【WILD WIND 7-2】
ネコを無事送り届けた斎藤と不知火を、千鶴はせめてお茶でもと引き留めた。
あまりにも熱心に誘われて、これをむげに断る方が不自然だと判断した不知火は、斎藤を抑えてお茶をごちそうになることにする。「北の鬼に俺がこの家にいることが伝わったらどうするのだ」と怒る斎藤を「まぁまぁ。茶一杯飲んで帰るだけだ。大丈夫だよ」と宥めて、二人は客間に通された。
お茶とお茶請けを運んで来た千鶴と君菊が、向かい側に座る。
「どうぞ」
スッと差し出された湯呑を、斎藤は「ありがとう」と言って受け取った。
こんな風に熱いお茶を飲むのも久しぶりだ。必要な水分はとっていたが、こうやってお茶を飲むための時間をとること、美味しく淹れられたお茶を味わうことなど……千鶴と一緒に暮らしていたとき以来だ。
千鶴の淹れてくれたお茶は、あの頃と同じ優しい味がした。
「あの……不知火さんっておしゃいましたっけ?」
千鶴が、おずおずという感じで聞くと、不知火はうなずいた。千鶴はにっこりとほほ笑むと隣の君菊に聞く。
「この方が離れを借りたいっておっしゃってた方?」
ぶほっとお茶を噴き出した不知火を横目で見て、斎藤が聞き返す。
「離れを借りたい、とは?」
君菊があわてて口をはさんだ。
「い、いえ、この方じゃないです。全然関係のない……ってわけではないですけどでも不知火さんでは……」
しどろもどろに答える君菊を、千鶴は不思議そうに見る。斎藤はもう一度聞いた。
「離れを誰かに貸す予定なのか?」
「予定というか……私もまだ詳しいことは知らないんです。君菊さんのお知り合いの方が借りたいっておっしゃってるそうで……」
君菊は当然京の千が千鶴のために派遣した、千鶴の身の周りの世話係兼ボディカードだ。その君菊の知り合いということは……
斎藤は眼だけを動かして、隣でわざとらしく視線をそらせてお茶を飲んでいる不知火を見た。
裏で不知火を含む千達が動いていることは間違いない。天霧も含め、不知火からもさんざん千鶴の家に住み込んで彼女を守るよう言われている。斎藤だとてそれが最善ならそうしたい。
今お茶を飲んでいるこの家は、清潔で明るくて暖かくて、部屋の隅に飾ってある花や、使っていない道具にかけられている可愛らしい布が女性らしい優しい雰囲気をかもしだしている。
斎藤は今の自分の家、いや寝場所を思い出した。暗くでじめじめして、布団すらない。いつも壁によりかかって仮眠をとり、空腹をしのぐだけの食事をとり、病気にならないための身の回りの整理をするだけの場所だ。快適である必要などない。斎藤は抜き身の剣のままでいいのだ。居心地のいい鞘に一旦収まれば、彼女を守るための刃がなまってしまう。
それに天霧にも不知火にも伝えたが、今はまだ千鶴の女鬼の波動にひかれてやってくるのは、はぐれ羅刹のみだ。このことは千鶴の居場所を北の鬼たちはつかめていないことを表している。当然だろう。あいつらが捜しているのは、京からきて東北に住んでいる、斎藤一という人間の男の妻である女だ。江戸に昔から住んでいる蘭方医の娘などと言う情報は、奴らの情報網にはひっかからないことだろう。奴らが捜しているのはおそらく「最近ふらりとあらわれた」「身元のはっきりしない」「若い夫婦」という存在なのだから。
ここで斎藤が、たとえ江戸でも千鶴と一緒に暮らし始めれば、斎藤自身は近所の人間から見れば上三つの条件にぴたりとあてはまってしまうのだ。そして様子を見に来た鬼に顔を見られれば「東北にいた斎藤一だ」とばれてしまうだろう。
今はそんな危険は冒せない。
「いずれにせよ、身元の確かな男手が家にあるのはいいことだ」
千の紹介なら身元は確かだろうし、この事態を汲んでの千鶴の身辺警護のための要員だろう。千鶴の守りが厚くなるのは、斎藤としては心強い。
「ではそろそろ失礼する。お茶をごちそうになってすまなかったな。うまかった」
斎藤が礼を言って立ち上がると、不知火も慌てて後に続いた。
二人で最後に台所の隅に置かれた猫の仮屋を覗いてから、雨の降る道へと歩き出す。
「あの、傘を……」
千鶴が慌てて傘をさしだす。
「返しに来ることが出来んからな、結構だ」
斎藤が断ると、千鶴は悲しそうな顔をした。
「返しに……来られないのですか?」
「……」
上目使いにすがるように見られて斎藤は黙り込んだ。
抱きしめて大丈夫だと言ってやりたい。
いつもおまえの傍に居ると。
自分がいなくなることを寂しいと思ってくれているのだろうか……
千鶴の様子に後ろ髪をひかれながらも、斎藤は心を鬼にして立ち去ったのだった。
「あそこに住まわせてくれっておまえがいったら大歓迎なんじゃねーの?」
再びジメジメとした隣家の軒下にもどった斎藤に、不知火が天霧と同じことを言った。
「何の話だ」
服にかかった雨粒を払いながら、斎藤は不知火を見る。
「わかってんだろ?千鶴の表情だよ。おまえに傍に居て欲しそうだったじゃねーか」
「……」
「記憶を失くしたって言ってもなんとなくわかるんじゃねぇか?それとも、やっぱり好きな類の男だからまた好きになったっつー感じかもしれねぇけどよ」
「……話をそらそうとしているのかもしれんがその手にはのらんぞ」
「はぁ?」
「離れを借りる話だ。何をたくらんでいる?」
「あ、あぁ……」
不知火は視線をそらせてさまよわせた。
「企むっつーか……まぁお前も言ってたけどやっぱりあの家に住んで千鶴を守る奴らが居る方が安全だなって天霧と千の姫さんとも前から話してたんだよ。で、まぁちょうどいいのがいるとかいないとかで……まだちょっとわかんねぇんだけどよ。お前の方もいろいろと限界じゃねえ?もうちょっとこう…いろんなものを頼った方がいいんじゃねえかって天霧とも相談したんだよ」
しどろもどろな不知火の様子を、斎藤は眉間に皺を寄せたまま見つめる。
まぁ千や天霧の策なら千鶴にとってまずいことにはなるまいが……
「千鶴の安全を考えてくれることはありがたい。だが、俺の心配はいらん。余計なことをする労力があるのなら千鶴の方にかけてくれ」
想像通りの斎藤の返事に、不知火は首の後ろをかきながら言いにくそうに言った。
「いや〜まぁもう頼んじまって……ん?」
動きを止めて気配を探るように神経を集中させている不知火に、斎藤も耳を澄ませる。
「何か?」
「……羅刹だぜ。まだ昼間なのに暗れぇからかな……裏側の方に1体……いや2体か?……でけえぞ。人が集まる前に始末しねぇと……」
「ああ」
斎藤は剣を持って立ち上がった。
激しい雨が髪をつたい視界を悪くする。不知火の火器も雨のせいでつかないため、反対側からまわり挟み撃ちをする作戦をたてる。
斎藤が二体の羅刹と切りあい、不知火の方へと追い込む。そして不知火が逃げ道をふさぎ挟み撃ちで……という戦法だ。
不知火はどこに持っていたのか短刀を構えているが、扱い慣れているとは言えないだろう。追い込む前にできれば一体は倒してしまいたいと斎藤は考えていた。
羅刹は大きいのが1体と小さいのが1体。雨のせいで戦いにくいうえに昼間なので素早く決着をつけなくてはいけない。斎藤にとっては悪い要素が重なっていた。
千鶴の波動は妊娠が進めば進むほど強くなるようで、同じく羅刹である斎藤にも感じられる。今彼女はちょうど塀を隔てた内側の部屋にいるのが、道にいる斎藤にも感じられた。羅刹たちは当然のようにそこの塀を乗り越えようとしていた。
「待て」
斎藤が雨音に負けないように大きな声で呼び止めると、羅刹たちは赤い瞳で斎藤を見た。大きい方はすでに正気を失くしているようだが小さい方はまだ理性があるように見える。
「命が惜しければ、諦めて立ち去れ」
斎藤がそう言うと、小さい方の羅刹が口を開いた。
「……ここにいる女鬼は、東北の鬼の部族が目の色を変えて探している女鬼だろう。うわさに聞いただけだがその女鬼を連れて行けば太陽の下でも活動できて血に狂わない改良した変若水をくれるという話だ。俺もいつこいつみたいになるかわからねぇ、諦めるわけにはいかねぇよ」
初めて聞く話に、斎藤は顔をしかめて尋ねる。
「……その話は初耳だ。そもそもお前はもとは人間だな?なぜ羅刹になどなった?」
「最初に京で変若水を飲まされたときは、これを飲めば病気にもかからないし怪我もしない万能薬って話だった。飲んでみたら……」
斎藤は柄に手をかけたまま呟いた。
「京で……か」
東北の鬼たちがおそらく、同じ部族の鬼を羅刹にするだけでは勢力が足らず、京で粗悪な変若水をばらまき人間を羅刹にしているのだろう。そして賞金首のように千鶴を探させているらしい。はぐれ羅刹が頻繁に現れる理由がこれでわかった。
斎藤は鯉口をきった。
「哀れだとは思うが、彼女に手を出すというのなら手加減はせんぞ」
ゆらりと殺気がたちのぼる。二体の羅刹たちは本能的に危険を察したのか、斎藤に向き直った。
そして斎藤の緊迫したオーラに耐えられなかったのか、大きい方の羅刹が「があああっ!」とよだれをまき散らしながらさけんだ。
まずは大きいのの動きを止める必要がある。そしてその隙に小さい方に一太刀を浴びせ、できれば絶命させる。その後に大きい方を不知火が回り込んでいる方向へ追い込んで……
一瞬で戦闘の順序を想定して、斎藤はまず大きい方へ向かって素早く踏み込んだ。
そして踏込みざま居合いで相手の首筋を狙い一太刀浴びせる。
姿勢を低くして相手の腕の下をかいくぐったおかげで見事に首横一線をとらえることができた。かなりの血しぶきが上がり、大きい方の羅刹は前のめりに倒れてくる。傷はしばらくしたらふさがってしまうだろう。しかしその「しばらく」の時間で小さい方を殺すことができる。
斎藤はすかさず体を反転させて、後ろからくるであろう小さい羅刹に備えた。
しかし小さい方は、斎藤が大きい羅刹と戦っている間、闘おうとせずに塀にむかっていた。
「しまった!」
一瞬の隙を突かれて、小さい羅刹に塀に飛び乗られてしまい斎藤は焦る。このまま塀の向こう側に飛び降りられてしまえば追いかけるためにはこちらも塀に上らなくてはならず、時間がかかってしまう。その間に千鶴を連れ去られたら……!
斎藤の心臓がヒヤリとした瞬間、小さい羅刹は背中から長い棒のようなもので突き刺され「ぐっ」と言う声と共に動きを止めた。
「ぐうううっ!」
断末魔の声とともに、それは一瞬にして灰になる。
斎藤は激しい雨でぼやける視界の中、羅刹を倒したと思われる二つの人影に目を凝らした。
「何者だ?」
「おいおい、一君なにやってんだよ。また忘れちまってんの?」
「俺たちが戦う時、気をつけなきゃいけねえ決まりがあったろ?それは……」
聞き覚えのある声に、斎藤が前髪をかきあげて前を見る。
「「絶対に敵と一対一で斬り合うな!」」
「…………」
斎藤が驚きのあまり声もだせずに茫然と立ちすくんでいると、後ろで倒れていた大きい方の羅刹が咆哮とともに斎藤に飛びかかってきた。ハッと我に返って斎藤が振り向くと同時に、人影の一つが助走をつけて飛び上がり、羅刹の上から首めがけて刀を振りおろす。
「うおおおおおおりゃああ!」
気合いと共に振り切った刀は、羅刹の太い首を斬り落としていた。
どうだ!と言わんばかりの表情で地面に足をついた男に、斎藤は言う。
「……平助……」
「遅くなって悪かったな」
後ろから聞こえてきた艶やかな声に、斎藤は振り向いた。
「左之……」
「またせたな!正義の味方の参上だぜ」
左之の横に立ち、平助はそう言うとにかっと笑った。