華のなまえ
※オフ本「LOVE STORY」イベント配布時の無料配布コピー本です。「LOVE
STORY」の続きの薫主人公の転生話です。公式本編と似た展開なのでオフ本を読んでいない方も特に問題なく読めると思います。
母親は俺が五歳の時に出て行った。
雨の日だった記憶はうっすらとあるけど、もう顔も覚えていない。
地味で大人しい父親よりももっと楽しくて素敵な人を見つけたらしい。母親が出て行ったあとの我が家は、子供心にも暗くなった様に感じた。
今から思えば当然だと思う。妻に、子供を置いて他の男と逃げられたら男としてがっくりくるだろう。
しかしそもそも女を見る目がなかった親父が馬鹿だったとも思わないでもない。
成人してからたまたま見つけた母親の写真、近所や親せきからの聞きたくもない噂話、たまに話す親父の愚痴を総合すると、母親は親父の『医者』という職業が好きだっただけの軽薄な女だったのだと思う。食うに困らない生活を与えてくれて、面白おかしくあまやかしてくれるいいカモだと思ったのだろう。
だけど、今も昔も仕事仕事で家族より患者を重視する親父との生活に飽きてきたのだと簡単に推測できた。そんな時に現れた別の男に心惹かれて血を分けた子供すらもあっさり捨てた。
母親に対しては、憎むとか軽蔑するとかそういう気持ちもない。存在自体の記憶がないから寂しいと思ったことも無い。
でも、小学高高学年のころにクラスのムカツク奴らをぶちのめしたら、教師や親せきどもがこぞって『母親がいなくてさみしいんだ』『捨てられたトラウマから抜け出せないのだろう』と素人心理学を振りかざして同情してきてうっとうしかった。
冗談じゃない。俺は本当に母親なんかいなくても寂しくなかった。愛されていないから荒れるなんてしったかぶりもいいところだ。
俺がクラスの奴らとケンカしたのは、奴らが俺の容姿や母親がいないことをからかってきて腹が立っただけなのに。
親父は母親がいないことを俺に背負わせたりしないでできるだけの事をしてくれた。仕事をして洗濯をして食事を作って。家事一切やったことのない親父にしては本当に頑張ってくれたと思う。
でも。
確かにどこかに、俺の中に欠落感はあるんだ。
何かが足りない。
誰かが足りない。
だけど、それは断じて母親ではない。父親でも勿論ないし、彼女とか恋人かと思った時期もあってつきあったりもしたけれど、それも違った。片親のせいでその欠落感があるのではなく、多分自分の性質上のものだろうと中学に上がることには自分自身を達観するほどにまでなっていたんだ。
「え?死んだ?」
中学一年生の秋、家に帰ってきた薫は父親からそう聞かされて玄関に立ち止まった。
平日の夕方なのに父親が先に帰っているなんて珍しいと、薫が玄関の靴を見てそう思ったのだが、予感はあたった。
玄関には父親以外にも女性ものの靴が二足と男物の靴が一足あった。
そして狭いリビングに薫が行くと、小さな机を囲む様にして昔会ったことのある親戚に父親が取り囲まれていたのだ。薫の顔を見た父は、自分の元妻が……薫の母親が交通事故で死んだと告げた。さすがにショックだったのか顔色は土気色だった。
「そうなの、例の……あの別の男とね。その男が運転してて助手席に乗っていたみたい。対向車線のトラックが居眠りでセンターラインをはみ出して来て……」
その親戚の中年女性は、井戸端会議の主婦が噂話をしているような顔で薫にそう言った。
「ふーん」
ショックをうけるだろう、哀しいに違いないという薫に対する無言のプレッシャーがその部屋には漂っていたが、薫にとってはテレビからながれる事故と同じ感慨しか受けなかった。
これまでも接触もなかったのだから、死んだといわれても特に思うところもなくこれまでどおり接触の無いまま生きていくだけだ。
既に離婚した元親戚が死んだというだけなのに、こんなに親戚連中が集まって平日の夕方に話しあうような事か?と薫は心底不思議だった。父親は……まあ、結婚して子供まで作ったのだからショックだとは思うが。
今年から墓参りに行く場所が増えるのかな…
薫の感想はそんなことぐらいだった。
「じゃあ、俺部屋で着替えて……」
「ちょっと、ちょっと待って。まだ続きがあるのよ!」
自分の落とした爆弾が、薫にとっては全くの不発で受け流されたのが不満なのか、親戚女性が思わせぶりに身を乗り出して立ち去ろうとする薫を止めた。そして自分の言葉を劇的に演出するために、一拍置いておもむろに口を開く。
「子供は、たまたま助かったのよ」
「……え?」
意味がよくわからず聞き返した薫に、等々驚いたと勘違いした親戚女性は嬉しそうに続けた。
「二歳のね、赤ちゃんがいたんですって!後部座席にいたんだけど奇跡的に無傷で助かったのよ!で、向こうの親族はその赤ちゃんを引き取ることはできないって。私たちが引き取らなければ孤児院に入れるがそれでいいかって連絡が来たんですって!」
なんでこの女性はこんなに嬉しそうなのかと薫は軽蔑しながらも、父親の綱道を見た。
綱道は沈痛な面持ちでうなずいたが、何を考えているのかわからない。薫はふと悪戯心を起こして、その親戚の女性に聞いた。
「なるほど……。で、おばさんがひきとると立候補するのでその打ち合わせか何かで集まってるんですか?」
「んまあ!何を言ってるのよ!うちは旦那の稼ぎが悪くて私もパートにでてるくらいで、子どもだってこれからお金がかかる時期だし無理に決まってるじゃないの!そもそもあんな他の男と逃げ出すような恩知らずの女と私は何の関係もないのに、何故赤ちゃんをひきとるっていうの!」
親戚女性は焦り笑いをしながら必死にそう言った。
その『恩知らず』の女の息子の前でよく言うよ……
薫は親戚女性を鼻で笑うと、綱道を見た。
「俺が育てる。ひきとろうよ」
部屋にいた大人全員が、驚愕、という言葉がぴったりあう表情で薫を見た。
薫は肩をすくめる。
「俺は食事も作れるし洗濯もできる。孤児院よりは世話ができると思うよ」
「何を言ってるの!中学生の男の子が二歳の赤ちゃんの面倒なんて見られるわけないでしょう!だいたい学校言ってる間はどうするの?まだ高校も大学もあるし勉強だって部活だって……!」
「仕事してる母親だっているし保育園ってそのためにあるんじゃないの?」
さらりと答えた薫に、親戚の中年女性はぐっとつまる。親戚の男性が分かった風な顔をして薫を諌めた。
「薫君、気持ちはわかるが君には無理だ。私にも子どもがいるがそんな簡単な物じゃあないんだよ。病気になるし怪我もする。そもそも二歳だからオムツも食事も大人と一緒xというわけにはいかん。そんなこと君は全然しらないだろう?」
「知らないですけどね。でも初めて母親になる女の人がみんな何もかも知り尽くしてるとは思えないし、勉強しますよ。インターネットや本もあるし」
そこで薫はふとひらめいて続けた。
「それに、自分一人ではどうすればいいのかわからないような事態になったら、ちゃんと父やおじさんたちに相談して判断をあおぎます。一人で抱え込んだりしませんよ」
最後のつけたしで、親戚連中の表情は格段に和らいだ。綱道が気遣わしげな顔で聞く。
「おまえ…いいのか?別にお前が無理をする必要はないんだぞ?」
「……」
綱道の言葉に薫は考えた。
無理……をしているわけじゃあない。
赤ん坊が親を亡くして引き取り手が必要だという話を聞いた瞬間に、何故か脳裏に光がさしたように感じた。
なぜだかわからないけれど、『これだ』と思った。自分がずっと待っていたものはこれだったのだと。ずっと感じていた妙な欠落感は、きっとこれがなかったから。
「……俺が育てる。可愛がって大事にして……愛してあげるよ」
そう、愛するものが欲しかった。
何故だかわからないが、自分はずっと何かを……誰かを愛していた気がする。離れているときでもずっと心の中にいた小さくてかわいらしい何か。
それが何かはずっとわからなかったのだが、それは『これだ』と妙な確信があった。
唖然としている親戚たちの前で、薫の心はすでに決まっていた。
家にやってきた赤ちゃんは、ぷくぷくした可愛らしい子だった。
すでに歩けるのだし簡単な言葉なら話すこともできるのだから赤ちゃんではないかもしれないが。
多分そうだろうとその子が来る前から思っていたが、やはり女の子だった。なぜこんな妙な確信があるのか。なぜ顔も見たことのない異父妹を愛することができると思うのか。
その疑問は、キョトンと大きな黒目がちな目を見開いてこちらを見ている彼女の顔を見てすぐに氷解した。
「名前は『千鶴』と言うそうだよ」
遠くに聞こえる父の声に、『わかってる』と薫は心の中で思う。
するすると固い結び目が解けるように、薫の記憶はほどけて行った。と同時に冬のように暗かった世界が、春のような暖かな色に変わる。
「……千鶴…」
再びこの言葉が空気を震わせて世界に現れることがあるなんて。
自分の唇がこの言葉を発することがあるなんて。
こんなことがあるなんて……
「ないてるの?」
妙に生真面目な顔で、千鶴がそう言って顔を覗き込んで来たので、、薫は自分が泣いているの気が付いた。
「か、薫?」
綱道も驚いたように顔を覗き込んでくる。
薫は照れ臭そうに笑い、手のひらで涙をぬぐうと言った。
「なんでもないよ。ねえ、俺は薫って言うんだ。お前のお兄ちゃんだよ。言ってごらん?」
「かおう?」
まだたどたどしい発音でそういう千鶴を、薫は腕を広げて包み込むと、ぎゅっと抱きしめた。
まあ親戚連中が言ったとおり、育児はたいへんだったよ。夜は寝られないし勉強しないといけないのにぐずったりするし、好き嫌いが多かったり外でいじめられて帰って来たり……。
でも可愛くて毎日がとても楽しかった。
千鶴は、小さな風邪はひくけれど大病や事故もなくすくすく育ってくれた。
少し内気だけど仲のいい人には明るくて元気で、意外に気の強い所もあるしっかりした子で。
正直自慢の娘でもある。兄思いで父親思い。近所へのあいさつも笑顔でするし、評判のできた娘さんだ。
そして今日は千鶴の十七歳の誕生日。
俺はとっくに卒業して会社の関係で家は出てはいるけど、千鶴の誕生日には何を置いても家で一緒に祝うことにしてる。
母親がいない男ばっかの家庭で、せめてそれくらいは華やかなことはしてやらないと、と千鶴が小さなころから親父と決めた我が家のルールだ。
俺は買ってきたケーキ(千鶴のお気に入りの店だ)をキッチンに置きながら「千鶴?」とあたりを見渡しながら呼んだ。
「……」
暫く待ったが返事は無い。
何処かに出かけてるのかと、冷蔵庫をあけてケーキをいれようとするとそこには夕飯の下ごしらえがきっちりとできていた。
もちろん全部俺が好きなものだ。
たとえ千鶴の誕生日だろうと、家を出ている俺が久しぶりに変えると、千鶴はいつも俺の好きな物ばかりを作ってくれるのだ。
我知らず満足気な微笑が漏れていたとは思うが、ケーキをいれて冷蔵庫を閉める。
その時玄関の門が開く音と千鶴の声が聞こえてきた。
玄関のカギをあけようと俺が廊下を歩いていると、さらに別の声も聞こえる。
仲好さそうな……この声は男か……?
俺は舌打ちをした。
いつか来るかもとは思っていたが、まだ千鶴には早すぎる。男とつきあうのは社会人になって結婚前提に限るに決まっているだろう。
中学校の時も、なんだかよく知らないクラスの男から電話がかかってきたことがあったが、伝言など伝えずガチャ切りして撃退していたのだ(我が家のルールその二:千鶴に限り携帯は二十歳まで禁止)。
群がってくるハエは追い払われて当然だろう。
俺は眉間にしわを寄せ不機嫌丸出しの顔でガチャリと玄関のドアを開けた。
「あ、薫!もう来てたの?」
焦ったような千鶴の声。
「薫じゃなくてお兄ちゃんと呼べといつも言ってるだろう」
俺の返しもいつも通り。
だが目の前にいるこのちゃらい男は……
高校生のくせに既に俺と同じくらいの身長で、高校生の癖になんだか妙に世の中がわかってるようなしたり顔、高校生のくせに妙に茶色い髪に、高校生の癖に俺を見る緑の瞳がいやに鋭い。
そいつはしばらく無言で俺の顔を見て、うんざりしたように深く深くためいきをつく。
「ほんとしつこいよね……」
とかなんとか口の中でもごもごと呟くそいつに、千鶴が気を使うように声をかけた。
「あのっ沖田先輩、これがうちの兄で薫と言います。薫、こっちは同じ高校の……」
千鶴が言いかけた言葉を引き取って、そいつが俺に向き直った。
こいつのこの馬鹿にしたようなにやけ顔が、昔からむかつくんだ。
俺もギッと睨み返す。
「沖田総司と言います。よろしく、お義兄さん」
その日、沖田を追っ払うために家中の塩をまいたのは世界の常識と言っていいだろう
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