右側にいる薩摩藩士が剣を抜こうとしているところだった。
見開かれた目の瞳孔の動き、柄にかけた腕の筋肉の一本一本までくっきりと見える。
一歩踏み出して視線と殺気だけで威嚇すると、そいつは「ひ、ひいっ!」と叫び声をあげて剣を取り落した。その隙に後ろから斬りつけてきた剣を体を反るように起こして避け、空振りをした相手の背中を一突き。すぐに引き抜くと、血を払う間もなく先ほど剣を取り落した相手の首へと斬りつけた。
「ひあああああああっ!」
みじめな泣き声がそいつの最後の言葉だった。
そして最後の一人。
こいつは結構使えそうだな、と総司はふと楽しそうな顔をした。
あまりにもあっけなく死なれてもつまらない。
今の僕は最強だからね。
羅刹になったって言われても熱が出なくなって普通に生活できるようになったぐらいにしか思わなかったけど、これは確かにすごいかな。
頭の中での動きのイメージとぴったりの動きができる。
総司が健康だったころ、心も充実し鍛錬も厳しく積み重ね日々鍛え上げていた一時に感じていたイメージ。動きたい速さと方向、キレ、強さすべてが、自分の実際の動きとぴたりと合う。それが今だ。
おまけに、五感が鋭くなった。
ふとした匂い、風の動き、小さなささやき声、敵の表情や目の動きから、全てがわかるのだ。今の総司ならどんな達人からでも隙をみつけることができるだろう。
――ほら、そこだ!
恐怖に耐えきれず打ちかかってきた刃先を避けて、総司は胴を一斬りした。血しぶきが派手にあがって総司の頬と隊服に飛び散る。相手は一声もあげずに崩れ落ちた。
総司は剣を振って血を飛ばし、懐紙を取り出して刀の血を拭いた。
薩摩藩士はもうひとかたまりいるのだ。あの辻のさらに向こう。先ほどちらりと見えた。ああやって屯所の周りをうろちょろし、近藤が出かける時に後をつけるのだろう。
総司がそちらを見ると路地に影が動くのが見えた。
いた。
さらに、キラリと何かが月の灯りに反射した。
銃だ!
もしかしたらあいつらが、近藤さんを撃ったやつらかもしれない。いやたぶんそうだ。
総司の頭に血がのぼる。体中の血が沸き立つように感じ、筋肉が躍動するのを感じる。
殺してやる。一人残らず。
肉を断つ感触に手がうずく。月夜に飛び散る血しぶきを見たい。それを見ればこのたけり狂った血も落ち着くだろう。全身が泡立つような感覚を抑えきれずに総司はごくりと唾をのんで一歩踏み出した。
「沖田さん!」
突然の声に、総司の血の酔いは一瞬現実に引き戻された。
千鶴だ。
「……何しに来たの」
どうせうるさいことを言って止めに来たんだろう。今は構っている暇はない。総司が再び薩摩藩士の方へ向かおうとしたとき、今度は千鶴は総司の前に立ちふさがった。
「沖田さんを止めに来たんです」
総司は呆れて小さく笑った。戦闘の余韻で、笑うと言うよりは歪んだと言った方が良いような表情だったが。
「……僕を? 君が?」
小さな犬でも足元にまとわりつかれるのは邪魔だ。総司は心の中で舌打ちをした。千鶴は今の総司の戦闘が私闘だとか、まっすぐに信じた道を歩いてほしいとかわけのわからないことを言って総司の時間を浪費する。
こうしてる間にもあの銃を持った薩摩藩士が逃げてしまうのではないかと総司はイライラした。
「……君が何を言ってるのか、よくわからないよ」
何を言いたいのかわからない。君が僕を止められないのは明らかなんだから早くどいてくれないかな。
「自分を見失わないでください。本当に沖田さんの仕事は、感情に任せて剣をふるうことなんですか?」
違うに決まってる。そんなことは言われなくてもわかってる。
これは新選組の一番組組長の仕事ではない。でも新選組の剣――沖田総司のやり方だ。
僕の大事なのは近藤さんで、その近藤さんを傷つけたのはあいつらだ。報いを受けるのは当然だ。こんなところで、昔近藤さんにされたような『武士の生き方』や『志』、『人を斬る理由』を、新選組でもないこの子に説教されるほど馬鹿らしい時間の無駄はない。
総司はもうこの会話は終わらせようと、千鶴を見た。
「……ねえ、千鶴ちゃん。あんまり生意気な事ばかり言ってると、今日こそ君を殺しちゃうかもしれないよ?」
散々脅してきた総司だ。そして総司の中でもその言葉は本気だった。
これが僕の生き方だ。
近藤さんが悲しむのは知っている。新選組も困った立場になるのはわかる。だけど、近藤さんを傷つける奴は沖田総司に殺される、この事実だけが世間に広まれば僕はそれでいい。
武士とか志とか私闘とか感情に任せて剣をふるうとか。
そんなことはどうでもいいんだ。
千鶴はあきらかにビクリと身をすくませた。
総司の全身から立ち上る血なまぐさい本物の殺気を感じたのだろう。しかし彼女は総司から目をそらさなかった。
「私は、絶対にどきません」
下がりかけていた腕をさらにあげて、とうせんぼのように道をふさぐ。
その手が細かく震えているのが総司には見えた。
「どうしても行くつもりなら、私を殺してから行ってください!」
見つめ合う数十秒。
その間総司は、この高ぶった感情に任せてここで千鶴を斬り伏せることも考えた。いや、切り捨てずに腕で彼女の肩を押せば、それだけで彼女はよろけて道を開けるだろう。総司が彼女を置いて走り出したらもう追いつけまい。追い付くころにはもうあちらの辻の端にいる薩摩藩士をすべて斬り伏せられる。今の総司なら可能だ。
何かきついことを言ってひるませようかと総司は口を開き、そして気が付いた。
雲に隠れていた月が顔をだし、千鶴の恐怖にこわばった青い顔を照らす。
その顔の大きな瞳。二つの大きな黒い瞳の中。
総司が映っている。彼女の二つの瞳の中の総司が、こちらを見ている。
「……」
何故かわからないが、総司は言葉を失った。
この子は……この子は僕を見てる。
僕だけを。真っ直ぐにずっと。
そうだ、前から。総司を、総司だけを真ん中にして真っ直ぐに見ているのだ。
ふっと総司の中で張りつめていたものが切れた。
銃を持った薩摩藩士を追いたい気持ちは変わらない。だがここを動けない。
こんな小さなとうせんぼのせいで。
「君は……」
総司は千鶴から視線を外した。
負けだ。
「なんで君は、そこまでできるのかな。……変な子だよね、君って」
変な子だ。
何を考えているのかわからない。どうして僕にそんなに構うのか。どうして僕をそんなに気にするのか。
そして僕も変だ、と総司は剣を鞘に納めながら思った。
どうして彼女を捨て置いて薩摩藩士を殺しに行かなかったのか。
新選組の剣になれ、それが正しいことかなんて考えず近藤に害成すものをすべて斬れ――
山南にそう言われたのは何年前だろう?
近藤が期待するきれいな心なんてなく獣と同じなのが沖田総司で、それでいいと言われたのは。
なぜ今、僕は立ち止まったのか―――
総司はいくら考えてもわからない答えを、隣を歩く細い肩を見ながら考えていた。