シンデレラの嘘 1






パーティが終わったようだ。
センタータワービレッジと呼ばれる有名ビル群のなかでも一際高いこのビル。その名も『センタータワー』から、いわゆるセレブと呼ばれる人達があふれ出てくるのが見えた。  夜の中でそこだけがにぎやかに明るく浮かび上がっている。
 千鶴はセンタータワーのエントランスがよく見える少し離れた植え込みの後ろに立って、出てくる人を探しては見送っていた。
 ええと、どの人にすれば……あ、あの人とかどうだろう。……ああ、連れの人がいるのか。あっちは集団だし……
 女性の連れがいる人、他の男の人と群れている人はだめ。ターゲットは一人で歩いている男の人だ。
 しかし一人の人が少ない。まあ、パーティなのだから誰とも話さないでさくさく帰る方がおかしいけれど、一人くらいいてもおかしくないだろう。
 だが、そもそも『歩いている人』というのも難しいのだと、千鶴は来てみてわかった。さすがセレブだけあって、エントランスに回された高級車やタクシーに乗ってそのまま帰ってしまう人がほとんどなのだ。センタータワーから地下鉄の駅に向かう人たちに声をかけて……と思っていたのだが、セレブが地下鉄なんかに乗るはずがないのを失念していた。                
どうしよう。でも今日なんとかしないと。

 さんざん考えた末のこの蛮勇。多分この勢いを逃すともう勇気というか思い切りがしゅるしゅると縮んで消えてしまうだろうということは、自分の性格からわかっていた。今何とかしなければ、千鶴の未来は真っ暗だ。それはこの四年間の苦労で散々、嫌というほど、骨身にしみてわかっている。
「やるしかないよね!」
 自分を鼓舞するために千鶴は声に出してそうつぶやくと、まぶしく輝いているセンタータワーのエントランスへと大股で歩き出した。
 センタータワー公園という名もあるそのあたり一帯は手入れが行き届いた木々や草花にあふれ、気持ちのいい遊歩道なのだが、今の千鶴には全く目に入らない。
 あのパーティの出席者で、お金持ちそうで、一人で、歩いてる、男の人。
それを早めに発見して後をつけるのだ。地下鉄の駅で待っているなんて受け身じゃだめだった。アグレッシブにいかなくては!  
千鶴は、あちらこちらで談笑しているドレス姿の女性やフォーマルスーツの男性たちの中で、帰ろうとしている連れのいない男性を探す。
 あ!
いた。立ち止まって話している人達の間を縫うように避け、反対側の出口へと向かっているスーツ姿の男性。光沢のあるグレーの背広はお金持ちの証拠だ。
 千鶴は人ごみをかき分けて反対側の出口へと向かった。男性は背が高く脚も長く、あっという間に出口から出て行ってしまう。
 ま、待って!!
 千鶴は必死で、あちらにぶつかって謝り、ぶつかってこられるのを避けて、なんとか出口にたどり着いた。外に出て左右を見ると、センタータワーを取り囲むようにして立っているショップ棟やマンション棟の木々の向こうに、さっきの後ろ姿が歩き去っていくのが見える。
 食事や買い物を楽しんでいる人達の間をぬって、千鶴は追いかけた。その人がさらにその先の角を曲がろうとしているところで何とか追いついて声をかける。
「あ、あの! すいません!」
当然ながら自分に声をかけられているとは思っていないその人は、そのまま角を曲がってしまった。
「すいません! ちょっと……あの!!」
 千鶴は駈け出した。おしゃれなこの歩道は、きれいなタイルで舗装されていてパンプスだと走りにくい。千鶴はその人の前に必死で回り込むと、ようやくその人は気づいたようで千鶴にぶつかるのを避けるために足を止めてくれた。気の早い落ち葉が、黄色く色づいて千鶴とその人の足元でカサカサと音を立てる。
 その人のピカピカの革靴を見て、千鶴はこれからしようとしていることに一瞬怖気づいた。ピカピカ光った高級そうな茶色の革靴。しかし声をかけてしまった以上、もう引き返すことはできない。                 
千鶴は勇気が消えてしまわないように、顔を上げると同時に一気に言った。

「すいません、わ、私を買ってくれませんか?」

 言った後、驚いたように自分を見下ろしているその人を初めて真正面から見て、千鶴は失敗した事を瞬時に悟った。
 かっこいい……しかも若い。
薄暗い中でも顔立ちが整っているのはわかるし、印象的な緑の目も色っぽい唇も華やかな今風の茶髪も高級そうなスーツもすべて一つのことをあらわしている。
「……僕、別に女の子に困ってんないんだけど」
「ですよね……」
ほんとその通りだ。わざわざお金を出して買わなくても、彼ならより取り見取り、無料でアレコレできるだろう。逆に女子の方からお金を払わせてくれと言ってきてもおかしくないくらいの、ホスト的なカッコよさ。しかも声もとても色っぽい。
 しかしこの人をあきらめてもういちどセンタータワーに戻っても、もうセレブの皆様はあちこちに散らばってしまっているだろう。ここで粘って何とかこの人にウンと言ってもらうしかない。
「そのう……頑張りますので……」
 哀しいことに千鶴には売りがない。これでEカップですとか経験豊富ですとか超絶テクニックがありますとかならセールストークができるが、千鶴にはどれもないのだ。
 男性は千鶴を上から下まで見ると、面白そうに緑色の瞳の奥をきらめかせた。
「ちなみに、いくらなの?」
「……」
 千鶴は唇をかんでうつむいた。家を出るときまでは完璧に思えた計画も、自分より一枚も二枚も上手そうなこの男性の前ではあまりにも雑すぎて一笑に付されて終わりそうな気がする。というより終わる。確実に。
「は、八十万円……」
「八十万!」
さすがに驚いたようで、彼は目を見開いた。
「そんな価値がきみのどこにあるの?」
「ほんとそうですよね」
 ズバリ言われて、千鶴は傷つくよりも頷いてしまった。彼の目から見た自分を想像するとその思いが強くなる。
 安物のベージュの薄手のハーフコートにパンプス。せめてピンヒールぐらいはいてくればよかった。持ってないけど。胸だってA寄りのBレベルだし、どちらかというとやせぎすの方で、売りといえば若さぐらいだろうか。だからおじさんならいいかと思ったのに、声をかけた人がこんなに若いなんて。パッと見たところ二十代後半か三十代前半ぐらいだ。
 あんなセンタータワーの設立記念なんていう選ばれた人しか行けないパーティにこんな若い人が来てるなんて思わなかった。だってあのパーティに呼ばれるのはセンタータワーのテナントオーナーやオフィスを借りている会社の役員以上、そしてマンション棟のオーナーだけのはずなのだ。  どうせおじさんとお爺さんばっかりだと思っていたのに。
 そんなおじさんやおじいさんには千鶴が持っている唯一の『若さ』が売りになるし、そんなパーティに出ているような社会的信用がある人達なのだから危ない目にも合わないだろうしという計算もあった。そして……
「一応……一回八十万円っていうわけじゃないです。その、一ヶ月定額とかで、どうかなって……」
彼のすっきりした眉間にしわが寄った。
「定額?」
「はい、いつでもその……八十万円いただければ、一ヶ月間お好きな時に呼び出して、その……ご利用いただける、みたいな? そういうのを考えていたんですが……どうでしょうか?」
「一ヶ月八十万ってことは、三十日間として一日……三万弱くらい? しかも毎日やってだよね。高校生じゃあるまいし無理だよ。残念だけど他を……」
「ま、待ってください!」
千鶴がネットで調べた相場よりは確かに高い。
「じゃあ、二ヶ月ではどうですかっ」
「一日一万五千円か。まだまだお得とは言い難いねえ」
「じゃあ三ヶ月!」
その男性のくちびるがきれいな弧を描いた。
「競売みたいだね。三ヶ月なら一日八千円くらいか。まあ、それなら確かにお得だね」
「ど、どうでしょうか?」
「いや、お得はお得だけどさ。最初に言ったと思うけど、僕、別に買ってでも女の子とセックスしたいってわけでもないんだよ。それにそもそもお金で買ったこともないし」
 ああ、本当に声をかける人を間違えた……千鶴は半ば諦めた。だが、だからこそやけっぱちだ。
「何事も経験だと思います。一度買ってみるのはどうですか?」
「……」
 彼は片手で顎を撫でながら何かを考えている。かなり長い間まじまじと見られて、千鶴は居心地が悪くなってきた。
「あの……何か……」
「いや、やけに熱心だなって思ってさ。誰に頼まれたの?」
千鶴は目を見開いた。
「え? 頼ま……いえ、別に誰かに頼まれたわけじゃないです、けど」
彼は相変わらず何を考えているのかわからない緑の瞳で、千鶴を計るように見ている。
「……目的は金だけ?」
「? はい」
「僕のことは知ってる?」
千鶴は首を横に振った。そして気づく。
「も、もしかしたら有名な人だったんですか?芸能人とか……」
「いや、違うよ。どうして金が欲しくなったの?仲介を通さないで直接交渉とか、慣れてるようには見えないけど」
「……」
こんなことを聞かれるとは思っていなかった。確かに慣れてはいない。千鶴はとっさに嘘を思いつけなかった。  
「誰にも知られずにお金が必要なんです。今そのお金を払えないと取り返しがつかなくなってしまう、私にとってはとても大切な事なんです」                    
「お金を貸してくれる人は他にいないの? 他の方法をアドバイスしてくれる人とか」
千鶴は首を横に振った。
「自分で決めたことなので」
誰も頼らない。……まあ頼れる人もいないけれど。
「……ふーん……」
彼は長い間沈黙し、千鶴を見ていた。そして口を開く。
「よし、じゃあ買おうか」
唐突なOKに今度は千鶴の方が驚いた。       
「え? ほ、ほんとですか? いいんですか?」     
我ながら『いい買い物をしましたね』と言えないところが悲しい。
「とりあえず行こうか。僕の家はセンタータワーのマンション棟なんだ。こっち」
当然のように肩を抱かれて、さらに行先を聞いて千鶴はひるんだ。
「あなたのおうちに行くんですか? 今からですか?」
「そう。お金は今がいい?」
引っ張られるように連れられて、千鶴は小走りでついていく。その強引さに、少し怖くなった。
「今……だと嬉しいです」
「そう。じゃあマンション棟の向かい側にコンビニが入ってるからそこでお金をおろすよ。さすがに全額渡して持ち逃げされても困るから、まずは三十万円ね」
「まずは?」
「二ヶ月目に入ったら二十万円。そして三ヶ月目に三十万円」
 そ、そうか……。いきなり八十万円払って、次の日から連絡がとれなくなることとかあるもんね。そうだよね……
「分割は困る? やっぱりやめとく?」
おじけづいた? というバカにしたような彼の笑顔に、千鶴はぐっと唇をかんだ。
「いえ。やらせてください」
 彼は面白いものを見るような顔で千鶴を見ると、千鶴を置いて一人でコンビニへ入って行った。            
渡された封筒は分厚かった。             
「あ、ありがとうございます……」
千鶴はぺこりと頭を下げてそれを受け取る。      
「ヤバいおじさんから借りたの?」
「え?」                       
「サラ金、闇金、一番怖いのは個人間での貸し借りだけど、知らないだけで実は臓器ブローカーだったり麻薬密売人だったり、運び屋を探すために誰かをオトすエサを垂らしてたり……そういう関係からかな?」          
そう聞いてきた彼の顔は、脅かすような顔ではなく世間話をしているような表情で、それが逆に千鶴の背筋を寒くさせた。   
 ま、まずかったかな……この人、ちょっと……
 きっとにこやかな笑顔のままでとんでもない残酷なことを平気でやるような。普通の人ならためらうような一線を平気で越えてしまうような。
「や、やばく、ないです。大丈夫です」          
この人の住んでいる世界は千鶴の知らない世界だ。
 私、もしかして大変な人に声をかけちゃったのかな……
あのパーティにはそんな危険な人はいないって思い込んでたけど。
 千鶴は身の危険を感じて、今さらだが彼の腕をつかんだ。
「あ、あの……体を売る内容ですけど」
振り向いた彼の表情は、薄暗い灯りのせいで表情まではわからず不気味に見える。
「買ったんだから何をしてもいいんでしょ?」
「だっだめです! あの、切ったり叩いたりとか、そいうのは……」
「切るのと叩くのは駄目ね。じゃあ首を絞めたり縄でしばったりとかは?」
千鶴はぎょっとして立ち止まった。
「だ、駄目です」
「わかった。じゃあー…あとは他の男とか女を呼んでみんなでしたり見ててもらったりとか?」
「だっ駄目っ駄目です! あの、普通のだけです。その二人だけで道具とか使わなくて……その、伝統的な」
焦っている千鶴を彼はなぜか笑いをこらえたような顔で見ている。
「わかったよ。二人だけ、使うのは体だけ、ね。……じゃあそれを動画にとるのはオッケーってことだね」
「どっどう、どう、動画とかもだめです! 写真も! それはふ、ふ、普通じゃないです!」
とうとう彼は笑い出してしまった。あっはっはっはっとお腹を抱えて笑っている彼を見て、千鶴はからかわれたのかとムッとしつつもホッとした。
「普通、ね。正常位しか駄目ってことは無いよね?」
せいじょうい……
しばらく考えて意味がわかると、千鶴はばっと赤くなった。
「は、はい、は、……せ、正常位はいいですし、ほ、他も……普通なら……」
完全にからかわれてる……よね、それとも本気なのかな?
 にこやかな笑顔は崩れる事がない。彼の真剣な顔はどんなふうなんだろう、と千鶴はふと思った。真剣に怒ったり真剣な表情で見られたり……。彼がなりふり構わず必死になるところを、千鶴は見てみたいと思った。……まあこんなに余裕そうな人がそんな風になる事はないのだろうけど。
 まだ笑っている彼の横を歩きながら、千鶴はセンタータワーと明るさを競っているような半月をみあげた。


2へ続く  

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