Baby Baby Baby 4






あの子は隙がありすぎなんだよ。一君だってナニ?頬そめちゃって…!相手は人妻だってわかってるのかな、これだから天然は困るんだよね。
総司がいらいら悶々しながら勝手場を後にして、ドスドスと廊下を歩いていると、集会所から例の三馬鹿の声が聞こえてきた。
「だから、俺の一人勝ちだろ?夫婦にまでなってんだからよ。今夜の飲み会は俺はタダってことでいいんだろ?」
と言うのは左之。艶のある声のせいですぐにわかる。
「でもあれは子どもができてしょうがなくって感じじゃねえ?」
平助らしき声が不服そうに言う。新八が同意の声をあげているのも聞こえる。左之がまた言った。
「んなこと言ったってお前、ガキができるようなことをしてるんだぜ?嫌いだったらわざわざしねえだろ?」
 むう〜という唸り声とともに黙り込む平助と新八。
 総司はひょいと集会室を覗いた。
「僕の話?」
総司の姿を見て、三人は大げさに飛び上がった。
「うおっ総司!」
「なんだお前聞いてたのかよ!」
総司は集会所に入っていく。
「左之さんの一人勝ち、って賭けでもしてたわけ?」
別に総司は怒ってはいないのに、三人は気まずそうな顔をした。新選組は血気盛んな男たちの集まりだし、上品な奴などほとんどいない。総司と千鶴の話などいいネタ扱いで、賭けや噂の対象になるのはとうぜんだろうと総司は思っていた。しかし根がいい平助は申し訳なさそうに言う。
「いやあ…なんつーかノリでさ。ついつい賭けをさ……」
「何を賭けたの?」
「飲み会一回おごり」
なるほど。それで、総司と千鶴が夫婦になったせいで『総司が千鶴に嫌われない』に賭けた左之が、『嫌われる』に賭けた新八と平助に勝ったというわけか。総司は深く考えたわけでもなく、提案する。
「ねえ、今夜の飲み会って島原?僕も連れてってよ。左之さんの勝ちに一役買ったわけだし、勝ち組陣営で無料にしてくれるよね?」
「おお〜!総司がめずらしいな!来い来い!うまい酒飲ませてもらえんぞ!」
みんなでワイワイと酒を飲むのが大好きな左之は総司の肩に手を回し、大喜びだ。もちろんもう一人分の飲み代をもたなくてはならなくなる平助と新八はシブい顔だ。
「……まあいいけどさあ。総司と飲むの久しぶりだし。でも夫婦になったばっかだろ?千鶴はいいのか?」
平助の指摘に、総司は一瞬黙った。
 女性の酌で飲むような場所に行くのである。新婚三日目にして。しかもこの三人のことだから当然その後も楽しいことをしてくるに違いない。
 そんなところに新婚の男が行ったら、新妻は傷つくのではないか…?と当然の思いが総司の胸をよぎる。しかしすぐそのあとに、斎藤に指を吸われて頬を染めていた千鶴の顔を思い出し、ムッとした。

 そうだ、別に思い合って夫婦になったわけでなし、僕が何をしようと自由の筈だよね。それにあの鬼仲間の千とかいう子も言ってたけど、本来は千鶴ちゃんは鬼なんだよ。今は一時的に人間のところにいるだけで。あんまり仲良くなっちゃったら、それこそかぐや姫みたいに別れがつらくなるに決まってる。あの子はもともとそうやって割り切って僕に子づくりを頼んできたわけだから、僕だって割り切って島原に遊びに行ったって誰も責められないよね。
「別に気にすることないんじゃない?これまで新選組に居てそういうことはもうわかってるでしょ、あの子は」
全く気にした風でもない総司とは対照的に、平助、新八、左之は心配そうだ。しかし旦那が大丈夫と言ってるのに外野がやいのやいのと言うのもおかしい。大丈夫かな、と思いながらも三人は頷き、じゃあ日が落ちる前に島原に向かうか、ということで一致したのだった。

         *

 稽古はとっくに終わっているはずなのになかなか帰ってこない総司を、千鶴は気にしていた。夕飯はすっかりできていて、後は勝手場に行って温めるだけだ。斎藤と一緒に味見をしたが、好き嫌いの多い総司でもおいしく食べられるはず。その事を早く総司に伝えたくて、千鶴はそわそわとしていた。
 部屋に総司が帰ってきたら、ますお疲れさまと言って、近藤からの提案の話をして、お風呂を先にするかご飯を先にするか聞いて……心の中で段取りを考えてウキウキしていた千鶴は、廊下から聞こえてきた足音に思わず立ち上がり、昨夜の口づけの気まずさも忘れて自分から襖を開けた。
「沖田さん!お帰りなさい!」
千鶴の笑顔に、総司はまぶしそうに一瞬目を細めた。
「あ、ああ……うん。ただいま」
「お疲れ様です。お風呂にしますか?夕飯を先に召し上がります?」
「え、えーと……」
まさかこんなに歓迎を受けるとは思っていなかった。斎藤との一件をずっと思い出してはいらいらしていた総司は、屈託のない千鶴に毒気を抜かれる。           
総司が持ち帰った洗い物をしまいながら、千鶴は楽しそうに目をきらめかせて言う。
「あの、今日の夕飯はですね……」
「あ、そうだ」
総司は千鶴の言葉をさえぎった。言いにくいが早く言わないともっと言いにくくなる気がする。
「今日は新八さんたちと島原に行くことになったんだ。夕飯っていうか酒飲みながらいろいろつまむからね、屯所では夕飯は食べないよ。君はもちろん食べててくれて構わないから」
なんとなく後ろめたくて早口で総司が言った言葉は、意図したよりも千鶴の胸に突き刺さったようだ。一瞬表情がこわばり、先ほどまでの可愛らしい笑顔が消える。
ズキズキと痛みだした胸を無視して、総司は明るさを装う。
「それに寝るのもさ。多分遅くなると思うから先に寝ててくれてかまわないから。赤ちゃんがいるんだし体は大事にしないとね」
 総司の言葉に、千鶴は再度打たれたようにひるんだ。  
これも失言だったかと総司はひやりとする。が、何が千鶴を傷つけたのかはわからない。とにかく早く立ち去るに限ると、総司は着替えるとそそくさと出て行った。


          *


二膳の夕飯を、千鶴は一人で食べた。
総司が島原に出かけたことを知った斎藤が、集会所で残りの皆と食べないかと誘ってくれたが、千鶴は断った。落ち込んでいる今、皆と楽しく食事はできそうにない。溜息ばかりついている自分が集会所にいれば皆は気にするだろうし、千鶴を心配して、総司をいさめる人が出てくるかもしれない。総司は千鶴のせいで無理矢理夫婦にさせられたというのに、日常の楽しみまで奪われてしまっては気の毒だ。
 醤油と酒で味付けしたごぼうと青菜は、我ながら美味しかった。食欲はあまりなかったが、千鶴は無理をして二人分を食べる。
何かで胸をいっぱいにしておかないと、空っぽな胸が寂しくて涙をこぼしてしまいそうだ。
泣く権利なんかないのに
総司は今頃島原で、千鶴が作ったのとは比べものにならないくらいのごちそうを食べているのだろう。もちろんお酌は、これまた千鶴と比べものにならない、ちゃんと綺麗に着飾った女性だろう。こんな狭い部屋で、男装している女と、質素な夕飯を食べるよりはよっぽど楽しいに違いない。
 それに千鶴は長年の新選組での暮らしで知っていた。島原から遅めに帰るという場合は、たいていは女性を買って帰る場合が多いのだ。門限は土方に事前に申告しておけばある程度大目に見てもらえるが、さすがに朝まで居続けは難しい。そのため女を買う場合はたいていの隊士は夕方早めに島原に行き、酒を飲んで、女を買い、夜遅めに屯所に帰って来るのだ。
総司は、『遅くなるから』と言った。千鶴は隊士たちの島原通いを全て把握しているわけではないが、総司のそういう話はこれまで聞いたことがなかった。飲むのも屯所でゆっくり飲む方が好きなのだと思っていた。
 そこまで考えて千鶴はハッとする。
そうか…。私と一緒に暮らすことになっちゃったから、部屋でゆっくり飲むこともできないんだ……
視界がにじんでくるのを感じたが千鶴はぐっと我慢した。
不自由な結婚生活を総司に強いているのは千鶴なのだ。まるで被害者のように千鶴が泣くのは間違っている。   でも……そうだ。多分心の中では総司に傍に居て欲しかったのだ。作った夕飯を一緒に食べて、嫌いな野菜も食べることができるかどうか聞いて、今日あった出来事を聞いて、笑い合って……。そんな普通の夫婦のようなことを総司としたかったのだ。体の事を気遣ってくれたこともとてもうれしかったが、産まれてくる子を一緒に楽しみにして欲しいなんてずうずうしいことを期待してしまっていた。それとは裏腹に、千鶴が妊娠していなければ総司は彼女に興味もなく、夫婦になるつもりなぞこれっぽっちもなかったのだとも思ってしまう。これはつまり、妊娠云々よりも自分のことを見て欲しいという気持ちの表れのような気もして……
 我儘で高望みで身の程知らずもいいところだ。
 自分が総司にしたことはひどいことで、そんなことを望んでいいような立場ではない。
 なのに総司は優しい。
 千鶴はこみ上げてくる苦いものと一緒に味噌汁を飲み、白米を口に運ぶ。
 全て自分の決めたことで、ちゃんと計画通り物事は進んでいる。にもかかわらず千鶴の心だけが大きく乱れていたのだった。

 

 島原で総司についた芸妓は君菊だった。
町で千と会った時に隣にいたし、新選組に来るときもいつもいる。島原で密偵のようなことをして情報をとっているとは聞いていたが、この店にいるとは知らなかった。艶然とほほえみ酒を注いでくれる君菊は、色気たっぷりで人気芸妓だというのもわかる。              
しかし総司は何も感じなかった。どうも作り物めいた気がするのだ。いつもの君菊の方がよっぽどきれいだと思う。 好みのタイプではないが。
 好みのタイプはもっとこう……清楚な大人しい感じで、でも芯は強くて自分の考えを持っていて、でもちょっとドジで笑顔がかわいい……
 ぼんやり考えていた総司は、まさにそのタイプの、今は自分の妻である女の子を思い浮かべて慌てて頭を振った。
 千にも言われたし、千鶴にもはっきり言われた。色恋はいらないと。鬼の問題で時期がくれば鬼の仲間のもとへ戻っていくと。
そうだ。変に情なんか移さない方がいいんだ
総司がそう思いながら盃をあけると、君菊がすかさず寄り添い注ぐ。
「ああ、ありがとう」
総司は礼を言った。君菊は周りをちらりと伺い、左之も新八も平助も言い気分で酔っぱらっており、こちらにまったく注意をむけていないのを確認すると、総司の耳元に口を寄せてきた。
「千鶴さんのことを探っている男がいます」
表情は変わらなかったが、総司の目が鋭くなった。緑の瞳の色が薄くなる。
「どういう意味?」
「新選組に女子がいるのを知っているか、とか雪村綱道氏の娘が京にいる、など、酔いにまかせて話している男を先日座敷で見かけました。島原の仕事仲間から聞いたところでは、他の店でも同じようにしていて綱道氏を知っている人や新選組出入りの商人などから千鶴さんの情報を引き出そうとしているようです」
「どんなヤツ?」
「若い武士で、京の薩摩藩邸に出入りしているとのこと。見た目は二十代前半。真面目そうな様子だそうです」
「……ありがとう」
君菊はそれだけ伝えると、不自然ではないようにしばらくお酌をしたあと、座を辞した。
 総司ももう飲む気分ではなく、手水に行くついでに少し水でももらってこようと席を立つ。
 廊下を歩いていると、今入店したらしい客たちとすれ違った。総司は廊下の脇によけて、彼らを通していると、その中の一人から声がかかる。
「総司じゃないか!」
「近藤さん!」
どうやら近藤が幕府の要人達と来ていたらしい。近藤は連れに手で合図をして先に行ってもらい、総司に話しかけた。
「どうした。お前が島原にこんな時間にいるなぞ珍しいな」
晴れやかな近藤の笑顔に、総司は曖昧に微笑んだ。
「そうですね。なんだか成り行きで左之さんたちと一緒に来たんです」
「そうか。しかしお前は新婚じゃないか。いかんぞ千鶴くんに寂しい思いをさせては。早めに帰った方がいいな」
「……はい」
 総司は近藤に言われて、早く帰りたいと思っていた自分に初めて気が付いた。島原で上辺の会話を初対面の芸妓としているよりも、屯所のあの部屋で千鶴をからかったり怒らせたりしている方がよっぽど楽しい。何故自分はこんなところに来たのかと総司は我ながら不思議で、そんなことを思っている自分に呆れる。
「じゃあ僕は皆より先に今から帰ることとします」
「それがいい。そうだ、ところで夕飯はどうだった?」
「夕飯?」
「千鶴君の手料理はうまかったか?千鶴君から聞いたと思うが昼に彼女に、総司のメシは彼女が手作りしてくれないかと頼みに行ってな。逆に彼女は喜んでいたぞ。お前のために何かしたかったと言ってな」
「……」
「いい嫁をもらったな」
幸せそうな近藤に肩を叩かれて、総司はうつむいた。
「はい……。本当にそうですね」
早く帰ろう。                   
帰って謝ろう。
 総司は駈け出したい思いを抑えて皆が飲んでいる部屋に戻り、帰り支度をはじめたのだった。

        *

 部屋には明かりがついていなかった。
千鶴はもう寝てしまったのかと思いながら総司がそっと歩いて行くと、庭に面した廊下にぽつんと人影が見えた。廊下に座って足を庭の方へおろし、ぼんやりと空を見上げている。
 もちろん千鶴だ。
 かろうじて夜空にひっかかっているような、不安定な三日月を見ている。その横顔は寂しそうで、総司はドキリとした。
「……月に帰りたいの?」
思わずそう声をかけてしまった。小さな声のつもりだったが、静かな夏の夜の空気の中で、その声は思いのほか大きく自分の耳に届く。
千鶴は驚いたように振り返った。
「沖田さん……」
千鶴が腰を浮かせたのを手で制して、総司は近くへ寄った。
「隣、いい?」
「もちろんです。お帰りなさい。あの……早かったんですね」
千鶴は微笑みながらそう言ったが、どこかカゲがあるように感じたのは総司の気のせいだろうか。総司は千鶴の隣に座って同じように庭の方に足をおろした。
「うん。なんだか気になっちゃって。……奥さんがね」
千鶴がキョトンとした顔で総司を見た。わかっていないようなので、総司は念のため付け加える。
「ちなみに奥さんって君の事だよ」
「あ!ああ……そ、そうですよね。すいません……」
「ぶっ…!別にいいよ謝らなくて。謝らなくちゃいけないのは僕の方。……近藤さんから聞いたよ。夕飯ありがとう。ごめんね」
「……沖田さん……」
千鶴は大きな目を見開いた。                 
虫の鳴く声が静かな空気を震わせている。零れ落ちそうなくらい大きな瞳で総司を見ている千鶴は、夏の静かな夜の空気にとても似合っていた。先ほどまでの島原の刺激の強い空気よりも、こちらの方がずっといい。
総司がそう思いながらしみじみと千鶴を見ていると、千鶴が恥ずかしそうに口を開いた。
「いいんです、そんな…。私が勝手にやったことで……」
「誰かに自分の分だけご飯を作ってもらうなんて子供の時以来かなあ、嬉しいよ。今日作ってくれた僕の夕飯は、今からじゃもう遅い?」
「……」
千鶴は気まずそうに目を泳がせた。総司が「どうしたの?」と首をかしげると、千鶴が言いにくそうに口を開く。
「ヤケになっちゃって……二人分私が食べちゃったんです……」
その千鶴のきまり悪そうな真っ赤な顔がおかしくて、総司は思わず吹き出した。
「だって、斎藤さんとか皆さんが憐れむような目で見てくるので、つい大丈夫ですって言ってこの部屋に二膳持ってきちゃったんです」
「あっはっははは!じゃあ僕のかぐや姫は月が恋しくて見上げてたんじゃなくて、食べすぎで苦しくて眠れなかったってワケなんだ」
 恰好が悪くて認めたくはないが、よく考えればその通りなので千鶴は沈黙した。しかしツボったのか相変わらず笑い続けている総司に、千鶴もだんだんおかしくなってきてクスクス笑いだしてしまう。我ながら二膳も一気によく食べられたものだ。
「あーおかし。いいんじゃないの?赤ちゃんの分二人分食べないとって言われてるんだし」
「それにしても二人分は多かったです」
そしてまた二人で吹き出す。ひとしきり笑った後、総司が涙を拭きながら「あ、そうだ」と懐から何かをとりだした。
「はい、これ」
千鶴が手のひらに受け取ったのは、千代紙のような可愛らしい袋に入った金平糖だった。
「わあ!かわいい…!」
「おみやげだよ」
「え?島原のですか?」
「そう。女の子は甘いものが好きだからね。ちょっとした贈り物用の甘いものとかちょこちょこ売ってるんだよ。その……」
総司は途中で、何事かを言いにくそうに言いよどんだ。
「えーと、僕は今日島原に行ったけどさ、別にその……いや、もちろん女の子に酒は注いでもらったけど、それだけだったからね」
今度は総司が何やら気まずそうだ。月明かりでよくわからないが、耳が赤いような……
 総司が何を言いたいかわからず千鶴がどう返事をすればいいか口ごもっていると、総司が思い切ったように言った。
「だから女は買ってないよってこと」
「ああ……」
 赤裸々な言葉に今度は千鶴が赤くなった。確かに『遅くなる』という言葉で、女の人と…そういうことをして帰って来るのかなとは思ってしまっていた。しかしそれは……
「……その……今回の赤ちゃんの件は、夫婦にまでなることになってしまって沖田さんに本当にご迷惑をおかけしたと思っているんです。だから、普通の夫婦のようにその……他の女の人とお酒を飲まないで欲しいとか他の女の人とそういうことをしないで欲しいなんて勝手なことは言うつもりはないので……」
 言いながらも千鶴は胸が痛かった。本当に今夜総司が女を買ってから帰ってきていたら、一体自分はどうしただろうか?こんな風に二人で笑いながら話すことなんて多分できなくなる気がする。総司は自分の本当の旦那さんという訳ではないのだから、そんなことを思う方が勝手なのは重々承知しているのに。
「千鶴ちゃんはそれでいいの?」           
総司が聞く。からかうような口調の裏に妙に真剣な響きを感じて、千鶴は総司の顔を見上げた。
「ウソの夫婦でも仮の関係でも、夫婦ってものになったからには君が他の男に抱かれたりイチャイチャしているのは、僕は嫌だね」
総司の脳裏には、昼間の斎藤と千鶴の姿が浮かんでいた。嫁にそれを求めるのなら旦那も襟を正さなくては。
「だから僕はもう島原には行かないから」
わあ……
総司の言葉に、千鶴は体の中がフワフワと浮き上がるように感じた。総司が島原に行ってしまった後から感じていた暗い世界が、一瞬にして明るくなった。自分でも驚くほど嬉しくて、顔が熱くなるのを感じて、千鶴は両手で頬を抑える。
 勝手なことばかりして総司に迷惑をかけている自分が、総司の優しい言葉で喜んでいてはいけない……とは思うものの、嬉しくて嬉しくてしょうがない。頬が緩むのを我慢しながら、千鶴は頷いた。
「も、もちろん、私もです。他の人にだ、抱かれるなんてそんなことは決して……!」
千鶴の返事に、総司の口もゆるむ。
「ホント?約束だよ?」
そう言って総司が差し出した小指に、千鶴はためらいながらも細い小指を絡めた。
「はい」
そう言ってにっこり見上げた千鶴があまりにも可愛くて。
総司は引き寄せられるように顔を傾けた。
最後に見えたのは驚いておっこちそうなほど大きく目を見開いた千鶴の瞳。
そして総司は前回と同じく、一瞬にして千鶴の唇の柔らかさのとりこになった。
 しかも考えてみれば、総司は女性と口づけしたのは前回の千鶴とのが初めてかもしれない。島原で女を買った時にもしかしたらしていたかもしれないが、あれはぶつかったようなものでいわゆる事故だ。
 こんな風に自分から触れたいと……唇を合わせたいと思ったのはこれが初めてだった。
 相変わらず甘い。今は周りが静かな分余計に、千鶴の吐息や夜着の衣擦れの音まで聞こえてきて総司を酔わせる。
甘い甘い静かな時間が過ぎて、総司はゆっくりと唇を離した。
 ぼんやりと焦点のあっていない千鶴を、総司抱きしめたくてたまらない。こんな気持ちも初めてだ。しかし多分抱きしめてしまったら止められなくなってしまう。
彼女が欲しい
でもそれと同じくらい、彼女にも自分を欲しいと思って欲しい。
 子づくりのためだけでなく、総司自身を。総司の今後の人生も全て。
 だって総司はもう千鶴のこれからの時間すべてを欲しいと思ってしまっている。
 何がどうなってこうなったかはわからない。最初はかなり腹を立てていたような気がする。次は少々意地悪な気持ちで夫婦になった。
 口づけがきっかけだったのかもしれないが、自分はずっと彼女が欲しいと思っていたのだと、総司は今頃になって気が付いた。
 傍に居ると楽しい。落ち着く。見ているとかわいいし癒される。夫婦になる前から、誰にでも優しい彼女を苛めたくていろいろ意地悪もした。僕だけを見て欲しくて彼女が嫌がることをやったっけ。まるっきり子どもが好きな女の子にやるような事ばかり彼女にしかかけていた。
 総司は少し前の自分を思い出して、にやりと心の中で笑った。
 しかし別に恥ずかしくもない。男なら誰もが通る道で、自分は少し遅かったと言うだけだろう。
 そしてようやく気づいたこの想いを、大事にしたいと強く思う。体から始まった関係だけど、だからこそ次は心を手に入れたい。
 彼女の気持ちが僕に追いついてくれるまで、鬼を捨てて人間と暮らしてもいいと思ってくれるまで。
それまではどうか月へは帰らないで。
総司は千鶴を抱きしめながら、心もとないくらい細い三日月に祈ったのだった。

         *

次の日の朝、早起きして千鶴が作ってくれた朝ごはんを、総司と千鶴は部屋で二人きりで食べた。
 千鶴が、食事当番の隊士の手伝いをして一品つくったりしたことはこれまでにももちろんあるが、最初からメニューや味付けまで考えて作ったのはこれがはじめてだ。
千鶴は心配そうに総司の表情を下から見上げる。
「うん。おいしいよ」
にっこり微笑んで総司がそう言い、千鶴はほっと笑顔になった。その嬉しそうな顔をみて総司も嬉しくなる。
 好きな子の嬉しそうな笑顔を見ながらなら、ご飯十杯は軽く行けそうだ。
 総司がそう思いながら、小皿に乗せてあったたくあんを箸で一切れ掴むと、ばらばらっと全部つながって持ち上がった。どうやら一番下の部分まで切れておらず、つながってしまっているようだ。千鶴はあっ、と頬を染めた。
「すっすいません……!切り方が甘かったみたいで…!」
「いや、いいよ。一回で全部食べられていいんじゃない?」
総司はそう言うと、ぱくりと全部を口に入れてしまった。たくあんは歯ごたえがあるので一気には食べにくいだろうに、ボリボリと大きな音を立てて食べている。
「………」
千鶴は嬉しさと恥ずかしさとくすぐったさで、黙って下を見て、ご飯を小さく一口食べる。
 総司がふと思いついたように千鶴を見て言った。
「そう言えば、土方さん辺りから聞いてるかな?僕、明日の朝から近藤さんの護衛でしばらく大坂に行くんだよ」
千鶴は目を見開いた。初耳だ。
「そうなんですか?どのくらいですか?」
総司はうーんと言って頭を掻いた。
「そうだな、多分三日か四日か……それぐらいかな?」
「気を付けて行ってきてくださいね」
千鶴がそう言うと、総司はにっこりとほほ笑んだ。
「うん。お土産買ってきてあげるよ。それとさっき君が部屋に入ってきたときに思ったんだけど……」
何かと、顔をあげた千鶴をまじまじと見て、総司は続けた。
「……今はそうでもないかな。でもさっきはすごく顔色が悪いなって思ったんだよね。妊娠初期っていろいろつらいんでしょ?今日は夕飯はいいから部屋でゆっくり寝ていなよ」
「顔色…悪いですか?自分では気づかなかったです。吐いていたのも最近はあまりなくなってきたし……でも確かに今朝はちょっと体がだるかったような……」
「ホラね。ゆっくりしてなよ?」
びっくりするほど優しい緑の瞳で見つめられて、千鶴は赤くなってうなずいた。
「は、はい……」
 いつも千鶴をいじめていた総司らしくない、と思うものの、ある意味とても総司らしい。
 総司のまわりには四つくらい境界線があって、彼はそれの外側に居る人と内側に居る人とを厳密に区別している。最初、千鶴は一番外側の『どうでもいい』エリアにいた。そのころの総司は冷たくて、境界線を越えようとするときつい言葉で部外者だということを伝えてきていた。
 それから年数が経って、千鶴も境界線の一つ中に入れてもらえたように思っていたが……昨日の夜や今朝の態度は、さらにもう一つ境界線を越えたような感触だ。一番内側かそれに準ずるぐらいの……
 総司は内側に入れた人には優しいのだ。それは節度をわきまえた優しさなどではなく、甘やかすという言葉が似合う程の優しさ。そういう優しさを堂々と表現されると、まだ慣れていない千鶴は照れてしまう。でも嬉しくないわけなどなくて、とっても嬉しい。自分でも戸惑うほど嬉しいのだ。そしてその嬉しさが、人の感情の動きに聡い総司にわかってしまうのではないかと思うと、それが恥ずかしい。
 照れと恥ずかしさと嬉しさと……これぞ新婚!というくらいの甘々オーラ満載で、二人の朝食は終了したのだった。

         *

 その夜、京では火事があった。
風も強くなかったし、もうすぐ雨が降りそうな程湿気が多かったため大事には至らなかったが、夜番で巡察中だった一番組はもちろん現場へ向かう。場所は屯所からそれほど遠くない、長屋が立ち並ぶ一角だ。屯所で待機組の平助や左之が、もうかけつけて先に救助や消火にあたっている。
総司が火事の対応を終えて次の巡察当番の組に引き継ぎをし、一番組隊士たちの怪我をみて対処をし、夜番を終えたのはもう真夜中近かった。
 幹部のみが入ることができる集会所へと行くと、先ほど火事現場にいた平助達が大騒ぎしながら、傷の手当てをしている。
「僕もいれて。あーひどいすすだよ」
総司がそういいながら入っていくと、左之と平助が振り向いた。どちらも顔がすすと汗で汚れている。
「おー。お疲れさん。特に大きな被害もなく火事も終わりそうだな」
そう挨拶してきた左之の横に、総司もどっかりと座り、タライに入っている水と手ぬぐいを手に取って、汚れを拭き始めた。
「うん。僕がこの部屋に来た時は、空はもう暗かったし大丈夫じゃないかな。あれ、左之さん結構やけどがひどいね。ああ、平助も」
見ると、左之は右腕全体にぽつぽつと火の粉が降り注いだ跡が赤くやけどになっており、平助は脚が全体的に真っ赤だ。
「崩れそうになってたボロ家の入口を、皆が逃げるまで抑えてたんだよな。火の粉がバンバン降りかかってきたんだが動けなくてよ」
居合わせた山崎が口を添える。
「今は熱くて痛いだけですが、明日になると多分水ぶくれのようになってひどく痛い上に不潔にしていると化膿してもっとひどいことになりますよ。毎日消毒するのでちゃんと自分のところに来てください。それに藤堂組長、すぐに冷たい水で赤味が引くまで冷やしてください。全体が水ぶくれになってしまいます」
左之が自分のやけどを消毒しながら総司に言った。
「お前は?全体に汚れがひどいが……」
「ああ、僕は隊服をちゃんと着てたから対して被害はないかな、顔のあたりに小さいやけどがぽつぽつあるくらいで」
山崎も総司を見てうなずいた。
「そうですね。それも小さなものなので、汚れを取って冷やして軟膏を塗っておけば明日には治るで……」
そこまで言った時に集会所の引き戸が勢いよく開き、千鶴が駆け込んできた。
「お、沖田さん……!沖田さんは…!!」        
動揺しているのか、千鶴は蝋燭の光の中で総司がどこにいるのかわからないらしい。うろたえたようにきょろきょろと探している。
「千鶴ちゃん」
総司が手を上げて合図をすると、千鶴は飛んできた。
「沖田さん、怪我は……怪我はありませんか?火事で……」
「ああ、大丈夫だよ」
総司はそう答えると、先ほど山崎とのやりとりを千鶴に伝えた。                       
それを聞いて千鶴はへたへたと座り込む。
「よかったです……」
「それより君、こんな時間に起きてこなくてもよかったのに。まだ顔色も悪いみたいだしもう真夜中だよ?帰って寝てていいよ」
「そんな…!そんなことできません。あの、もしよろしければ私が手当を……」
 千鶴はそう言うと、総司が持っていた手ぬぐいをとり、そしてタライの水で一度洗うと、膝を進めてそれを総司の顔にあてる。拭い残しもあったところが、千鶴の手でみるみるうちにきれいにされていった。
しかしどうも……お互い座ったままだとやりにくい。
「あの……もしできたら……」
 千鶴が提案したのは膝枕。             
千鶴の膝にごろんと横になり顔を上に向ければ、千鶴も手当てがしやすい。
 それを聞いて総司は面白そうに眉を上げた。
こんな男だらけの所で自分だけが千鶴にそんなことをしてもらったらどんな空気になるか想像がつく。実際隣にいる左之も平助も、しらじらとした表情で自分で自分を手当をしているのだ。
 しかしそんなことで遠慮をする総司ではない。     
逆に楽しい。                    
総司はさっそくゴロンと仰向けになり千鶴の膝に頭を乗せた。
「大丈夫ですか?背中とか痛くありませんか?」
千鶴はもともとそういうことには鈍いし、総司の怪我が心配で周囲の雰囲気には全く気が付いていないようだ。総司は笑い出したくなるのを我慢して返事をする。
「ううん、全然。柔らかくてきもちいいよ。このまま寝ちゃいそう」
「眠ってくださっていいですよ。目をつぶっていてくださると瞼もきれいにできるので」
「あー気持ちいな、千鶴ちゃんの指って」
「そうですか?あ、ちょっとお口も閉じてくださいね」
「ちょっ…くすぐったいよ」
「もう、だめですって。動かないでください」
「そうは言ってもさ……」
いちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃ
集会所の空気すべてが新婚の二人のいちゃいちゃ空気に侵されそうになった時、タイミングよく土方が引き戸を開け、いちゃいちゃしている総司と千鶴、そして集会所内の微妙な空気に気が付いた。
「おい、おまえら……」
土方が声をかける。
「あっ痛っ!」
「ご、ごめんなさい…!痛かったですか?ふーっふーっ」
土方の言葉は、やけどの跡に塗ってもらった軟膏をふーふーしてもらっている総司とふーふーしてあげている千鶴に、あっさりとスルーされた。後ろから平助と左之が、「土方さんがんばれ!」と小声で応援している。
 土方は、ゴホンと咳払いをすると、今度はもう少し大きな声で名指しした。
「総司と千鶴!」
ようやく膝枕でいちゃいちゃしていた二人が、初めて気が付いたように土方を見た。
「なんですか、土方さん」
「こんばんは」
周囲の反応をわかっていた楽しんでいる総司と、まったくわかっていない無邪気な千鶴。
土方はもう一度咳払いをした。
「あー、総司。ご苦労だった。お前は明日は朝から近藤さんとしばらく大坂だろ?とっとと寝ろ」
軟膏を持って集会所を出ていく総司と千鶴の背中を見ながら、平助と左之は土方にぼやいていた。
「ったく。火事じゃなくてあいつらのせいで焼け死ぬかとおもうくらいアツかったぜ」
と言うのは左之。
「なんかさー、おれさー、生きていくのが虚しくなってきたんだけどさー、新選組やめて坊さんとかになろうかなー……」
人生がイヤになったのは平助。
土方は立場上、二人をなだめた。
「まあ、そう言うな。夫婦になったばかりで浮かれてるんだろ。最初はどうなるかと思ったがちゃんと夫婦らしくしてるじゃねぇか。屯所内で離縁なんざ困るだろ?」
「……」
土方自身でもあまり慰めにならないと思う慰めの言葉は、もちろん平助と左之には無言のジト目で返されたのだった。
さて、一方こちらは自分たちの部屋へ移動した新婚夫婦。
相変わらず千鶴の膝枕で、総司は手当をしてもらっていた。顔はもう綺麗に拭ってもらって怪我にも軟膏を塗ってもらったから、次は手だ。一応集会場に行く前に総司は井戸で手を洗っていたので、後は軟膏を塗るだけ。
 膝枕でやってもらう必要はこれっぽちもないのだが、総司はすっかりこの体勢が気に入ったようだ。千鶴もまんざらでもない。
 甘えるような総司がかわいくて気持ちよさそうな顔が間近に見えて幸せだ。最後のやけどに軟膏を塗って、千鶴は名残惜しげに総司の手を離した。
 新婚とは言っても複雑な理由で夫婦になった身としてはこれで膝枕をしている理由もなくなってしまい、千鶴はなんだか残念だった。
「終わりましたよ、沖田さん」
「……千鶴ちゃんさ……」
総司は眠ってしまいそうに目を瞑りながら、島原で君菊に言われたことを思いだしていた。新選組幹部の定例会で、監察から千鶴に関しての特に怪しい人物の報告はなかったが、君菊は鬼の情報網と島原での情報網を持っている。侮れない。
「千鶴ちゃん、最近身辺に何かいつもと違うことはない?」
総司の質問に、千鶴はキョトンとした。
「いつもと違う事……ばっかりですけど、最近は」
総司は目を見開いた。
「何?」
千鶴の膝の上でぱっちりと目を開けて見上げている総司。至近距離にある彼に見つめれられて、千鶴はどぎまぎした。
「あの、赤ちゃんのこととか、沖田さんのこととか……」
全部総司の知ってる事だったので、総司は再び目を閉じた。 千鶴の周りではまだ異変はないというわけか。しばらくいろいろ探ってみよう。
 総司は何も言わずに、千鶴が手当してくれた自分の手を見る。そして上を見上げて千鶴の顔を見た。
「あれ、やっぱり顔色が悪いね」
千鶴の顔は暗い灯りの下でも、それとわかるくらい白かった。目の下にもクマができている。
 総司は起き上り正面から千鶴の頬に手を添えて総司の方を見させた。やはり顔色が悪い。
「昼の間、寝てなかったの?大丈夫?」
「言われた通りちゃんと寝てました。ちょっとだるいですけどそんなに体調が悪い感じは自分ではしないんですけど……」
「明日にでもちゃんとした医者に診てもらったほうがいいね。ついて行ってあげたいけど僕、明日からしばらく近藤さんの護衛で大坂なんだ。ちゃんと一人で行けるね?」
「はい」
 千鶴は正直自分の体調に関して総司ほど心配はしていなかった。「そうなのかな?」と思う程度で。
 それよりも薄暗い部屋で、頬に手を添えられて、まっすぐに見つめられているこの状況にドキドキする。早く目をそらして手を離してほしいと思うが、それとは逆にずっとこのまま総司を見つめていたいとも思う。
「……」
千鶴の表情を見て、総司もふと真剣な表情になった。
 どちらともなく体をゆっくりと寄せて、まるで磁石が引き合うようにそっと唇があわさった。

 



5へ続く



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