Baby Baby Baby 6








 千鶴は寝不足の目をこすりながら、裏庭をぼんやりと縁側から眺めていた。
結局総司は朝食にも来なかった。土方に聞いたら外出届はでていないから屯所には居たらしいが。
 もう千鶴にはどうしたらいいのかわからなかった。
昨日の夜の、千鶴を押さえつけていた総司が怖い。あんなに怒らせてしまったのかと言う恐怖と、一度は入れてくれた彼の内側から完全に締め出されてしまったという寂しさ。
そのどちらもが千鶴はつらかった。
 総司のことが好きでいれば好きでいるほど、彼の言葉は千鶴を傷つけるのだ。
傷つきたくはないのに、彼の傍に行きたい、会いたい、声を聞きたいと思ってしまう。
仲直りの仕方も、もうわからない。
土方との誤解についてはけんもほろろで、話を聞いてくれる状態ではない。土方を次の子づくりの相手に選んだと誤解したせいであんなに怒っていると思うのだが、それは違うと昨夜言っても信じてくれているのかいないのか。
しかし千鶴にはもうそれ以上彼の怒りを和らげる言葉がわからなかった。
 誰かに相談したいと思うが、そもそもそれが間違いだったのだと今ならわかる。
 この問題は総司と千鶴の二人の問題だったのに。悩んでも苦しくても、相談する相手は総司だったのだ。土方に血で汚れた袴を見られてしまったのはしょうがないにしても、その後は千鶴の甘えだった。赤ちゃんができていなかったことを土方に伝えたとしても、その後のことについては総司が大坂から帰ってきたら彼に自分から相談します、と土方に言えばよかったのだ。
そして総司と千鶴で話し合って二人で結論をだし、それを土方に伝えればよかった。
 自分の不安を千鶴が一人で抱えていることが出来ずに、土方と共有した。そのことが多分総司を怒らせて、それは完全に千鶴の自業自得だ。総司が千鶴のそんなところを不快に思っているのなら、どう言葉をつくしても彼の心には届かないだろう。
でも、このままは嫌だ
総司が好きだ。
からかうのも意地悪をするのも優しいのも暖かいのも、総司は全て本音だ。人目を気にしたり空気を読んで遠慮したり、ということがない。それは新選組のみんなを……特に土方を時には困らせるものだが、千鶴は総司のそんなところがうらやましく素敵だと思う。皆が答えが出なくて悩んでいるときに、スッと来て「なんで答なんかいるの?」と本音で言ってしまえるようなところが。地面を一生懸命這ってているカタツムリが、初めて空を見上げてみたときのような鮮やかな憧れを感じるのだ。
 千鶴が総司にあげることができるものは少ない。でもこのまま不愉快な思いだけをさせて終わってしまうのはいやだ。せめて……せめてこの件がなかった元の状態までには戻したい。
 千鶴は心を決めて、立ち上がった。
今日は総司は非番だ。探しに行って話そう。何から話せばいいのかわからないけど、自分の思いを全部伝えよう。
そう決めた途端、早く総司を探しに行きたくて千鶴は急いで庭に下りて草履をはいた。裏庭からまわった方が屯所の出口は近い。出口辺りから屯所内へと探そう。
駈け出そうとしたとき、後ろから手首をいきなり掴まれた。
「総司、どこへ行く」
屯所の出口で、総司は斎藤から声をかけられた。
「……今日は僕は非番だよ。報告の義務はないと思うけど」
そう言ってそのまま外へ出て行こうとする総司に、斎藤は再び呼びかける。
「副長がお前を探している。先程は集会所のあたりでお前を探していた。出かける前に……」
総司は返事をせずに手を振ると、そのまま出て行ってしまった。
 総司が隊務についていないときに土方の言うことを無視するのはよくあることなので、斎藤はまたかと思い考えた。 土方の様子はいつもの、発句集が盗まれたという類のものではなく、何か……焦っているような困っているような深刻な様子だった。総司の様子もどこかおかしかったように感じる。この二人は副長と一番組組長だ。この状態を放置しておくと、新選組に関わる問題になりかねない。
 斎藤は、一度屯所にもどり土方に総司が外に行った旨を伝えたうえで、すぐに総司を探しに行くことにする。自分の隊務は、朝の巡察が終わり後は午後の稽古のみのため時間はある。
 斎藤はそう決めて、土方を探すために屯所内に戻った。

 

「薫……!」
千鶴の手首を掴んでいるのは、薫だった。
「どうして屯所の中に…!?」
以前会ったのと同じ黒いマントの洋装で、かなり目立つ。 千鶴は焦って周りを見渡したが、こんな時間の離れの裏庭には幸い誰もいなかった。
「こんなところ潜り込もうと思えばいつでもできるよ。鬼の力をもってすればね」
「でもとりあえずここじゃ、誰かが通りかかったら目立つから部屋の中に……」
焦って薫を自室に促そうとする千鶴を、薫は止めた。
「いいよ、すぐにここを出よう。お前も一緒だよ」
「え?」
千鶴は薫の言葉に足を止めて振り向く。
「前に話したろう?お前が妊娠して鋼道をおびきだすことに成功したら、新選組なんかさっさと出てみんなで雪村の里に帰ろうって。綱道の依頼で島津ではある男がお前の様子をいつも探って綱道へ報告している。そいつと渡りをつけて、お前と俺がたてた計画を綱道に伝えてもらったのさ。そしたらあいつは大喜びでね。早速島津に話をつけて、今作っている変若水を完成版と言って島津から身柄を解放してもらったんだ」
 父様が……綱道さんが……解放された。
 あんなに探していた父が……
ということは、全て終わるのだ。千鶴が新選組に居る必要もなくなるし、あとは雪村の里へ帰って赤ちゃんを……
 そこまで考えて千鶴はハッとした。薫は千鶴が妊娠したと思っているのだろうか?
「か、薫。私ね、その……沖田さんと夫婦にはなったんだけど、じつはまだ赤ちゃんができてなくて……」
薫は千鶴の言葉を聞いて、ハッと笑った。
「もうそんなことはどうでもよくなったんだよ。綱道は俺とお前の案を気に入って、もう島津から自分で出てきた。お前の妊娠でおびき出す必要もなくなったんだよ。雪村家再興のためにはお前の妊娠が必要不可欠ではあるけど、相手はもうこの新選組の奴らである必要はないんだ。京の町で三人で暮らして、お前の気に入った男を婿にとってもいいし、南雲や他の鬼の男でもいいな。西の鬼で風間とかいう鬼の頭領が女鬼を探しているそうだし、そいつらと姻戚関係になるのも悪くない。いっそ雪村の里へ帰ってそこの近くの人間の男でもいいんだ。無理にこの新選組の男を選ばなくていいんだよ」
「……」
急転直下の展開に、千鶴は頭がついていかなかった。
「えっと……つまり……?」
「つまりお前はもう自由ってことだよ!綱道が見つかれば新選組がお前を軟禁しておく理由もないし、沖田ってやつと子どもをつくる必要もないんだ」
「……でも……」
でも、私は……
「お前だって最初はそのつもりで新選組の中から適当な男を選んだんだろ?」
「最初は……そうだったかもしれないけど……」
千鶴の様子に、薫は眉をひそめた。
「嬉しくないのか?」
千鶴はその言葉に、顔を上げて薫を見た。
嬉しくない。寂しい。離れたくない。
浮かんでくるのは……総司の顔ばかり。
千鶴の表情を見て、薫は何かを悟ったようだ。表情が険しくなった。
「……情がうつったとか言いたいのか?」
「……」
俯いた千鶴と見て、肯定だと受け取った薫は嘲るように笑った。
「敵である人間を、しかも自分を脅して軟禁していた奴を好きになるとかお前どこかおかしいんじゃないか?……まあどっちにしろ沖田は今日多分死ぬだろうから問題ないけどね」
薫の言葉に、千鶴は跳ねるように顔をあげた。
「死ぬ?ど、どうして?」
薫は肩をすくめた。
「綱道の依頼で、島津が一人お前を探る男をつけたって言っただろう?そいつがなんだか誤解していて『沖田を殺す』と言ってたからね。もともと新選組を憎んでいた不逞浪士を集めて、大勢でかかるとか言ってたな」
千鶴はそれを聞いて青ざめて踵を返した。
引き留める薫の声も、もう聞こえない。
沖田さん……沖田さん……!

         *

 総司は刀の柄に手をかけて、低い姿勢のまま左右を見た。
背後は見えないが、一人……二人いる。前に二人、右に三人、左に一人。
 綺麗に囲まれた。
 場所は屯所裏の寺の境内で、いつもはここで遊んでいる子どもたちがいないのが唯一の救いか。
たとえどんな剣の上手でも、一対多では勝つことは不可能だ。一太刀浴びせて血路を開き、そこから逃げ出すのが定石だが、こうもぐるりと囲まれてしまうとそれも難しい。
心の中での計算とは別に、総司はいつもと変わらない面白がっているような様子で口を開いた。
「それで?君たちはどこの誰なワケ?着物とか剣とか、なんだかいろいろ…バラバラだけど」
大方そのあたりをうろついている不逞浪士どもを集めたのだろう。金で釣ったか新選組に対する恨みで釣ったか……。来ている着物も、一人だけきちんとしており清潔だが、他はまちまちで、乞食かと思うのもいる。剣の構えも流派も何もバラバラだ。
首謀者は……こいつかな?
総司は自分の右前にいる、一番きちんとした身なりの真面目そうな若い男を見た。
「口がきけないの?」
からかうような総司の言葉に挑発されて、その若い男が口を開いた。
「すぐに死ぬ相手に名乗るのは無駄だろう?」
「君のコト?」
「お前の事だ……沖田総司」
総司は鯉口を切る。
「ふうん。僕のこと知ってるんだ……ってことは何かの恨み?それとも腕試し?」
「問答無用!」
若い男はそう言うと、いきなり上段に振りかぶって斬りかかってきた。
甘い!
総司程の腕前の者に、間合いを詰めたり仕掛けもせずにまっすぐに自分から仕掛けるなどと死に急ぐようなものだ。一対一ならば斬り伏せて終わりだが、今回は一人を斬ってもまだ後がある。それに自分を狙う理由をはかせるためにもできれば一人は……特にこの首謀者は殺さずに捕縛したい。
 総司は刀を抜きながら振り下ろされた刃をかいくぐり、若い男の右隣に立っていた不逞浪士を抜き打ちざまに切り捨てた。そのまま体を反転させて、空振りしてたたらを踏んでいる若い男の背後にまわり、ピタリとその男の首筋に白刃をあてる。
これであと……六人
「さて、形勢逆転……かな?」
総司はそう言うとぐるりと男たちを見渡す。不逞浪士たちは、あっという間に斬り伏せられて地面に倒れている仲間の一人と、これまたあっという間に背後をとられている首謀者の若い武士とを見て、青ざめた。
これでもう総司の背後には誰もいない。このまま狭い道へとおびき寄せて、一人ずつ片付けて行けばいい。しかしその前にこいつに総司を狙う理由をききたい。
「正直に答えてね。僕を狙った理由は?」
「……」
 総司から見えるのは若い武士の背中だけだが、ぎりりりっという歯ぎしりの音が聞こえてきそうだ。答える様子がないので、総司は刃先を少し動かして小さな切り傷を若い武士の首筋につけた。
「僕って短気なんだよね〜」
楽しそうに総司が言い、さらに刃先を動かすと若い武士は耐え切れなくなったのか大声で叫んだ。
「雪村さんだ!」
「……え?」
思いもよらない言葉に、総司は目を瞬いた。思わず一瞬隙ができてしまったのだろう、その瞬間に若い武士が振り返り、またもやまっすぐ斬りかかってきた。
「お前がもてあそんだ雪村さんの恨み!受けてみろ!」
若い武士の渾身の一撃を軽く受け止めて、交わした刀越しに総司は尋ねる。
「雪村って……どの雪村?」
若い武士はその言葉にさらに頭に血が上ったようだ。
「雪村千鶴さんに決まっているだろう!お前がもてあそんで妊娠させた女性だ!」
ポカンとしていた他の不逞浪士達がようやく我に返り、総司に向かって斬りかかってきた。総司は足で若い武士の腹を蹴り飛ばすと、左から籠手を狙って来た不逞浪士へと突きを繰り出す。そしてすぐに刀をひくと、右から来た別の不逞浪士へ剣を向けた。
左の不逞浪士は、総司の突きの刀を抜くと支えがなくなったように、血しぶきを上げながら倒れた。右の不逞浪士は、ピタリと自分に向けられた白刃にひるんだ様に足を止める。
その時、しりもちをついていた若い武士が起き上がった。
「お前のような誠意のない男に雪村さんはふさわしくない!彼女はもっと大事にされるべきなのだ!俺は彼女の父親からも、君なら婿に来てくれるとありがたいと言われている。さっさと彼女を解放するべきだ!」
『彼女の父』……綱道の事か。と、いうことはこの男は綱道と会ったり話したりできる状況にいるということで、島津側の人間だろう。千鶴を見張っているうちに見初めたのかもしれない。
 しかしそれにしても若い武士の言葉は総司の癇に障った。

 なんだこの男は。千鶴に横恋慕している馬鹿だったのか。
多分君菊の言っていた『あちこちに千鶴のことを探っていた若い男』はこいつだろう。しかし乱戦になるとやっかいかな……
総司が左右に目をやったとき。
「助太刀しよう」
 背後から静かな声がした。すっと後ろから総司の視界に入って来たのは黒ずくめの影。
 斎藤だ。
「一君……」
 不逞浪士達は当然新選組三番組長の顔も知っているようで、さらにひるんだようだ。頭に血が上ってしまったせいでひるんでいないのは例の若い武士だけだ。
「あんな男所帯で苦労しているか弱い女性に、ひどいことをするお前のようなヤツは男のくずだ!」
などと、わめきながらとびかかってくる。
 斎藤は総司の前に出てそいつの刀を自分の刀で受ける。そして目だけを総司に向けて聞いた。
「なんだこやつは。痴情のもつれか?」
「そんなんじゃないよ」
総司は呆れたように言うと、今度は斎藤と鍔元で競り合いをしている若い武士に言う。
「なんだかすごく千鶴ちゃんのことを知ってるみたいだけどさ、君が今相手をしている斎藤君が、千鶴ちゃんの間男だって知ってるの?」
「なっ!」
斎藤が目を剥いて総司を振り向く。
「ウソだ!!」
若い男が唾を飛ばして怒鳴り返した。
「ウソじゃないよ。人目もはばからず斎藤くんが千鶴ちゃんの指を吸ってるの、見ちゃったしね」
「指を……?何の話だ……?」
忘れてしまっているらしく、斎藤は眉をひそめる。
 不逞浪士達は、このまま逃げた方がいいのか、それとも新選組の一番組組長と三番組組長を倒したという箔をつけるために、斬りに行った方がいいのか判断つかないようで、刀を構えたまま取り囲んでいる。
 その時、またもや総司達の背後から声が聞こえてきた。
「なんだおまえら!新選組とわかっての仕業か!」
その声を聞いて総司がつぶやく。
「でた。間男その二」
新選組副長、土方歳三だ。
「お前らどこの藩の者だ!日中こんなところで仕掛けてきやがって、ただで済むと思ってんのか!」
 ヤクザばりにドスの効いた土方の声と、新選組副長の肩書きに、不逞浪士達はとうとう逃げ腰になった。
「総司、なんだこいつらは」
土方が目線は不逞浪士から外さずに、総司の横に並んで聞いた。総司は肩をすくめる。
「千鶴ちゃんって意外にもてるんですね」
「あ?」
「一君の相手の人、千鶴ちゃんの旦那になりたいそうですよ」
その若い武士は、斎藤と刀をあわせながらもまた吠えた。
「彼女は可憐ではかなくて……まるで道端で踏まれても踏まれても花をつけるスミレのような女性なんだ!あんなむさくるしい場所に閉じ込められているような人ではない!ちゃんとした男が大事に扱ってあげなくてはいけないんだ!」
自己陶酔しているうえに千鶴にもかなり夢を見ているようだ。土方は眉をしかめた。
「なんだ、あの阿呆は」
「詩人じゃないですか。土方さんちゃんと聞いておいた方がいいですよ。発句の参考になるかもしれない」
あんなんがなるか!と吐き捨てるように言うと、土方はそろそろと後ずさりをして逃げようとしていた不逞浪士達をギロリと見た。
「逃がすか!」と不逞浪士達を追う土方を放っておいて、総司はまだ斎藤と刀で押し合いをしている若い武士に言う。
こいつの夢もそろそろぶち壊しておいた方がいいだろう。
「あの人が千鶴ちゃんの間男その二だよ。毎日昼日中っから自分の個室に千鶴ちゃんを呼んで二人っきりで何刻もこもってる」
若い武士は叫んだ。
「うそだ!そんなことを言ってさらに雪村さんをおとしめるなぞ男の風上にもおけんやつめ!」
「ほんとだって。千鶴ちゃんああ見えて結構やり手……」
「沖田さん!!」
またもや背後から、今度は女性の必死な声が聞こえてきた。
 総司が驚いて後ろを見ると、向こうから千鶴が駆けてくるではないか。こんな乱戦状態に飛び込んでこられたら千鶴も危ない。
総司は若い武士に言った。
「ちなみに知ってるかもしれないけど、あの子は僕のお嫁さん。弄んだわけじゃなくてね。というわけで、もうキミたちと遊んでる時間がなくなっちゃったから」
 総司はそう言うと、若い武士の後ろにまわると手刀で延髄を打撃した。若い武士は一瞬にして意識が落ち、へなへなと崩れ落ちる。
 土方は……と総司が顔を向けると、逃げていく不逞浪士達を反対方向から新選組隊士が挟み撃ちをしている所だった。さすが用心深い土方だけあって、屯所を出てくるときに何人か隊士を連れて出てきたらしい。
これで一件落着かな……
まだこっちが残ってるけど
総司が安堵の溜息をつき、昨夜の気まずい別れからどう接すればいいかと考えながら千鶴の方を向いた時。
 ドン!
という勢いと共に柔らかい塊が飛びついてきた。
 総司の首にかじりつくように千鶴の細い手が回され、総司の胸に千鶴の顔が押し付けられる。走ってきた勢いのまま全身で抱きついてきた千鶴を、総司は反射的に抱きかかえた。
「沖田さん沖田さん沖田さん……!」
無我夢中で総司にしがみついてくる千鶴をに、総司は目を見開く。                        
そして震えるような感動が全身を覆っていくのを、総司は感じでいた。彼女の全身から、総司のことを心配していたことが伝わってくる。必死さが逆に嬉しい。
「沖田さん…!無事で……?」
涙に濡れた瞳で見上げてくる千鶴に、総司は心の底からの優しい笑顔で返した。
「……うん」
「よかった……!」
ほっとしたのか千鶴の瞳から大粒の涙があふれだし、顔がくしゃっとゆがんだ。
人目もはばからずに声をあげて泣き出した千鶴を、総司が優しく抱きしめる。
 千鶴を抱きしめて、囁くように優しい言葉で千鶴を安心させている総司を傍目に、斎藤と土方は、黙々と不逞浪士と若い武士の捕縛を完了させたのだった。

        *

斬り合いの後処理は夕方までかかった。
夕飯を集会所で食べた総司と千鶴は、そのまま自室へと戻る。
 二人きりになれるのを待っていた千鶴は、部屋に入った途端、総司と向き合い真顔で彼を見上げた。
 どうしたのかと驚いている総司に、千鶴は必死に土方との一件について総司に誤解だと訴えた。冷たく断られても今回ばかりは食い下がろうと決めていた千鶴は、総司にあっさりと許されてキョトンと目を見開いた。
 許すどころか「僕の方こそ意地になっててごめんね」と言って座った総司に、千鶴は目を瞬く。
 あまりにもあっけない許しに、千鶴は逆に不安になり、自分も総司の前に膝をついて正座をして確認する。
「あの……あの、私はその……このままでいたいっていうことを言ったんですよ?その、沖田さんのお嫁さんでいたいって……」
「うん。それでいいんじゃない?」
「……」
 この、まるで羽毛のような軽さ……
総司はわかっているのだろうか?
「あのう……しつこいようですが、私は別に赤ちゃんはできていなくて、鬼で、過激な親族もいて、普通の娘さんらしい恰好をしていなくて……あの、別に沖田さんが無理にお嫁さんにしてくださる必要はないんですよ?」
「まあそうだけどね」
あっさり肯定されて千鶴はガクリと肩をおとした。自分から言ったことではあるが、総司から肯定されると傷つく。総司はそんな千鶴をニヤニヤと見ていた。
「逆に聞きたいんだけどさ、千鶴ちゃんはどうしてまた僕のお嫁さんになりたいの?」
千鶴は目を瞬いた。
「それは……」
「それは?」
赤くなって俯いた千鶴の顔を、総司が覗き込む。
「それは……沖田さんが旦那様だといいなって……」
「だからそれはなんでそう思うの?」
「……沖田さんが……素敵だからです」
「……へえ?」
総司は覗き込んでいた体を起こすと、髪をかき上げて微笑んだ。
「どういうところが素敵なの?」
これは絶対わざと言わせてる……
千鶴は気づいたものの、じゃあどうやってかわせばいいのかまではわからない。
「ぜ、全部素敵です……」
総司は笑いだした。
「うまく逃げたね」
千鶴の正直な気持ちだったのだが、総司はかわしたと思ったようだ。それならそれでいい、と千鶴はほっとした。と同時に自分だって、と思う。
「沖田さんは、どうして私がまたお嫁さんになっていいと思うんですか?」
「ん?いっちょまえに仕返し?」
総司が楽しそうに笑う。その笑顔はパッと水が弾けたようにきらめいて、千鶴の胸をドキドキさせた。
総司は、まだ顔に笑みを残したまま、千鶴の手をとった。
「僕は君が好きみたいだ」
「……!」
真っ直ぐに目を見て言われて、千鶴は赤くなってうろたえる。総司は千鶴の手をにぎり、瞳を見つめたまま続けた。
「僕は君を……いじめて、からかって、泣かせて、怒らせて、笑わせて、たまには優しくしたり、喜ばせたりして、そういう毎日をずっと重ねていきたいと思ってる。それってすごく楽しいんじゃないかって思うんだ。君は?」
「……最初の方はあまり嬉しくないですけど……でも後の方は、私も楽しいだろうなって思います」
千鶴が赤くなったりむくれたりしながら答えると、総司はまた笑った。
「わかってる?僕はずっとそばに居て欲しいって言ってるんだよ?子どもが出来たら雪村の里とやらに帰るんじゃなくて」
そこまで具体的に考えていなかった千鶴は、目を見開いた。
 総司のことが好きだということと、土方の件での仲直りがしたくて、それでいっぱいいっぱいで、薫との作戦についてはすっかり忘れていた。
 でも……千鶴も、雪村の里には行きたくはない。    
というより総司と離れたくないのだ。
変若水や羅刹の被害をこれ以上ひろげないためには、綱道に『雪村家再興』という事実を与える必要があるのはわかっているのだが……
千鶴の表情が曇るのを見て、総司も顔も真剣なものになった。
「ダメ?やっぱり赤ちゃんができたら君は『雪村の里』に戻りたいの?」
千鶴は首を横に振る。
握られていた手を、千鶴は握り返し、潤む瞳で総司を見上げた。
「……戻りたくありません。沖田さんの傍に……いたいです」
すがる様な瞳に、総司の胸の奥で小鳥が羽ばたくように何かがパタパタとざわめく。
 胸が痛い。
これをきっと世の人は『切ない』というのだろう。そしてそれが恋だと。
 総司はゆっくりと唇を寄せた。
お互いの気持ちが同じなら、後は何が来ても大丈夫だ。
総司が優しく唇を重ねたとき、千鶴の体がこわばった。
いつも口づけをするときは柔らかく沿ってくれていたのに、と総司は一瞬戸惑う。そしてすぐに昨夜の自分の行為を思い出し、体を離した。探るような瞳で千鶴を見ると、千鶴の表情は硬い。心なしか少し青ざめて、大きな黒い瞳にあるのは明らかに恐怖の色……
 その時廊下の向こう側から「総司〜!!千鶴〜!!」という平助の声が聞こえてきた。総司は千鶴の表情から受けたショックを一瞬忘れて、廊下の方へ顔を向ける。
 平助は駆けつけ様襖を開けて、驚愕の表情で叫んだ。
「綱道さんが来た!」


 総司と千鶴が慌てて近藤の部屋へ行くと、中から坊主頭で眼光するどい男性が振り向いた。
 綱道だ。
「父様……!」
綱道の顔を見た途端、千鶴はへなへなと廊下に膝をついた。
 父を探して江戸から単身京まできたのだ。羅刹に襲われ、新選組に捕えられ……その父親とようやく再会できて力が抜けたのだろう。
 総司はへたり込んだ千鶴の腕を優しく取って、部屋の中へと促した。
部屋の中には上座に綱道、少し下がって近藤。脇の文机の辺りに土方が座っていた。
総司と千鶴は、入口に近い畳に綱道と向き合う形に座る。
近藤と土方は難しい顔をして腕を組んでいた。何か深刻な話をしている最中に総司達が来て中断したようで、緊迫した空気があいかわらずながれたままだ。
 感動の再会になるかと思っていた総司は、少し用心をして近藤の顔と綱道の顔をとを見比べる。千鶴もどう話しかけたらいいのかわからないようだ。
綱道は千鶴と顔をあわせると、かすかに微笑んでうなずいた。千鶴もほっとしたように微笑む。
しかし次の瞬間、綱道は再び険しい表情で近藤に向き直った。
「それで?私を探し出すまで、という理由で娘を軟禁状態にしたうえ、年頃の娘に長年男装を強い、さらに赤子ができるような乱れた状況に置き、無理矢理婚姻を結ばせる……お話を伺うと私の娘はそういう扱いを受けた、ということでいいのですかな」
娘を置いて一人で京に来て、その上島津にまで鞍替えしたのは綱道自身だろう、そんなに心配なら江戸にそのままいればよかったじゃないかと、土方と近藤は思うものの、管理責任は確かにこちらにある。それもやり直しのきかない若い娘が対象だ。
 謝って済む話ではないが、謝り倒すしかないだろう。
近藤が頭を下げた。
「誠に申し訳ない!こちらとしては掴まえた少女があなたの娘さんだと知り、良かれと思い保護をしたのだが……」
「そこまではありがたいと思いますが、赤子云々については明らかにあなた方の落ち度ではないですか?年頃の娘をこんな年齢の男ばかりの中に置いておいたらどうなるか、わからないほど子供ではありますまい?」
「申し訳ない!本当に返す言葉もありません」
しょんぼりとする近藤を庇うように、土方が綱道に向き直った。
「綱道さん、赤子については申し訳ないが、千鶴さんの夫になった男はうちの一番組組長で、それなりの地位の男です。思い合っているようですし……」
「新選組の中での地位などどうでもいいことです。父親とて気になるのは人柄とか責任感とか……娘が幸せにやっていけるかどうかなんですよ」
土方は腕を組んだ。
「人柄はもちろん………」
そこで褒め言葉を言おうとして、土方は言葉を探して首をひねる。
「人柄は……まあ、剣の稽古はまじめですし……他はすべて不真面目ですが、責任感は……!責任感は……うーん……」
土方の脳裏に、悪戯やら昼寝やら子どもと鬼ごっこやら、悪さばかりしている総司が思い浮かぶ。何か褒めるところは無いか、土方が必死に探していると、綱道が溜息をついた。
「一番身近な人からも褒め言葉が無いような男だと知っていたら、私でしたら婚姻の話が来ても断ります。自分の娘がいいかげんな男の嫁になったなどと思うのはつらい。赤子の話も、幸い……と言っていいのかわかりませんが勘違いだったと聞きますし、ここは婚姻を無効というか離縁でもしていただいて、娘は私が引き取りたいと思っているのですが」
綱道の言葉に、総司と千鶴は顔を見合わせた。
 先程千鶴から聞いた、薫との話……新選組を出て雪村の里にもどりそこで別の男と……という話を総司は思い出した。そしてこれの事かと思う。
 娘が勝手に婚姻していたのだ。しかも赤子が出来たとの騒ぎになった。ということはいわゆる傷モノにされたということで、新選組に軟禁されていた状態では、非は圧倒的に近藤と土方にある。
そこを突いて新選組を責め、婚姻を解消して千鶴だけを連れ出すつもりなのだろう。
 千鶴はすがる様な瞳で総司を見上げ、首を横に振った。総司はそれを見て綱道に向き直る。
「綱道さん、一番組組長で千鶴の夫の沖田総司です」
総司はそう言うと、座ったままではあるが頭を下げた。綱道も頷く。
「僕は千鶴と離縁するつもりも婚姻を解消するつもりもありません」
きっぱりと言い切った総司に、近藤、土方、綱道、千鶴が驚く。
「僕と彼女は子供を十人つくります」
唖然としている皆にはかまわず、総司は決定事項を告げるように淡々と話す。
「その子達が成人したら、多分一人くらいは雪村家を継ぎ、再興するように言って聞かせましょう。再興すると言っても里は全て焼き払われて里人も今は一人もいないと聞いています。一言で再興すると言っても相当時間がかかるでしょう。人ひとりが成長するくらいの時間は。あなたは変若水の研究を止めて再興の準備をしたらどうでしょう。彼女の双子の御兄さんと一緒に。これが僕達が出来る限りの譲歩です」
「お前なにを……」
 鬼の話や雪村家再興の話を知らない近藤は、呆れたように総司を止めようとしたが、土方がそんな近藤を制した。これはうまい交渉のやり方かもしれない。もうすでにこちらは夫婦になってしまっているのだ。そして綱道の欲しがっている女鬼の産んだ子どもについても雪村家の再興についても協力するが、千鶴は渡さない、という言い分だ。
 さて綱道がどうでるか……
土方が綱道の様子をうかがうと、綱道は腕を組んで考え込んでいた。
 千鶴の婿探しから子づくりをこれから一から始めるのと、それはしなくていいが千鶴を東北に連れて行くことができないのと……
確かに、里の立て直しと全国にちらばった鬼たちに呼びかけるのとでかなりの年月がかかるだろう。そう考えると総司の案が一番現実的かもしれない、と綱道は思い始めていた。なぜならもう子どもができることはほぼ確定しているのだ。それに綱道の夢にも協力すると言っている。
「……それで手をうとう」
綱道はそう言うと、総司の顔を見てうなずいた。
近藤と土方が、驚きと喜びを込めて顔を見合わせる。千鶴も思わず腰を浮かせた。
「父様……ありがとう!」
綱道は総司を見たまま続ける。
「十人だな?」
総司も綱道の瞳をしっかりと見返してうなずいた。
「十人です」
「その中に女子は産まれるだろうな?」
「確率から言って産まれるでしょうね」
綱道は総司の答えに満足したようにうなずく。
千鶴は総司の隣で赤くなって俯いて「十人……」と小さく呟いていた。
新婚夫婦との場は改めてもつことにして、綱道はとりあえず一旦帰って行った。
近藤、土方、総司、千鶴で見送る。
 綱道の背中が見えなくなり、皆が中に入ろうと踵を返したときに、総司が千鶴の手を握った。
振り向いた千鶴に聞く。
「あれでよかった?」
少しだけ不安そうな顔。千鶴はにっこり微笑んだ。
「はい。すごく……嬉しいです。十人は不安ですけど」
「がんばらないとね」
ニヤリと笑った総司に、千鶴は赤くなる。指を絡めてくる総司に、千鶴は寄り添った。
 始まりは体からだったかもしれないが、今は……心もつながっている。
 幸せそうに微笑む新婚夫婦を、土方と近藤はやれやれと嬉しそうに眺めていた。
綱道も帰り、ようやく解放された総司と千鶴が自分たちの部屋の辺りまで歩いてくると、総司が庭の一点を見て立ち止まった。
 千鶴を庇うように自分の後ろへ隠す。
「誰?」
夜も更けて薄暗い庭はほぼ真っ黒で何も見えない。千鶴が、何かいるのかと総司が見ている方へ眼を凝らすと、奥の植え込みの辺りで何かが動いたような……?
 目を凝らすと、その影は一歩踏み出して自らの姿を現した。
「薫!」
驚いた千鶴の言葉に、総司はこれが噂の双子の兄かと手に持っていた燭台をかざして、その影のような存在を見た。
千鶴から聞いた通り、確かに顔は以前町で助けたあの女性だが、服装が男の物の洋装だ。総司はちらりと薫の腰に差してある刀を見てから、口を開いた。
「……何か用?」
薫はこちらに近づいてきた。千鶴は総司の後ろから出てきて、庭に下りようとかがむ。総司は止めた方が良いかと思ったが特に薫が千鶴に害を働く理由もないかと思い直し、そのまま廊下に立って二人を見ていた。
「さっきまで父様がいてね、それで……」
下駄をはいて薫に近寄り、説明しだした千鶴を薫は手で制した。
「知ってるよ。めでたしめでたしってわけだね」
皮肉っぽく言われて、千鶴は足を止めて薫を見る。
「……怒ってるの?」
薫は視線を逸らした。
「別に怒ってないよ。よかったじゃないか」
「……」
薫の妙な態度は、ようやく再開した妹がまたすぐに他の男のものになってしまった寂しさだったが、千鶴は気づかなかった。総司は同じ男としてなんとなく薫の気持ちもわからないでもない。総司は薫に聞いた。
「……君はこれからどうするの。綱道さんはしばらく京に滞在して今後について幕府と協議するみたいだけど」
「俺は一旦南雲に戻らないといけない。時期を見て一度雪村の里にも行ってみようと思っている。雪村家再興は俺の夢でもある。今どうなってるのかを見てどうすればいいのかを考えて……そのついでにばらばらになっている東北の鬼たちの様子をさぐる」
千鶴は頷いた。
「うん。ありがとう。がんばって。東北にみんなで住むのはなくなっちゃったけど、でも家族がまた再会できてうれしい。薫が帰って来るのを待ってるからね」
 千鶴が無邪気に言った言葉は、薫の欲しかった言葉だった。
 薫は一瞬千鶴の顔を見て、すぐに照れ臭そうに顔を伏せる。
「何を言ってるんだよ。俺は今は南雲家の当主だそ。あと十五年もしたら、南雲家当主であり、東北の雄、雪村家当主の伯父だろ」
「でも私の兄であることは変わりないよ。しばらく離れちゃうのは寂しいけど、でも京にも寄ってね」
 総司は双子の心温まるシーンを黙って廊下から見ていた。
 千鶴の甘い言葉で他の男が(たとえ血の分けた兄でも)嬉しそうにしているのは、傍で見ていて腹が立つがここは静かにしておいた方が早く薫がいなくなるだろう。しばらくのガマンだ。
「じゃあ俺はそろそろ帰るよ。明日南雲に行く」
総司の思い通りの言葉を薫は発して、一歩下がった。そしてふと思い出したように千鶴に言う。
「そうだ。お前あの媚薬を返せよ。あれは南雲からこっそり持ち出したものだから早めに返しておかないと」
「媚薬?あの初めて会ったときにもらった小さなガラス瓶に入ったやつ?」
「そうだよ」
手を差し出した薫に、千鶴はキョトンと答えた。
「全部使っちゃったよ?空の瓶でいいの?」
「はあ!?全部使ったってなんで!?」
「だって薫が言ったじゃない。徳利いっぱいの水に、あのガラス瓶一瓶を入れてよく振って、そして徳利の半分を飲ませれば、って」
薫は唖然とした顔でパクパクと口を開け閉めした。
「一瓶!?誰がそんなことを言った!?俺は『一滴』って言ったろ!?何度も何度も!」
 千鶴はあの夕焼けの中の寺の境内を思い出してみる。土に木の枝で図解されたあれやこれやの横に、そう言えば確か『一滴』と書いてあったような気もする。
「……あれ……?そうだっけ?一瓶じゃなかったっけ…」
弱弱しく、チラリと総司を見ながら千鶴が言うと、薫がかぶせる様に言う。
「お前一瓶全部徳利に入れたのか?それを半分飲ませた?一体何滴に……」
呆れたように頭に手をやり髪をかき上げた薫に、千鶴は総司をチラチラと見ながら小さな声で言う。
「……あの、それが手違いで、徳利一本全部……」
千鶴がそう言うと薫は目を剥いた。
「全部!?一人に!?一気に!?」
千鶴がコクリとうなずいたのを見て、薫は恐ろしいものを見るように総司を見た。
「お前よく無事で……」
そして今度はまた千鶴を見る。
「おい、お香はどうしたんだ。まさかそっちも用法を間違えたり……」
千鶴は慌ててうなずいた。お香の方は大丈夫だ。
「そ、そっちは大丈夫!ちゃんと言われた通りひとつかみを香炉にいれて……」
「バカ!!だれが『ひとつかみ』なんて言ったよ!『ひとつまみ』だよ!!だいたいお香なんてどんなお香でも普通『ひとつまみ』だろう!」
総司はうっすらと微笑みながら、千鶴を見た。そして総司も下駄をはいて庭に下りる。
「……なるほどね。どうりで頭がくらくらして腹が燃えるようになったはずだ……」
夜の暗闇でもはっきりとわかるギラリと光る眼で総司に見られて、千鶴はカタカタと震えた。総司は薫を見ながら言う。
「それで?用法を間違えられて媚薬を飲んだり嗅がさられた人間はどうなるの?」
薫はもともと妹をかっさらった総司を気に入ってはいなかったが、この話を聞いてさすがに同情していた。一晩でアレ一瓶を一気のみさせられて香をひとつかみかがされて……散々だったに違いない。
薫は肩をすくめると正直に言った。
「どうもならないよ。過ぎたるは及ばざるがごとし、さ」
「……どういう意味?」
聞き返した総司に、薫は続ける。
「一滴でもひとつまみでも効果のあるあれを、一瓶やひとつかみ摂取したら、前後不覚になってぶっ倒れて……朝までそのまま意識を亡くしてるんじゃないか?次の日の体調は最悪だろうけどね」
 総司と千鶴は顔を見合わせた。
諸悪の根源である千鶴が、おずおずと聞く。
「それって……そういうことはできなかったってこと?」
「それだけ摂取して、ヤル気がおきる人間がいたらバケモノだね。いやバケモノでも無理だろうな」
「でも僕達真っ裸で一つの布団に寝てたんだけど?」
薫は面白そうに目をきらめかせた。
「あれを摂取すると体温が上がる。一瓶全部飲んだらさぞかし暑くて暑くてたまらなかったと思うよ。それで全部着物を脱いだけど、クスリが切れて来たら体温も下がって寒くなって布団に……ってオチだろ、多分」
千鶴がさらに青ざめながら言う。
「でも、飲んでいない私も裸になってたんだけど……」
「隣でそんな熱いのが寝てたらそりゃあお前だって熱くなるだろ。あのお香も、瓶程ではないけど人の体温を上げるものだしね」
「「……」」
千鶴を黒い笑顔で見つめている総司に、必死に顔をそらしている千鶴。
 つまり、要するに、何もなかったのだ。         
赤ちゃんなんでできるはずない。
薫は呆れたように笑うと、さらに一歩下がった。
「じゃあ、俺はもう行くよ。今夜がほんとの新婚初夜ってことで仲良くやれば?」
無理!
千鶴は隣から感じる総司の黒いオーラに即座にそう判断した。今夜はとてもそんな甘い雰囲気になりそうもない。さっと去って行ってしまった薫に、千鶴は取りすがるように言った。
「ま、待って…!待って薫!積もる話もあるし、今夜は泊まって……」
「積もる話は僕にもあるよ」
薫の後を追いかけようとした千鶴の手は、ガシッと後ろから総司に掴まれた。
「夜は長いからね。よーく話を聞かせてもらわないと」
「お、沖田さん……怒ってますか?」
総司はにっこりとドス黒いオーラをまき散らしながら微笑む。
「全然?」
ウソだ!怒ってる……!!               
黒い総司に青ざめる千鶴。
こうして、二人の新婚初夜は世間一般でいう初夜とは全くの別物となったのだった。

 

 



後日談に続く



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