Baby Baby Baby 2






「……沖田さんと一緒に夕食当番をやった日の事なんですが、覚えていらっしゃいます?」
「夕食当番?」
 正座したまま言いにくそうに口を開いた千鶴に、総司はいぶかしげに聞き返す。
「そうです。半月くらい前に……お豆腐が足りなくなって私が急遽お使いに行った日なんですが」
 ああ!と総司は指をパチンと鳴らした。
「一君の膳にだけ冷奴が足りなくなっちゃったんだっけ。ああ、覚えてる覚えてる。僕が君にお使いでとりあえず一丁すぐに買って来てってお願いしたよね。それが?」
「実は、お豆腐を買った帰り道に転びそうになって……」

『きゃああっ!』
 水の張ったタライごと前につんのめりそうになった千鶴は、一瞬のうちに斎藤の哀しそうな顔と総司の冷たく怒った顔が走馬灯のように頭を駆け巡った。
 もうだめだ!タライの中の豆腐は地面に落ちてぐちゃぐちゃになってしまう……!と思った瞬間、なにやら暖かいものに抱き留められて、千鶴は転ぶのを免れる。
『あ、ああ……よかった……!あの、すいません!ありがとうございました。助かりました!お豆腐が……』
落ちちゃうところでした、と言おうとして、千鶴はそのまま口をポカンと開けた。
 沈みかけている真っ赤な夕暮れの中、千鶴を抱きかかえるようにして助けてくれたのは洋装の少年だった。
マントのようなものを羽織り、髪も短い。ズボンをはいているから少年だとは思うのだが、間近で見るその顔はとても繊細なつくりでまるで女性のようだ。いや、この顔は見たことがある。どこでだったか……
『あ!』
 思い出した。総司と一緒の巡察中に、千鶴と総司が助けた町の女性、薫さんだ。
 総司は、千鶴と似ていると言っていた。その後も二、三回見かけたことがあるが、全て女性の恰好をしていた。
 どういうことだろう?顔が似ているだけの別人なのだろうか?それにしては似ているが……
 千鶴がまじまじと見ていると、その少年はバカにしたように笑った。
『あいかわらずトロくさいね』
 町での薫さんと同じ声にもかかわらず辛辣な内容に、千鶴はびくんと肩をすくめた。やはり薫さんではないのだろうか?
 千鶴がマジマジとその少年の顔を眺めていると、少年は苛立たしそうに涼しげな眉をしかめて舌打ちをした。
『いつまでフ抜けてるんだよ!思い出せ!俺の顔をよく見ろよ!お前に似ているだろう!?双子なんだよ!沖田に指摘されるまでもなくね!』
そう言うとその少年は、腰に巻いた布にさしていた刀を鞘ごと抜き取り、千鶴へと差し出した。
『見たことあるだろう。お前の持っている刀と対のものだよ。しつらえが全く同じだからわかるだろう?』
『これ……』
 確かにこれは千鶴の持っている小太刀と同じだ。しかし千鶴の小太刀は雪村家のみに伝わる大事な刀だと言われていたのだが、何故ここに対になったものがあり、しかもそれをこの口の悪い少年が持っているのだろうか。
目を瞬かせている千鶴に、薫は冷たく微笑んだ。
『俺のだよ。俺が父様からもらったんだ。お前には小太刀』
そう言うとその少年は何かを思い出すように瞳を閉じる。そしてかすかにほほむと歌うようにそらんじた。
『「ほら、こっちは薫に。もう一つは千鶴に。二人がいつも一緒でいられるように刀も対の物をあげよう。いつまでも仲良く力を合わせて生きていくんだよ。そうすれば……」』
 その言葉を聞いて、千鶴な目の裏がチカリと光ったように感じた。
その言葉は聞いたことがある。今初めて聞いたはずなのに、でも確かに聞いたことがある。
あれは……
千鶴の口が我知らず動き、言葉を続けた。
『「……そうすれば……必ず道は開けるから……」』
千鶴がぼんやりと呟くと、彼の目がキラリと光った。
『……思い出した?』

「やっぱり……あの女怪しいと思ってたんだよね。男でしかも双子だったってワケ。なるほどね。で?」
「私が東北の鬼一族の生き残りだっていう話は、前に屯所を訪ねてきた千ちゃんに聞いて沖田さんも知っていると思うんですが、双子の兄のことは千ちゃんは知らなかったみたいです。私も何故かすっぽり記憶から抜け落ちていて……。でも薫に会って思い出しました。私たちの一族は、人間に滅ぼされたのだということを。小さいころから慣れ親しんでいた村が人間に火をつけられて、私と薫は手をつないで必死に逃げまどったことも思い出したんです。そして今、新選組の皆様が探してくださっている私の父、綱道は、私の実の父ではないことも」
 総司の瞳の色が濃くなり、真剣な表情になった。
事が自分の情事疑惑から新選組の隊務の話になったからだろう。しばらく考えて慎重に聞いてきた。
「実の父親じゃないってどういう意味?」
「綱道さんは、私の育ての父だったんです。東北の雪村の里が襲われて、最後の直系である私と薫を逃すために実の父と母は自らおとりになって人間に殺されました。綱道さんは、襲ってきた人間の手から私と薫を守るために、一緒に逃げてくださったんです。彼は両親の遠い親戚で雪村家に昔から忠誠を誓っていた人でした。そして薫は姻戚関係にあった四国の南雲家にもらわれていき、私は綱道さんの娘として江戸で育ったんです」
「……」
 長い間封印していたその時の感情―迫りくる炎の熱さと恐怖、最後に微笑んで『いい子でね』と言った母の顔、ぎゅっと抱きしめられた父の腕を思い出して、千鶴は胸を抑えた。湧き上ってくる感情を抑え込んで、千鶴は続ける。
「あの日……お豆腐を買いに行った日に、薫は自分が兄だということを黙っていることに我慢できなくなって、私を待っていたんだと思います。薫はずっと覚えていたみたいで自由に動ける様になったら私を探そうと思っていたと言っていました。なのに私は全部忘れていて……それで苛立って、あの日私の前に出てきたみたいでした。そして新選組を出るように言われたんです」
千鶴がそう言うと、総司の目がキラリと光った。
「……で?君は何て答えたの?」
「私はもちろん、今新選組を出ることはできないって言いました。だって……」

『だ、だめなの。父様が…綱道さんの方の父様が行方不明で、新選組の皆さんが行方を知りたがってるの。もしかしたら危険な目にあってるのかも知れないし、早く見つけてあげないと…!』
千鶴がそう言うと、薫はフッと冷たく笑って言った。

『お前が子どもを産めばいいんじゃないか?』
いきなりとんだ話についていけず、千鶴がキョトンとしていると、薫は馬鹿にするような口調で続けた。
『島津にいる鋼道も、お前に子どもができたって聞いたらきっと姿を現すよ。それでみんなで雪村の里を再興しようってもちかければ幕府の思惑も変若水の計画もどうでもよくなると思うね。あいつは雪村家バンザイだからね』
千鶴は今ようやく思い出した『兄』の顔をまじまじと見た。
『……島津?』
『お前が心配してた綱道は、変若水の研究にもっと金を出してくれる島津に乗り換えて今楽しく研究の真っ最中さ。自分を心配して江戸から単身京へと乗り込んできた可愛い養娘が、壬生狼と呼ばれて嫌われてる新選組に軟禁されてることなんて全然気にしないでね。逆に新選組なら千鶴の命まではとられない上に他の奴らも手出しができないだろうって安心してるんじゃないか?』
『……』
あんなに探していた父が、お世話になっている新選組の敵方にいた……いや、正式には敵方とは言えないかもしれないが、幕府が警戒している強藩だ。
『どうして?どうして父様はそんなに変若水の研究を…?』
 薫は手に持っていた刀に目を落とし、考え込む様にしばらく黙り込んだ。
 そして『俺の推測だけど、間違いはないと思うよ』と淡々と話し出した内容は、驚くべきものだった。
東北の純血の鬼の一族。その長である雪村家。そして敬愛する雪村家と鬼の里を焼き払われた鋼道。
 綱道の行動は、心の支えである東北の鬼の頭領である雪村を失った事からくる恨みが原因だった。
 幕府に協力して変若水を改良したかと思えば、今度は幕府の強敵になり得る島津に自らおもむき同じように羅刹の改良研究をしているとの事。その目的は、幕府と諸藩の力を拮抗させて人同士での戦いを泥沼化させ、雪村を滅ぼした『人』という種への復讐することだった。
『人』同士の戦いを煽り、激化させ、世の中を疲弊させ、その隙に乗じて雪村家の再興を願っているらしい。
 ある時は幕府側につき、変若水を使い兵力を増強し幕府側を戦に強くする。
そうした後は、今度は幕府の敵方である薩長について、さらにすぐれた変若水を研究、提供し、薩長の戦闘能力を高め幕府を圧倒する。
 その後また幕府につき……というのを繰り返し、何度も何度も兵力の均衡した(綱道が均衡させた)幕府と諸藩を戦わせ『人』を数多く殺す。そして日本の国全体を疲弊させていく、という計画らしかった。
 そして人間どもが戦に疲れ果て、東北で鬼の一族が再興したと聞いても襲ってくるような余力がなくなったころを見計らい、雪村家を再興させる。それが綱道の復習と願い。
 だが、一見完璧のように見えるこの綱道の計画にも、薫が考えるに、欠けているピースが一つある。
 それは雪村の里が焼き払われた後、日本全国に散らばってしまった東北の鬼たちを再び集めるための求心力だ。
 綱道が鳴り物入りで東北の雪村の跡地に薫と千鶴を連れ戻し、雪村家を再興すると宣言したところで、ばらばらになってしまった東北の鬼たちが戻ってこなければ意味がない。
 そこで、薫の冒頭の台詞『お前が子どもを産めば……』につながるのだ。
 綱道の欠けているピースを埋めるための薫の案は、雪村家直系の最後の女鬼、千鶴が子どもを産み東北の鬼の頭領として雪村家を再興したこと、今後も代々と続いて行くことを訴えればいい、というものだった。
 もう今の時代純血の血筋にはこだわらないが、しかし純血の女鬼というのは鬼たちをひきつけ一つにするカリスマがある。だから誰の子供でもいいから千鶴が、雪村家直系の最後の生き残りである『純血の女鬼』が子どもを産めば、それを伝え聞いた今はばらばらになっている東北の鬼たちは、雪村家が再興したこと、再び代々続いて行くことが即座にわかり、少しずつ千鶴のもとに集まってくるだろう。鬼にとって純血の女鬼とその子どもというのはそれほど求心力のあるものなのだ。
 この、欠けたピースのない完全な絵を綱道に示せば、綱道は今関わっている変若水の研究などよりも、妊娠した千鶴と薫を連れて東北に帰り、雪村家の再興を速める方に夢中になるだろう。何故ならそれこそが綱道の悲願なのだから。そうして綱道がいなくなれば変若水の研究もストップしやがて忘れ去られる。羅刹になり狂う人間がいなくなり、戦も『人対人』の従来通りのものに戻るのだ。日本国の疲弊も少なくてすむし無駄に死んでいく者もなくなるにちがいない。

 薫はそう説明したものの、千鶴がまさかこのことについて真剣に考えるとは思っていなかったようで、できるわけないよね、とバカにしたように笑うと踵を返してその場を立ち去ろうとした。
 しかし、戦乱の世を作っているのが自分の養父であること、その理由は自分の両親を人に殺されたこと、そして千鶴が妊娠すればそれを回避することができるかもしれない、ということを聞いた千鶴にとっては、真剣に考える価値がある話だった。
 去っていく薫の背中に、千鶴は思わず声をかける。
『そしたら……もし、もし私に赤ちゃんができたら薫は……?』
 立ち去ろうとしていた薫は、千鶴の言葉に足を止める。しばらく空を見て考えた後、ゆっくりと千鶴の傍へ戻ってきた。
 うずくまっている千鶴の前に片膝をつく。
『もしそうなったら……僕も南雲を捨てて戻ってもいい。家族ができるのなら……』
 薫の瞳の奥に憧憬のようなものがちらりと浮かぶのを見て、千鶴は胸が痛んだ。
小さいころにもらわれていった兄。女鬼でなく子供を産めないためにかなりつらい思いをしてきたらしい。
その分、家族に対するあこがれも強いのだろう。
全ての哀しみの根源は雪村家が消滅したことなのだ。
復活させることができるのは、千鶴しかいない……!

「……と、まあこんな経緯でですね、赤ちゃんが欲しいなと思ったんです」
 畳の上に片膝をたてて胡坐をかいていた総司は、千鶴の話を聞いて行くうちにだんだんと『考える人』のポーズになっていった。
 頭の中のガンガンという音がさらに大きくなっているのは気のせいではないはずだ。眉間を親指で軽く揉んで気を落ち着かせた後、総司は口を開く。
「……なるほどね。それでその薫からもらったアヤシイ媚薬と、ヘンな気になるお香とで僕を襲ったと……。だいたい君、初めてでしょ。やり方とか知ってたわけ?」
ふと疑問に思ったことを聞くと、千鶴は恥ずかしそうに頬をそめて俯いた。
「は、はい……。あの、薫から聞きました」
 傍に大人の女性がいないため、何かをするらしいとは思いつつも何をするのか具体的に知らなかった千鶴は、あの時薫に根ほり葉ほり聞いたのだ。薫はかなり嫌そうだったが、雪村の再興のためなら、と寺の境内の地面に小枝で絵を描きながら教えてくれた。
ほとんど記憶になかった幼少期に分かれた兄と久しぶりに話したのが、どうやって子供をつくるかの授業だったという事実は、千鶴にとっては今でも微妙な思い出だ。
 それに知識としてはそれ以外にも、薫が貸してくれた春画本がある。『やり方』の説明という訳ではないが、こういう物を見て男性が興奮するのだという意味で、あのタコは勉強になった。
気まずい沈黙が千鶴の部屋に流れる。
総司は間を持たせるために特にかゆくもない首筋をかいた。
 昨夜、自分は千鶴に……その…実地で教えたのだろうか?いや、千鶴の話を聞けばその気になる物を飲んだり嗅いだりしまくっているのだし、今朝も裸で同衾していたのだから教えたのだろうが、残念なことに(さすがに残念だとは思う)全く覚えていない。
 総司はちらりと千鶴を見る。
 屯所に来た頃はどうにか少年でごまかせたかもしれないが、今の千鶴はどこから見ても女性だ。まだ満開とは言えないが七分咲き、と言ったところだろうか。
 大きな黒目がちの瞳。それを取り囲んでいる重たげな睫。肌は白くてきめが細かく滑らかだ。体は華奢だが、そういう目で見てみると、腰がすんなりとわずかながらも魅力的な曲線を描いている。膝の上でもて遊んでる指が細くて白くてきれいだ。
 あの指が昨夜は自分の背中にまわされたのだろうか。初めては女性はつらいときくし、総司の体のどこかに傷をつけたのかもしれない。薬で酔ったようになってしまい記憶もなく、自分は無体なことをしてしまったのではないだろうか。
 朝起きたときに滑らかなシミ一つない彼女の背中は見た。しかし他は何も見ていない。いや見たかもしれないが覚えていないのだ。
 いろんな意味で総司は溜息をつくと髪をかき上げた。
「それで?首尾よくコトを成し遂げたのはわかったけど、これから僕はどうすればいいの」
「これから……」
総司の言葉で千鶴は顔を上げた。と同時に薫に言われていたことを思いだす。
『いいか、男の中には生まれてくる子どもと母親の面倒を見るのはごめんだと思っているやつが多い。特に新選組にいるようないい加減な奴らはほとんどそんな無責任なやつらばっかりだろう。そういうやつに子どもをつくるように頼むと今後の面倒も見てくれ、と言われてると誤解して怒り出すやつもいるかもしれない。だから、こう言うといい……』
「あの、作るだけでいいです」
端的な千鶴の言葉に、総司は思わず聞き返した。
「え?」
「作るだけでいいんです」
「……」
総司は微妙な気持ちになった。
 なんだそれは。まるきり種馬扱いではないか。
 ムッとしている総司には気づかず、千鶴は続ける。
「私が妊娠したら新選組のみなさんはびっくりされるでしょうが……でも大丈夫です。父親が沖田さんだって言うことは決して言いません」
「ちょっ……ちょっと待ってちょっと待って!屯所で産むわけ?」
動揺している総司に、千鶴は不思議そうに答えた。
「だって私を屯所の外に出すと羅刹や変若水について漏らされるかもしれないから、父が見つかるまでは出せないんですよね?」
至極当然のことを言われて、総司は頷くしかなかった。
「いや、まぁそうだけど……」
「ずるいですけど、妊娠してしまったらもう産むのを許すしかないと思うんです。土方さんや近藤さんは責任感の強い方ですし、きっと無事に産ませてくださると思います」
「で、ここで育てるの?」
千鶴はうなずいた。
「解放してくださるまではそれしかしょうがないかなと思っています。父が……綱道さんがが現れたり倒幕派が力を失くしたり……とにかく外に出られるようになったらもちろん赤ちゃんと一緒に出て行きますけれど」
「その考えは甘くない?綱道さんは幕府が血眼で探してるんだよ?現れたら即座に軟禁、変若水の研究を続けるよう言われるし、そういう命令がでたら新選組もそれなりの対応をするよ?」
「そうかもしれません」
それについても薫と打ち合わせ済みだ。
「薩摩で開発した新しい変若水がありますよね。それと同じものを幕府側にも渡します。そしてこれが改良した最終版だと、これ以上の改良は無理であり、なおかつ材料その他の関係で今ある分以上の作成はできない旨を理詰めで開発者の父が説明すれば、もう父には用がなくなるのではないでしょうか?納得していただけるように多少の細工は必要だとは思いますが、変若水はほとんど父が一人で扱っているので、それは嘘だと言えるだけの根拠も、幕府側は出せないと思うんです。さらに、今後父が薩長に行くのではなく全然関係ない東北へ、静かに暮らすために行くとなればきっと幕府の方々も強引に父を京にとどめるだけのメリットもないんじゃないかな、と」
立て板に水で説明する千鶴を、総司は冷めた目で見ていた。
「……それもあの『薫』の入れ知恵ってわけ?」
「そういうわけじゃ……」
「薫の言うとおりによく知りもしない男に自分の体を投げ出して、薫の言うとおりに新選組を出て行って……いいように使われてるだけじゃないの?」
 総司の指摘に、千鶴は考え込んだ。
 確かにそう言う面もあるかもしれない。子どもを産むなんて人生の重大事だ。それを薫の言うがままに……いやそういうわけじゃない。
 千鶴は首を横に振った。
 千鶴が望んだのだ。千鶴の力で無為に流れる血が少しでも減るのなら、と。大切な人を想って流す涙が減るのなら、と。
 羅刹に襲われた時の恐怖を、千鶴はまだ覚えている。そしてその羅刹が動物のように殺される衝撃と虚しさも。あんな人間をつくる薬を、父と思って慕って来た綱道が研究していて、しかもその目的は雪村家の再興だという。
 千鶴は考えを確かめるように、ゆっくりと口をひらいた。
「そういうわけじゃないです。良くも悪くも私のせいで父様があんな薬を研究しているのなら……それを止めることが私にできるのなら、止めたいと思ったのは私です。沖田さんには子づくりで迷惑をおかけしてしまいましたが、これで赤ちゃんが出来ていたらもう何のかかわりのない人生を歩んでいただいて結構です。罠にはめてしまって本当に申し訳ありませんでした」
 正座をした姿勢で背筋を伸ばしてまっすぐに総司を見て千鶴はそう言い、再度に丁寧にお辞儀とした。
 いつものようにからかったりできるような態度ではなく、凛として自分の意思を持って話す千鶴に、総司は口を閉じた。
 彼女の真摯な思い。自分以外のものに対する優しさ。自分の身をいとわない潔さ。
 子どもだ子どもだと思っていた彼女が、まるでさなぎから羽化した蝶のように羽ばたくのを見て、総司は『ああ、彼女も江戸の女なんだなあ』とふと自分の姉を思い出した。
 いつもは優しくて何も言わないが、ここぞという時はたとえ亭主だろうと叱り飛ばす。そしてそれが正しいのだ。
 総司はフッとほほ笑むと、千鶴を優しい瞳で見た。
「わかったよ。意地悪言ってごめん。……ところで聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「は、はい。もちろんです。私が答えられることならなんでも!」
 優しくなった総司の声と態度に、千鶴も肩の力を抜いて微笑んだ。
「新選組には男はたくさんいるし、君が女の子だって知ってるやつらも何人かいるよね。その中で、子づくりの相手に僕を選んだのはなんで?」
千鶴は、ああ、と頷くとにっこりと笑顔で言う。
「一番後腐れがなさそうだからです」
剣の腕前?見た目?性格?好意を持っているから?武士の家系?云々……総司が考えていた好意的な理由はすべてふっとんだ。
「は?」
「私ももちろん他の方についても考えてみたんですが、他の方々は皆、私が妊娠したとなって身に覚えがあったとしたら後々まで責任をとってくださりそうだなと思ったんです。先ほども言いましたけど、最終的には子どもと父と薫とで東北に帰るつもりですし、責任を感じてあまりしっかりとした関係……夫婦とかになられてしまっても困るなあと思いまして」
 総司の顔に、かつてないほど黒い笑顔が浮かんだ。
「で、僕は無責任に子どもを作って、非情にも平気で捨て置いていそうだから選ばれたと」
いつもならダッシュで逃げ出すくらいの黒い笑顔だったが、すっかり気を抜いている千鶴は気づいていなかった。
「はい。…というか、捨て置いてくれとお願いしたら聞いてくださるのは沖田さんぐらいかなと思ったんです」
「君の中での僕の評価がわかったよ」
「あ、あの……違ってましたか?」
「知らないよ。子どもなんて作ったことないし作ろうとも思ったことないし」
そう言うなりムスっと横をむいてだまりこんでしまった総司を、千鶴は困ったように見た。ちょっと失礼な言い方だったかもしれない。
「その……優しくないとか責任感がないとかそういう意味ではなくて、沖田さんには女性と夫婦になるよりも大事なものがあるじゃないですか?だから……その……」
そういうことかと総司は千鶴をチラリと見た。
 近藤と剣、そして新選組。
 自分の大事な物ははっきりしていて、それは今後も変わらない。そう言う意味では千鶴の人を見る目は確かと言えるかもしれない。

 ……だけど
と、総司は思う。近藤と剣を大事にしつつ千鶴を大事にする事はできないと言われたようでなんだかもやもやする。
 自分だって大切な女性ぐらいは守ることができる。  ……大切な女性が出来ればの話だが。千鶴が大切な女性になる可能性だってあるのに、千鶴自身にその気がないというのが総司を苛立たせているのだろうか。
 そこまで考えて、総司は面白くない結論に行きそうな思考を打ち切った。
「まあいいや。じゃあ。この後のことは君が妊娠しててもしてなくても君一人でなんとかするってことだね?」
「はい」
「妊娠して、土方さんあたりから相手を聞かれても言わない、と」
「はい。沖田さんにこれ以上ご迷惑をかけるつもりはありません」
「……」
 テコでも考えが変わりそうにない千鶴を見て、総司も意地になる。
「あっそ。じゃあ好きにしたら?僕も好きにするし」
 総司はそう言って立ち上がった。
 朝早く起きたと言ってもかなり長い間千鶴の部屋で話し合いをしてしまった。そろそろ自室に戻っておかないとさすがに朝帰りを見られるのはマズイ。
 新選組の中で、妊娠して相手をナイショにして出産まで……なんて女の子ひとりでキツイに決まっている。総司に泣きついて来たら『しょうがないなあ(タメイキ)』の体で助けてあげてもいいが、こっちから夫婦になってくれと言う気はさらさらない。
 しかし全く何もその気をにおわせてこない千鶴に余計イライラするのだが。
総司が襖を開けると、千鶴も立って、部屋の出口まで総司を見送る。そして最後に丁寧にお辞儀をした。
「ほんとうにありがとうございました」
 総司は、お礼を言われてまたもや微妙な気持ちになった。が、それは表にはださずに後ろ手に手を振って立ち去ったのだった。

 ―二か月後―
千の口があんぐりと丸い形になり、ポロリとせんぺいが零れ落ちた。
「せ、千ちゃん!落ちたよ!」
千鶴が慌てて拾う。
「あ、ありがと……ごめんね…ってそうじゃなくて!!」
千は持っていたせんぺいを皿の上に戻すと、千鶴の両手をとった。
「だ、大丈夫だったの……?」
真剣に心配してくれている千の表情を見て、千鶴は心が温かくなるのを感じた。
「うん。心配してくれてありがとう。でももう二か月も前のことだし、私その夜何があったのかまったく覚えていなくて」
「そう……」
以前、千が君菊と最初に屯所に訪ねてきてくれた夜。
千鶴が女子だと知っている幹部のみを集めて千鶴が東北の鬼の生き残りであることを説明してくれた後、千は自分たちと一緒に屯所を出るように千鶴を誘ってくれた。これからは鬼として千たちが千鶴の面倒を見ると。
 だがその時は千鶴は断った。『想う人でもいるの?』と聞かれたが、別にそういうわけではなく。ただあの時は、自分が鬼だということに混乱していて……
 そのあと、何度か昼間に君菊を護衛につけて、千は屯所に遊びに来るようになった。近藤や土方も、千鶴は面会謝絶というわけでもないし千鶴自身も男所帯で日々苦労していることもあるだろうと、誰にも見つからないようにすることを条件に、千鶴の部屋でこっそり合わせてくれているのだ。
 今日も君菊と一緒にふらりと遊びに来てくれた千を、近藤と土方は、他隊士に見つからないようにこっそりと千鶴の部屋に通してくれた。
 千鶴も実は、薫と会ってから知った様々なこと、実行してしまった事について、本当にこれでよかったのか悩まないわけではない。そして事が事だけに誰か女性に……立場をわかってくれている女性に相談したいこともたくさんあったのだ。千が来てくれて千鶴は本当に嬉しかった。以前総司を誘惑するために理由は話さずに『男の人を誘惑するやり方を教えて』と千にお願いしていたのだが、今日はその理由―薫との出会い、その後の事を洗いざらい千に打ち明けたのだっだ。
「……そうだったの……。四国の南雲ね。養子に本家をのっとられたって騒ぎになってたわ。それがあなたの双子のお兄さんだったのね。それにあなたのお父さん……綱道さんの目的。私もそのお兄さん……薫だっけ?の言うことが正しいと思う。鬼にとっては純血の女鬼は絶対なの。さらにあなたは血筋のいい雪村家の最後の一人。そのあなたに子どもが出来たって言う事実は、たとえその子供が人間との混血であろうと、雪村家の再興、ひいては東北の鬼の里の再興と同意味だと他の鬼たちは思うでしょう。ちりぢりになった鬼たちを集める充分な吸引力があると思う。そして綱道さんをおびきだすにはあなたの妊娠っていうのも、『その手があったか…』って感じだわ」
 薫の話に大きく頷く千を見て、千鶴はやっぱり薫の言うことは正しかったのかと再確認した。千は、しかし心配そうに続けた。
「でもそのために赤ちゃんをって言うのは……鬼としてはいい手だと思うけど、女としては……どうなのかなって思うわ。ひどいことはされてないのよね?」
もう一度確かめるように覗き込んでくる千に、千鶴はあいまいに微笑んだ。
「薫からもらったお香のせいで、私も沖田さんもその……最中のことは覚えていないの。でも特に傷とか痛いところとかなかったし、大丈夫だと思う」
「……あの、あっちの方は?」
「え?」
「……赤ちゃんよ」
今聞いた話は二か月程前の出来事だし、そろそろ結果がわかるのではないだろうか?
「うん、それでちょうと千ちゃんに相談したいことがあってね……」
千鶴がちょうどそう口を開いたとき、彼女たちは全く気付かなかったのだが、裏庭に通じる細い庭ともいえないスペースをぶらぶらしている人物がいた。
 千鶴の部屋は屯所の奥の離れで、塀と屯所の建物の隙間の狭いスペースがそのまま局長と副長の部屋にもつながっている。土方や近藤は、通常は廊下を歩いて隊士たちの居る場所や集会所に行くのだが、この日たまたま詩心が騒いで、誰もいない狭い庭で句を吟じていた人物が一人……
 そう土方だ。
 下の句が浮かばなくて、ああでもないこうでもないと狭い庭を土方がうろうろしていると、遠くから小さな話し声が聞こえてきて足を止めた。
あっちの方角は……千鶴の部屋か。そういえば今日は千が来ていたな。そうか、女同士仲良く話しでもしてるんだろう。どれ、俺も一応顔を出して挨拶だけしておくか……
そう思って千鶴の部屋に足を向けた土方の耳に入ってきた言葉は……
「千ちゃん、最近私、気持ち悪くてすぐ吐いちゃうの。食欲もなくて……これって赤ちゃんが出来たんだと思う?」
土方は足をピタリと止めて目を見開いた。答える千の声が聞こえる。
「ええっ?まさか本当に妊娠しちゃったの!?相手はあの組長さんなんでしょ?月のものはどうなの?きてる?」
土方は音を立てないよう全神経を足もとに集中させ、そろりと歩く。屯所の壁にぺたりと張り付き、そのまま千鶴の部屋の方へと素早く移動した。千鶴の返答は聞こえない。
が、次の千の言葉で千鶴が首を横に振ったのだと分かった。
「そうなの!?それは……それはもしかしたら赤ちゃんができたのかも……ど、どうするの!?」
「……どうしよう……」
途方にくれたような千鶴の声を聞いて、土方は瞼を閉じた。
……これが外に漏れたら、新選組は終わりだ……


 



3へ続く

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