ひととせがさね 5




 


《初夏 雪村千鶴》

怒鳴り合う声が聞こえてきて、千鶴は思わず足を止めてしまった。なんだろう? とその部屋を覗くと、中にいたのは土方と総司だ。
「こんな仕事、わざわざてめえが起き上がってやることじゃねえだろ! ほかのやつらに任せてお前は寝てろ!」
「もう熱は下がったって言ってるじゃないですか。何度も言わせないで下さいよ」
総司のうんざりした声と土方の怒鳴り声。
「前もそうやってまた熱が上がったんじゃねえか。今日一日は寝てた方がいいって言われてんだろ?」
 どうやらなかなかすっきりと本調子にならない総司を心配して、土方が叱りつけているらしい。総司の周りには他の組の活動の割り振りが書いてある紙が散らばっている。
言い合いをしたせいか、ゴホッと総司が咳き込むと土方は舌打ちをした。
「早く自分の部屋へ戻れ! これは左之に言ってやらせておく」
 バサッと総司が手に持っていた紙をとりあげ、土方は散らばっている紙を集めだした。
「……ったく斎藤達が御陵衛士で抜けて忙しいのに手間かけさせんな」
 紙を取り上げられた総司は、悔しそうに唇をかみしめている。
 千鶴は立ち去った方がいいのか仲裁に入った方がいいのかその場でオロオロとあたりを見渡した。一度障子に手をかけたものの、千鶴が口を出すようなことではないのでは、とためらっているうちに、中から総司の声が再び聞こえてくる。
「……僕なんか眼中に無しって感じですか」
 紙をまとめながら土方が総司を見る。「なんだそりゃ」
「新選組をどうするか、近藤さんをどうするか、土方さんの頭の中にはそれだけで、使えなくなったコマはもう用無しってことですよ」
 千鶴はハッとして、障子の影から総司を見た。土方も驚いたように総司に言う。
「……使えなくなったって、何言ってんだてめえは。単なる風邪だろ」
「だからこれぐらいできるって言ってるんですよ。単なる風邪ですから!」
総司の高ぶった声に引きずられたのか、土方も声を荒げた。
「ごちゃごちゃうるせえ! いいから寝てろ!!」
ドスの利いた本気の声だ。
「これは副長命令だ」
 総司はぐっと言い返す言葉につかえた。そして自嘲するように笑うと、
「土方さんはいつもそうだ。おまえにはまだ早い、おまえには無理だって……聞き飽きましたよ!」
 そう言い捨てて、勢いよく障子を開けた。ちょうどそこにいた千鶴と鉢合わせになり、総司は驚いたような顔をする。千鶴は、総司の表情を見て胸が痛んだ。
 風邪じゃないのは自分が一番よくわかってる。思い通りにならない病状や、微熱のつづく重い体。通常の業務から置いていかれるような疎外感。
行き場のない思いが、総司の顔には溢れていた。
総司はそのままふいっと顔をそらすと、出て行ってしまった。
 開け放した障子から、土方と目が合う。
「……みっともねえとこ見られちまったな」
「すいません。のぞき見みたいいになっちゃって……」
千鶴はおずおずと部屋に入ると、土方を手つだって散らばった紙を集めだした。
「いや、いいんだ。最近あいつと話すと毎回あんなんだよ」
あきらめたような苦笑い。千鶴は集めた紙を土方に渡す。
「……土方さんにだけ、あんなふうにできるんだと思います」
「俺にだけ?」
きょとんとした土方に、千鶴はうなずいた。
「あんな風に言う沖田さんって、私にはすごく珍しくて……きっと土方さんには素の自分をだせるんじゃないかなって。兄弟みたいな感じで」
 土方は自嘲するように笑った。
「そんないいもんじゃねえよ。あいつにとっちゃ俺は目の上のタンコブだろ」
 千鶴はそういいながらも総司の後始末をしている土方を見た。心配したのに反発されて、それでも後片付けまでしてあげている新選組の副長。そしてそれを特に不満とも思っていない土方に、やっぱり総司は甘えているよねと千鶴は思う。
 越えたくて、越えられなくて、でも本当は憧れてるんじゃないのかな。
「土方さんみたいに心配してくれる人がいるのがありがたいことだって、きっと沖田さんもいつか気づいてくれると思います」
 土方と総司の当人同士がいくら喧嘩しようと、やっぱりはたから見れば仲のいい兄弟のようだ。深刻なことにはなるはずがないと安心していられる。千鶴がほほ笑みながらそういうと、土方は紙を文机にまとめてふと手を止めた。
「あいつは……総司は、ガキのころからあんまり人に心を開く性質じゃなくてな」
そうだろうと思いながら千鶴はうなずいた。土方は続ける。
「人から気にかけてもらうのを嫌がるところがある。たぶんガキの頃に家を出されたこととか、道場のやつらに折檻されたことがかかわってるんだとは思うんだが」
 千鶴の目が大きく見開かれたことに気づいて、土方はうなずいた。
「そうなんだ。俺が会ったころはもうそんなことはなかったんだがな。近藤さんの家に行ったばかりのことはひどかったらしい」
「……知らなかったです……」
 あの総司が。いつも余裕があってどこか冷めた目で全体を見ている彼が? 誰よりも強くて、でも誰よりも努力しているあの人にそんな過去があったなんて。
「だからかどうかはわからねえが、あいつは自分を大事にしねえんだ。俺や近藤さんが心配して寝てろって言っても、見当違いに受け止めやがる。近藤さんはなんていい人なんだってな。それで、『そんな人のためにもっと頑張らねえと』ってなっちまう」
 土方は文机の向こう側に落ちていた最後の一枚を拾う。
「だから俺が寝てろって言ってもきかねえ。心配されてるとは思わねえんだ。わかるか?」
 あっと千鶴はうなずくものがあった。
「私も……私も同じようなことを前に言われたことがあります」
 風呂上りでぬれた髪のまま涼んでた総司の世話を焼いたときに、心底不思議そうに『どうして君が僕を心配するの?』って聞かれたっけ。
土方はあきらめたように小さく笑った。
「どうせさっき俺が寝てろって言ったこともまったく気にしちゃいねえだろ。今頃どこにいるんだか」
 探しに行くか、と立ち上がった土方に、千鶴は言った。
「私、たぶんどこにいるかわかります。あの、行って部屋で寝てるように言ってきます」
「いいのか?」
 はい、とうなずく千鶴に、土方は笑った。
「俺が言うよりは効くかもしれねえな。じゃあ頼んだぞ」
「はい!」
 千鶴が立ち去ろうとしたとき、土方に呼び止められた。
「はい?」
「………その、あいつは本当に安静にさせておきてえんだ。……よろしく頼む」
「……土方さん……」
 二人はしばし見つめ合う。千鶴は小さくうなずいた。
「はい……!」
 土方さんは気づいてるのかもしれない。
 気づいてて、新選組の今の状態や沖田さんの気持ちを考えて、黙ってるのかも……
千鶴は、総司を探しに走りながらそう思った。

 多分あそこじゃないかと思っていたところに、総司はやはりいた。千鶴がいつも泣くときに行く場所。総司が金平糖をくれる場所。
 総司はこちらに背中を向けて大きな石に寄りかかるように腰かけていた。石の上には、いつもここにいる黒猫が今日もいる。最初に来た時はまだ仔猫だったが、今はもう貫録十分の成猫だ。
「沖田さん」
 恐る恐る呼びかけたが、総司は振り向かない。
「何。一人でいたいんだけど」
 冷たい声だ。千鶴はひるんだが、総司の背中がどこかさみしそうに見えてその場に踏みとどまった。
「……私が一人でいたい時も、沖田さん、いなくなってくれませんでした」
 千鶴が泣いてても沈んでいてろくに返事をしなくても、総司は気にせずこの石に座り込んであれやこれやとうるさく話しかけ金平糖を千鶴の口に勝手に放り込み、いつの間にか千鶴の機嫌を直してくれていた。
 総司は頭だけ動かして、ちらりと千鶴を見た。
「……土方さんに言われて探しにきたの?」
「土方さんに言われてっていうか……沖田さん、ちゃんと寝てないとだめですよ」
 千鶴はそういうと、総司に歩み寄った。そして、腰かけているせいでいつもより少しだけ近くにある総司の額に、熱をはかろうと手を伸ばす。
 総司は、ハッとしたように後ろに体をひいて千鶴の手を避けた。
「あ、ごめんなさい。触られるの、嫌ですか?」
 千鶴は空中で止まった手を所在なさげに揺らす。総司の瞳に浮かぶ警戒するような色を見て、少しだけ胸が痛んだ。なかなか触らせてもらえない、後ろにいるネコと同じだ。
 ふいに総司が小さく笑う。
 それとともに、警戒で冷たく薄い色になっていた緑の瞳が、柔らかく若葉色ににじんだ。
「……君ならいいか」
 そういうと素直に額を千鶴の手に合わせてきてくれた。
その仕草に千鶴の胸はドキンと強く打つ。柔らかな茶色の髪が千鶴の手の甲をくすぐり、手のひらには総司の滑らかな額の感触。そういえばこんなに近くに来て顔を見合わせて触れるのは初めてかもしれない。
 千鶴の顔が赤くなる。胸がどきどきして、耳が熱くて、触れている手のひらがとても敏感になったように思える。
 わあ…。髪が……柔らかい。猫の毛みたい……
湯上りの髪を拭いた時は濡れていたせいで、この手触りまではわからなかった。そういえばあの時も総司は驚いたみたいで、途中でもういいよって言ってたっけ。やっぱり触られるのは好きじゃないのかな。
 総司の長いまつげがすぐそばに見えて、千鶴のドキドキが強くなる。まつ毛も黒ではなく、でも髪ほど茶色でもなくこげ茶だろうか。ぼーっとしてみていると、そのまつ毛が上がり、上目遣いの緑の瞳と至近距離で目があった。
「熱はある?」
 総司の声に、千鶴はハッとした。「い、いえ。無いみたいです」
「でしょ? 土方さんはいちいちうるさいんだよね」
 ふいっと総司はまた体を起こし、千鶴の視界から総司のきれいな緑色の瞳が遠ざかってしまった。
 じんじんとしているような感じがする自分の手のひらを、千鶴はそっと握って、なぜか体の後ろに隠す。手のひらで感じたドキドキが、総司に伝わってしまいそうな気がして。
「土方さんは……心配してるんですよ」
 動揺を隠しながら、総司の言葉にとりあえず答えると、総司は首を横に振った。
「まさか! あの人はそんな人じゃないよ。新選組のことしか考えてないんだから」
「……」
 千鶴は総司の顔を見た。
「そんなこと……ないと思いますけど……」
 さっき土方さんは、そりゃあ沖田さんの体が心配なんだ、なんては言ってないけど。でも普通に聞いたら新選組の仕事よりも沖田さんの体調を気遣ってるってわかるよね。
 しかし総司はきっぱりと首を横に振った。
「千鶴ちゃん、まだまだ土方さんのことをわかってないね。あの人はそんな人じゃないよ。僕のことを心配してくれるのは近藤さんみたいな人ぐらいかな」
『人から気にかけてもらうのを嫌がるところがある』

 千鶴は先ほど土方が言った沖田の性質についての言葉を思い出した。
嫌がってる……のかな? ううん、嫌がるっていうか……
「わ、私だって……沖田さんのこと、心配してますよ……?」
 千鶴がそう言うと、総司は相変わらずほほ笑んだまま千鶴を見た。
「そりゃあ君は僕の秘密を知ってるし。お医者さんの娘だから養生の仕方についていろいろ気になるんでしょ」
「……」
「ありがとね。でも気にしなくてもいいんだよ」
 違う。
 嫌がって拒絶してるわけじゃない。
 総司の笑顔を見ながら、千鶴はようやく気が付いた。土方も、たぶん近藤すら気づいていないのかもしれない。
 沖田さんは、自分を心配する人はいないって思ってる。
土方が総司に横になるように言うのは、新選組の剣である総司が体調を崩してばかりだと困るから。近藤が総司を心配するのは、近藤が心が広く優しい人格者だから。そして千鶴が総司を心配するのは……労咳を知っていて、医者の娘だから……
 沖田さんが大事だから熱やしんどい思いをしてほしくないから、ずっと元気に笑っていてほしいから、ずっと一緒に生きたいから、だから心配してるんだなんて思ってもいないだ。
 どうして?
『たぶんガキの頃に家を出されたこととか、道場のやつらに折檻されたことがかかわってるんだとは思うんだが』
 そうなのか。それ以外にも理由があるのかもしれない。
 千鶴は初めて総司を見るような気持ちで、あらためて目の前の彼を見た。総司は自分の後ろで、ネコがのびをしているのを見ている。
「話し声がうるさくて起こしちゃったかな」
「その猫も…いつもここにいますね」
 何か言わないといけないような気がして、千鶴はそう言った。
「そうだね。別にお互い特に構わないのに、なんかいると安心するよね」
「沖田さん……」
 心配するのはその人が大事だから。
 愛しているから。
 沖田さんは、自分が他人から愛される存在だって思ってないんだ。
 拒絶されているわけではない。嫌われているわけではない。単に総司の目には千鶴は映っていないだけ。     
誰も映っていない。
 千鶴は足元から冷たい水にひたひたと浸かっていくような気持ちになる。
 総司も哀しい。
 そして、千鶴も。
 でも総司には、その水が冷たいなどと思う感情もないのだろう。手で触れられるくらい、こんなに近くにいるのに。
 千鶴は無意識のうちに手を伸ばしていた。
 先ほど熱を測った時のように、総司の額に触れる。総司は少し驚いたように緑の目を見開いたが、今度は何も言わず千鶴が触れるがままにさせていた。
「……どうしたの?」
 総司が、優しい口調で聞いた。
「え?」
 千鶴が聞き返すと、総司は困ったように笑った。
「なんか泣きそうな顔してるからさ」
「……」
 喉の奥に大きな塊が仕えているようで、千鶴は言葉が出なかった。にじんでくる視界を必死で我慢する。
 総司は何も言わずに、そんな千鶴を見ていた。

 

《夏 近藤勇》

パカン! ときれいな音がしてスイカが割れた。
「わあ! おいしそうですね!」
 千鶴が歓声を上げると、出刃包丁を持っていた近藤が満足そうに笑った。
「そうだろう? 一番おいしそうなやつを選んでもらったんだ」
「あっすいません。近藤さんにこんなことをさせてしまって……」千鶴が慌てて包丁を受け取る。
 夏場、食欲をなくしている総司のためにと近藤がまたスイカをもってきてくれて、千鶴では力が足りずなかなか切れないのを見て代わってくれたのだ。
「あいつに持っていってくれるか? こんなものでも少しは慰めになればいいんだが」
「はい。前の時も食べてましたし」
 近藤は千鶴を見ると顔をほころばせた。「前の時は君は浴衣を着ていたんだったな、総司も新鮮だっただろう。君もその方が涼しいだろうに、すまないな」
「いえ、そんな……しょうがないことだってわかってます」
「……」
 近藤は、さらに西瓜を食べやすく切っている千鶴を見た。   白く細いうなじ、繊細な指先。
 拾ったときはまだ子供だったが、今となっては男装では隠し切れない女性らしさが漂っている。近藤はため息をついた。
「どうも……すまないな。総司といい、君といい……本来ならもっと違った人生があったのかもしれんのに私のせいで」
 ふいに気弱になったのは、幕府で様々な要人と話し、広い世界を知るようになったからかもしれんな。
 武士の志、幕府への忠誠。
 それは揺らがないが、時代がかわりつつあるのを近藤は肌身で感じていた。このまま徳川の世を続けることを愚直に正義と信じてすすむことで、自分についてきてくれる仲間たちを不幸にするのでは。事実、総司は……
「近藤さん?」
 千鶴の大きな目に覗き込まれて、近藤は小さく笑った。
「いや、総司は……総司を京に連れてこない方がよかったのではないかと思ってな。あのまま多摩に置いてきていたら、人斬りとよばれることもなかっただろうし、あんな病気にかかることもなかっただろう。あいつが俺を慕ってくれていることはわかっているのだが、俺がきちんと考えてやっていれば……」
 総司には、近藤や土方が持っているような志がないのだ。
武士としての志をもって剣をふるってほしいと思っているが、そして総司にもそれは伝えたが。
 近藤が見る限り、総司には人を斬る大義は、『新選組のため』。それしかない。そんな心に、あの恐ろしいまでの剣の腕。人を殺すことへの迷いのなさ。         
その総司が、どうも昔から気をかけてやっていた無邪気な少年の総司にそぐわない気がするのだ。少年の時の総司のままでいてほしかったと思ってしまう。
「山南さんには、いい加減弟離れするようにと説教をうけたのだがな」
 近藤はそう言って、頭を掻きながら苦笑いをする。
 そうだ、総司ももう大人の男なのだ。ああいう生き方を望んでいるのなら俺が口を出すことではない……のだが。また弟離れできていないということなのだろうな。
「いや、すまないな。長々と自分の悩みを話してしまった」
 千鶴は首を横に振った。
「いいえ、近藤さんみたいなすごい人でもそんな風に悩むんだなって、なんだか少し安心しました」
 その微笑みに、近藤は少し心配になる。
「何か悩みでもあるのかい? 私にできることならなんとかするが」
「……私の、その……出自のせいで、新選組のみなさんが鬼から襲撃されているので……。私がこちらでお世話になっているせいでみなさんにご迷惑をおかけしているのがとてもつらいんです」
「何を言ってるんだ! 迷惑だなんてそんなことはない。逆にこちらの都合で君を閉じ込めてしまっていて申し訳ないと思っているんだ。守るくらいはさせてくれ」
「でも……」
「自分のせいだなんて思わなくていいんだ。私たちはみんな自分の意志で君を守ってるんだよ」
「近藤さん……」
 自分のせいだなんて思わなくていい。自分の意志で……
 二人は顔を見合わせて、同じことに気が付いてぷっと吹き出した。
 近藤が照れたように頭を掻く。
「いや、そうだな。私の悩みも、同じだ。自分のせいだなどと思わなくてもいいのか。総司の意志もあるのだしな」
千鶴もくすくす笑いながら、切り分けた西瓜をお盆の上にのせた。
「私も、閉じ込めてしまって申し訳ないなんて思わないでください。最初は怖かったんですけど、今はもう……」
 なごんだ空気に、近藤は西瓜のきれっぱしをつまみながら聞いた。
「今はもう怖くないかい?」
「はい。怖いどころか、楽しいです。私、同じような年頃の人達と過ごしたことがあまりなかったので、寺子屋とかこういう感じなのかなって」
「同じ年頃の友人と過ごしたことがない?」
 確か小太刀の道場に行っていたと言ってなかったか? それに彼女は読み書きそろばんは一通りできている。
「勉強は父が仕事の合間をぬって教えてくれました。本当は寺子屋に行きたかったんですが、母がいないので私がお客さんの相手とか患者さんの世話とか家のことをしなくてはいけなくて。小太刀の道場も、ただ習いに行くだけだっ たんです。でもそれがとても楽しくて、熱心に通っていました」
「そうだったのか……」
 小さなころから近所の子どもたちのガキ大将として遊びまわり、道場でも同じような年齢の男たちと転がりまわりながら成長した近藤には、千鶴の環境が想像もつかない。
「じゃあ、友達はいなかったのかい?」
千鶴は少し考えるようにして視線をさまよわせる。
「そう……ですね。同じくらいの、定期的に会うような友達はいなかったです」
「兄弟もいないのだろう?」
「はい」
「じゃあ一人で家のことを……」
 言いかけて近藤は気づいた。そうだ、それは総司も同じだ。近藤の家に来るまではそれなりに普通の子どもとして育っていたらしいが、試衛館に来てからは友達と遊んでいるような暇はなく、下働きをさせられ空いた時間は剣の稽古を自主的にしていた。同じくらいの年の子どもはおらず、皆年上の荒っぽい男ばかり。
 近藤は、初めて見るような眼で千鶴を見た。
 こんなに小さく華奢で、吹けば飛んでしまいそうなこの子が……長い間のさみしさに耐えていたんだなあ。
 彼女は総司のことを気にかけてくれているようだし、同じような孤独な境遇がどこか心に触れたのかもしれんな。
「そうか。ここは……ここは、あまり自由は無いし君にとっても年上の男ばかりだが、気のいいやつらだ。君がすこしでも楽しんでくれているのなら、それは私も本当にうれしいよ」
 千鶴は笑顔で近藤を見上げる。
「たぶん、近藤さんのお人柄のおかげで、私もここで楽しく暮らせるようになったんだと思います。ありがとうござます」
 お礼を言われて近藤の方が慌てる。
「いやいやいや、そうはいっても若い娘さんをこんなところに閉じ込めていることには変わらん。鬼とかいうやつらからは必ず守るし、お父上もさらにいっそうさがさねばならんな」
 ふふっと近藤を見て笑った千鶴に、近藤も笑い返す。
「なんだい?」
「まえに沖田さんが言っていたことを思い出したんです。『大事に思ってもらうより、誰かを大事に思う方が幸せだ』って。その人が好きでその人の役に立ちたいって思える大事な人ができるといいねって言ってました。だから沖田さんは近藤さんの傍にいることができて、今とっても幸せなんだと思います」
 総司がそんなことを……その信頼に今の俺はきちんと応えられているだろうか。
 近藤は新たに気が引き締まる思いだった。
 迷いは薄れ、逆にもっと頑張らねばと腹の底から思いがこみ上げる。
「いや、総司をなぐさめようと来たのに、逆に私が慰められてしまったな」
 そうだ、大きくなった新選組に昔からの仲間。
総司に千鶴。
近藤の背中には今やたくさんのものが乗っているのだ。迷っている暇はない
 過たず道を行けるよう、改めて努力しなくては。近藤が誠の道を行けば、後をついてくる総司も同じ道をたどることになるのだ。
 時代の流れが変わったとしても、変わらない誠もきっとあるはずなのだから。

 

 

 

6へ続く


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