シンデレラの嘘 8






総司の乗った飛行機は時間通りに到着した。
三十分前についていた千鶴は、到着ロビーで出てくる乗客の中に総司を探した。たった一週間会わなかっただけなのに駈け出して飛びついてしまいそうな自分に、千鶴は落ち着け落ち着けと何度も言い聞かせていた。
 ぞろぞろと出てくる家族連れやビジネスマン。千鶴は目で、今はもう見慣れた総司のシルエットを探す。すらっとした背。広くてがっしりした肩のライン。明るい茶色の髪に華やかな雰囲気。                  
必死に探している自分に千鶴は苦笑した。
普通に考えておかしいだろう。長年会えなかった恋人同士でもあるまいし。勝手に千鶴が盛り上がって、総司に笑われてしまう。笑われるくらいならいいが、ひかれてしまって重いなんて思われたくない。
 しかしその心配は杞憂だった。
「千鶴ちゃん!」
真っ先に千鶴を見つけて総司の方から駆け寄ってきたのだ。
「お、沖田さん、おかえ――」
「ただいま!」
 ぎゅむ! と抱きしめられた。公衆の面前で。しかもかなりのオーバーアクションだったため、周りの人達がみんな見ている。千鶴を抱きしめている総司の肩越しに、シラーっとした顔の斎藤が見えた。
「お、沖田さん……あの、斎藤さんが……」
 千鶴の方が会いたくて抱き付いて抱きしめてほしかったのに。性格なのかどうしても人目が気になって、総司の肩に手をやって押しやろうとした。しかし総司の辞書には『自分を抑える』などという言葉はないようだ。千鶴の顔を至近距離で見つめる緑の目がキラキラと光る。
「僕に会いたかった?」
とんでもなく甘い声に、千鶴はとろけそうになる。
「あの、沖田さん……」
「会いたくなかったの? 僕は会いたかったのに」
寂しそうに陰る表情を見て、千鶴は慌てた。
「あ、会いたかったです! もちろん、すごく!」
総司がパッと笑顔になる。
「ほんと? 嬉しいよ」
 そして目をふせ顔を傾け……千鶴は慌てて両手で総司の口を抑えてキスを止めた。斎藤が無表情のまま二人の会話が終わるのを待っているのだ。
「さ、斎藤さんもお帰りなさい」
「ああ、出迎えご苦労なことだな。……総司」
そう言うと斎藤は、まだ千鶴を抱きしめている総司を見る。
「後は報告だけだ。会社によって俺がやっておくからお前は帰るといい」
「え! すいません、私のせい――」
「いいの? 斎藤君、ありがとう!」
 あっさり斎藤の言葉に甘えた総司に、斎藤は相変わらずの無表情でうなずくと自分のスーツケースを持ってさっさと行ってしまった。
「お、沖田さん、よかったんですか? 斎藤さん一人で…」
 千鶴はおたおたと、去っていく斎藤の背中と、抱きしめられている総司とを見比べる。
「いーのいーの、それなりの仕事はあっちでちゃんとやったから。ほんと夜もほとんど寝ないで調べて資料作って次の日プレゼンしてがんばったんだよ、褒めてくれないの?」
「す、すごいです……えらいです」
 千鶴では到底できないし理解もできないハイレベルな仕事内容を、彼女でもない千鶴に褒めてもらうことがそんなに嬉しいとは思えない。が、千鶴が褒めると総司はまたギュッと千鶴を抱きしめた。
「もっと褒めて」
「頑張ったんですね、一週間も。えらいです」
「はー……疲れたよ……」
 総司はそのまま千鶴をしばらく抱きしめると、「じゃ、帰ろっか」と千鶴の手をとりスーツケースを転がした。
 タクシーに乗ると総司は不自然なほど体を寄せて指を絡めてきた。そしてタクシーの運転手に「センタータワーへ」と告げると、千鶴の目を覗き込んだ。
「……キスしたいけどね、止められなくなっちゃうから」
 腕を千鶴の腰に回してさらに引き寄せ、反対の手は指を絡める。千鶴の頭は総司の胸の上に乗ってほとんど抱きしめられている状態だ。タクシーの運転手がバックミラーを見ないか、千鶴はハラハラした。
「沖田さん…」
すぐそばにある総司の耳に、千鶴は困ってささやいた。
「しーっ。もう僕、我慢の限界なんだから、じっとしてて」
「我慢って……」
運転手に聞こえないように、小さな声で内緒話だ。
「僕とセックス」
総司は千鶴の耳元にふっと息を吹きかけながら言った。そして目を見て「したくなかった?」
「……」                         
千鶴は酔っぱらったように頭がぼうっとなった。あのベッドで一人で寝ていて、総司に抱きしめられたいと思った。熱い体を感じて激しく強く入ってきてほしいと思ったのだ。
 千鶴の表情を見た総司は、ガクンを首を落とし千鶴の方にオデコを乗せると、「あー……」と唸る。
「ほんっと我慢の限界」

 玄関の扉を開けるなり千鶴は抱き上げられた。そのまま寝室のベッドの上に投げ出され、驚く間もなく総司がネクタイを緩めながらのしかかってきた。
「沖田さん! お、落ち着いて……」
「落ち着けないって。無理無理」
「荷ほどきとか、夕飯とかお風呂……」
「一回セックスしてからね」
話している間も総司はサクサクと千鶴の服を脱がせ自分のも脱いでしまった。まだ部屋の電気もつけていなくて廊下の灯りだけだ。
「でも…うんっ」
話している途中にキスをされた。からかうような軽いものではなくいきなり舌を深く入れてくる。
「はあ……はっ…」
 総司の息が荒くて脱ぎ掛けのYシャツ越しの体がびっくりするほど熱くて、千鶴は少し怖くなった。千鶴をベッドに押し付ける力も強い。抵抗する気はないけど、もし抵抗してもどうにもできないくらいの力だ。
「お、沖田さん、ちょっと……あっ」
ブラをとる間ももどかしかったのか押し上げて、総司がむしゃぶりつく。舐めながら自分のYシャツを脱ぎスーツのベルトをはずして蹴るようにしてズボンと靴下を脱いだ。  
総司の動きの激しさに千鶴が圧倒されていると、ゴロンと体をまわされてうつぶせにされてしまった。
「えっ?」
 驚く間もなくプチンとブラを乱暴に外されて、背骨に沿って総司の舌と唇が滑る。「あっ!」ぞくりとして千鶴は体をそらせた。総司はそのまま千鶴のはいていたスカートのを脱がせ、一緒にショーツも脱がせてしまう。これで千鶴も裸だ。
 総司は両手でうつぶせのままの千鶴の脚を開かせ、そこに顔をうずめた。
「沖田さん! い、いやっ! まだ、お風呂……」
吸い付くように唇全体でおおわれて、千鶴の言葉は途切れた。
「あっ…!」
 舐め、しゃぶり、吸い、そして尖らせた舌を中にいれ愛液を掬い取るとまた舌を全体にはわせる。お尻を突き出すような格好でベッドに顔をうずめて、千鶴は両手でぎゅっとシーツを握った。総司の愛撫は、一週間分の欲求不満をはらすように執拗に続いた。
「あ、…だめ……だめ、沖田さん……そんな、そんなことしたら……」
いっちゃう……とつぶやく前に、総司は千鶴の状態に気が付いた。
「いきそう? 待って、一人でいかないで、僕も一緒に……」
 どこから出したのか総司はさっとコンドームをつけると、後ろから千鶴を抱きかかえるようにして自分の熱をあてた。そしてそのまま一気に奥へと挿れる。
 強烈な快感が腰から背筋を駆け上り、千鶴は悲鳴を上げて達してしまった。ビクビクと痙攣している千鶴の肩に総司はキスして、胸に後ろから手を回し乳首を転がす。
「先にイッちゃったの? 一緒に行きたかったのになあ」
ゆるゆると動く総司の腰が、まだ快感のただなかにいる千鶴を刺激する。
「ご、ごめんなさ……い……だって、……」
「千鶴ちゃんもほしかったんでしょ?」総司はそう言うとグイッと奥まで突く。
「あっっ!」
ズン! と強く重い快感に襲われて、千鶴は悲鳴のような声を上げた。「これがさ」。総司がもう一度奥まで強くついた。「あっ!」
 どうして? 私の体、どうなっちゃったの?どうしてこんなに……まるで全身が感じるとこみたいに……こんな状態で沖田さんが動いたらほんとにおかしくなっちゃう。
 ベッドに顔を押し付けながら、千鶴は涙と汗でぐしょぐしょになりながら必死で総司を押し返そうと手で総司の腰を抑える。
「だ、だめ……」
 総司が千鶴の背中に上から胸を合わせて千鶴の耳に甘く低くささやいた。「駄目じゃないよ」
 そしてタガが外れたように激しく早く腰を動かし始める。中が強くこすられて千鶴は目の前に星がとんだ。
「あーーーっ! あっあっ……あっ」
 一気に絶頂に達し、体が跳ねる。だがいつもは止まってくれる総司は今夜は止まらなかった。
「ごめっ……千鶴ちゃん、止めらんない」
更に腰を強く深く打ち付ける。「いやっだめ…ま、また……あっっ」
 千鶴は、いったままさらに深い快感のふちに落とされた。そこで許してと泣きたくなるほどの快感で攻められ、もう無理と思った瞬間にこれまで経験したことない快感の波にさらわれる。同時に総司も達したのを体で感じながら、千鶴の意識は遠のいた。


 熱狂の時が過ぎて朝。
千鶴はいつも通りの時間に目が覚めた。隣を見ると総司がうつぶせになって枕に顔を埋めたまま、まだよく寝ている。
 時差ボケとかあるし、起こさない方が良いよね。
幸い今日は土曜日だ。ゆっくりと寝かせておいてあげよう、と千鶴はそっとベッドから抜け出した。
 その時千鶴の携帯電話が鳴って、慌てて寝室を出た。表示を見ると……薫から?                       
千鶴は焦って周囲を見渡すとトイレに飛び込んだ。
「もしもし?」
『俺だけど、お前来週末って空いてる?』
「え? 空いてるって……」
『来週末学際で、寮祭もやるとか張り切っててさ、とても勉強できないんだよ、おまえんちで勉強したいんだけど』
「え」
 それはまずい。薫には総司との事は当然ながら秘密なのだ。薫が夜にアパートに泊まるのなら、千鶴も自分のアパートで眠らなくては。同棲なんて薫にばれて、しかもそれがお金をやり取りしている関係だなんてばれたら。
 千鶴は薫の表情を想像して、ぶんぶんと首を横にふった。何を言われるか想像するだけで背筋が寒くなるし、必死に薫の学費を工面したのがすべて水の泡になってしまう。
 ここは嘘をつくしかない。
総司と近藤との嘘を思い出いして千鶴は胸が痛んだ。  嘘はつかない方が良いにきまってる。つきたくないんだけど……ああ、なんでこんなことになっちゃったんだろう、と千鶴はもう何十回目かのため息をついて肩を落とした。   
『何だよ、土日はおまえ図書館の仕事だろ? 夜はまあ邪魔かもしれないけど、昼は関係ないよな』
 そうか、薫にはまだ図書館スタッフがクビになった話をしていないんだっけ、と千鶴はまたもやひやりとした。嘘を最後までつき切る覚悟も能力もないのなら、最初から嘘なんてつくべきじゃなかった。嘘に重ねた嘘でつじつまが合わなくならないように、千鶴は必死になる。
 薫をごまかすのは無理。なら、沖田さんに言うしかない。
「うん、えーっと……わかった。うちにきていいよ。じゃあ来週末ね」
『ああ。ま、仕事して帰ってくる千鶴さんに夕飯ぐらいは作っておいてやるから』
照れくさそうにムッとした声で言う薫に、千鶴はほほ笑んだ。母が早くに亡くなったので千鶴も薫も中学生のころから料理はしている。でも薫は料理がきらいで、当番もいっつもいやいやだったのに。
「うん、ありがと。薫のカレーが食べたいな」
薫のカレーは本格的なのだ。
『いいけど。勉強があるからナンまではつくらないぞ』
「うん」
電話を切って千鶴はトイレの中で考えた。
 これで来週末の夜はここではなく自分の家に帰らなくてはいけない。総司に正直には言えないからうまく……  
「千鶴ちゃん? はいってるの?」トイレのドアをノックされて、千鶴は飛び上がった。
「はっはい! すぐに出ます!」
廊下に出ると寝起きの総司があくびをしながら立っている。
「……」
い、いつからここに。薫との電話、もしかしたら聞いて……
冷や汗がたらたらと流れ心臓が痛いくらい音を立てる。聞きたいけれど聞けない。……けど……
「お、沖田さん、はいります?」
「うん」
 何も言わずにトイレに入った総司はいつも通りだ。聞かれなかったようだ。千鶴はリビングに戻ると、ソファにぐったりと倒れ込んだ。
 こんなことして、なんでうまくいくと思ったんだろ……
千鶴は自己嫌悪にしょんぼりと肩を落とした。
二ヶ月とちょっと前、売るものはもう自分の体しかないと思い詰めていた時の自分を思う。あの時はやるしかないって思ってたけど、こんな風にいろんな人をだまし続けることになるなんて想像してなかった。お金のことしか……自分のことしか考えてなかった。
 千鶴は膝の上の自分の手を見る。
 薫の学費のためっていっても、薫にも相談しないで自分が犠牲になればいいって勝手に決めて。薫の気持ちも考えていなかった。
 沖田さんだって。女の人の体を買う人に人格があるって想像もしていなくて……自分さえ我慢すればいいって思った。嘘をいっぱい言われてお金を払ってる沖田さんは、全部知ったらどう思うんだろう? 総司に損をさせるような嘘ではないけれど、この二ヶ月半で千鶴に見せてくれるようになった優しい笑顔や甘えた顔はもう見せてくれなくなる気がする。
 今、わたしは実は大学生じゃなくて無職の就活中で、双子の兄の学費のために体を売ったんですって言ったら、どうするかな?
 ……沖田さんもそこまで怒らない気がする、けど……単なるお金で買った女の子にそんなこと言われても困るよね。『興味ない』って言ってたし。正直に話したら私は楽になるけど、沖田さんがそれを知りたいかって言われたら……恋人でもないんだし興味もないよね。
 千鶴はため息をついた。               
結局は、千鶴が楽になりたいだけなのだ。嘘をついている状態はしんどい。本当の自分を知ってほしい。            
ちょうど総司がリビングに戻ってきた。そのままキッチンに向かう。
「おはよ。コーヒー飲む?」
 あっちこっちにはねた茶色の髪。眠そうな顔。
 千鶴は自分がおかしくなって小さく笑った。         
そうか、私が沖田さんを好きだから……本当の私を知ってほしかったんだ。嘘なんてつかない子だって好かれたかったんだなあ。
 あんな出会いでそんなこと思ってもらえるはずもないのに。これだけもう嘘をついて、総司だけではなく総司の大事な人までだましているのに。
「千鶴ちゃん?」
「はい。飲みたいです」
千鶴はそう答えると、自分もキッチンへ行った。
「何かつくりますね。パンにします? ごはんの方がいいですか?」
「あー久しぶりに日本のごはんが食べたいかも」
 全部身から出た錆、自業自得だ。と千鶴は唇をきゅっと結んだ。
 何も失う事もなくお金を手に入れようなんて無理だった。最初は知らなくて、失うものは体だけって思ってたけど。
自分で自分を好きでいることとか。
人から尊重されることとか。
大切な人に笑ってもらうこととか。
 いろんなものを失うことだったんだとようやく気が付いた。そして失ってからでないと気がつけないのも世の常なのだろう。
 総司はそんな千鶴には気づいていないようで、
「不思議だよね、日本で一週間ご飯食べ無くても別に何でもないのに、海外行って帰ってくると日本のごはんが食べたくなるんだよねえ。特に酢飯! 千鶴ちゃん今夜寿司行こうよ」
 いいことを思いついた! と嬉しそうに言う総司の顔を見て、千鶴もほほ笑んだ。
 お金をもらってる私の役目は、沖田さんがこの笑顔を続けられるように嘘をつづけること。沖田さんに楽しんでもらうこと。素直に全部話して私が楽になることじゃない。全部中途半端なんだから、せめてこれだけはちゃんと最後までやりきろう。       千鶴は、「はい」と笑顔でうなずいた。

 ダイニングテーブルに朝食のごはんとお味噌汁、焼鮭を並べていると、総司は封筒に気が付いた。出張に出かける前、二ヶ月目の二十万円を入れた封筒だ。
「あれ? ボーナス分使ってないの?」
二十万円は無くなっているか、追加していれたボーナス分がそのまま入っている。千鶴に聞くと、「いつも高いごはんをおごっていただいてるし、このマンションにも住まわせてもらってて……これ以上何かいただくのが心苦しくて」。で、使ってないとのことだった。
「へえ…? 欲がないなあ。服とかカバンとか好きなもの買えばいいのに」
 そう言っても千鶴はピンとこないようで首をかしげている。男にモノを買ってもらったことがないのかなと、総司は何かおかしくなった。これまで付き合ってきた女の子たちは自分たちの魅力をちゃんと知りそれと引き換えに何を手に入れられるかわかってたのに。
まあでもそんなところも面白いと思った理由の一つだ。
「そっか、じゃあこのお金どうしようかな。……一緒に使おうか?」
「一緒に……食事とかですか?」
 朝食を並び終えて、千鶴が席に着く。総司も座った。おいしそうだ。千鶴を買ってよかった二つ目がこの食事だ。
手の込んだものではないが、こういう素朴な家庭料理はお金をいくら出しても買えない。今では総司もすっかり千鶴の作ってくれる味になれてしまった。
「いや、旅行。行かない?」
千鶴は目を瞠っている。
「私とですか?」
総司が吹き出した。
「他に誰がいるのさ。いい機会だから一緒に行こうよ。仕事が忙しいから長期休暇はむりだけど土日で……近場で。今の季節なら京都とかかな、あったかい温泉があるところがいいな〜。どう?」
 嬉しそうに千鶴の頬が紅潮するのを、総司は満足して眺めていた。言葉では飛びついては来ないけれど、彼女は表情が読みやすくてまるわかりなのだ。
「再来週は例のうちのパーティがあるし、来週かな」
千鶴はうなずきかけて、ハッと顔をあげた。
「すっすいません! 来週末、あの……用事があって」
 ご飯を食べようとしていた総司は箸を止めた。「用事?」この三ヶ月、特に総司の会社がない時間帯は千鶴の時間は総司のものだと言うのに?
総司の表情を読んで、千鶴が小さくなる。
「あの……すいません。本当に……でも、できれば……来週末はお休みをいただいても、いいでしょうか?」
「休み、ね……」
 そう言われるのは正直楽しくない。総司にとっての休みは千鶴といることなのに、千鶴にとってはそれが仕事なのか。……まあそうなのだが。
そういう意味ではこの二ヶ月間、千鶴には休みがなかったことになる。それはブラックといえばブラックだし……
「来週ね、いいよ。その次の週は前に話したけどホテルでパーティがあるからあけといてね」
コクコクと千鶴は必死にうなずく。
「じゃあ……京都はさらにその次の週かな。いい?」
「はいっ」
 言ってから総司は気が付いた。来週が千鶴の休みで、その次の週末がパーティ。さらにその次の週末は……契約の三ヶ月は終わっている。四か月目の週末だ。       
総司はみそ汁を飲みながら千鶴を見た。気づいてるのか気づいていないのか……
 あれは気づいてないな。のんきに焼鮭をつついている。
「……」
 そうだ、そろそろ三ヶ月が終わる。この関係も終わる……のだろうか? 終えたいのか? と自分に聞くと終えたくないと答えが返ってくる。じゃあ本当の彼女にする? ……してもいい気がするけれどそこまでの踏ん切りはつかない。契約継続、とかできるかな。三ヶ月更新とか……
 千鶴はどうするだろう? 必要だった八十万円はあと一回の支払いで終了する。契約継続は断られるかな?
 総司は一瞬考えて、それはないだろうと却下した。お金については交渉しなくてはいけないかもしれないが、正直なところこれまで生きてきて女性に嫌がられたことはない。  
千鶴が自分に好意を持っているのは明白だし、その上今は金も社会的な地位もあるのだ。断る理由もないだろう。三ヶ月目の金を渡す時に交渉してみればいいかな。
 総司は心の中で自分のアイディアに頷いて、ご飯をもう一口食べた。


 そんな事情で、会社で左之が「週末、例の現場に行けるヤツいないかー?」と聞いているときに、総司は気軽に「ああ、僕行きますよ」と手をあげた。週末はどうせ暇だ。
「千鶴ちゃんはいいのかよ?」という外野の声はスルーで、左之から話を聞く。
「うちの担当者が一人行くんだけどよ、やっぱこれに一番詳しいのは俺ら幹部だし、誰か一人幹部が行った方が良いと思うんだよな」
「ああ、例の役所ですか」
「そうそう。役所と役所の間をつないて業務効率化ってやつなんだけど、ここら辺官公庁街だろ? この大学とここの分所と、あとこのセンターとこの図書館にもつなぐらしいんだよな。で、スペースとか導線とかそのあたりを見てきてくれ」
千鶴が通っている大学と、千鶴と行った図書館もある。
 あの子の家、この辺りにあるんだよね、確か。
 総司がそこに行く今週末は、千鶴も自宅に帰っているのでそのあたりにいるはずだ。偶然会ったらおどろくだろうな、と総司はにやにやした。                 
彼女の自宅の場所なんて知らないし、偶然会う確率も低いだろうが、総司は少し週末の仕事が楽しみになった。
 
週末、実際に一緒に行った会社の社員は総司も知っている優秀な社員で、テキパキと立ち合いの人と現場を確認し写真をとりメモを取っていく。手際はよかったが確認する数が多かったため、十時から始めた作業が終わったのは夕方近くになってからだった。
「お疲れ様です。今日はありがとうございました」
ペコリと頭をさげる社員。
「君も大変だったね。今日はもう帰る?」
「はい。このまま一旦会社に戻ります。沖田さんはどうされますか?」
「んー……ここで夕飯を適当に食べてくよ」
「え? ここでですか?」
センタータワーのあたりの方がおいしいお店がたくさんあるのに? という社員に総司は手を振った。
「あの辺の食事にも飽きたしね。じゃね」
 別れた後、総司はしばらくぶらぶらとそのあたりを歩いてみた。土曜日の夕方だが仕事帰りの人がパラパラと地下鉄の駅から出てくるのが見える。それ以外は家族づれや若者があちこちでのんびりと歩いている。
 しばらく歩いたが特に目的もない。総司は大きな交差点の角にあるオープンテラスのコーヒーショップに入ると、コーヒーを注文した。
 このままここにいても特に何の用もないし……千鶴に会えるかなとなんとなく思ってぶらぶらしてただけだと、自分でもわかってる。
「……帰ろっかな」
 なんか僕、バカみたいだ。
そう思って総司はコーヒーを飲み干すと、店を出た。地下鉄の階段を降りようとしたとき。
「千鶴!」
 その声に総司は足を止めて、声の方を見た。男の声で、反対車線の歩道に男の背中が見えた。白いシャツにブルージーンズ。さらに向こうにあるスーパーの方に手を挙げている。総司が視線をスーパーの方へずらすと、急ぎ足でその男に近寄る女の子の姿が見えた。買い物したらしい二つのスーパーの袋を下げて重そうだ。
 あれは……
 彼女の着ている薄手のベージュのコートには見覚えがある。総司が声をかけられた最初の夜に来ていたものと同じだ。遠目だけれども顔にも体つきにも見覚えがある。
 千鶴だ。
 遠くて何を話しているかまでは分からないが、千鶴はその男性に近寄ると笑顔で話しかけた。男性はめんどくさそうにうなずくと、自然な動作で千鶴の持っているスーパーの袋と千鶴のカバンを持った。
 慣れた様子の親密な関係であることはすぐにわかる。そして二人で大通りから角を曲がると、狭い路地に入って見えなくなった。
 全く予想もしていなかった光景に、総司は固まったまま二人が消えてた道を見つめていた。


9へ続く  

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