とにかく暑かったことだけ覚えている。

でも今は暑くない。寒くもない。というよりか何も感じない。
景色は見えているのに妙に隔てられた感じで、空気を感じない。視界もこころなしか色あせている。
総司はぐるりと見渡した。首や目を動かしたという感じはしない。テレビやゲームの画面のように風景のアングルが勝手に変った。

土間。
かまど。
土間の向こうには6畳くらいの板間。暗くて見えないが、それぐらいの広さの板間のはずだ。向こう側に襖があって、その前に小さな箪笥。
暗くて見えないのに、総司にはそこに何があるのか不思議とわかった。
懐かしいわけではない。特に何の感情もわいてこない。
ただ、わかるのだ。

反対側に目を向けると、入口である引き戸が半分くらい開いていて、そこから明るい陽光が見えた。
いや、明るい陽光が見えたわけではなく、この場が暗いから外が明るいというのが分かる。
総司は外へと移動した。
脚を動かして地面を踏みしめた感覚はやはりなかったが、外に出られた。
出てすぐのところにザルやカゴが数個、丁寧に積まれていた。すでに周りに生えている雑草に埋もれそうになっていて、人の手に取られることがもう長いことなかったのがわかる。
その向こうには、多分井戸。
ツルはもうない。でもフタをされたりつぶしたりはされてはしておらず、使いっぱなしのまま放置されたのだろう。その向こうは小さな畑だ。もうすべて雑草に覆いつくされて畑だとはわからないけど。北の土地にしては明るい夏の陽光に、生命力の強い雑草が繁茂している。
総司はそのまま視線を巡らせようとして、ふと畑の端をもう一度見た。
あるのは様々な種類の草花。
しかしその中の一部に、茶色の枯れた草が見えた。心が惹かれたのはその草だった。

ああ、そうだ。
あれは二人で植えた花だ。
なんだっけ…紫で……

思い出せない。

あの夏に二人で植えた花もとうに枯れはててしまった。
総司はその枯れた花を横目で見ながらゆっくりと歩き出した。
庭のあちこちに、崩れかけた家のあちこちに、ぼんやりとした灯が見える。

ああ、あれは思い出だ。
消えずにまだ残っていたのか。

総司はその灯に近づこうとして目が覚めた。

クーラーの低い、唸るような音だけが部屋の空気を震わせている。
夏の日差しが、カーテンの隙間から総司の一人暮らしの部屋をほんのりと明るくしていた。
カーテンの隙間から射している光から察するに、まだ朝は早そうだ。
「あの……おはようございます」
隣から聞こえてくる声に総司は瞬きをした。緊張した顔で覗き込んでいる彼女の顔を見ているうちに、総司は昨夜のことを思い出した。そしてその瞬間にすべてが面倒になる。
ほとんど話したことのない女の子と一夜を共にした朝、男に話すことなんてないだろう?
それに今は、さっきまで見ていた夢が妙に心に残っていて、夢見心地だ。現実のせちがらい話を他人とする気にならなかった。
総司は大きな掌で額をこすり、髪をかき上げた。
「えっと……急で悪いんだけど調子が悪くて」
「はい」
「帰ってもらってもいい?」

昨夜初めて会ったばかりの子に言うセリフではないとは思うけど。
まあ、よくある話だろう。
なんて名前だっけ……なんだか寒そうな……雪、雪村だったかな?
肩までの黒髪に、濡れたような黒い瞳。真っ白な肌。かわいい子だなと昨夜も思ったんだっけ。
最悪の男だったとこの子の歴史に刻まれるのは本意ではないが、今は早くひとりになりたい。

総司はため息をつくと彼女の方を見た。

ムッとするかな。それとも何か文句を言ってくる?
大人しそうだから、悲しそうな顔をするだけかな。

総司の予想はすべて外れた。
その子……下の名前はなんだっけ?…はさっと起き上がったのだ。
「はい。すぐ帰ります」
彼女は総司に、着替えるので向こうを向いていてくれないかと頼むと、ベッドの横に脱ぎ散らかしてあった自分の服を着始めた。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
彼女はそう言うと、総司の見ている目の前で髪を一つに結んだ。机の上に置いてあったカバンを持ち、総司に会釈をする。
「じゃあ、お邪魔しました」
最速の身支度に総司は、「ああ、うん……」と綺麗な緑色の目をぱちくりさせた。
ぐずぐずと情事の余韻を引きずられるのも迷惑だったので、いいといえばいいのだけれど。
総司は頭をガシガシとかくと自分も起き上がる。ハーフパンツとTシャツをきて、彼女を玄関まで送っていく。
「えーと……あわただしくてごめんね」
白々しくそう言う総司を、その女の子は見上げた。心配そうな瞳だ。
「あの……体に気を付けてくださいね」
「え?」
「人って簡単に死んじゃうので……」
「……」
少し『調子が悪い』と言っただけでこの反応。大げさではないだろうか?
不思議ちゃんだったんだろうか。
でも、その心配そうに自分を見る大きな瞳が妙に印象的で、総司は自分でも思ってもみなかったことを言ってしまった。
「じゃあ……LINE、交換しておこうか?」
こんなに自分を心配してくれてる女の子を、一晩だけ体目的で利用するのが妙に後ろめたくて……だと思う。言った後、総司は心の中で自分に舌打ちをした。
気が合うかどうかもわからないし、ひたすらめんどくさい女の子かもしれないのに連絡先交換なんてやっかいな事……ああ、僕のバカ。あの夢が……妙に物悲しくて思わず……
しかし総司は、彼女のまたもや思わぬ反応に目を瞬いた。
彼女はひるんだのだ。嫌そうに。
「え? LINEの交換はいや?」
そっちから願い下げとか?でもじゃあ、さっきのあの心配そうな瞳は何?
「嫌なんてそんな……」
「スマホは持ってたよね。昨日」
連絡先の交換を言い出したことを後悔していたくせに、彼女の方から駄目だしをされるのは妙に許せない。思わず詰め寄った総司に、彼女はためらい、しばらく鞄の中をあさっていた。スマホを出したくないのはまるわかりだ。総司は妙に意地悪な視線で、彼女を見ていた。
今後付き合うつもりはないってわけか。まあいいよ。こっちだってLINE交換しても連絡したりしないから。
でもここでLINE交換を逃れさせるのは、彼女に負けたようで腹立たしい。
ようやく探し出したスマホを、ためらいがちに差し出す彼女に、総司は言った。
「ようやく見つかった?そんなに大きくないのに四次元ポケットみたいだね、そのカバン」
イヤミは彼女に通じなかったようだ。「え?」と首をかしげている。総司はため息をつくと彼女のLINEを登録した。
「僕の、でてる?」
イヤミのつもりで彼女の方に自分のLINEがちゃんと登録されているか再度確認する。彼女は自分のスマホをじっと見ている。
「……はい」
「じゃ、気を付けて帰ってね」
総司はそう言うとドアのカギを開けた。彼女はまだスマホをじっと見ている。
その様子にまた意地悪を言いたくなった。心配しなくても連絡なんかしないからいいよ、と言おうとしたとき。

彼女の白い頬に涙が伝っているのに気が付いたのだ。
「え?どうしたの?」
唐突な涙に、柄にもなく総司はうろたえた。
彼女が小さくつぶやく。

「ごめんなさい……」

「え?」
総司のLINEを登録したことが泣くほど嫌だったのか?にしても彼女の方から謝るのは意味が分からない。
彼女は総司から顔をそらしたまま、同じ言葉を繰り返した。

「ごめんなさい。でも……嬉しいです」

彼女は大きな瞳で総司を見上げた。心の迷いがあからさまに表れているその瞳は、涙でうるんでいてきれいだった。
「……」
嬉しい、という言葉。頬を伝う綺麗な涙。そして深い思いが込められた大きな瞳。
総司は世界が180度傾いた。

彼女が帰った後の自分の部屋は、妙にがらんとしてむなしかった。
あの夢の中の廃屋のような、抜け殻のような。
総司はもう一度ベッドに横になる。

彼女の匂いがシーツに残っていた。







NEXT