ひととせがさね 4




よとせ 




《冬 沖田総司》

部屋へ戻ろうとして、ふと気が変わった。ポカポカと暖かい日差しがあたっている階段が気持ちよさそうで、そこで日向ぼっこをしたくなったのだ。
 総司は廊下から一つ下がった段に座ると、ふうっと腹の底から息を吐いた。
 熱も下がって風呂にも入って。天気もいいしここから見える寺の境内は、きれいに手入れされていて気持ちいい。昨日まで降っていた雨があがって、これからはこんな感じで雨のたびに少しずつ暖かくなっていくのだろう。押し込まれていた狭い部屋や、寝苦しい夜に比べたら天と地の違いだ。
 総司はぼんやりと、境内にある水たまりを眺めていた。
空っぽな頭の中に、先ほど見ていた悪夢がよみがえる。
 胸が痛い。痛いというよりは……重いと言うのだろうか。息がしにくかった。体の芯は寒いのに外側は妙にほてって暑くて、気持ちの悪い汗が夜着にしみこんで不快だ。夢の内容は覚えていないが、感情は今もまだ胸の中にある。     
伸ばした手を、誰もとってはくれない。
記憶にない母も。自分を育ててくれた姉も。
 今さらどうということもない、慣れ親しんだ感情で、そもそも自分というのはそういう存在なのだからしょうがないという認識もある。あきらめているわけでもなく、苦しんでいるわけでもない。
 そういうものなのだ。
 だが、夢の中では総司は子どもに戻って、なぜ、なぜと答えのない問いを繰り返していた。
「久しぶりだなあ……」
 境内の水たまりを見ながら、総司はぼんやりとつぶやいた。近藤の道場に引き取られた後、大人になるまで。もうすっかり忘れたと思っていたのに。
 ポツン、と水たまりに波紋ができた。
 天気雨かな?と総司は空を見上げる。水たまりの波紋は、一つ広がりまた一つ、もう一つ広がると、そのあとは静かになった。
 あんな感じかな……と総司は相変わらずぼんやりと思った。あの重なり合った波紋を、さっきまで見ていた夢の中での感情を重ねながら見ていてふと思った。
 総司にとって、世の中の人は皆、あの波紋のようだ。母は亡くなった父とあの波紋の中にいて、姉は夫と子どもとで別の波紋の中にいる。どちらも波紋の中にいる相手だけを見て、外にいる総司のことは見ていないのだ。
 近藤の道場では、兄弟子達が作っているたくさんの波紋が重なり合っていたが、どこにも入れず、また入りたいとも思わなかった。優しくしてくれた近藤は、唯一総司と一緒に波紋を作ろうとしてくれた人かもしれない。でも近藤は皆に愛されていて総司のものより別にもっと大きな波紋を持っていた。そっちにいるのは土方で、近藤はやはり総司には半分背を向け時々総司の波紋に来てくるだけ。
 総司が初めて波紋の中いると自覚できたのは、新選組だった。一番組組長として責任のある仕事を任され、自分の腕も磨き、部下を指導し、不逞浪士を取り締まる。波紋の中の皆が自分を見てくれて、仲間に入れてくれた。手を差し伸べてくれて、伸ばした手を握ってくれたのだ。
 だが、それもあとわずかだ。いや、実際の隊務にあまり参加できていない今は、もうすでに波紋の外かもしれない。
 だからあんな夢を見たのかな……
 今の総司は、新選組の皆が作っている波紋を、外から眺めているだけだ。
 まあ、定位置といえば定位置だけどね。
 そう強がっては見るものの、心の奥の底の底ではひりひりするような焦燥や口惜しさがあるのも自覚はしている。考え出すと気が狂いそうになるので普段は目を背けてはいるが、病と熱と悪夢がそれを呼び起こした。
 駈け出して何かを無茶苦茶にしたくなるように苛立ち、
大声で泣きわめきたくなる気持ちがこみ上げてくる。我慢しきれなくなって爆発したら皆は驚くだろうか。    
総司がぐっと手を握りしめた時、軽やかな足音が後ろから聞こえてきた。
 廊下に腕をかけてそちらを見てみると、千鶴だった。
総司の張りつめていた糸はふっと緩む。千鶴は新選組の波紋の中には入っていない。今の総司と同じで、だからこそ気が楽だ。
「あれ、千鶴ちゃん? こんなところでどうしたの?」
そう声をかけたら、彼女はお化けでも見たように目を大きく見開いて立ち止まった。
「どうかしたの、千鶴ちゃん? 僕がここにいると意外?そんな顔されると心外かなあ。僕がお化けか何かみたいだし」
かるーく言ったら、彼女はわなわなと震えだした。
「ど、どうして―」
 怒りすぎて言葉にならないみたいだ。何をそんなに怒っているのか。彼女の行動はいつもよくわからない。
「どうしてそんな恰好で外に出てるんです?」
 怒りの余りか声が裏返っている。その様子が面白くて、総司は吹き出しそうになるのを我慢してさらに千鶴をからかった。
 どうやら千鶴は、労咳の総司が湯冷めをしてまた体調を崩さないかと心配していたみたいだ。
「千鶴ちゃん、さっきから気になってたんだけど、どうして君が僕を心配するの?」
同じ波紋の輪の中にいるわけでもなし。
波紋の輪の外にいる人間には、普通はみんな怒るほど心配もしないしたいして関心もない。そいつを見て話をしているのに、瞳には映っていない。そんなものなのに。
「自分でも……、よくわからないんです」
不思議そうな顔をして首を傾げる彼女に、総司はまた吹き出した。変にうわべを取り繕うよりもよっぽどいい。
 笑った途端に咳がこみ上げてきて総司はむせた。胸が痛んで楽しかった気持ちは少しだけ目減りしたけれど、それでも千鶴が来る前の気が狂いそうな閉塞感は今はきれいになくなっていた。

 

《春 原田左之助、斎藤一、藤堂平助》

「ほらよ」
左之の声と共に、ぴらりと何かが総司の視界を遮った。
「文?」手に取ってみると、淡い桃色の飾り結びをした文だ。
 ちょうど屯所の近くの桜も膨らみだしていて、今の季節にぴったりの色。春らしくすっきりしない花曇りの午後、たまたま時間の空いた皆が何となく集まって刀の手入れをしている。
 総司はその文をポイッと横に置くと、再び刀の手入れを始めた。すでに手入れを終えて暇そうに隣に寝転んでいた平助が、文を拾う。
「あーこれ、昨日島原で預かってたやつだろ。総司宛てだったんだ」
左之はどっかりと座ると、自分も持ってきた手入れ道具を広げた。
「お前もたまには遊びに行けよ。去年のあの千鶴の時の騒ぎで、角屋の女どもが総司と連れてこいってうるさくてよ」
「左之さんが相手してあげてくださいよ。僕は忙しいんで」
つれない総司の答えに、左之は「あ〜あ」と苦笑いだ。「島原からの呼び出しで総司が飛んでくのは、千鶴からの文だけか」
 どこか含みを持った左之の言葉に、平助と斎藤は顔を見合わせる。
 昨年の千鶴の潜入の時は、総司は文が来たことを誰にも言わずに自分で島原まで行ったのだ。何故声をかけてくれなかったのかと疑問に思わないでもない。
「そういえばそうだな」
「なあ」
総司は吹き出した。
「何言ってるのさ、あれは仕事でしょ」
「それだけか?」
 斎藤の無表情の聞き返しに、左之と平助は総司の表情を見た。さすがにここまで言われたら勘ぐられているのに気付くだろう……と思ったのだが。
「もちろん。他に何があるのさ?」
 総司は心底不思議そうな顔だった。三人は心の中でため息をつく。この顔が本音なのか演技なのか、考えを読ませないことにかけては一枚上手の総司の内心は、ここにいる皆にはわからない。
「……では質問を変えよう。あの時なぜ千鶴はお前を呼び出したのだと思うのだ?」
斎藤の質問に、総司は肩をすくめた。
「さあ? そんなのあの子に聞けばいいんじゃない?」
「俺が聞いているのは、『お前は』どう思うのか、ということだ」
 ここまで聞かれたら、のらりくらりとかわすのがうまい総司と言えども、答えざるを得ないだろう。
「うーん……」
 総司は刀の手入れが終わったのか、道具を片付けながら考えるように境内の裏庭を見た。そこは春を敏感に感じた雑草が芽吹き始めている。平助も横から口をはさむ。
「以前、勝手場から千鶴が助けを呼んだ時も総司だったろ? 千鶴ってよく総司を頼ってるよなって」
「僕が思うにね……」
 総司がいたずらっぽく緑の瞳を輝かせてそう言い、皆は続きの言葉を待つ。
「餌付けの効果だと思うな」
「餌付け?」
驚く皆に、総司はうなずいた。
「そ。屯所にある僕のお気に入りの場所で時々あの子と会うんだよ。で、その時持ってたお菓子をあげたりしたからじゃないかな。なつかれちゃったんだね」
「菓子……」
会話の流れは、三人が意図していたのとは百八十度違う方向に向かってしまった。
「金平糖の時が多かったかなー。近藤さんがいっつも僕にくれるから。あの場所、夏は涼しくて冬はあったかくて人目につかないし誰も来ないし、気に入ってたんだけどな」
平助が気を取り直して聞いた。
「そこで千鶴はなにをしてんだよ?」
総司は三人を見る。
「泣いてる」
「え?」「泣く?」驚く三人に、総司は軽くうなずいた。
「そう。迷惑なんだよねー、勝手にあの場所を泣く場所にしてるみたいでさ。せっかくくつろぎにいってるのに隣で泣かれてちゃくつろげないでしょ? だから金平糖をあげて泣き止ませるのが習いになっちゃって。だから僕になついてるんじゃないかな」
なんで僕がいっつもこんな役……とぶちぶち総司は言っている。
 なるほど、皆が知らない総司と千鶴の二人だけの時間があったのかと、斎藤と平助は視線を交わらせた。千鶴も気丈とはいえ来たばかりのころはまだ小さかった。親元を離れて不安だったり、屯所での生活がつらかったりしたこともあっただろう。いまだって、女一人でこんなむさくるしいところに軟禁されているのだ。泣きたくなることもあるのかもしれない。それをいつも総司がなぐさめているのなら(……なぐさめるなんてこの男にできるのか?)、そのせいで千鶴が総司になついているだろうと思うことは不自然ではない。
 千鶴には隠せていない恋心があるのはわかるが、総司の方は本当に気づいていないのかもしれないな……
と斎藤と平助が考えていた時。
 左之だけは騙されなかった。
「ふーん」
と何事かを考えているような眼で総司を見る。
「その場所ってどこだ?」
左之に聞かれて、総司は「場所ですか?」と聞き返した。左之はうなずく。
「そう。そんなところで一人で泣いてるなんざ可哀想だろ? お前もなだめ役が面倒みたいだし、俺が変わってやるよ。場所を教えてくれたらちょくちょく見に行って、千鶴が泣いてたら俺がなぐさめといてやるから」
左之は総司の瞳を覗き込む。
「だから場所を教えろよ」
「……」
総司は左之の顔をしばらく見返す。そして、手入れ道具を持つと立ち上がった。
「あの場所は僕の秘密の場所なんですよ。いくら左之さんといえども教えられないですね」
総司はそういうとにっこりとほほ笑み、その部屋を立ち去った。
「ほれみろ」
左之が呆れたようにつぶやく。
平助と斎藤は、また顔を見合わせた。

 

《春 藤堂平助》

平助は雨の音で目が覚めた。
目の前は真っ暗。バタバタと大粒の雨が屋根を打つ音が響いている。一度耳につくと気になって再び寝入るタイミングを逃してしまった平助は、ついでだからと腹のあたりを掻きながら厠へと行くために立ち上がった。
 この雨で桜も散ってしまう。春とはいえ雨が降ると冬に逆戻りしたような寒さだが、この雨が終わればまた季節が変わり一段と暖かくなるのだろう。
 平助は身をすくめながら部屋を出ると、滝のように屋根から滴っている雨を見ながら厠へと向かった。
 厠を済ませて戻ろうとすると、廊下の端に何か黒い影があるのに気が付いた。
 ん? なんだありゃ?
 寝ぼけてるのかと目をこするがそれは消えない。全く動かないが……
「……総司?」
 それはゆっくりと振り向いた。
やっぱり総司だ。暗闇に慣れた目には顔が見えた。厠に行っている間に起きだしてきたのか。廊下に座って柱に寄りかかって庭を……いや、雨を見ている。
「平助。どうしたのこんな夜中に」
「いや、厠。おまえこそ」
「雨の音で目がさめちゃった。昼間寝てばっかりだし動かないから眠れないんだよね」
「あ、そっか」
 最近また風邪で微熱が続いて、総司は隊務を休んでいたのだ。平助はそういうと、総司の横に立って雨粒を避けながら空を見上げた。廊下や屋根に当たった雨粒がはじけた雫が、パラパラと脚や顔にあたる。
 しばらく無言で二人で雨を眺める。
「いついくの」
「え?」
「御領衛士。いくんでしょ?」
「ああ……その辺は伊東さんが近藤さんと話してっから」
「ふーん」
 平助は横目で総司を見た。
思えば総司とも長い付き合いだ。一緒に京に出てきて共に苦労しながら新選組をここまで大きくした、同志と言えば同志だ。少しばかりだが後ろめたいような、裏切ったような気がしなくもない。
 平助は何か……たとえば謝罪のようなものを言った方がいいかと思ったが、総司の顔を見てやめた。総司は全く何も気にしていないような普段通りの表情で雨を眺めている。
 まあそうだよな。そういうのこいつのガラじゃねーし
「ま、でも今日明日じゃねえよ。明日、俺巡察だしな。ああ、そういえば千鶴連れてくんだっけ」
「ふーん」
興味無さそうに相槌を打つ総司。
 千鶴って言やあ……
平助は再び総司の顔を見た。
 こいつ、ほんとのところ千鶴のことどう思ってんだろ。千鶴のためにひと肌ぬいでやろうかと、平助は聞いた。
「そういや、あの二条城で襲ってきたやつら、ホラ池田屋でも会ったじゃん、あいつら最近見ねえな」
「そうだね」
「聞いたか? 千鶴を狙ってるとか言ってたらしいじゃん」
「うん」
「お前もこの前の巡察で、またあの怪しい女と会ったって言ってただろ? 千鶴に似てるっていう……」
「まあね」
「なんか心配だよな」
「そう?」
「……」
まったく乗ってこない総司に、平助は話題を変えることにする。
「そういやさ、前左之さんが島原からの手紙を総司に渡したろ。あの例の千鶴が潜入した時のさ。あれで総司、島原ですごい人気になったけど、千鶴もなんだぜ」
 初めて総司が平助の顔を見た。「あの子が?」平助は、ようやく! という気持ちで楽しくなる。
「そう。『あの沖田総司が守ってた芸者は誰だ』って。酌してもらったやつ等が覚えてて君菊経由で文をいくつももらったってさ」
「……」
 総司の反応を楽しみにしていたのだが、総司は「ふうん」と言っただけでまた雨に目を移してしまった。
「結構しつこい客もいてさ、旦那になりたいから連れてこいって言ってたらしいぜ」
 旦那という言葉に反応して、総司はまた平助を見た。しかしまた庭に目を移して興味がなさそうな顔になる。
「へえ、物好きだね。あんな子どもに」
そういう総司に、総司を見る千鶴のまなざしを思い出し、平助は思わずイラついてしまった。
「子どもじゃねえよ!」
総司が少しだけ目を見開いて平助を見る。
「もう十九だぜ? 子どもじゃねえよ。世間じゃ嫁に行ってんのが当然の年齢だし、好いた男ぐらいいるのが普通だって!」
「……まさか。あの子はまだ子どもだよ」
「違うって! だから……だから、総司……だからさ」
総司はいぶかしげに平助を見る。「だから?」
「だから総司、もっと優しくしてやれよ」

 総司は、驚くわけでもなくもちろん反省している風でもなく平助をじっと見ていた。
 ああ〜まずったかも。なんかいろいろ失敗したかも……ってか失敗したよな、これ。俺のバカ!
「お、おれ……俺もう寝る! おやすみ!」
 平助はそういうと後ろを振り向かずに自分の部屋へと大股で帰って行った。背中にひしひしと感じる総司の視線が痛かった。

 次の日。朝餉を食べた後巡察のために集まっている中庭で、平助は千鶴を見つけると駆け寄った。
「あ、平助君! 今日はよろしくね」
平助を見た途端パッと輝くような笑顔になった千鶴に、平助の罪悪感はさらに大きくなる。
「ごめん!」
 平助は千鶴の前で両手を拝むように合わせて頭を下げた。
千鶴は驚きポカンとして平助を見ている。
「ごめん、なんかわかんねーけど……ごめん!」
 何を謝ってるの? という千鶴には話せない。総司の性格上昨夜のあれはまずかったと、平助は大反省していた。
 今はもう千鶴に謝り倒すことしかできないけれど。


 

5へ続く


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