Baby Baby Baby 5





総司は優しかった。                
煙のしみ込んだ焦げ臭い匂いがする腕で優しく抱き寄せられて、千鶴は力を抜いて総司の胸に寄りかかるように寄り添う。
総司の唇は優しくついばむ様に何度も何度も千鶴の唇をさぐった。
いつも意地悪ばかり言っていた唇が、こんなに優しく口づけができるなんて。総司の胸にすっぽりと抱かれて、この世で一番大切な物であるかのように優しく扱われていると、千鶴はだんだんと頭が真っ白になっていってしまう。自分は空気に溶けて、総司と触れている所だけが輪郭を持っているかのような。総司のすべてを受け入れるだけの透明な器になってしまうような気がする。総司にその器を満たしてほしくて、千鶴は自分からも総司の首におずおずと手を回した。
 総司の腕に力が入る。口づけも熱いものにかわった。貪るように全身を押し付けられて、千鶴は流されてしまいそうでさらに総司にしがみつく。
 総司の唇が一旦離され、そのまま千鶴の顎を滑り首筋に降りた。耳の下に口づけをされ、初めて知る感覚に千鶴は小さく声をあげる。それが合図だったかのように、総司はびくりと動きを止めた。
「……」
 どうしたのかと千鶴が総司の顔を見ると、総司は苦しそうににやりと笑った。
「……君は…本当にやっかいだな……」
「……え?」
「……僕は知らないんだけど、お腹に赤ちゃんがいるのにこのまま進んでもいいかどうか君は知ってる?」
このまま進む、というのがどういう意味なのかわかり、千鶴は赤くなった。そして恥ずかしそうにうなずいた。
 綱道と一緒に江戸に住んでいたころ、患者の妊婦たちからさんざんそんな話は聞いている。
「……あの、とんでもないやり方をしない限り、普通のやり方なら大丈夫だって……」
千鶴の返事に、総司は吹き出した。
「ぶっ!『とんでもないやり方』って……!どんなのか逆に教えて欲しいんだけど」
総司が笑ったことで、きりきりと張りつめていた空気がフッと緩んだ。千鶴もおかしそうに笑いだした。
「ほんとですね。そこまではわからないです」
ひとしきり二人で笑った後、総司は千鶴の体からそっと離れた。
「教えてくれてありがとう。……でも今日はやめておこう。明日君が医者に行って、大丈夫だってわかって、僕が大坂から帰ってそしたら…」
そう言って総司は千鶴の手を握った。
 そしたら……
あんなに怖かったのに、今は総司に求められているという事が嬉しい。二人でもっと……もっともっと仲良くなりたい。恐怖心は無いわけではないが、総司に相談して総司と一緒に解決できるだろう。
「はい……」
恥しそうに俯いてそう言った千鶴を、総司は最後に名残惜しげにぎゅっと抱きしめてから立ち上がった。
「布団を敷こっか」
 今夜も眠れそうにないな、と思いながら総司はにっこりとほほ笑んだ。

          *

 総司を送り出してから、千鶴は部屋の片づけと掃除を始めた。
 三日か四日か……総司の隊務が終わるまでしばらくは会えないが、千鶴の心は温かかった。
帰ってきたら……と昨夜総司も言っていたし。
そこまで考えて、千鶴は赤くなって両手で顔を隠した。

 ばっばかばかばか!私のばか!何を考えているの!
これじゃあ、その、心待ちに待ってるみたいじゃない!はしたない……!

 千鶴は顔から湯気を立てながら、部屋の中をゴロンゴロンと転がる。                    
恥しい。恥しいが……そこまで求めてもらえるのは嬉しい。
怖くないわけではないが。
千鶴は例のタコを思い出して一瞬暗くなった。だが、総司なら大丈夫だ。……多分。

 足も二本しかないしね。
 しかも長くて素敵だし……きゃっ!

 ばかばかばかっ!とまたしばらくじたばたした後、千鶴は気持ちを切り替えて、部屋の掃除を終えた。庭の掃き掃除と洗濯をしようと立ち上がった。
 瞬間、千鶴は「あっ」と声をだしてしまった。
 何度も経験のあるあの感覚。そう……
「まさか……」
 月のもの……?
 千鶴が慌てて確かめると、確かに月のものだった。赤ちゃんの関係の出血かとも一瞬思ったが、昨日までの体調を思い出すとこれは毎月来ていた月のものだ。
 今月は遅れていただけだったのか……
「……ど、どうしよう……」
 総司と夫婦になったそもそもの理由は、千鶴の妊娠だったのに。その妊娠が実は間違いだったとしたら……一体どうなるのだろう?
 動揺のあまり頭が混乱して考えがまとまらない。でもとにかく……とにかく何をしよう?
 千鶴は一人の部屋の中で、無駄に立ったり歩いたり座ったりを繰りかえす。
総司に相談?いや、総司はたった今、隊の仕事で大坂にでかけたばかりだ。千鶴のことでさらに迷惑をかけて仕事の邪魔をしたくない。
 いろいろ考えて、結局千鶴はとりあえず着替えて、汚れた着物を洗いに行くことにした。そうすれば洗いながらどうすればいいか考え事が出来る。
 着物をまとめて裏の方の井戸に行く。ここはもともと人があまりこないし、隊士のみんなはちょうど今は仕事や鍛錬、巡察をしている時間だから、見られることはないだろう。見られても普通の洗濯だと思ってくれるだろうし。
 千鶴が水をくみ、洗濯をしようとしゃがみこんだ途端、後ろから声がかかった。
「体調悪いんじゃねぇのか。洗濯なんざ良くなってからでいいだろう」
 千鶴が、ぎょっとして振り向くと土方が廊下に立ってこちらを見ている。千鶴は、思わずまだ洗っていない着物を自分の後ろに隠した。
「朝飯の時に、総司が言ってたぞ?お前の具合が悪いって。安静にしてろ」
「あ、あの……じゃあこれだけやったら部屋に戻ります」
千鶴がそう言うと、土方の眉間の皺が深くなり、庭に降りて驚いている千鶴に向かって歩いてきた。
「あ!ひ、土方さん…!私、あのもう部屋に帰るので…!」
「何隠してやがんだ?お前の着物?」
 あっという間に距離を詰められ、後ろ手に持っていた着物もひっぱられる。取り上げられないように引っ張り返す千鶴など、ものともせずに、土方は白い袴を引き寄せた。
「まさか総司に無体なことでも……」
土方の言葉は途中で止まった。白い袴に転々と散る、赤い汚れ……
 怖いくらい真剣な目で千鶴を見る。
「これは……総司がやったのか……?」
「ちっ違います!」
土方の眉間の皺が深くなる。
「じゃあ……赤ん坊が……?」
聞きたくない、とでもいうように土方は恐る恐る尋ねた。千鶴は慌てる。
「あの、それも違います。あの……」
 どうしよう、ここで土方に話してしまっていいのだろうか。千鶴は昨日の夜と今日の朝の、総司の優しい笑顔を思い浮かべた。
 妊娠したのではなかったということがわかれば、離縁ということになるのだろうか。
 また総司は前の部屋に帰って、千鶴と総司は単なる仲間のような関係に戻ってしまうのか。あの優しい口づけも、千鶴を見るときにきらめく緑の瞳も、楽しそうに笑う顔ももう傍で見られなくなってしまうのか。
 しかし妊娠していなかったことを隠し通せるはずもない。 いつかは言わなくてはいけないが、せめて総司に一番に言いたかった。総司はなんと思うだろうか?
 だが今目の前で、総司が千鶴を傷つけたのか、それともお腹の赤ん坊に何か悪いことがあったのかと心配している土方に、説明しないままではおけない。
千鶴は散々迷った末に口を開いた。
「あの……今分かったんですが、妊娠してなかったみたいです……」
千鶴の告白に目を剥いた土方は、とりあえず彼女を自室に連れ込み、詳しく事情を聞いた。
 そしてしばし考える。
「あー……つっこんだことを聞くみてえだが……」
言いにくそうに視線をそらして、土方は口を開いた。
「ガキができたってのが間違いだったってのはわかったが、総司が父親に名乗りを上げてお前もそれに合意したってことは、つまりそのう……事実はあったってことだろ?」
土方の向かい側に正座をして座っていた千鶴は、コクンとうなずいた。
「ってことはだ。たまたま今回はできていなかったがそのうちまたできんじゃねえか?」
セクハラすれすれの発言だが、二人はもう夫婦なのだし、土方がそう思うのは当然だろう。千鶴は困り果てた。
 このまま夫婦でいれば、確かにそうなるかもしれない。それは自分にとっては願ったり叶ったりなのだが、総司にとっては違うはずだ。だって最初のコトがあった夜の翌朝、総司はかなり怒っていたではないか。罠にはめたと。
 夫婦になったのだって……
 そこまで考えて、千鶴は視界がにじんでくるのを感じた。
夫婦になったのだって、別に千鶴の事を好きだからなったわけではない。子どもが出来たと思って責任をとれと土方から言われて、総司はしぶしぶ夫婦になったのだ。そのあと少しだけ仲良くなったけれども、そもそもの始まりがなければ仲良くなる必要もないわけで……
 ポタリと滴が、千鶴の睫をつたって握りしめていた手に落ちた。
それに気が付いた土方がギョッとする。
「おっおい!俺は何も責めてるわけじゃねえ。男と女のことだ。そういう間違いがあってもおかしくねえし、そういうことから始まった関係でも、お前たちは幸せそうにやってたじゃねえか。総司もそろそろ嫁をとらすかと近藤さんとも話していたし、お互いが思い合っていてガキも欲しいってんなら、今回は残念でもまた次回にだな……!」
土方は身振り手振りで珍しく能弁だったが、千鶴は土方が言った『総司もそろそろ嫁をとらす』と言う言葉にギクリと肩を震わせた。
 そうだ、総司は武家の出だし沖田家を継ぐために嫁をとって子どもとつくらなくてはいけない。近藤の天然理心流も総司が継ぐという話も出ていると聞く。千鶴のような、父親もいなくて親類縁者もいない男装した女子よりも、もっと総司にふさわしい女性を近藤なら見つけてくるだろう。総司はそう言う人と結婚した方がいいにきまっている。
 第一千鶴は………
千鶴は鬼なのだ。雪村家を再興しなくてはいけない。
それに凶暴な兄もいるし、マッドサイエンティストな研究者の養父もいる。
一体誰がこんなめんどくさい女子を嫁に欲しいと思うのだろうか。
 日本のため、綱道のため、薫のために赤ちゃんを作ろう、だなんてなんて浅はかな考えだったんだろう。
赤ちゃんを一緒に作るという行為をして、それでもなんの後腐れもなく自分は暮らしていけると思っていたなんて。
いや違う。計画は完璧だった。
でも……総司のことを好きになるとは思わなかったのだ。
 そこまで考えて、千鶴はとうとう両手で顔を覆って泣き出してしまった。
 女タラシで有名な土方も、妹のように思い一つ屋根の下で一緒に暮らしてきた千鶴に泣かれるのは困るようで、おろおろしている。
「ま、待て待て。泣くな。どうしたんだ、何か問題があるのか?問題があるなら話してみろ。俺にできることならしてやるし総司にも話してやるから……!」
総司を呼んでくるか、と土方は立ち上がりかけて思い出し、舌打ちをした。
そうか、あいつ確か今日から大坂だったな……間が悪い奴だ!
自分が命じたにもかかわらず、土方はいらいらと再び千鶴の前に胡坐をかいた。
「よし、お前にしてみりゃ総司より役不足かもしれねえが、俺に話してみろ」
「……」
千鶴は涙にぬれた目で土方を見た。いろんなことがありすぎて、もう自分の立場とか新選組と綱道の今後について考えを巡らすほどの余裕もない。それに土方の目はとても優しく心配してくれているようだった。
……薫と会った事や父様のことを話して、沖田さんのことも話して、打ち首だと言われてももう……
もう別にいい。
千鶴はこれまでいろいろなことを諦めてきた。今、総司を諦めなくてはいけないのなら、自分の命だって諦められるはずだ。
妙に空っぽな気持ちで、千鶴はぽつりぽつりと土方に話し出した。

          *

 土方の反応は、千鶴が想像していたより深刻なものではなかった。
 綱道が薩摩に居ること、薫という存在について話したときは、さすがに鋭い目をしていたが、彼らにとって今の日本の情勢よりも『鬼』の方が大事なのだということがわかると土方は少しほっとしたようだ。
「敵方にまわったとなりゃあ例えお前の家族だろうと斬らなきゃならねえ。お前が敵方にいる親兄弟のもとに行くと言ったら……難しいことになるところだったがな。薩摩も長州もどうでもいい、鬼だけで暮らすってんなら特に問題はねえと俺も思う。まあ、確かに幕府にはうまいこと言わにゃあならんがな」
そういうものかと千鶴が土方の言葉を聞いていると、彼は声をひそめて囁いた。
「……綱道さんの娘だから言うが、ここだけの話だぞ。幕府の方はもう正直変若水にゃあ興味を失ってると俺は見てる。変若水を飲んだ新選組隊士のあの使い物にならない具合を逐一報告しているからな。新選組に下りてきている綱道さん保護の命も、『巡察中に気を付けておいて見つけたら保護しとけ』ぐらいなもんだ。だからこそお前がこうして何年も軟禁されちまってるわけだが」
何から何まで薫の読み通りだ。本当に計画自体は完璧だったのだ。
赤ちゃんができていれば……と残念に思うが、できていなくてよかったとも思う。総司との絆がさらに深くなってしまう。
自分の気持ちに気づいた今、もし赤ちゃんが出来ていたら、総司と別れて東北に行けるだろうか?
 千鶴が考え込んでいると、土方がふと窓の外を見て慌てたように言った。
「お、もう陽が落ちてきてるな。俺は今夜会津との会合に行かなきゃなれねぇんだ。悪いが……」
「は、はい!すいませんでした。こんなことでお忙しいのにお時間を取らしてしまって……」
千鶴が慌てて立ち上がると、土方も立ち上がった。
「いいんだよ。総司は嫌がりそうだが、あいつのことは弟みてえなもんだと思ってる。姉のおミツさんからも散々頼まれてるしな。まだいろいろ聞きたいことがあるから、明日また来てくれるか。昼すぎからなら少しは時間が取れる」
忙しい土方に、甘えてしまっていいのだろうかと千鶴は迷ったが、頷いた。誰かに相談したいし、総司についても考えなくてはいけない。夫婦になってしまっているのだし、事は新選組全体にかかわってくるのだ。相談するなら土方程適切な存在はいないだろう。
 千鶴は深々と礼をした。
「ご迷惑をおかけします。じゃあ明日昼すぎに……」

         *

 伏見で近藤と総司の乗った船を待ちながら、山崎は悩んでいた。
二人が大坂へ立って今日で六日目。意外に長引いた近藤の用事はようやく終わり、もうそろそろ伏見に船がつくはずだ。
 近藤がいない間については、報告や相談は全て土方にするようにと近藤から山崎は言われているが、その報告の内容が土方に関するものの場合、どうすればいいかは聞いていなかった。
しかも総司の嫁の話もかかわっているデリケートな内容だ。「新選組」としての存在にはあまり関わりのない案件かもしれないが、組織の崩壊は内部崩壊が一番恐ろしい。しかも舵取りを一歩誤ると最悪の場合、新選組副長と一番組組長の斬り合い沙汰ともなりかねない。
本当は近藤にだけ話すことが出来ればいいのだが。山崎の報告を一番組組長に聞かせたくないというだけで、報告内容が千鶴のことだと総司にはわかってしまうだろう。隊としての仕事の場合、総司が知らないでいいことなどないのだから。
 それに、あの一番組組長の新妻については不審に思う件が山崎にはもう一つあった。
 昨日、山崎が新選組出入りの商人のふりをして報告に屯所に戻り、また町へと商人のふりをしたまま諜報活動に出かけたところ、うどん屋で食事中に男に声をかけられた。隠してい居るが薩摩のなまりがかすかにある、純朴そうな青年だ。相席を請われ了解したころ、うどんを食べながら世間話にかこつけて、屯所の中の事をいろいろ聞いてきた。
『いえ、あなたが壬生狼と言われてる新選組の屯所から出てくるところを見て、中はどんな風なのかなと思いまして』
『ああ、そうなんですか、普通ですか……。やはり男ばかりなんですか?いえ、実は女子が一人だけ奥に住んでいると噂に聞きまして……。いえ噂は噂なんで誰からかなどどは覚えていないのですが。しかしあんな荒くれ者ばかりのところに嫁入り前の娘がいるのはいろいろたいへんなんではと思いまして……』
山崎は、以前から別のルートで、新選組の屯所内をうかがっている男が入るという話は耳に入っていた。先日は総司から島原情報ということで、千鶴のことを探っている人間が居るらしいとも聞いている。しかし誰が、何故という確証がもてず調査をしていたのだ。まだ、どういう理由で千鶴の情報をとろうとしているのかはわからないが、大事になる前に潰しておくに限る。しかし自己判断はできないため、この件も近藤に相談したいと思っていた。
だが、まずは土方さんと雪村君と沖田さんだ。
ものすごい三角関係だな、と山崎は他人事ながら背筋が寒くなった。あの二人を手玉に取るなど、千鶴はどうしてなかなかの悪女なのかもしれない。
 近藤には、ここはストレートに事実だけ報告した方がいい。どうせ伏見から屯所は近い。屯所に行けば、今日近藤達が帰ることを知らない土方と千鶴は、また二人きりで土方の自室にこもって何かをしているに違いない。予備知識なく総司がそんな場面に出くわすよりは、可哀そうだがあらかじめ知っておいて心の準備をしておいた方がいいだろう。
 山崎は川から吹いてくる涼しい風を風に受けながら、船着き場に目をこらす。
山崎の頭の中で総司は、すっかり寝取られ夫になっていた。
「おお!山崎君!迎えに来てくれたのか」
船から降りてきた近藤は、すぐに近寄ってきた山崎に声をかけた。もちろん総司も隣にいる。
「お疲れ様でした。局長、少々お話したいことが……」
「ん?報告か?」
わざわざここで待っていたという事は、屯所では話せないということだろう。近藤はあっさりとうなずいた。
「あそこの旅籠に部屋を借りて、昼をだしてもらおう」
三人が通されたこじんまりとした部屋で、総司と近藤は刀を脇に置いて旅装を解いた。汗と誇りでベたべたする。早く屯所に帰りたい。帰って千鶴の顔を見てから風呂に入りたい、と総司は思っていた。しかしこれも仕事だ。
「で?」
膳もそろい、近藤が促すと、山崎が口を開いた。
「近藤局長と沖田組長が大坂に出かけた日の昼に、雪村君が土方副長の部屋に行きました」
どんな重大案件かと思っていた近藤は、拍子抜けしたように、前のめりになっていた体を起こした。総司も目を瞬く。
千鶴はよく土方にお茶を淹れていたし、別に不思議なことではない。
山崎は報告を続けた。
「そして夕方になるまで二人でその部屋にいました。副長は人払いをしており、自分にも決して近づくなと」
総司が目を細める。近藤は、まだ山崎の報告の趣旨が分からないらしくぽりぽりと頬を掻いて言う。
「……まあ、何か雪村君に話があったんではないか?トシは時々人に代筆を頼むこともあるしなあ」
「次の日は、昼過ぎから同じようにお二人で部屋にこもっておられました。夕飯は部屋で二人でとられたようです」
「……」
「次の日は午前中だけですが、やはり同じように、その次の日も……以下略」
 総司の表情はだんだんと冷たく固まっていく。近藤もさすがに意味がわかったようで、苦虫をかみつぶしたような顔をして黙り込んでいる。
三人とも膳にはほとんどてをつけていないが、食欲は全くなくなっていた。
「……帰りましょう」
総司はそう言って席を立った。「お、おお」と近藤も続く。山崎もすっと立ち上がった。
 全く食事には手を付けずに帰る三人に、旅籠のものが何か失礼をしてしまったかと慌ててやってきたが、近藤は急用ができただけだと逆にこちらから謝り金を払う。そのやりとりも、もう総司の耳には入っていなかった。
そっと門を通り、突然の帰宅に驚く隊士たちを静かにするように制して、総司と近藤は土方の部屋へと向かった。
こんな足音を忍ばせてこっそりいくのは……と言う近藤に、これが一番てっとりばやいですよと総司は珍しく冷たく返した。
 後をついてきた山崎が、近藤に耳打ちをする。近藤はそれを聞いて一瞬ギョッとしたが、すぐに納得したようで真剣な表情で山崎を見てうなずいた。そして小さい声で総司に言う。
「待て、総司」
振り向いた総司に、近藤は手を差し出した。
「刀を預かっておく」
「……」
近藤が何を心配しているのかを、総司はすぐにさとった。「なにを馬鹿なことを……私闘は切腹ですよ」と笑おうと思ったが、笑えない。実際、土方の部屋の襖を開けて、目に入って来た光景次第では、斬ることも厭わないだろうと思う位には心が凍りついていた。
 斬る……
 誰を?
その答えは総司にもわからない。

          *

 連日土方は千鶴の相談に乗ってくれていた。
土方の意見は、総司と千鶴が今いい関係になっているのなら、このまま子供ができていなかったことは総司には秘密にしておいて毎夜仲良くしろ、という物だった。
「そうすりゃあそのうちガキもできんだろ。男なんざあ馬鹿だから、好きな女が無事自分の子どもを産んでくれりゃあ月が足りてるだの足りてないだの気にしねえよ」
「で、でもそれでもしできなかったらどうするんですか?それに……その、こういう関係なんでやっぱり沖田さんが思いなおして私に手を出してくれなかったら……」
「だからそこはお前が上手く、そういう方面にだなあ……」
「上手くだなんでそんなことできないですっ。薫からもらった薬もお香も全部使っちゃったし……」
千鶴が半泣きで途方に暮れたように言うと、土方が見かねて懐紙を渡し、千鶴の肩にポンと手を置いた。
「そんな薬なんざつかわなくていいんだよ。お前が総司の前で帯でもほどきゃあ、あいつは飛びついてくるんじゃねえか」
「そっそんな……」
総司と近藤が、土方の部屋の襖を開けたのはその時だった。
「きゃあ!」
いきなり自分の背後で開いた襖に、千鶴が驚いて悲鳴をあげる。土方がうるさそうに顔を上げて文句を言った。
「なんだあ?重要な話をしているからこの部屋には来るなと……」
後半の言葉が消え、ポカンと口を開けている土方を見て、千鶴も自分の背後を振り向いた。          
 「重要な話……ね……」
パキンと音を立てそうなくらいとがった総司の声。
「トシ……おまえまさか本当に……」
信じられない、という顔で義兄弟の契りまで交わした土方を見る近藤。                   
 「近藤さん、総司……いつ帰ってきたんだ?」
土方が腰を浮かせて上ずった声でそう言うと、総司が冷たく答えた。
「今ですよ。あらかじめ知っていたらこんなことにはならなかったとでも言いたいんですか?」
総司は冷たい視線を千鶴にも向けた。そしてその視線を、いまだに千鶴の肩に置いている土方の手へと移動させる。
土方はそれに気づいて、パッと手を離した。
「お、おい誤解するなよ?俺は千鶴の相談に乗っていただけで……」
総司の表情が険しくなった。
「ありきたりな言い訳は聞きたくないですね。誤解も何も……山崎君の報告じゃ毎日毎日二人でこの部屋でこっそり会っていたらしいじゃないですか」
土方は立ち上がった。
「ちっ違う!そういう風に見えるかもしれないが違うんだ!信じてくれ。近藤さん!」
土方が近藤に詰め寄るが、近藤も沈痛な面持ちで視線をそらす。
「トシ……認めるべきものは認めた方がいい」
「違うって!聞いてくれ……千鶴、言ってもいいな!?」
土方はこんな時なのに律儀に千鶴の許可をとると、必死で近藤と沖田に説明をした。
「……っていうわけで、だからガキはできていなかったんだよ。ガキができたから総司と夫婦になったっていうのに、その肝心のガキは実はいなかったってのが、近藤さんと総司が大坂に行ったその日にちょうどわかって、それで……」
総司は嘲るような表情で千鶴を見た。
「ははっ。君ってわかりやすいね。だから今度は土方さんに子づくりを頼もうって?」
「ちっ違います!」
思わず立ち上がって否定した千鶴に、総司はさらに続けた。
「まだ薬があったんだね。ほんとすごいよね君。土方さんなら成功するんじゃない?僕と違って」
凍えるような冷たい緑の瞳に、千鶴は何も言えずに固まった。
 総司はそんな千鶴を他人を見るような目でしばらく見ると、興味を失くしてしまったようにふいっと部屋を出て行った。

          *

 総司は夜遅くにようやく部屋に戻ってきた。
道場の戸の隙間からろうそくの明かりが漏れ出ていて、ずっと一人で鍛錬していたのを千鶴は知っている。二人の部屋で、千鶴はじっと総司を待っていた。
 夕飯も一応作ったのだが、総司は部屋には来ず、皆で食べる部屋にも行っていないようだ。千鶴も食欲がなく、全く手の付けられていない二つの膳は、そのまま新八と平助によってきれいに片づけられた。
 総司は部屋には戻らないかもしれない、と千鶴は部屋で正座をしたままぼんやりと自分の指を見ながら思った。
最後に見た冷たい瞳。千鶴のことを軽蔑しきったような瞳をしていた。
 他の誰かの部屋に行くか……島原にでも行ってしまうかもしれない。
 千鶴はぎゅっと手を握りしめた。
 行かないでほしいなんて言う権利はない。さんざん振り回して嫌な思いをたくさんさせた。        
でも土方とのことだけは誤解を解いておきたい。総司との赤ちゃんができなかったから、次は土方と……などととんでもない。しかし最初に総司を罠にはめた自分のやり方を考えれば、総司がそう思うのは無理もない。          
全てにおいて相手に対して失礼で、馬鹿で、浅はかな、自分勝手な計画だった。                 
こんな計画を完璧だと思っていたなんて。
どれだけ自分を責めても責めたりない。でもまずは総司に謝りたいのだ。そして土方との誤解を……
 何回目かの思考のループの最中に、廊下を歩く足音が近づいてくるのに気が付いた。
千鶴がハッと襖の方を見る。

「……あれ、君まだこの部屋にいたんだ」
襖を開けた総司の第一声は、想像通り冷たいものだった。
「土方さんの部屋に行ってるかと思った」
総司はそう言って部屋に入り、視線も合わせずに自分の長持を開け、持っていた荷物を片付けたり、夜着を取り出したりし始めた。総司が特に声を荒げたり怒りにまかせて怒鳴りつけたりはなく淡々と言っている分、千鶴は話しの接ぎ穂が見つけられない。
「お、沖田さん……」
総司の方へ身を乗り出して誤解を解こうと千鶴が口を上げたとき、総司が肩をすくめて言った。
「まあ、どっちでもいいけどね」
無関心は怒りよりもつらい。千鶴は打たれたようにひるみ、口ごもった。
 総司は片付けと寝る準備を終えると、自分の布団を敷き、千鶴をチラリと見る。
「僕はもう寝るけど、君はそこでずっと座ってるの?灯りは消しておいてくれる?」
「お、沖田さん……!土方さんの事は本当に誤解なんです!ずっと相談に乗ってくださっていただけで…!」
「それはもう聞いたからいいよ、じゃあおやすみ」
布団に入って横になってしまった総司に、千鶴は近寄った。こんなのは嫌だ。言い訳すらきいてもらえないまま誤解で終わってしまうのは……
「わ、私は沖田さんの妻です。ずっと自分でもそう思ってるし土方さんだってそう思ってます。でも赤ちゃんが出来たのが間違いだっていうのが、たまたま土方さんにわかってしまって、それで土方さんに全部を話して相談にのってもらっていただけなんです」
「……」
うるさくて眠れないと文句を言われるかと思ったが、総司は無言でもう一度布団に起き上った。片膝を立て、そこに自分の左腕を置いて千鶴を見る。
「僕の時と一緒だよね。敢えて言えば順番が違うかな。僕の時は事後説明だったけど土方さんには事前説明」
「事前も事後も……!土方さんとはそんなことをするつもりはないんです!」
「なんで」
しごく真面目な顔で問いかえされて、千鶴は頭に血が昇った。
「なっなんでって……私が沖田さんの奥さんだからです」
千鶴がそう言った途端、ぐるりと視界が回った。
 え?と思った瞬間、目の前に総司の顔。総司の肩の向こうに天井が見える。千鶴はしばらく考えて、自分が布団の上に仰向けに倒れた……いや総司に倒されたのだとわかった。
「……じゃあ旦那の権利を行使させてもらってもいいんだ?」
 言葉と共に、総司が千鶴の手首を抑えて顔をぐいっと近づけてきた。緑色の綺麗な瞳の中の金色の粒が輝きを増し、瞳全体が緑がかった金色に光ったようになる。
 千鶴はぼんやりとその瞳を見つめていた。
冷たい視線なのに、瞳の奥は熱くてなにかどろりとしたものが蠢いている。それが別の生き物のようできれいだ。
 何が起こっているのか、これから起こるのかに気づかずに、千鶴はそのまま総司を見つめていた。
 総司はしばらく抵抗されるのを待つように千鶴の顔を見ていたが、目を伏せると唇をよせた。
「あ」
先ほどまでケンカをしていたのに、口づけをされるとは思っていなくて、千鶴は思わず小さく声をあげた。総司はかまわず、その声ごと一息に飲みこむ。
 深く、強引な口づけ。
千鶴は驚いて目を見開く。何度か口づけはしたけれど、こんな……こんなのは初めてだ。以前のは千鶴の様子をうかがうような、反応を試しながらの優しい口づけだったと今はわかる。千鶴の様子など全く気にしていない様子の今なら。
のしかかられて苦しくて、千鶴が身をよじると総司はさらに千鶴の手首を握る力を強めた。そして深く舌を絡めてくる。
 千鶴の脚を割って、総司の脚が入ってきた。脚を広げられて千鶴は驚き、手で総司を押し返そうとした。しかし抑えられていて全く動けない。千鶴を覆う総司の大きな体と、掴まれた手、合わせられた唇。
「!…んん……!!」
 総司の強引で性急な行為は、千鶴に恐怖を呼び起こした。  
総司が得体のしれない化け物に変わってしまったかのように、触られる手や唇に恐怖感と嫌悪感を感じる。
「や……っ沖田さ…やめ……」                
首を振って唇が外れた隙に千鶴は必死に訴えたが、総司の耳にはまるで届いていないようだ。
 昏く真剣な総司の瞳に、千鶴は震える。
総司の唇が千鶴の耳を滑り、うなじをつたう。ようやく千鶴の手首から離れた総司の両手は、そのまま千鶴の着物の袷を掴むと、ぐいっと開いた。
「……あ……っ」
 真白な千鶴の胸が、薄暗い行燈の光の中であらわになった。誰にも見られたことも無くこんな風に触れられたことも無い場所に(前回の夜については覚えていない)、灯りの下でまじまじとみつめられ無遠慮に唇をはわせられて、千鶴はもう羞恥心と恐怖心で限界だった。そんな千鶴の様子を全く気にしていない総司を見るのも哀しい。
 三日月を見ながら二人で金平糖を食べて笑い合った夜から、どうしてこんなに変わってしまったのだろう。
千鶴の瞳に涙が零れ落ちた。
もう抵抗する気力もなく、千鶴は力を抜く。
千鶴の帯を解こうとしていた総司は、千鶴が抵抗を止めたのに気が付いた。そしてちらりと上目づかいで千鶴の顔を見る。
行燈の暗い光の中でも、千鶴の眼尻から流れる滴は見て取れた。
「……」
 帯を持ったまま総司はしばらくじっとしていたが、勢いよく体を離すと振り向きもせずに千鶴の部屋を出て行った。                       
閉められた襖と、遠ざかっていく足音を聞きながら、千鶴は着物の襟を掻き合わせて布団の上に横向きに丸くなる。
先程の行為は、優しさや愛や信頼とは真逆なものだった。そしてそれは、千鶴への罰なのだろう。
 千鶴は更に丸く小さくなって静かに涙を流した。

           *

 総司は平助の所にでも行って寝ようかと思ったが、自分が人と顔を合わせて会話ができる状態だとは思えなかったので、道場へと足を向けた。
真っ暗な道場の真ん中で木刀を構える。
 自分をこの暗闇の中に溶かして消してしまいたいくらい、総司は自己嫌悪に陥っていた。
千鶴が土方に本当に乗り換えたなどとは思っていない。ただ、自分が大坂にいる間、毎日毎日土方と二人で親密な話をしていたという事実と、千鶴が一番に頼ったのが土方だったという現実が受け入れられないだけなのだ。
 冷静になった今では、千鶴が気軽に男を乗り換えて子供をつくる女子だとは思えない。子どもが欲しいのは事実だが、それなら何も土方に相手を変更する必要はないのだ。大坂に行く前に、総司は千鶴を抱きたいと伝えているし千鶴だって拒否はしなかった。普通に考えれば、もし妊娠してなかったとしてもまた総司と二人で子づくりをしようと思うはずだ。
 千鶴が頼ったのが土方だと言うのも、今なら理解できなくはない。癪だし胸クソが悪くなる気持ちはかわらないが、大坂に総司が行ってしまっていて、土方に妊娠していないのがばれてしまったのなら話すしかないだろう。     土方の部屋を開けて、親密に……千鶴の肩を抱くようにして親密に話している二人を見たとき、総司の頭によぎったのは『また取られた』という思いだった。自分の一番大事な物好きな物を、横からさらっていくのはいつも土方だ。千鶴までも……と総司の胸の奥深くでどろりとした怪物が蠢いた。無理やりでも千鶴を抱けば、その怪物がおさまりそうな気がした。千鶴が再び自分のモノになるのではと。
                           
あんなに泣かせるつもりじゃなかった。
あんなに怖がらせるつもりでも。
あんな恐怖に満ちた目で見られたいわけじゃなかったのだ。
くそっ
総司は木刀で暗闇を横一文字に斬った。



6へ続く



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