平成新選組捕物帳面
第一話
目の前の光景に千鶴は固まったままだった。
実際の時間は一瞬なのだろうが、嫌に長く感じる。
総司の肩にまわされた細く白い腕。総司の柔らかな茶色に髪に絡まるピンクと白のフレンチネイル。千鶴とは違う、ゆるくウェーブのかかった長い髪が総司の顔に垂れ下がる。そして深くあわさる紅い唇……
驚きのあまり止まっていた総司が我に返り、のしかかりキスをしてくる女性を押しのけようとした。
「っちょっ……っ先輩……!!!酔っ払いはもう……!!!離してくださいよ!」
「ん〜♪おいしい〜!沖田君ってかっこいいよね〜」
女子剣道部の先輩は、そう言いながら総司の頬に手を添えもう一度キスしようとうする。総司は、体勢が崩れているせいで押しのけることが出来ず、あやうく再度キスされそうになった。その時一と平助がその女性を抑えて引き離す。
平助が呆れたように、その女子剣道部の先輩に言った。
「先輩!ちょっとちょっと…!酔っぱらうとキス魔だって聞いてたけどさぁ〜!やりすぎだって」
一も溜息をついた。
「やっかいだな」
総司が大学三年、千鶴が二年。大学剣道部の飲み会の二次会、安い居酒屋の一角での出来事だった。
女子剣道部の先輩は、一と平助に両腕を掴まれて、酔いを醒ますために飲み屋の隅へと引きずられていった。
総司は慌てて起き上がり、机をはさんだ向かい側で茫然としている千鶴の顔を覗き込む。
「ち、千鶴ちゃん…!大丈夫?ごめんね?今のは……」
戻ってきた平助と一も、固まったままの千鶴を挟む様に両脇に座った。
「気にすんなよ?あれは事故みたいなもんで…」
「あの先輩は酒癖が悪すぎるな」
皆のとりなすような言葉に、千鶴は強張りながらもほほえみを浮かべた。
「…はい、大丈夫で……」
言葉とは裏腹に、千鶴の頬に涙がこぼれた。それを隠すように千鶴はうつむく。
「えっ…え!?どうして……!?あれは別に…僕は…!」
慌てる総司を避けるように、千鶴は視線を合わせず立ち上がりながら言った。
「ごめんさい…!私、帰ります。あの、沖田先輩気にしないでください。わかってるんで…」
「え?千鶴ちゃん帰るの?じゃあ僕送って……」
後を追おうとするが机が邪魔でなかなか通路に出られずにいる総司を置いて、千鶴は後ろを振り向かずに走り去ってしまった。
千鶴が足早に駅裏の飲食店街にある居酒屋から出ると、後ろから「千鶴ちゃん!」という総司の声が聞こえてきた。
千鶴は立ち止まるものの総司の顔が見られない。道の真ん中で向き合って立ち止まっている二人を、周囲の人は迷惑そうによけながら抜き去っていく。
「千鶴ちゃん、さっきのは、その、僕は全然…」
「わ、わかってます!わかってるんですけど……ごめんなさい。沖田先輩は悪くないのもわかってるんで……」
総司はうつむいたままの千鶴を見つめて、困ったように髪をかき上げた。
「…じゃあさ、帰るなら送っていくよ。もう夜も遅いし…」
「あの、あの、大丈夫です。電車も動いてるし、あの……一人で帰れます」
そう言って踵を返した千鶴の手を、総司はつかんだ。
「よくないよ。送ってく」
千鶴は手首をとられて、思わず総司の顔を見上げた。そしてハッとして目をそらす。
「先輩……口紅がついてます」
「えっ!?」
あわてて総司が口を拭おうと千鶴の手首を離した隙に、千鶴はくるりと背を向けて走り去ったのだった。
電車の中で、千鶴は一人で悶々としていた。
わかっている。あの女の先輩は酔うとキス魔で有名だった。千鶴もこれまでの飲み会で、あの女の先輩が他の男子部員にキスしている所と何度も見たことがある。
だからなんでもない
それに、総司は別にキスされて喜んでいたわけではない。それどころか嫌がってちょっと怒って押しのけようとすらしていたのだ。
そう、だから大丈夫
あれは犬にかまれたようなものだったのだ。単に唇と唇がふれあっただけ。心なんてこもっていない。それをいちいちあげつらって、総司に怒ったりやきもちを焼くほど千鶴は心が狭いわからずやではない。
ぜんぜんへーき
頭ではそう思うのだが……
でも目の前で濃厚なキスシーンを見てしまって、それにあの女の先輩はスラリと背が高くスタイルが良く……胸が大きくて……
沖田先輩とキスしてるところ……映画のワンシーンみたいだったな……
千鶴は見るとはなしに、自分の胸を見下ろす。ついでに華奢な腰や腕、脚も。
あの女の先輩はVネックのすっきりした黒のチュニックに黒のスパッツ。そこに真っ赤で長い個性的なネックレスでアクセントをつけていて、大人っぽくて女っぽくて、でも色気過剰な感じではなく同性からみてもとても素敵だった。
それにくらべて自分は…… 千鶴は電車の暗い窓に映った自分を見た。
背の高さは普通。顔も普通。体は細くて女性らしいとはとても言えないし、大人っぽいなんて言われたこともない。服も、可愛いと思って選んだフレアスカートにカットソーだったが、あの女の先輩の洗練された無造作なセンスと比べるといかにも垢抜けない高校生のように思えてしまう。
これが、千鶴自身の勝手なコンプレックスだというのはわかっている。総司はそんなこと気にしないよ、と言ってくれるだろうし、あの女の先輩ではなく千鶴を彼女にしていてくれているのだから、実際にそんなことは気にしていないのだろう。……気にしていないと思いたい。
でも今は総司とは会いたくないと思ってしまう。
みっともなくあの女の先輩に嫉妬して、総司の甘い言葉を聞きたがって、我儘なやきもちやきの自分がでてしまいそうで、それが総司に嫌われてしまいそうで怖い。
千鶴が小さく溜息をついた途端、電車がガクンッと激しく揺れた。ついでキキキーッ!!と嫌な金属音と共に急ブレーキがかかる。
「きゃあ!」「うわっっ!」
車内が騒然とし、立っていた乗客達は転ばないように必死につり革等に掴まった。千鶴も掴まろうとしたのだがあいにく近くには掴まれるものがなくて……
「きゃあ!!」
千鶴は、悲鳴と共に隣に立っていた若い男性にのしかかる様にして転んでしまった。その拍子に千鶴のバックの中身が床に散らばる。
『緊急停止信号のためご迷惑をおかけいたしました。お忙しい中ご迷惑をおかけしますが信号が青になるまで…』
車内アナウンスが流れる中、千鶴は押し倒してしまった男性に謝った。
「すっすいません……!御怪我は…」
男性は、いや…と何事かを口の中でもごもご言うと、顔をそらして床に散らばった千鶴のバックの中身を集めだした。
「あっ!ありがとうございます!すいません…!」
みたところ二十代。背はそれほど高くなく……千鶴よりも少し高いくらいだろうか?大人しそうなこれといって特徴のない男性だった。千鶴は礼を言ってその男性が集めてくれた物を受け取り、自分のバックに入れていく。
電車が急ブレーキをかけたせいとはいえ、車内で人を押し倒し、カバンの中身をぶちまけてしまった。千鶴は恥ずかしさに顔を真っ赤にし、頭の中は真っ白のまま機械的に渡されたものをカバンに詰め込んでいく。
千鶴のパールホワイトの携帯を、その男がそっと自分の上着のポケットに隠し入れたことには気づかないまま……
「だからさ〜、こんなところに来てねーで総司のとこ行けよ」
「だって……」
千鶴は唇をとがらせて下を向いた。
飲み屋のキスから一夜あけて、次の日。大学構内の廊下の端にある固いビニールのソファに寄りかかり、平助はカルピスのパックジュースをちゅーっと音をさせて飲んでいた。
「だって、じゃねーの!『用が出来たから今日は一緒に帰れない』って言ってこいよ。俺に伝言頼むとかじゃなくてさー」
「……」
黙り込んでしまった千鶴に、平助は溜息をつきながら首の後ろをガシガシと掻く。
「昨日の今日で会っとかねーと、どんどん会いづらくなるぜ?」
そう言いながらも『しょーがねーな〜』と言って、総司に千鶴の伝言をメールする。
千鶴はそれを見ながら下唇を噛んだ。
別に会いたくないわけではない。怒ってるわけでもない。
昨日言ったとおり、あれはたんなる事故みたいなものだとちゃんとわかっている。
でも多分顔をあわせると、顔がひきつると思う……
千鶴は大学の汚い廊下を見つめながら思った。多分目も見られない。総司に顔をのぞきこまれて『なんでこっち見ないの?』と追求されたりしたら、泣くか、バカな嫉妬を丸出しにするか……
どうなるかわからない。多分もうちょっと時間をあけて冷静になって、日本海みたいな荒波が、琵琶湖くらいのさざ波になってくれてから会いたい。
幸い総司は三日後から近藤道場の遠征について一週間ほど九州に行ってしまう。千鶴はできればその後まで総司に会うのは避けたいと思っていた。
しかし、大会後で剣道部も休みのこの期間、千鶴と総司はいつも一緒に帰っていた。今日は千鶴の授業は午前中のみで、総司の終りは三時過ぎ。通常ならその時まで千鶴はそのあたりで時間をつぶして、総司の連絡を待つのだ。
でも、今日の午後一に、千鶴は別件の急用ができてしまったのだ。これは昨日の出来事のせいで気まずくて会いたくないという口実ではなく、本当に。そのため千鶴は、今日は会えない旨を総司に伝えてもらえるよう、昼休みの時間に平助の工学部棟までやってきていたのだが……
平助のアドバイスは至極当然で。
千鶴も友人にだったら同じように言うだろう。でも……
「ここにいたのか」
静かな声に振り向くと、一が入口から歩み寄ってくるところだった。
「遠征中の近藤道場での教室スケジュールの件について、平助に話があってな……」
千鶴に説明をしながら、一は千鶴と平助のソファの前に立った。
近藤は、総司をはじめ主だった弟子を遠征に連れて行ってしまうため、一と平助たちが急遽普段の剣道教室の指導を務めることになっていた。それについての打ち合わせがしたかったのだろう。
「あの、私の用はもう終わったので、斎藤さん、ここどうぞ……。平助君、じゃあよろしくね」
そう言って千鶴が席を立とうとすると、平助が引き留める。
「ちょっと待てよ。結局総司には会わねーの?」
「えっと……」
千鶴の言葉にかぶせるように平助の携帯(ドラクエのテーマ。ジャズ風)が鳴った。
「はい?」
電話に出た途端、平助が気遣わしげな視線を千鶴に送る。
「あ〜……いや、うーん……」
平助の様子を見て、総司からの電話だと千鶴はピンときた。そして腕で大きく×をして首をふる。
「…いや、いねーよ。うん、ほんとだって。え?携帯?つながらねーの?呼び出し音ばっかで?」
平助の様子と千鶴の様子、それと昨日の飲み会の出来事から、一は事態を的確に把握したようだった。静かな瞳で千鶴を見る。
なんだか前にも同じようなことがあった気がする……
高校で総司達と出会ってすぐの頃、総司と気まずくなった千鶴を、一が背中を押して仲直りさせてくれたことがあった。まるで進歩していない自分に、千鶴は赤くなり俯く。
「え?一君?…いるけど……」
平助が自分の携帯を、「総司から」と言って一に差し出す。 一が携帯を耳にあてた途端、総司のムッとしたような声が聞こえてきた。
『一君、僕って被害者だよね?』
「………なんのことだ」
『昨日無理矢理女子剣道部の先輩からキスされてから、千鶴ちゃんに避けられまくってるんだよ。今日も何回も携帯にメールも電話もしてるのにでないし…!平助なんか、絶対そこに千鶴ちゃんがいるくせに千鶴ちゃんの味方だし』
「……」
『一君は違うよね?客観的に見られるでしょ。僕が一番可哀そうじゃない?』
「……まぁ、そうとも言えるな」
『じゃあ千鶴ちゃんとかわって』
「……」
一はしばらく携帯を持ったまま無言で考えていたが、スッと携帯を千鶴に差し出した。
「千鶴、総司から電話だ」
「やっぱりいたね……」
周りに黒いオーラをまき散らしながら総司は経済学部棟の四階で、窓からキャンパスを見下ろしながら黒く微笑んだ。
『す、すいません……』
「君の携帯、メールは送れるしコール音はするし、着拒はされてないみたいで嬉しいよ」
『……』
「で?これからも約束は全部ぶっちぎられるワケ?」
『そんな……そんな今日は本当に……』
「ふぅん?聞いてあげてもいいよ。今日の約束をキャンセルする言い訳。上手くできてるかどうか添削してあげるよ」
『昨日、携帯をどこかに落としたみたいなんです。それで電話してみたら親切な方が拾ってくださってて、で、今日その人の言う駅で待ち合わせて返してもらうことに……』
電話の向こうの千鶴の話に、総司は目を見開いた。
「ウソの言い訳にしては上手だね……。ホントなの?」
『ホントです!あの、だから沖田先輩からのメールも携帯も、でなかったわけじゃなくて……』
「でれなかったんだ。……ふーん……でも僕の講義が終わるまでに行って帰ってこれるんじゃないの?どこの駅で待つって?」
千鶴の告げた駅は、ここから二度乗り換えが必要な大きな駅だった。片道でも四十分くらいはかかるだろうか。
「なんでそんな遠くの駅?どこで落としたの?」
『それが覚えていなくて……』
「拾ってくれた人はどんな人?男?」
『多分…』
「僕も行く」
即答した総司に、電話の向こうの千鶴が慌てたように『先輩は講義があるじゃないですか…!』と言う。
「休むよ。なんか臭いよねそいつ。若い男?」
『さぁ、そこまでは……。あまり話す方じゃなかったので…。でも大丈夫です。昼間ですし大きな駅ですし。携帯受け取ったらすぐに家に帰ります。今日は薫も早く帰って来るので』
「今、千鶴ちゃんどこにいるの?そっちに…」
『いっいいです!先輩はちゃんと講義に出てください!あ!もう時間がないので、私行きますね!それじゃあ先輩…』
さようならっ!という慌てた千鶴の声とともに携帯電話は切られた。
総司は溜息をついて、携帯の液晶を眺める。
今日のところは様子を見るか……
確かに千鶴ちゃんの言うとおり昼間だし、人目も多いし、変なことにはならないよね。
でもあの子、トラブルメーカーだしなぁ…
総司は頭を掻きながら、講義室へと戻って行ったのだった。