【どうなってるの?】
千鶴は自分の背中に手を回して、解けてしまったビスチェの繊細なレース紐をなんとか元の場所にもどせないかと奮闘していた。どうあってもシフォンのふんわりとしたショールからスカートにでてしまう紐に、とうとう千鶴はあきらめた。シャンパンを持ってきてくれた総司に化粧室に行ってきます、と断って広いパーティルームを出る。
全てを教えてもらったあの夜から、総司と千鶴は散々ケンカをしてきた。給料なんて居候させてもらって食事を食べさせてもらってるだけで十分なのだから少しでも総司の仕事を手伝いたい、という千鶴と、そんなことをしてもらうために連れてきたわけじゃない、という総司はどこまでも平行線だった。しかし、女性同伴の会食やパーティには千鶴もつれて行ってもらえることになったのだ。パーティとは言っても顔を売り、情報交換をする、どちらかといえば気を使う仕事で、これまでは姉のミツが総司とともに出席していた。しかし全国5か所にある支店をまわり財務状態や社員の情報管理をし直すことになりミツがその仕事をするので、パーティでの同伴の役目が千鶴にまわってきたのだ。
今日は千鶴が初めて出席するパーティで、歴史も家柄も財政状況も業界でほぼトップクラスで影響力の大きい企業オーナーの妻の誕生パーティだった。ミツに貸してもらった初めてのドレスは、背中が大きくくれてビーズとスパンコールが美しいピンクと紫のビスチェドレスで、その上にふんわりとした白の透けるシフォンのショールをまいている。ビスチェドレスは昔風で、背中でまるで編み上げブーツのように紐で閉じるようになっていたのだが、何かの拍子でウエストあたりで結んでいる紐がほどけてしまいスカートまで垂れ下がってしまったのだった。
化粧室を探そうとしたのだが、目に付くところにはなく千鶴は迷子になってしまった。ここは広い洋館をパーティ用に借り上げて使うタイプで、ホテルとは違うため化粧室の案内の看板などはでていない。困った千鶴はとりあえず一番奥まったところにあるドアのノブをそっと回してみた。
あ、開いてる……。
千鶴はさっと体を滑り込ませ扉をそっと閉めた。
誰もいない部屋は薄暗く、千鶴は急いでショールをとる。
透けるとはいえショールがあればむき出しの背中や肩はほぼ隠れるのだが、ショールをぬぐとまるで下着のようで、千鶴は少し恥ずかしかった。いそいで手を後ろにまわしてエプロンの腰ひもを結ぶような要領でほどけてしまった紐を結ぼうとする。
……あれ?どうなってるのかな…?もしかしてからまってる……?
上の編み上げ部分のどこかにからまってしまってるのか、片一方の紐がどこにあるのかわからない。このままではショールで隠せるとはいえ、ぼんやりと透けているので背中で紐がぐちゃぐちゃになっているのは見えてしまうだろう。千鶴は見えない背中を指で探りながら必死で絡まっている部分をとろうとした。
「……俺がやってやる。早くなおして出ていけ」
突然背中から聞こえてきた、低くゆっくりとしたけだるげな声に千鶴は飛び上がった。
「だ……誰ですか…!いつから……!」
ふりむいて守るように両手を胸の前で会わせて千鶴は薄暗闇に目をこらした。すると、部屋に入ってきたときにはまったく気が付かなかったが、一人の男が脚を尊大に組んで部屋の隅のソファに座り、こちらを見ているのがぼんやりと見える。
「……俺は最初からいた。おまえが勝手に入り込んできたのだ」
男はそう言いながらゆっくりと立ち上がる。暗闇でもわかる、かなり明るい……金髪ともいえるような髪、そして見上げるような長身。千鶴よりもかなり年上のような落ち着いた、尊大な感じのする大人の男性だった。
「あ、あの……すいませんでした」
近づいてくる男に、じりじりと後ずさりをしながら千鶴はとりあえず謝った。廊下への出口と千鶴との間に男がいるため、逃げることもできない。怯えているような千鶴に、男は、くっと鼻で笑った。
「……何をそんなに怯えている。おまえのような子供を襲うものか。後ろの紐を直してやるからとっとと出ていけ」
男は手を伸ばすと千鶴のむき出しの肩を掴んで背中を向けさせた。
千鶴の意見を全く聞く気がない様子の男に、千鶴は言葉を呑みこんだ。ここで断ったり遠慮したりしても全く相手にされないだろう。それよりは早く直してもらってこの部屋を出た方がいい。千鶴は体を固くしたまま男がビスチェの紐をほどいていくのを待っていた。
「……かなり絡まっているな……」
意外にも丁寧に解いてくれているらしい男の繊細な指の動きが、千鶴の背中越しに感じられる。千鶴は赤くなってお礼を言った。
「すいません……。あの、ありがとうございます」
「別に礼を言われることではない。お前がこの部屋でごちゃごちゃしている限り俺はゆっくりと昼寝もできん」
男が、低いゆったりとした口調で言う。
もつれがほどけたようで、編み上げ部分をギュッと締めウエストの辺りで結んでくれている様子が感じられる。
もうすぐ終わる……と千鶴がほっとしたとき、すっと背中の下の方の素肌に指の感触がした。
「……きれいな肌だ……。感触もいい」
ばっと振り返ろうとした千鶴の肩は、男の大きな手で押さえつけられた。
「動くな。あと少しで結び終わる」
千鶴が赤くなりながらもじっとしていると、男は無言のまま手を離した。背中に視線を感じた千鶴は、もう振り向いてもいいのかどうか迷った。
「……赤くなると背中も薄いピンク色に染まるのだな……」
男の声に千鶴は勢いよく体を反転させた。
「前も染まるのか」
男はそう言うと、ふっと微笑んだ。
「全身そうなるのか確かめたくなるな……」
男の台詞に千鶴は後ろに後ずさる。そんな千鶴には構わず、男はソファの背もたれにかけてあった千鶴のショールを手に取って、千鶴にむかって促した。千鶴の肩にかけてくれようとしているその仕草に、千鶴は警戒しながらもおずおずと近寄り、背中をむけた。ふわり、とショールがかぶさり、千鶴はほっと息をつく。
その直後男はショールの下に手を差し入れて千鶴の背中の素肌に指をはわせた。びっくりして動こうとする千鶴の肩を、反対の手で軽々と押さえる。背中の真ん中よりかなり下あたり、ビスチェの下まで手を入れてを男の指がゆっくりと探るように這う。
「な……!何を……!やめてくさい!」
「……ここにハート型の痣があるのを知っているか?体がピンクに染まるとハートの色がさらに濃くなる。触れるとどういう感触なのか気になってな」
ふん…、他の肌と同じ感触か…。男は確かめて呟くと、満足したのが千鶴を拘束していた手を放した。
真っ赤になって怒って振り返った千鶴を見て、男は印象的な深い赤色の瞳を細め、楽しそうに笑った。
「そんなに赤くなっている、ということは、背中のハートもそうとう赤くなっているだろうな……」
男のからかうような言葉に、千鶴は返事もせず横をすり抜けて出口へとむかった。
出る前に一応、ありがとうございました!とお礼を言う。
廊下に出た後、ドア越しに男の低い、ゆったりとした笑い声が聞こえてきて、千鶴はさらにムッとした。
パーティ会場に戻ると、総司が待っていたように近づいてきた。
「どこに行ってたの?随分時間がかかってたけど」
頬を染めている千鶴に、不審げに総司は言う。千鶴はなんと言えばいいのかわからず、ちょっと……、とごまかす。
「まあいいや。主要な人達には挨拶したし、そろそろこのパーティの主催者に挨拶して帰ろうか。かなり影響力がある女性だから気を付けて」
総司の言葉に千鶴は緊張した。背中のビスチェの紐を確かめる。
紐はちゃんときれいに結ばれていた。
「お久しぶりね。総司さん。お父様は残念でしたわね」
業界の影の実力者と言われているその初老の女性は、確かに迫力満点だった。その女性がちらり、と千鶴を見る。
「こちらのかわいらしい御嬢さんは?いつもはお姉さまのミツさんといらしてたと思うけれど、ミツさんはどうなさったの?」
「姉は最近いろいろ忙しいみたいで……。これからはこの人と一緒にこういう場にでようと思ってるんです。会社で僕のサポートをしてくれている雪村千鶴さんです」
よろしく、とほほ笑むその女性に、千鶴は精一杯感じよく挨拶をした。
それじゃあ、と言って主催者の女性の前を辞し、会場を出ようとしながら、千鶴は総司を見上げて聞いた。
「さっき、会社で沖田さんをサポート……って…。手伝わせてくれるってことですか?」
タクシーに乗りながら総司は千鶴を見た。しばらく沈黙して、髪をかき上げながら溜息をつく。
タクシーが走り出して、ようやく総司は口を開いた。
「……君と……そのことについて話し合った後いろいろ考えたんだよ。身内でもないし社員でもないとなると君の立場がないかな……って思いなおしたんだ。何もすることがない毎日もつらいだろうし……」
ほとんどは姉のミツにことあるごとにぎゃあぎゃあ言われたことだったが、確かに納得できるところもある。総司としては千鶴には家でゆっくりとしていて欲しかったが、千鶴の立場にたってみたら「することがない」というのもわからないでもない。それに実際のところ……かなり助かる。要は自分の変なプライドの問題だけなのだ。
必ず成功してやる、と思いながら総司は自分のプライドには今は目をつぶることにしたのだった。
「嬉しいです!がんばりますね。いろいろ教えてください」
素直に喜ぶ千鶴に、総司の顔もほころんだ。
総司はタクシーの後部座席で隣に座っている千鶴を見る。外の景色をぼんやりと眺めている千鶴は、時々ネオンに照らされてさまざまに表情が変わるように見える。
緩く結い上げられた髪にはところどころに真珠のようなかざりがついていて、耳には大きな真珠。
きれいに化粧をしたその姿は、総司が初めて見るもので妙に大人びていて最初に見たときかなりドキリとした。
まるで男の手で乱されたように幾筋もたれている後れ毛にはどうしても指を絡ませたくなるし、むき出しのなだらかな肩は、唇でその味を確かめたくなる。きれいにピンクのジェルが施された真っ白な手が自分の肌を伝う光景を想像するとそれだけで熱くなる。
触れたいのに、何故だか緊張して触れにくい。
まるで思春期のようにドキドキしている自分に総司は苦笑いをした。
千鶴はふと総司の方をむいて、自分を見ている彼に気が付きにっこりとほほ笑んだ。きれいな孤を描くピンク色の唇を見て、総司は少しだけ勇気をだして千鶴を引き寄せた。
なんだか千鶴の眼が見れず、素早く唇をよせ、この姿の千鶴を見たときから気になっていたピンクの唇の味を確かめたのだった。