Baby Baby Baby 1






千鶴は千からもらった美人絵をぱらぱらと見ながら溜息をついた。
新選組屯所の離れにある千鶴の一人部屋には、西向きの腰窓から午後の遅い光がさしこんでいる。
千鶴は美人絵の一つを手に持ち、光があたるようにしてもう一度よく見てみた。
 確かにきれいだし、髪型もかわいいし、着物もおしゃれだけれども……千鶴には無理だ。だって新選組の屯所に軟禁されていて、さらに男装までしているのだから。
でもこの美人絵にでてくるような女性が、男の人が魅力的だと思う女性で、魅力的だと思って欲しいのならこういう恰好をしなくてはいけないのだ。そこでいつも考えは止まってしまう。
 こんな恰好は状況的にできなくて。
そうなると魅力的とは思ってもらえなくて。
そうなるとこの日本は戦乱の世へとつきすすむことになり、無駄に血が流れてしまうのだ。
 三段論法の最後の一文だけが妙に突きぬけているが、薫の説明によるとそういうことになるのだ。
千鶴はまた溜息をついた。
人が無駄に死んでいくのを見るのはいやだ。新選組に捕えられた最初の夜、あの時に千鶴を襲ってきた羅刹だって元は普通の青年達だったのだ。物騒な世を収めるために新選組が出来て入隊し、隊規を破ったせいであんな薬を飲まされ化け物になってしまい、しまいには仲間の手で殺されてしまった。彼らにだって親兄弟がいただろう。心配している友達だっていたに違いない。
あんな人達をこれ以上増やさないためにも、千鶴が頑張るしかない、という薫の言う事はわかる。わかるのだが……
 そこで千鶴部屋の反対側へ視線を移した。少し離れたところに投げ出してある本……春画本を恐る恐る手に取る。美人絵は千からもらったのだが、春画本は薫から渡されたものだ。先ほど中を見た時は、そのあまりの内容に驚いて「ぎゃっ」と叫んで放り投げてしまったのだ。      
……でも見なくてはいけない。
 千鶴はぎゅっと唇を噛むと、恐る恐る本をめくった。ここは千鶴の部屋だから覗き込むような人はいないにもかかわらず、大きく本を開くのがなぜかはばかられて、そっと。
タコに襲われてる……
そこに描いてあったのはタコに襲われて喘いでいる裸の女性だった。
「……」
 いくらそういうことに疎い千鶴でも、自分がタコに襲われなくてはいけないとは思っていない。実際にタコが性的な意味で女性を襲うかどうかもどうでもいい。
 ただ、問題はこういうものを男性が好んで見ている、ということなのだ。
 こんなものが好きな男性と、なんやかやできるのだろうか?何故こんなものが好きなのかまるで理解できないのに、その男性と心を通わせることができるとは思えない。いや別に夫婦になるわけではないので心を通わせる必要はないのかもしれないが、しかしそういうことをするにはやはり、ある程度相手の考えている事がわからないとうまく行かないのではないだろうか。経験がないので全て想像だが……
 何をやるのかというと、要は『子づくり』。
 薫の作戦によると、適当な男性をなんとか誘惑して千鶴と子どもと作ってもらわなくてはいけないのだ、何故か。
 いや、何故かはわかっている。日本が戦乱の世へつきすすむことをさけるため。無駄に血が流れるのをさけるため。
そのためには千鶴が、男性を誘惑して、赤ちゃんとつくらなくてはならない……ということらしい。
 まず、女性としての魅力で男性を誘惑する      
 ――屯所に軟禁状態かつ男装をしなくてはいけないので不利。
 次にその気になった男性と春画本で見たあれこれをする―経験がないためとにかくやってみないことにはわからず、これも不利。
 赤ちゃんが産まれてくるには十月十日かかるのだ。早く仕込まなくてはいけないのはわかっている。だからこそ千と君菊に事情を詳しくは話さずになんとか男性の誘惑の仕方を教えてもらったりしたのだが、どうにもこうにも最初の一歩をどう踏み出せばいいのかがわからない。
 いや、正直に言おう。
 勇気がないのだ。人選はもう済んでいる。いろんな方面から多角的に考えて、今の状況で子づくりを頼めてなおかつその後についても後腐れなくあっさりと別れてくれそうな人はあの人しかいない。
 しかしその人はいつも千鶴をいじめていて…いやからかっているのかもしれないが、どう逆立ちしても『誘惑』などという雰囲気にもっていけそうもないのだ。その人自身も、他の隊士と違ってあまり女好きでは無いようで、新八や左之のように島原に毎晩繰り出すなどということもない。   近所の子どもと遊び、剣の鍛錬をして、巡察をこなす……こう書くとものすごいクリーンな好青年のようだが、千鶴を楽しそうに苛めている彼は真逆である。でも、だからこそ誘惑などする余地もなくて……
 千鶴は何度目かの溜息をついた。
これでは本当に堂々巡りだ。もう充分に悩んだ。本当に本当に平和な世の中になってほしいと思っているのなら、次に起こすべきは行動だ。
                            
千鶴はきっとまなじりを上げて立ち上がった。

          *

「きゃあああああ!!!いやああああああああ!」
集会所の裏から聞こえてきた千鶴の悲鳴に、井戸端で稽古後の水浴びをしていた平助と新八、左之は顔を見合わせた。もの問いたげな新八の顔に、平助が呆れたように肩をすくめて答える。
「総司だろ、どうせ。また千鶴にちょっかいかけてるんじゃねえ?」
「あいつも好きだよなあ」
左之が手ぬぐいで頭をわしわしと拭きながら言う。平助も手ぬぐいで首筋を拭きながら答えた。
「なんでああ千鶴の嫌がることばっかやるのか、俺わかんねえよ。総司けっこう千鶴のこと気に入ってると思うんだけど」
左之がニヤリと笑う。
「気に入ってるからいじめちゃう〜ってやつだろ」
「そうなのか?」
新八の問いに左之は肩をすくめた。
「さあね。どこまで本気かはわかんねえけど、あいつが自分から話しかけていく女子なんて千鶴ぐれえだろ。総司自身が気づいてるのかどうか知らねえけどよ」
平助は最後に手ぬぐいをパン!と振って水けを飛ばしてから背伸びをした。
「あのままじゃいつか千鶴に本気で嫌われてしょんぼりするんじゃねーか?」
「お、賭けるか?俺は…そうだな嫌われない方に飲み会一回!」
「え!?何それ飲み会一回って?おごりってこと?」
慌てる平助に左之がうなずく。新八も面白うそうにニヤリと笑うと、腕を組んで考えを巡らせた。
「じゃあ〜……俺は嫌われる方に飲み会一回!」
「ええ〜!新八っつあんも参加?じゃあ俺は俺は〜うーん、総司はひどいけど千鶴は優しいからなあ……嫌わなそうな気もするけど、でも結構ひどいことしてるからなアイツ……よし!じゃあおれも新八っつあんと同じで嫌われる方に飲み会一回!」
左之が嬉しそうに目をきらめかせた。
「お?じゃあもし俺が買ったら飲み会二回分おごってもらえるわけだな?」
「何言ってんだよ。俺と新八っつあんで一回分の飲み会代をワリカンにするってことに決まってるじゃん」
「なんだそりゃ、じゃあ俺が負けたら二人分払うのかよ!」
ごちになります!という声と、笑い声が井戸の周りに響いた初夏の昼下がりだった。
「沖田さん!!取って!取って下さい!!」
千鶴は必死になって総司に自分の頭を差し出した。そこには一匹の小さなトカゲがキョトンとした顔で乗っている。
 頭を変に動かすと、首のあたりから服の中に落ちてしまいそうだし、かといって自分の手で触れないし……。千鶴は不自然に背筋をのばした良い姿勢のまま総司につめよる。
「あっはははは!君の頭の上があったかくて気持ちいいみたいだよ。もう少しそのままにしておいてあげれば?」
総司はといえば迫ってくる千鶴を軽くかわして逃げ回り、その隙に千鶴の頭を指差して大笑いだ。
「おっ沖田さん〜!あっ!動いた!いやああ!ほんとに嫌いなんです!取ってください!!!」
とうとう涙をにじませながら怒り出した千鶴に、笑い疲れた総司はようやく近寄った。
「そんなに嫌がることないじゃない。ほら、緑色できれいだよ?」
総司はそう言って千鶴の頭からトカゲを取り上げると、ひょいと彼女の目の前へ差し出した。
「ぎゃああああ!!!」
千鶴は驚いてのけぞり、地面に尻もちをついた。それを見て総司がまた笑う。
 お尻が痛いのと、笑われたのと、トカゲが気持ち悪いのとで、千鶴の怒りは爆発した。
「もう!もうもう!沖田さんなんか嫌いです!もう沖田さんはやめます!頼もうと思ってたけど他の人にします!」
怒りに任せて口から出た言葉に、千鶴自身が驚いた。
 しまった!と思い自分の口を両手で抑えたが後の祭り。すでに総司の緑の瞳は興味深げにキランと輝いてこちらを見ていた。
「やめる?何の話?」
 妙に静かな声が逆に怖い。千鶴は言葉に詰まった。総司はかまわず続ける。
「『他の人にする』……ねえ……。なんのことかなあ?心あたりは特にないんだけど……。ね?千鶴ちゃん何の話?何か面白いことでもあるの?」
「……何もありません」
「『頼もうと思ってた』って言ったでしょ?僕に何を頼もうと思ってたの?」
尻もちをついている千鶴の前に、総司はひょいと座り顔を覗き込んでくる。強迫のつもりなのか右手には先ほどのトカゲも持って構えている。
千鶴は横目でトカゲをみながら、最後の抵抗を試みた。
「……知りません」
「知らないわけないよね?他の人も知ってるの?聞いてこようか」
「しっ知りません!他の人は誰も……!」
言いかけて、千鶴は気づいた。総司の表情はしてやったり、と微笑んでいる。ひっかけられたと唇を噛む千鶴を後目に、総司は楽しそうにさらに追及する。
「ふうん?皆は知らないんだ。僕だけかあ、光栄だな。ぜひとも知りたいね。僕に何を頼もうと思ってたのさ?」
「……」
総司が右手のトカゲをずいっと千鶴の顔に近づけた。
「きゃあああ!やっやめてください!」
千鶴は後ずさって、勢いでよろめきながら立ち上がった。その拍子にピンとひらめく。
「あ、あの、言います!『頼みたいこと』を言いますので……今夜私の部屋まで来ていただけないでしょうか?」
総司はキョトンとした顔で立ち上がった。
「今夜?なんで今は言えないの?」
「……それも今夜話します」
「なんでわざわざあんな離れにある君の部屋までいかないといけないのさ」
「……その理由もあわせてお話しますので」
頑なな千鶴に、さらに好奇心がそそられたのか総司は楽しそうに微笑んだ。
「ふうん……まあいいか。じゃあ今夜君の部屋に行けばわかるんだね?」
蜘蛛の巣というにはあまりにもつたない罠だが、なんとか獲物がかかってくれた。
「……楽しみにしてるよ」
去り際に流し目でにやりと笑ってそう言った総司の顔を見て、千鶴はどちらが獲物かわからなくなった。
 しかし、もう後戻りはできない。つきすすむだけだ。
ドキドキしすぎて痛い胸を無視して、千鶴は頷いた。

          *

千鶴は、いっぱいに水の入った徳利の中に、小さなガラス瓶の中に入っている透明な液体を慎重に注いだ。そして空になったガラスの瓶を横に置いて、徳利の中に入っていた水と混ざるように徳利をよく振る。
このガラス瓶の中身は、薫からもらった鬼一族秘伝の『媚薬の元』。
 無味無臭で一見水にしか見えないこの液体を、徳利いっぱいの水に入れてよく混ぜると、徳利の水が媚薬にかわるというのだ。徳利の半分程度飲めば、ムラムラ悶々して動くものであれば誰彼かまわず襲ってしまうと言う恐るべき薬。
 これを飲んだ総司に襲われる自分が、昼間に読んだタコに襲われる春画本の女性と重なって、千鶴は身震いをした。
 怖すぎる。
 怖すぎるが赤ちゃんを身ごもるにはやらなくてはいけない行為なのだ。千鶴は部屋の中で行水もして、ちゃんと体も綺麗にした。髪も洗って、今は解いて肩に自然な感じでかけてある。服は男性用しかないのだが、袴ははかないで、清潔な夜着一枚で襟を抜き気味にしてある。       
媚薬もできたし夜も更けてきた。後は……
 千鶴は考えを巡らせて、あっと思い至った。
 そういえば薫からお香ももらっていた。媚薬ほど強烈ではないが焚いておくとそこはかとなく色っぽい気分になるというお香。
千鶴はいそいで長持から小さな袋を出してひとつかみ掴むと、部屋の隅にある香炉にドバッといれる。
 しばらくすると甘い匂いが部屋に広がってきた。
 これですべての準備は整った。
あとはタコに……いや違う、総司に襲われるのを待つだけだ。
 千鶴は部屋の真ん中に緊張した面持ちで正座をし、総司が現れるのを待った。

 総司は鼻歌を歌いながら、千鶴の部屋のある離れへ向かう廊下を歩いていた。
 千鶴が新選組に来た初期のころは監視がついていて、千鶴の部屋へ出入りする人間についても厳しくチェックしていたが、千鶴がすっかり隊になじんだ今となっては全く野放しだ。
 しかしさすがにこんなに深夜に、男が一人で女性の部屋へ行くということが土方辺りにバレれば、別の意味で切腹ものかもしれないが、千鶴を女の子として見ていない(と自分で思いこんでいる)総司は全く気にしていなかった。    
あんな子どものところに夜這いに行くような物好きはいないだろうと頭から決めてかかっている。
 そんなわけでまったくの無防備に歩いているのがかえって誰にも見とがめられることもなく、総司は無事千鶴の部屋へとたどりついた。
 既に夜も遅く、千鶴はもう眠ってしまっているかもと思ったが、部屋の中からはぼんやりと灯りが漏れ出ている。
「開けるよ〜」
緊張感のかけらもない声と同時に、総司は襖を開けた。
「あ、沖田さん」
部屋の向こう側に布団を敷いていた千鶴が、嬉しそうに振り向いた。
 それを見て総司はぎょっとする。
まず何か……甘ったるい匂いがする。
そして部屋の隅にある行燈の光が、怪しげな秘密めいた雰囲気を作っていた。
そして一番の問題は……千鶴だ。夜着一枚しか着ていない。自分では全く気付いていないようなのだが、体の線があらわになっているのだ。それにあいまって髪を下していると……これはもう女の子にしか見えない。
 この時初めて総司は、この時間にこの部屋に一人で来たのはまずかったと後悔した。何か変な雰囲気になってしまいそうだ。
 しかしそんなことはもちろん顔にはださない。相手は散々いじめてきた千鶴なのだ。とっとと話を終えて帰れば、明日はまたいつも通りの関係になるだろう。
 今は、夜の闇とこの空間とが見せている幻想のはずだ。
 総司は無頓着な感じを装って千鶴の部屋へと入ると、胡坐をかいて入口辺りに座った。
「で?もう夜も遅いし速く話してくれる?」
「はい。あ、でもその前に……」
 千鶴はそう言うと総司に背を向けて、部屋の隅に置いてあった徳利と湯呑を持ってきた。
「こんな遅くに来ていただいてすいませんでした。暑いので喉が渇いてらっしゃるかと思って……」
そう言って湯呑を差し出す。総司は目を瞬いた。
 徳利に両手を添えて、総司の持っている湯呑に水を注ごうとしてる千鶴のその姿勢が妙にしなやかで、女性を感じさせるのだ。まるで島原で女性にお酌をしてもらっているような。
 総司は慌てて千鶴の持っている徳利を奪い取ると、自分で湯呑に注いだ。
「喉が渇いてたからちょうどいいよ。あ、自分でやるから」
そう言ってごくごくと飲む。飲み足りなくてもう一度徳利から水を注いで、それも一息に飲みほした。
「あ……」
千鶴が驚いたような目でこちらを見ているような気がしたが、総司はなんだか考えがまとまらなかった。
「何?まずかった?」
「いえ……徳利の中のお水、全部飲んじゃったんですか?」
「?うん。何?君も欲しかったの?」
心なしか青ざめているような千鶴に、総司は徳利を返す。千鶴はぶんぶんと首を振った。
「いえ、私は特には喉は渇いていないんで……」
「そ。ところで、このうっとうしい匂いは何?」
この匂いのせいでなんだか頭がぼんやりしていらいらする。千鶴はちらっと部屋の隅にある香炉を見た。
「あの、いただいたお香を焚いているんですが……この匂い、嫌いですか?」
「嫌いっていうか……ちょっと焚きすぎじゃないの?頭がぼうっとしない?」
 頭だけではない。なんだか今は腹の辺りがじんわりと熱い。目の前がチラチラして、千鶴が二重に見えたりする。
総司は頭を振った。
「なんか調子悪いな。早く……早くなんだっけ?僕何しに来たんだっけ……」
 これじゃ酒に酔ったみたいだ。             
総司はぼんやりとした頭の隅でそう思う。何故ここにいるのか。そうだ、確か千鶴に話すことがあって……いや違う、千鶴から聞くことがあったんだったか?
「お、沖田さん……大丈夫ですか?」
 心配そうに千鶴が覗き込んできた。総司はなんだか体中の神経がいつもの十倍鋭くなったような気がした。千鶴の声の中に含まれる優しい響き。近くにある千鶴の体から漂ってくる清潔な甘い香り。そして心配そうな大きな瞳が潤んでいる。肌はなめらかで唇が……唇が柔らかそうで我慢ができない。
 総司は我知らず熱い溜息をついた。
 そして畳についていた千鶴の細い手首を掴み………

 そこで総司の記憶は途絶えた。

         *

 ガンガンといううるさい音で、総司は深い眠りからいきなり引き起こされた。
 いったい誰がこんな音を立ているんだ。
 まだ寝足りなくて機嫌の悪かった総司は、見つけ次第斬り捨ててやろうと決意して起きあがる。その途端、頭を矢で射ぬかれたような衝撃が襲った。
「いっっつっ……!」
 痛い!と叫ぼうとしたが、叫んだら頭が揺れて余計に痛くなりそうで、総司は小さく呻いて両手で頭を抱えた。
 ガンガンという音はどうやら総司の頭の中だけで鳴り響いているようだ。
「あーいたたた……」
 小さく呟きながら頭を揺らさないようにそーっと目を開けてみる。
 夜が明けたばかりらしく、薄い光が障子を張った腰窓の向こうからぼんやりと部屋を照らしていた。平和な朝らしくスズメのちゅんちゅんという可愛らしい鳴き声も庭から漏れ聞こえてくる。
 総司は溜息をついてゆっくり両手を布団におろした。頭が異様なくらいぼーっとする。酷い二日酔いの朝のようだが、最近は自分の飲める量もわかっていてこんなことはなかったのに。
夕べ……どうしたっけ?皆で飲んだんだっけ……?
ぼんやりと布団に手をつこうとした総司は、ぐにゅっという柔らかい感触に目を瞬いた。何かと思い、頭痛に響かないようにそっと後ろを振り向いてい見ると……
そこに眠っているのは裸の千鶴だった。
「……」
目が点になったまま視線をそらすと、今度は自分の体が視界に入ってくる。
……僕も裸だ……
裸も裸、すっぱだかだ。ふんどしも締めていない。これは夢かと思い、総司は目を閉じる。十数えて再び目を開けても、目の前の光景は全く変わっていなかった。それどころか「ん……」という小さな声とともに横向きに丸まって眠っていた千鶴が寝返りをうち、胸やらなにやらが丸見えになりそうになる。
 総司は「わあっ」と叫んで飛びのいた。途端、鉄砲で鉛玉を打ち込まれたような痛みが頭を突き抜け、総司は再び布団の外で頭を抱えてうずくまる。
「………」
 無言で、ガンガンと鳴る頭痛を我慢しておさまってきた頃に総司はそろそろと目を開けた。
 目の前には、滑らかな千鶴の背中。腰から下はかろうじて布団に隠れているものの、上半身はむきだした。そのまぶしいまでの白さに、総司はそんな場合でもないのに一瞬ドキリと心臓が跳ねた。
 そろーっと動いて、とりあえず目の毒な千鶴の背中を掛布団で隠す。そして裸の自分もなんとかしなくては、と目だけを動かして服を探した。布団の枕元に脱いだ着物がぐちゃっと置いてある。千鶴の腰紐やら自分の服やらが複雑に絡み合っていて、解いているうちに総司はだんだんと青ざめてきた。
 これは……要はそういうことなのだろうか。
 いわゆる一夜の間違い的なことを、自分と千鶴はしでかしてしまったのだろうか。
 全く覚えていないのだが、二人の着物が妙に生々しく絡まっているこの状態が、昨夜の情事を物語っているように思える。
 しかし、総司は腑に落ちなかった。
 何故何も覚えていないのか。ここまで完全に記憶が抜けたことなど、深酒をし過ぎたときくらいでこれまででも数えるほどしかない。しかも昨夜は千鶴にそんなことをする気は全くなかったのに、何故こんなことをしでかしているのか。
 酒に酔ったとしか思えないが、夕べは酒を飲んだ記憶はな……
 そこまで考えていた総司は、視界に入ってきた転がった徳利と湯呑に動きを止めた。夕べ飲んだものと言えばこれだけだ。まさか……
 総司は頭痛に響かないように、しかしできる限り急いで服を着ると、千鶴の肩をそっと揺らした。

 ゆさゆさと揺らされる感覚に、千鶴はゆっくりと深海から水面へ上るように意識が上に昇ってくるのを感じていた。
 良く眠ったという爽快感を感じる。もう放っておいても自然に起きるからと思うのに、ゆさゆさと揺らす動作は止まない。
「んん…」
 千鶴はその不快な動作に顔をしかめて、肩をゆする手を払った。
「早く起きなよ。聞きたいことがたっぷりあるんだけど」
 イライラした声が耳元で聞こえてきて、千鶴はぱっちりと目を開けた。声の方向を見てみると緑の透明な瞳に薄い色の髪が見える。
 起きぬけにこの顔を見るのは二度目だ。前は朝当番に寝坊した千鶴を起こしに来てくれていて……
 そこまで考えて千鶴はがぱりと起き上った。
「すっすいません!私また寝坊を……って、え?っ……!」
起き上った勢いで布団がめくれ、千鶴は妙に肌寒い自分のカラダを見下ろして目を見開いた。
「っきゃ……むぐぐぐっ」
叫ぼうとしたところを、むぎゅっと総司に抱きしめられる。
「しーっっ!大声出すとみんながやってくるよ!バレたら僕も君もまずいでしょ」
 いきなり抱きしめられて(しかも裸だ)耳元で総司の艶やかな声でささやかれて、総司の胸板にほっぺを押し付けられて(総司は着物は着ていたがいつもどおりかなり前をはだけていた)、たくましい腕でがっしりと抱きかかえられていて、千鶴は頭が沸騰しそうだった。とにかく早く離してほしくて、とりあえずコクコクと頷く。
「落ち着いた?離してももう叫ばないね?」
 総司が千鶴の顔を覗き込む。
こんな時なのだが、千鶴は頭の隅っこで、
沖田さんってアップに耐えうるなあ……
と思っていた。これだけ近くで見ると、目の光彩までよく見える。光彩の縁取りは黒で中身が薄い黄緑色だ。いや、黄緑色だとずっと思っていたのだが、この距離で見ると小さな金色の点が緑にいくつもまじっているために、遠くから見ると黄緑色に見えているのだと分かった。その瞳を長いマツゲがぐるりと囲んでいるのだが、そのまつ毛も髪と同じで色素が薄い。そして眉毛も。さらに言うと肌も男性にしてはかなりきめが細かくてきれいだ。
 千鶴がそんなことを考えているとは知らず、総司はそーっと千鶴を離した。千鶴は慌てて布団をひっぱり、鼻の頭までうずめる。背中が丸見えになってしまうため、総司と対面になるように体の向きを変えた。
「お、沖田さんなんで私の部屋に…?それに私はなんで裸なんですか?」
千鶴がおずおずと聞くと、総司は冷たい目でこちらを見た。
「それは僕が聞きたいんだけど?夕べ何を僕に飲ませたの」
「夕べ……?」
寝起きで働いていない頭を必死に動かして、千鶴は考えを巡らせた。と同時に何かヒントがないかと部屋の中をぐるりと見渡して、隅に転がっている徳利に気が付いた。
「あっ」
徳利を見て声を上げた千鶴に総司が言う。
「思い出した?とりあえず服を着てよ。これじゃ落ち着いて話もできない」
冷たい声と台詞に、千鶴はうろたえた。怒っているのだろうか?
 薫の話ではコトが終わった後は男というものはそっけなくなって女性をポイだということだったのだが、今の総司の言い様ではこれから千鶴は糾弾されるような様子だ。例えポイでないとしても『ごちそうさまでした!』と言う感じで終わると聞いていた。怒って話をしようとする男性がいるなんて聞いていない。
 と、いうよりコトは上手くいったのだろうか?自分は裸なのだし、総司が今ここにいるということはきっと夜の間ずっと総司はここに居たのだろうと思う。ということは上手くいったのだろうか?
 千鶴の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。とりあえず体の感触を試すようにもぞもぞと動いてみる。
 ……別にどこも痛くないし、違和感もない……が、普通はどうなのだろうか?千にも薫にもそこまではさすがに聞いていない。
 どうやってコトに至るかばかり考えていて、その後の事は忘れていたのだ。
「あ、あの……後ろ向いていていただけますか……?」
 総司がこちらを向いている状態で着替えなどできない。千鶴が布団を鼻まで上げた状態でおずおずとそう言うと、総司は髪をかき上げて溜息をついた。
「何を今更……って言えるのかどうかもわからないからね、今は」
「え?」
「こっちの話。とりあえずほら、後ろむいてるから早く着替えてくれる?」
千鶴は、冷たいオーラがびりびりと伝わってくる居心地の悪い空気の中で、もそもそと着替えをした。
「着替えた?」
いらいらと聞いてくる総司に、千鶴は慌てて答える。
「は、はい。もう大丈夫です」
 その声にこちらを向いた総司は、あきらかに機嫌が悪かった。千鶴はとりあえず布団から降りて畳の上に正座をする。知らず知らずのうちに背筋がピンと伸びている。総司は千鶴の対面で片膝をたてた胡坐だ。
「で?」
冷たい総司の声に、千鶴はおずおずと答えた。
「……『で』っていうのは……?」
 総司の緑の瞳がスッと薄い緑色になった。本気で怒っている証拠だ。
「わかってるよね?あの徳利に入ってたのは何?僕は何を飲んだわけ?夕べの事は全く覚えてないんだけど君は?」
「え……」
総司の最後の言葉に千鶴は顔をあげた。
「夕べのこと、覚えていないんですか?」
千鶴の言葉に、今度は総司は少しきまりが悪そうな顔をした。
「……覚えていない。僕は何をしたの?」
 千鶴も覚えていない。全く。
 多分あのお香の匂いのせいではないかと思う。だが、とりあえず今はそれは置いておいて。
 千鶴の頭はフル回転していた。
 ここは、千鶴も覚えていないと言った方がいいのだろうか。それとも覚えていると言った方が?
覚えていると言った場合、夕べなにがしかの出来事があったと言った方がいいのか、何もなくて二人でただ寝ていただけだと言った方がいいのか……
 千鶴はちらりと総司を見た。総司は珍しく緊張したような顔で千鶴の言葉を待っている。
 千鶴は、その総司の様子に少し驚いた。薫から聞いた話では、男性にとって一夜のあやまちはそれほど大きな問題ではないとのことだったのだが……
何もなかったと言ってあげたくなったが、総司が飲んだ徳利の中身から考えるとそれはないだろう。しかも適正量の倍を飲んでしまったのだ。その上朝には千鶴は裸だった。
「……その……多分いろいろとしたんだと…思います」
「多分って?君も覚えていないの?」
「……覚えていません」
総司のすっきりとした眉間に、深い縦皺がよった。
「覚えていないのにどうして何かあったんだと思うのさ。別に恋仲だったってわけでもないのに」
 千鶴はうつむいて自分の指を見た。何を飲ませたのかと先程総司は聞いていたし、これはごまかせないだろうと判断する。
「あの徳利の中には実は……」
 徳利の中に入っていたのは人からもらった媚薬であること、お香も同じような効果があること、それを夕べ総司に飲んでもらったこと……千鶴の話を、総司は黙って聞いていた。いつも笑っている顔が、今はほとんど無表情で、それが逆に恐ろしい。
 でもコトは成ったのだ。総司がこんなに怒るのは想定外だったが。
 赤ちゃんは出来ているのだろうか?一度で出来る夫婦もいるしなかなか出来ない夫婦もいるが……
今の総司の様子では、今回で身ごもることが出来なければ次はもう罠になどかかってくれそうにない。
 でも千鶴は、まだ江戸で父の仕事を手伝っていたときのことをなんとなく覚えていた。妊婦ももちろん患者として来ていて、何人も子供を産んだ女性もたくさんいた。その女性たちが話の中で、だいたいどのあたりで旦那さんと仲良くすれば子どもできるのかという身もふたもない女性同士の経験談をしているのを、その場で片付け物をしていた千鶴は聞いてしまっていた。
昨日はちょうどそのあたりだし、これで出来ている可能性は高い……と思うんだけどな……
後はこの総司の理由のわからない怒りをなんとか宥めて、夕べのことを忘れてもらうだけだ。
「本当にすいませんでした」
千鶴が三つ指をついて謝るのを、総司は冷たく見ていた。
「なんで、そんな薬を僕に飲ませたわけ?」
「……え?」
「なんだか説明が全て終わった、みたいな顔してるけどさ。わかんないことだらけなんだけど?人からもらったとか言ってたけど、その媚薬を誰からもらったワケ?っていうかそもそも何をたくらんで僕に罠をかけたのさ」
 話しが違う、と千鶴は薫に心の中で訴えた。総司がこんなに追及してくるなんて。
 実際、普通の男だったら多少は聞きたがるかもしれないが自分にも後ろめたいところがある分、相手の女の子が気まずそうにしていたらここまで追求してくることはなかったかもしれない。記憶はないものの自分も美味しい思いをしたのだろうし。
 しかし総司は基本女嫌いであることと、新選組―特に近藤―が預かると決めた女の子に手を出した自分に憤りを感じていた。そしてそのせいで何から何まで知らないと気が済まない。総司の目が、いつも千鶴を苛めるときのようにギラリと光る。
「……話してくれるね?全部」
 千鶴は青ざめた。薫は、新選組には事情を話さない方がいいだろうと言っていた。千鶴もそう思う。
そう思うが……目の前で蛇(それも大蛇で毒蛇)に睨まれている今、話さないで済ます方法など千鶴には思いつかなかった。



2へ続く



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